-2-31 くるくるの記憶
・ -Memorys of She!
(―――)
・ -Dreams of You
うっすらと、日差しに気付いて目が覚めた時。
私はどこかの、寝床に横たわっていて。目の前には、必死になって私に呼び掛けているトオナの姿が。
――ああなんだ、そんな泣きそうな顔をして。似合わないぞ馬鹿。
お前は、静かに微笑んだり、ころころと顔を変えている方が、可愛いのにな。
落ち着くよう、頭を撫でてやろうかと手を伸ばし掛けて――大丈夫かと自問自答をする。
私はあれに触れている。私自身は感染していない――いつも通りの状態に思えたけど、それがトオナにも感染しやしないかと。
だけど、トオナは既に私の体に触れていた。――ならいいのか。いいか。そう思って、頭を撫でてやった。
トオナは泣いた。私の為にか。全部なくしたのかと思っていたけど、目の前のトオナは私に抱き付く。……なら、私の頑張りは全てが無駄じゃなかったんだと。
そう思うと、少しは気が安らいで、また眠気がやって来た。
眠ろう。
眠りに落ちて、全部が夢だったなら。そうだったらどれだけいいか。そう思いながら、意識はまた闇に落ちていった。
・
病人だと、聞かされた。
そう。最初私は先生から病人だと聞かされたんだ。
先生が、「お前はある種の病人だから、絶対安静にしていろ」と。
そう言って、この部屋に押し込まれ、寝台に寝かされた。起きた時と同じ部屋。……幽閉、隔離、そんな言葉がぴったりなのかも知れない。見た事のない部屋だったもの。窓がある、だけどもそれはとても分厚く、しかも開かないように細工されているようだった。
「ここは……どこですか?」
先生にそう訊いた。
「どこでもいいだろう。お前はここで、治るまで養生するんだからな」
はっきりと答える気はないらしい。父さんや母さん、家の事が心配になったけど。
「それも案ずるな。今は自分と、……そうだな、サヅキノ トオナの事だけ考えていればいい」
……どうしてトオナの? と思ったけど。よく考えるとトオナはここで目を覚まして初めて会ったんだった。
「……どうしてトオナがここに」
気にはなった。ここはトオナの家という訳でもないだろうに。
「何を言う。愛する友を思いやるのに理由など要るまい」
「……そんな事……」
愛するって。そこまでの想いがあるという事はないと思うんだけど。
「なに、恥じる事もないだろう。トオナもトオナでお前の事を純粋に考えているようだからな」
……そうなのか?
そうかも知れないけど。
だけど……そんな事はない筈。
だって私は病人だ。
狂気病の種を抱えているんだ。
心配なんてされても、詮無い事。
いずれ、私は――。
・
……眠りの時間は、静かに居る。
真昼なのに、眠気がある。静かである筈なのに、どこか、耳に障る音が聞こえる気がする。
“じりじり”
そんな音が、ずっと耳に響いている。
意識を、かき回す。
多分、これは駄目なものだ。
揺らぎ。強固に繋がっているものを、崩してしまうもの。凄く怖いもの。
そんな爆弾を持ったまま、私は眠りを続けている。
「エンよ。起きて、おるのかの」
そんな時に、トオナはよくここに来てくれる。私に食べ物を持って来てくれて、起きている時には話をしてくれる。
だけど、その度に心が痛む。
だって、私の中の病気が、治っている保障なんてないんだから。
「……何しに来たんだ」
布団に入ったまま、つっけんどんに言う。寝返りを打って、トオナと反対の方を向く。
「う……」
声が詰まる。そう、トオナは冷たくあしらわれる事を一番嫌がる。
解っている。解っているから。怖いなら来なくても。
「む、無論お主の様子を見に来たに、決まっておるであろ」
その言葉すらも、勇気の要る物言いだったに決まっているだろうに。
この病気は、呪いに等しい。
治るものかどうかも解らない。だから先生は、私をここに――。
「トオナ」
「な、何事かのエンよ」
声を掛けられて、内心びっくりしたんだろう。
「無理して来なくてもいいんだぞ。自分の事くらい、自分で解っている」
「う……」
「治るかどうかも解らない。私は――」
「嫌だ!」
突然の大声に、私の方がびっくりした。そんなにはっきりと、ものを言えるたちじゃなかったろうに。
だけどそれでも、私は窓の方を向いて寝ていた。その顔を、直視する事はしなかった。
「儂は嫌だ。エンと離れるくらいなら」
見えない。だけど私の肩に触ったものが、確かにあった。
「どうなろうが、儂はお主の――」
“じりじり”
煩い。目障りだ。気安く触るな。
こいつになんの価値がある。
只後ろをうろうろして。勝手に世話を焼いて。
そして今、私の体に抱き付いて包んでいる。
……邪魔だ。
左手が動く。
顔は見えない。私の横にある顔がどんなものであれ、関係ない。
肩にある、トオナの手に触れる。
思いは知らない。今何を考えているのか。どうして涙を流しているのか。そんなものは知らない。
緩く震える手は、消え入りそうな暖かさだった。
それはそう――だって、もうすぐ消えるんだから。
今あるものは暖かい。そして消えれば、それは本当になくなる。
何か、もうどうでもいい。
邪魔なものは消せばいいんだから。
こうやって。
揺ら――、
思考が揺らぐ。
暖かく柔らかい感触。
手が震えた。
何を――しようとした。
今、こいつの手に、手を重ねて、私は、そのあと、何をしようとした?
