-2-17 “揺らぎ”の左手
……その時は、突然目が覚めるような感覚があった。
いや、それは少し違う。
起こされたんだ。
眠っていた。
まだ寝ていたいのに。
目の前の煩く鳴く獣どもは、それを認めてくれない――。
――怖い。
こいつらは怖い。
居なくなってくれないと、ずっと怖い――。
掴まれている。
掴まれている場所は、死んでいる。
放して――放してくれないと、ずっとそこは死んだまま――。
嫌嫌嫌、死にたくなんてない。
「……消えて」
そんなものは消えて欲しい。今すぐ消えてくれないと、本当に全部死んでしまう。
“じり”
雑音。
私の深くに入り込んでいたそいつが、私の現す通りに、そこから消滅する。
邪魔だったものがなくなった。良かった。これでやっと死んでいたものが生き返る。
でもまだ。まだ目の前の死が消えただけ。周りにはまだたくさん××が居る。それが全部――。
死ね。死ね。死ね。
そんな声を掛けて来る。
お前なんて死ねと。殺されろ。食われろ。肉は肉らしく食卓に並べと。俺達私達の餌になれと。
眼が語っている。
腕がなくなっている奴の眼が、一層私を強くねめつけている。
――怖い。
殺される――。
このままだと殺される――。
こいつらが居たら、
――こいつらが居る限り、
恐れに責められたまま――ずっと。身も心も、侵し尽くされる。
――こいつらが居る限り、
こいつらが居る限り、
――こいつらが消えてなくならないと、いずれ私が殺される。
“――!”
叫んだ。
声にもならない声。
どこかへ消えてくれないと。
とにかく、離れてくれないと。
だから私は、私の守り、
この障壁を吹き飛ばした。
仮にも化物に対して、僅かなりとも持ち堪えてくれた障壁。
それを一気に膨らませれば、鉄板に激突するように吹き飛ばせるだろう。そう思って実行した。
当たる、一つ二つ三つ四つ五つ、五つの形が、まるで津波にでも押されるように、次々に叩かれ飛んだ。
――成功した。
逃げられた。離れられた。
それでいい。取り敢えず、“今”は離れてくれただけでいい。
それでもまだ怖い。
守る物がなくなったんだ。時間が延びただけで、このままでは先は変わらない。
消えてくれないと。
逃げ延びる為には、こいつらが消えてなくなってくれないと――。
――でも、あちらが、あちらから消えてくれないなら、
延びる為に、消さないと。
――そう。消えてなくなってくれないなら。消してなくさないと。でないと死ぬ。
一つ。二つ。三つ四つ。五つ目は、腕がなくなっている奴。
消えて欲しいと願って、消えてくれた奴――。
それと、後ろに、あと二つ。
全部――なくさないと、逃げられない――。
“じり”
また雑音。
“じりじり”
――そいつらはあと回し。弱そうだし、ずっと――背中を見せてしまっていたのに、まだ襲って来ない。そんな弱いものはあとでいい。
それよりも、前に居る奴らの方が怖い。
怖いから、消す。
駆けて、向かっていく。そして今まで掴まれていた――死に掛けていた左の手を、一つ目の怖い奴の胴に当てる。
“じりじり”
雑音と共に、触れた部分が通り過ぎる。いや、正確には触れた。触れた部分が一瞬で消えたから、通り過ぎたように感じただけだ。
肉が大きく削られていく。一つ目に続いて、二つ目三つ目にも、おなじように左手をぶち当てる。
――消えてくれるこつが解って来た。
“じじ”
雑音。
雑音は空白。
本来ならなかったもの。調和にはないもの。認識の出来ないもの。
それをぶつけるようにしてやれば、雑音に混ざるように、そこが空白になり、削れてくれる。
あとは動くだけ。左手が通りさえすれば、何が相手だろうが、どんな形だろうが、その部分は消えてくれる。
体を動かし、化物に次々触れていく。触っていくだけの事だ。とても簡単な事。
――そして、蠢く化物は全部消えた。動いていない二人が居るけど、それも――。
“じじ、じ、じ――”
しばらくして、やっと、
“じ――――”
この雑音が、物凄く怖い事に気付いた。
「ひ――あ――!!」
悲鳴が上がった。
消すだけでは足りない――。
こいつが、消せる事が解ってしまったら、
次に消されるのは私――。
・
「は――」
突然の、目が覚めるような感覚。化物に襲われた、そしてそれをなぜだか殲滅した、何か、不可思議な力を扱えたような気がした、そして今、後ろには傷付いた二人が居る。
「シズホ! イスク! 大丈夫か!?」
呼び掛ける。しばらくして二人はその意識を回復させた。
「あ……ああ……っ!」
気が付いた途端、イスクがあとずさって身を固くする。
「おい、おいしっかりしろ。私だぞ」
「あ、ああ……」
怯えたような様子だった。だけど、呼び掛けると少しずつ落ち着いて来る。
「化物は片付けた。取り敢えずもう危険はない。大丈夫か?」
「ああ、なんとかな……けどお前……?」
「なんだ?」
「いや、よくあいつらを倒せたな」
「ああ。でもまだ奴らは居る」
「ここも……安全じゃない」
今まで黙っていたシズホが口を開く
シズホもまた、落ち着きを取り戻していた。だけど、目の奥に僅かに怯えを見せている。変な話だ。もう脅威は見えないというのに。
「どうする……? こんなの聞いてないぞ。くそっ、こんな死に掛けるようなもんだった。のか……?」
「幾らなんでもそんな筈は……」
「あいつら何してるんだよ……危険があったら救助が来るんじゃなかったのかよ?」
イスクの言うあいつらというのは、試験官である先生達の事だ。
イスクは他人を敬うと言う事をあまり好まず、例え目上でも敬語を使う事は、形式を除いては殆どなかった。
例外は、自分が本当に敬うに値すると認めた者――例えばエンくらいのものだった。
「ずっと監視はある筈だ。こんな事になって来ない筈が……」
ここに来る前の説明の際、万一危険があれば、直ちにその候補生の試験を中断し、試験官が救助に来ると言っていた。
「ならこれが試験なんだろ。ふざけやがって」
確かに、試験官が試験続行可能と判断すれば、納得も出来なくはないけど……。
だけどやけに引っ掛かる。何かとんでもないものの動きがあるようで。
「……違う」
突然シズホが呟くように言い、立ち上がって走り出した。
「おっ、おい! シズホ!」
イスクが呼び止めるが、止まる事なく。
「……まだ化物は居る。追うぞイスク、一人にしたら駄目だ!」
「くそっ!」
木々の奥に消えるシズホを、私達は追い掛けて走った。