-2-21 塔と病
「神魔の塔、この話は知っているな」
工房に着いて早々、先生はそんな事を言って、自分の椅子に座る。机から煙草を一本取り出して、火を付けて一息吹いた。
「それは町の外れにある、あれですか」
――この町の外れには古い塔がある。この町の歴史には似つかわしくない、石造りの、西方風の塔。
人三人分程度の高さで、それ以上は雨風に晒されてか崩れてしまっている。今は法術による強固な結界が張られていて、誰も立ち入る事が許されていない場所。
だけどそれが、この町に法術師達が居る理由だと、先生は言っていた。
「そうだ。あそこは通常、法術師による結界が張られていて、誰にも出入りは出来ないようにされてはいる。だが如何に強固な封印だろうと、破られる可能性は常にあるものだ。丁度、お前が異界の結界を破り出て来たようにな」
……私は、無我夢中でやっただけだ。結界を壊せると、なぜか確信を持っていて、結果的にその通りになった。特別な事とは、その時は思わなかったけど……。
「同じような事をして、あの中から出て来たものが居ると?」
「さてね。封印を破って出て来たか、或いは封印の外で感染した結果なのか、その辺りは私にも解らん事だ。まあ問題はそのどちらなのかではない。結果、神魔の塔に入り込み、感染してから這い出て来た何者かが居て、今回の事案を起こした。それだけだ」
感染? 病気の類になる何かがあそこに?
「あの塔には、何があるんです? どうしてそんな封印なんかが」
「狂気病」
「……は?」
狂気病って、なんで、そんなとんでもないものが? しかも町の間近に? どうしてそんなものが今回の件に関わって来るのか。
「一般には知られていない話だがね。あの塔の奥底には狂気病の元となるものが封印されている。七百年前から仕込まれているものだ。“空の厄災”と呼ばれるモノ、その名自体は聞いた事があるだろう」
――それは七百年前、空の彼方から落ちて来たとされるもの。神魔戦争を終わらせ、その代わりに大狂気病という、全世界を巻き込む大災害を生み出した元凶の話――昔語りのたぐいとして、この世界に知らない人間なんて居ないと言える程に聞かされた話だ。
「なんでそんなものが――」
「ぶっ壊しゃいいんじゃないですか! そんな危険なものがあるんなら――」
「試みた者が居ないと、思うのか?」
イスクの言葉を、遮るような低い声で、先生が問う。
「七百年の間に、元凶である本体を破壊しようとした者は多く居る。理由は様々ながらな。だが塔は未だそこにあり続けている。それがなぜか。理由が察せられない程馬鹿ではあるまい」
ふう……と、先生は煙草を一つ吹かせる。誰も、何も言い返せなかった。
そうだ。今も尚塔が存在しているとなれば、今まで破壊を試みた連中は、全て失敗したという他にない。
「地下に存在している封印自体に問題はない。だがあれは七百年を経た今となっても狂気病の元を垂れ流し続けている。まるで殺生石のようにな。世界中にあの塔のようなものが埋まっている筈だ。そして、それの調査を行なっていた者も少なくはない。かつて、アサカエ シエンとその相棒がとある遺跡を調査しに行ったようにな」
「……相棒?」
それは聞いた事がない。エンは世界を巡って、色々な仕事をしたり、様々な物事を学んでいた、それくらいは知ってはいるけど。
「キオセ レオイ。その筋では有名だった冒険者だ。かつてシエンはそいつと一緒に、新たに発掘された遺跡の調査に赴いて、そして生きて戻ったのはシエンだけだった。である筈だが、今回の試験にてそのキオセ レオイの姿が確認されている。死んだ筈の男だ。そいつが関わっているのならば、今回の一件、全てが一つに繋がる」
解って来た。狂気病、その大元である神魔の塔、その調査を行なったエンとキオセ レオイ、そして死んだ筈のそいつが今回現れたとなれば。
