-2-32 死にそうになる程――
――怖い夢を見ていた気がする。自分の、何もかもがなくなったような夢を。
「起きたか。遅いぞ」
それを自覚した途端、女の人の――いや、先生の声、がした。
……怖かった。
起きた時、身を起こした時、
床に手を付いた。支えにした。“左腕”を。
え? ……ある。
なくなった筈の腕。
いや、壊した筈の腕。
私が。自分で。何度も、何度も、切り裂いた。
白いもの……そう、それは、確かに骨が見えるまで。
なのになぜ。この左腕は、まったくの普通に見えた。傷の一つさえ見当たらない。
もしかして、あれは本当夢だったのか。そう思える程に。
「不思議か。だろうな。お前は確かにその腕を潰した。全体の組織はぼろぼろだったよ。骨まではともかく、神経も破壊されては最早腕としての機能は果たせない。そんな状態から回復した人間など、私の知る限りでは存在しないな」
……傷付けたのは、夢じゃない、と?
「……先生……?」
……が、治したのか。
だけど先生は、頭を振る。
「あと押しはしたがね。あれを治すのは人間では不可能だよ。一度なくなったものをどうやって再生出来る? ヒトデか何かではあるまいし。
まったく、見事な化物ぶりだよ。流石の私も驚いた。人間の力でどれだけ破壊しようが、化物の生命力には敵わなかった訳だ。お前が幾ら自分に傷を付けようとしても、その左腕はあるべき摂理に従って修復を行う。転んで擦り剥いた傷が勝手に治ってゆく、まさにそれと同じようにな。要らないと言うのなら無理やりに引き千切っても良かったんだがね。困った事にそれなりにリスクもある。その上それが定着するのはお前だけのようだ。そんなものに私が手を出しても何の価値もない。私にとっては塵以下でしかないな」
いっそ――千切り取ってくれればどれ程気が楽だったか。
この手は、あいつを消そうとしたんだ。そんなものを許して、もしまた同じ事になったら――。
「……私は、どうすれば……」
「そんなもの、私が知るか」
冷たい言い方。だけどそれが正しいんだろう。
誰にも解らない。だって、私のような事になって、どうして意識があるのか、意思がはっきりしているのか、本当誰にだって解らないだろう。
「意思があるなら、自由にすればいい。それさえなければ、私が刈り取ってやるが」
はっきりと、先生は言ってくれる。私は、私がある限り、生きていていいんだと。
……それがなくなった時には、処理してくれると。
「……解りました。もう少し、養生しておきます」
寝台に寝転がろうとした、その時。
「ああ待て……少しくらいは師匠らしい事をさせろ」
「……なんですか」
「気休め程度だろうがね、その迷惑な腕に封じを掛けてやろうと思ってな。
君の再生力は見た通り、死に至る範疇であるなら何の心配も要らない。死ぬと判断された瞬間、生かす力が加わるからな。法に従う以上、お前の体は死ぬ事はない。だが事あるごとに辺りを血塗れにされては敵わんからな。あの部屋を元に戻すのにどれだけ手間を掛けたと思っている」
手間? いやその前に、血塗れ?
