-2-18 想定されなかった事
しばらく走って、やっとシズホに追い付く。
シズホは生い茂った木々の向こうで立ち止まっていた。
「シズホ!」
追い付いた私達に反応する事なく、シズホは只一点を見つめていた。
「なんだよ……いきなりどっか行きやがって……」
あとから来たイスク(木の根に足を引っ掛けていた)が、息を吐きながらやって来る。
「……違う……」
イスクに対して、私は言葉を出す。
とても小さい、息を吐くような声。それでも私は伝えるように言ったつもりだった。
「あ? ……っ!」
「これは試験じゃない……」
シズホの視線の先。
森の中の、一本の木の根元。
そこに一人の人間が倒れていた。
私達が、よく知っていた人物。
「ケイタ……」
ケイタ。私達と同じ法術師の候補生であり、私達の、同期だった。
「まじかよ……」
ゆっくりと、イスクが近付く。
ケイタとイスクはいわゆる悪友という奴だった。
普段よくトラブルを起こしており、悪態を付きながらも気が合っていた仲。
そのケイタが、目の前で倒れていた。
胸元を、赤黒く染めて。
「冗談じゃねえだろ……くそ……っ」
足元に倒れているケイタの体を、イスクは爪先で軽く蹴る。
――。
いつも、イスクに意味もなく蹴られては文句を言っていたケイタ。
その声は、今は聞こえる事はない。
生き物でない、只の物。
突然、
イスクがへたり込むように倒れ、足を震わせた。
「イスクっ!」
ゆっくりとこちらに顔を向けて、這いずるようにこちらに向かう。
「お……い、ユエン……」
目の奥が、恐怖に染まっていた。
「あれ……誰だ……」
イスクの指がゆっくりと上がる。
ケイタが倒れている木の向こう。こちらからは見えない視点。
「……!」
イスクの異様な反応に、私はゆっくりとそこに近付いてゆく。
地面で動こうともしないイスクを通り過ぎ、
木の根元でもう動く事のないケイタを乗り越えて、
その向こう。
「……!」
そこに誰かが倒れている。
まず足が見えて、その先……上半身が隠れていてよく見えない。
「は……!」
急激に、息が荒くなる。心の底に暗闇が迫って来るような感覚があった。
違っていた。
隠れているんじゃない。
見えなかった。そこになかったんだ。
……頭にあたる部分に、あるべき物がなく。
……そこから右肩の部分に掛けて、大きく千切られたように抉れていた。
……短くなっている右腕が離れた場所に転がっていて、左腕はかろうじて繋がっている。
視界の中に、それが誰だか解るような、見慣れたものはなかった。
それを探す余裕もなかった。
強烈な吐き気。そして恐怖が覆い、ゆっくりとあとずさる。
「は……あっ。はあっ、はあ……っ、あ……」
それが見えなくなるまで下がり、今見たものが現実だと認識させられる。
動悸が止まらない。目眩がする。先程の光景が焼き付けられたまま離れない。
現実を信じたくなかった。悪い夢だと思いたかった。
だけど、締め付けられるような胸の痛み。そして沸き上がる恐怖が、それを現実として認めている。
幾ら拒否しようとしても、身を包む恐怖がその拒否すらもかき消してゆく。
……あの時、暗い中で聞こえたエンの声。
“生きて”。
あの意味が、自分の中でようやく現実に現れた。
「……逃げよう」
自然と、そんな言葉が口に出た。
「ユエン……?」
目の前に居るのに、ずっと遠くに聞こえるイスクの声。
「ここに居たら駄目だ……こんなもの、試験も何もない。早く逃げないと、みんな殺される」
「どうやって……?」
「ここは異空間なんだぞ……どこに逃げれば――」
「だったら空間を破ればいい。外に出れば……出られればエンが助けてくれる!」
術力を現し、この異空間に無理やり干渉する。なぜか、何かしらの綻びのような所が、この場に見えていたような気がして。
元々、人為的に造られた空間は不安定なものだ。本来在るべき結界と繋がる部分に強力な力を加えれば、部分的に空間を破壊する事は、充分可能な筈だ。
一点に術力を集中させ、それ込めた左手を結界という概念に向かって触れさせる。
ひびが割れるように、空間に裂け目が生じて、“外”の景色がうっすらと現れてゆく。
「おい……まじかよ……」
「行くぞ! 早く!」
私達は、その裂け目に足を踏み入れた。
元々、公算もなくやった訳じゃない。
異空間の中でさえ、この有様なんだ。
寺院が混乱状態にある事は、容易に想像出来る。
……そして、この異界の維持。
幾ら厳しいとは言え、この試験は、人死にだけは認めていない。表向きには。
それは、とてもここを維持出来る状態になく、
かつ、私達に気を配る余裕すらない、という事。
なら、この空間は書き割りに等しい。
破る意志があるなら、破れる筈だった。
私は、どうなっているんだろうか。
……それは解らなかった。
解るのは、
この異常な現実を、少しでも早くどうにかしなければならないという事。
エンであれば、必ず助けてくれるという事。
そして、その為に、必ず生きていかなければならないという事。
それが私の、最も優先されるべき行動だった。