「シエンはキオセ レオイを追っていった。勿論、狂気病に関わったであろう奴が戻る場所など、神魔の塔以外にはあるまい。力の源だからか、単なる帰巣本能なのか、その辺りは解らんがね」
「……あの塔にエンが」
そういう事ならば、行かない訳には。幾らエンが強いとしても、相手が狂気病となれば、その時どうなるかなんて解らないんだから。
「さて。どうだ、少しは楽になったか」
「え?」
……言われてみれば、確かに大分動きやすくなっていた。殆ど力の残っていなかった時から、半刻程度にしかこの工房で休んでいなかった筈なのに。
「どうして……」
「教えていなかったか。この工房には術力を補う為の仕掛けがあってね。流石は寺院の管轄であるだけの事はある。お前達の術力も大分回復している筈だ」
確かに。先程までの疲れや喪失感が殆どなくなっている。だけどそんな機能がここにあるなんて、今まで知らなかったぞ。
「シエンを追うとするなら、止めはせん。あいつはこの事件の中心人物だからな。私が行ってもいいのだが、面倒な事後処理が残っていてな。今シエンを止められるのは、お前くらいだ」
「……私は、止めようとは思っていません。エンの手助けになれればそれで」
「そうか。そもそもお前はその為にここに来たのだったな」
肩をすくめるように、先生は言った。恐らくだけど、私の事をどうしようもない奴だとでも思っているのかもな。
だけど、先生は少し机の引き出しを開け、中を漁ると私に何かを放り投げた。思わずしてそれを受け取る。
……手のひらに収まる程の、赤い、珠? 宝玉の類か? 何やら術力の篭ったものにも思えるけど。
「これは?」
「まあ、精々もがく事だな。仮にも私の弟子だ。惨めな最期だけは見せてくれるなよ」
問いには答えず、突き放すような先生の言葉が。その後、先生はまた本を読む事に没頭して、何も喋らなかった。
「この珠には、術力が篭っている」
先生の工房から出た直後に、シズホが珠を見ながら言った。
「どういう事だ、それ」
「要するに、これを持っていれば術力が回復していく。工房の仕掛けと同じようなもの」
術力を補充する為の道具、という事か。だけど。
……助けるようなものをくれた? 先生が?
餞別、みたいな感じなのかもな。死にに行く、なんて事は微塵も思っていないけど。
そう。私は何がなんでも生き続けないといけない。エンに追い付くっていうのは、そういう事なんだからな。
「おにーさん」
中庭の道を通っていく時、私を呼ぶ声が。その声は――。
「コイコさん?」
呼ぶと、柱の陰から、前髪が目の部分まで覆っている目隠れさんの女の子の姿が。
「無事、法術師になれたんですね」
「ああ……うん」
無事と言っていいのかどうか。過程にはどうにも納得は出来ないけど、事実はそうだから。
「今日は一人なの? いつもあの先輩と一緒に居るのに」
何気なく訊くと、コイコさんは少し俯くような仕草をした。なんだろう、悪い事を訊いたのか?
「リリムラ先輩は、シエンさんを追っていきました。私には、留守番をしていてと……必ず帰るからと」
……なんだかそれ、凄く不安になる物言いに聞こえるのは気のせいか?
「皆さんは、これから?」
コイコさんが私達を見回しながら――目が髪で隠れているから、本当に見ているのかは解らないけど、私達に尋ねて来る。
「私達も、エンを追うところだ。もしかしたら先輩にも会えるかもだけど」
「先輩の所に行くのなら、私も行きます」
コイコさんの決意は強いらしい。それを止める理由もない。動機は、多分私達と同じようなものだ。
「解った。先輩がエンを追って行ったなら、一緒に行こう」
何より、この人は頼りになる人だ。師は違えど、あの先輩に付き従っているだけの力があるんだから。
「……ありがとう、です」
コイコさんは、口元だけはにかむような笑みを見せて、礼を言った。