想像。
只想像した、それだけ。それだけの筈、なのに。酷く鮮明。
塗り尽くされた部屋。色は朱。――夕暮れ。否定。
――白。おかしな色。突き立てる。潰される。吹き出る朱。
“じりじりじり”――雑音。どこから出ているか解らない。ずっと煩い音。
――。
――衝撃が。
目の前に、先生の顔が。
「――きはあるか?」
……え? よく聞き取れなかった。
頬にひりひりと痛みがある。
……叩かれた? どうして。
過程が……全く思い至らない。
「深くは考えるな。今は大人しくしていればいい」
大人しく。していろと。
「そうだな、トオナも相当心配している。少し頭を冷やさせて貰え。お前に必要なのは小難しい思考より、気を紛らわせる時間だ」
それだけ言って、先生は部屋を出ていった。
……時間、か。
下手に考えずに、日にち薬でなんとかしろと。
そうだな。時間はいっぱいある。
あると、思う。
その時自分がどうなっているか、そこまでは解らないけど。
・
――目が覚めた時。
無性に胸が痛かった。
……加えて、目が重い。
……思い出した。
つい、先程まで見ていた夢。
そう。
それ以外に理由が思い付かない。
だけど。
「……なんだっけ」
思い出せない。
確かに見ていた。どこかは解らないけど、違う風景が見えていた。
それがなんなのか、どうしても頭に出て来ない。
すぐそこまで出て来ている。なのにあと一つ、そのあと一つがやけに遠い。
まるで度忘れした物事を無理に出そうとするような、すっきりしない違和感がある。
いらいらする。確かにあるのにない存在。
それでも。漠然と、表現してみるなら。
そう、空と海が交わるような色が浮かぶ。
……どちらも青色じゃないか。
そんな差は解るのに、内容は思い出せないのか。
もしかすると、呆けているのか。
或いは、今この瞬間が、違う夢の中なのかも知れない。
……。
馬鹿らしい。
今の私まで夢にされては堪らない。
起き上がる。
窓から入る日の光に、暖かさを感じる。
今日もまた、生きている。
そんな思いが前触れもなく出て来る。
……それを不思議と思える私は、やっぱりどこかおかしいんだろう。
幼い頃にも、そんな夢を見た覚えがある。
内容は思い出せない。そもそも本当に見ていたのかも自信がない。
只、目が覚めた時は無性に胸が痛くて。
潰れるような感覚に、どうしていいのかも解らず、堪える事も出来ず。それが悲しいものだと自覚した時、
私は最初に目に映った母さんに、思わず泣き付いていた。
そうしてずっと泣いていた。理由は解らない。泣きたかった……と言うよりは、その時の私は泣く事しか出来なかった、と言うのが正しいか。
だから、幼い私は、何かに縋りたかった。
母さんはそんな私をずっと抱いていてくれた。
あとで思っても、本当に泣いていた理由が解らない。その事でとても心配させていた筈だろうに、何も言われた記憶がない。単に、言われた事も憶えていないだけなのかも知れないけど。
母さんは私が泣き止むまでずっと抱いていてくれた。
そういえば……××にはそれからしばらくからかわれていたな。
そういう性格だから詮無いとは解っていたけど。
だけど知っている。
私が泣き止んだあと、すぐに目に映った××の顔。
その目はまるで、一日中泣き腫らしたように、赤くなっていた。
それを見て、幼心に、こう思った。
多分……私と同じものを見たんだろうな、と。
そんな事もあった気がする。それこそ夢の中での話だ。
今の私は、そんな事で泣く程弱くはない。
「相も変わらずぼんやりしておるの。寝起きはいつもそうであるな」
扉が開いて、その声が、唐突に耳に届いた。
「……お前こそ、私なんかに構う暇があるのか?」
あの日から、トオナは毎日私の起きるさまを見続けていた。寝ている間に、ずっと傍に来ているんだろうか。
「何を言う。見舞いに来るのに充分な理由ではないか」
うん、そう言ってくれるのは素直に嬉しい事だけど。
「ん、ふあ――あ」
眠気の証明、大あくび。昔からそうだ。私は眠気に凄く弱い。
――只、最近は特にそれが強くなって来ている気がする。養生していろ、と言われているんだから、眠る事自体は悪くはない。寧ろ詮無い事じゃないか。解る話だけど、それでも眠る時間は一日の半分以上になっているようだった。
「まだ、眠そうであるの」
「うん、おかしい話、だよな」
「そんな事はないぞ。エンには眠りが必要なのだと、先生も言っておった」
先生のお墨付きか。成程それなら遠慮なく惰眠をむさぼれるというものだ。
「むう、じゃあもう少し寝かせて貰おうか」
「まだ眠るのか。堕落の一途だの」
「喧しい。私はいつも眠たいんだ」
……しかし、眠るのが仕事か。まるでそれは赤ん坊みたいだな。私は本当に、養生出来ているんだろうか。
ふと思ったその問いも、すぐに眠りの中に溶けていった。