1 2-42 妖怪の領域
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その日の夜もまた、あの人形から渡された先生の符をいじっていた。解析はほぼ終わったんだけど、最後の最後、謎の部分の解析はまだ出来ていない。
“意外と頑固なとこあるよなお前も”
マノクズコが、僕の中に居たままで言う。
ここが解っていないと、同じものを作ったとは言えないだろう。多分あの妖怪は、この謎の部分を僕が再現出来るか、それを試しているんだろう。
……僕に出来るんだろうか。これ以上の事が。
「頑固も何も。僕は集中してやってるだけだよ」
“それが頑固だっつってんだよ。あの人形野郎が何考えてるのかも解らねえくせによ”
「……多分だけど」
“多分?”
「楽しんでるのかも。だってこんなの、絶対に平穏な事じゃないんだろうから」
“だろうな。平穏平和なんて、結構退屈なもんだからな”
「退屈はしないよ。少なくとも今は」
“そいつは良かったな、っと”
さわさわと、風が木々の葉を鳴らす。……何かが居る。そんな予感がしている。それをまず察したのは、マノクズコの方だった。
“おいクオンよ”
「……解ってる」
こんな夜中に、遮るものもない外で、こんな嫌な予感がしないでもないと解っていたけど。
「へえ? こんな所に人間か」
森の奥から、声がした。真っ暗な所から、月明かりの下に誰かの姿が見えて来た。
「不用心、不用心だねえ」
「妖怪!?」
こんな所に? いやこんな時間なんだから居てもおかしくない事なんだろうけど。だって夜は妖怪の領域なんだから。
「妙な話だよね。こんな時間に人間を――」
――食べられるなんて。
確かに聞こえた。あの妖怪、僕を餌にするつもりなんだ。
「う……」
「あんたはご馳走。こんな時間に外に出ていた事を嘆くべきだわ」
どうする。相手は僕を襲うつもりだ。僕が相手を撃退するすべは――。
「マノクズコ!」
僕の領域から、マノクズコが飛び出して来る。
「まったく阿呆が! 俺様が居ねえとこんなんも倒せねえのかよ!」
愚痴りながらも、妖怪に対してくれる。
「へえ、使い魔を呼べるか。だけど!」
この辺りの妖怪と、僕は戦った事はない。今までマノクズコが戦ってくれているけど。
「うどらあっ!」
マノクズコが、勢いに乗せて拳を突き出す。だけど、
「ふん!」
向こうはそれを受け止めた。片手で。
「ぐ、こいつ――」
力比べで、マノクズコが押されている。
妖怪とは大抵夜の側に居る。だから基本、夜の方が強いという。加えてマノクズコは、同じ妖怪でありながら十全に力が出ていないように見える。多分、僕が徹夜を繰り返したから、体調不良が伝わっているのかも。
「あっはははは――そんなんでよくここに居られるね!」
そして、押し切る。マノクズコが体勢を崩して、地面に膝を付く。
「――くそが。てめえ」
息が荒い。そのさまが僕の方にも伝わって来るようで。
「さて、あんたを再起不能にしてやるのは簡単だけど――」
妖怪が、僕の方を見やる。
「主人の方を倒した方が、早いかもねえ」
妖怪の向きが変わる。攻める目標を、僕の方に変えたんだ。
「させるかよ!」
マノクズコが、跳び上がって僕達の間に割り込んだ。
「マノクズコ!」
「へえ、主人の盾になるか。関心だねえ」
「……こいつが死んだら、俺まで巻き添えになるかもだからな」
軽口を叩くけど、解る筈。今のままだと分が悪い。なのにどうして。
「それって、自分の為かな。それともその子の為か。まあ――」
妖怪が、一拍置く。多分だけど、次の言葉が解る気がする。だって、こいつは妖怪だから。
「なんにせよ、どっちも食ってやる事に変わりないけどね」
ぞっとするような笑みを浮かべて、僕らを見やる。
「……ちっ」
舌打ちが聞こえた。妖怪同士だけど、マノクズコがこんなに劣勢になるなんて。
このままだと駄目だ。両方ともやられたら、あとは――。
「……先生」
先生なら、助けてくれるか。だけど今から、どうやって起こしに行って、眠気と戦いながら妖怪を倒してくれるのか。
……先生?
と、思い付く。先生は居ずとも、ここに先生の力はあるという事に。
ああ。身を守るものは、もうこれしかない。
勿論まずい。これを使ってしまえば、この符の術式は発現して消えてなくなってしまうだろう。つまり只の紙になる。
……だけど。
「どいてマノクズコ!」
マノクズコを、守らないと。
その思いを以て、この符をぶん投げる。
「何!?」
誰にとっても予想外の筈。だけど符は、まっすぐに妖怪に向かっていって。
どおん!
「ぎゃぶっ!」
爆音。そして妖怪が倒れ伏す。と共に、
「え?」
一瞬だけど、見えた。符の仕掛けが。
術式は全部発現した。謎の部分も、勿論しっかりと作用している。
「……解った」
あれは只爆音を仕込んでいるだけじゃない。あの“謎の部分”は、先生だけが使えている“揺らぎ”の術式が仕込まれていたんだ。
……そう。只符を見ただけで解る訳がなかったんだ。だってあの“揺らぎ”も、先生独自の能力としてあるんだから。
「――はい。良く出来ました」
その時、聞き覚えのある女の人の声が。
「察した通り、その術符は只調べていても駄目。ちゃんと発現させて、観測して、初めて正体が解るって事だよ」
あの揺れる細長い部屋の中で。同じ声を僕は聞いている。つまり、あの時の人形妖怪がここに――。
「解析して観察して、その上であの正体が解ったなら上出来。これで駒はここに揃った」
森の暗闇から、その姿は現れた。名も教えてくれなかった、あの時の何者かの妖怪の姿が。
「どういう事――」
「選ばれたんだよ、君。魔法使い? 妖怪持ち? 違う。
“先生”の弟子、元となる理由はそれだけだよ」
「先生の……」
だから、先生の符を模倣させようとしたと。僕が答えに辿り着いたなら、それを量産だって出来るだろうと?
「君がその鬼を自分の使いとするように、
クオン、君には、私の使いになって欲しい」
この人の、使い。
「……貴方は、何者?」
最大の疑問をぶつける。僕なんかの力を欲する、その者の正体を。
「私は“刻遣い”。全ての刻に偏在するもの」
人形が微笑む。そして手を伸ばす。やっぱりこの妖怪は、僕を獲る為にここに来たんだ。
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