“じりじりじり”
鈍い思考。
ざらざらしたものが、やけに頭の動きを邪魔する。
……違う。考えたくないだけ。
――思い出せ。それは重要。知るべき事。
思考がはっきりと現れて来る。まだ鈍い頭。だけど無理やり動かす。
――知らないままなら――。
――戒めなければ、繰り返す。今度は、
――止められるか。
それを思い至った瞬間――、
ゆっくりと、トオナの手を肩から引き離す。
「……トオナ。大丈夫だ」
何が、大丈夫なものか。
「少し落ち着いたら、大丈夫だ」
自分で驚く。どうして、こんなに優しく聞こえる声をしていたのか。
なんだか怖い。
「だからごめん。少し、一人にさせてくれるか」
違う。今すぐ私の傍から消えてくれ。でなければ。
「……うむ。解った……」
体を離す。視界に窓から跳ね返ったトオナの顔が入ったが、それをしっかりと見はしない。
「元気……出すのだぞ。待っておるからな」
そのままで、一歩だけあとずさる。
僅かな間を置いて、振り返って歩き出した。
部屋の扉が閉まるまで、柔らかく作った笑みを絶やさず。
閉まると同時に――崩れ落ちた。
動悸が治まらない。胸が潰れそうに痛かった。
――恐い。あいつがここに居た事が、恐い。
はっきりと覚えている。私はあいつの手に手を重ねて、揺らそうとした。
その結果――意味を解っていた。
どうして?
決まっている。
消したかったから。
恐い。
大切な人を失う事。
大切な人を消そうとした事。
それを思い、実行しようとした時、私は――。
……それが。赦せなかった。
あいつは、それでも変わる事はなかった。
あの時どんな顔をしていたのか。眼では見ていたけど、その絵は記憶に入る事なく消えている。
おぼろげに。いつも通りの笑顔で。頬に涙が伝っていた。
この手があるから。この異質な力のせいで、私はおかしく揺らいでいる。
なぜ私はこうなった?
なぜ私はこんなになって、生きていられる。
いつ変わってしまうかも知れないのに。
なら、いっそ。
こんなものは――要らない。
・
――夢の中は朱い。
夕暮れではない。光はなかった。
燃えている訳ではない。熱くはなかった。
全体が赤いのに。なぜかそこは冷たい。
広がってゆく朱。その一つに触れてみると、少しだけ暖かかった。
触れた手には、まるで絵の具でそう塗りたくったように、それが絡み付いている。
成程――これは、悪いものじゃないんだ。
……只少し、異世界の中のような一色の朱は。
背筋を撫でるような恍惚を覚える程、綺麗だった。
あまりにも綺麗だったので、もう少し朱くしようと××を××る。
より広がる朱。小さく震える体。湧き上がる恍惚。
私はそれを続ける。
私の興味が消えるまで。
或いは、快楽の中で、眠るまで。
突き立てる。つきたてる。
面白いように、朱は散っていった。
やがて、そこからちらりと白っぽいものが覗く。
なぜだか。
無性に可笑しくなった――。
だってそうだ。朱から白が出て来るなんて、とても可笑しい。
可笑しい。おかしい。
そんなものが××から出て来たら。
それは、本当に。
それがそれでなくなったという、どうしようもなく壊れた証――。
“じりじりじり”
音が、ずっと止まない。
止まない音は、一つの形。
朱に混じる、一つの形。