1 2-41 難題
「クオン――!」
突如現れた妙な結界の向こう側に、あいつの気配が。
「この――!」
強固な結界を張れるだけの者。それが向こう側に居るようだが、
舐めるな。結界ならば、それを破る事は私には容易い。
退魔の短刀、そこに振動の法術を込めて、結界のある場所に突き立てる。
ぴしり。
そんな音を立てて、空間にひびが入る。
――が、まだ足りない。もう少し時間と準備が整っていれば、これだけでも破り切れる公算はあるのだが……。
まどろっこしい。ここはもっと強引に。
左腕に、揺らぎの力を込める。“じりじり”と、その腕から頭にかけて雑音のようなものが響く。
「壊れろ!」
破れ掛けた結界に、揺らぎを込めた左手を重ねる。脆くなった結界の裂け目を消し去って、外との繋がりを持たせれば結界は意味を成さない。自然消滅する。
そして、大きく開いた結界の裂け目の向こうに、
「クオン!」
居た。薄暗い、座席の並んでいる部屋の中に、あいつの姿が。
「先生!」
結界の中に入る。もうすぐ崩壊するだろう結界だが、こんな所をさっさと去る為には、
「来い!」
右手を伸ばす。それにクオンも立ち上がって、手を掴んでくれる。それを引っ張り上げて、結界から離れる。
――結界から飛び退くように地面に倒れ込んで数秒後、結界は外の世界と混ざり合って、消えていった。
「大丈夫か」
「はい」
「怪我もない」
「大丈夫です」
二人、立ち上がる。砂埃をぱっぱと払って、その体をよく見てみる。確かに何かをされた形跡はなさそうだったが。
「何があった。誰の仕業だ?」
「あ、えーと、それが僕にも……」
要領の得ない答え方だったが、何もされないままでわざわざ結界を張って、人を閉じ込める意図がない筈がない。
「近くにそいつは……居ないか。くそ」
どうやら元凶は逃げてしまっている。だがおかしい。
結界の中には、確かに“二人分の”気配があった。
一つはクオンだ。それは確定している。
ではもう一つは?
決まっている。“元凶”だ。マノクズコという可能性も勿論あるが、そうすると元凶はあの結界の中には居ないという事になる。つまりは殆ど一人芝居を、クオン達にやらせていた、そんな馬鹿な事があるものか。
そしてそれならば、あのふん縛っている妖怪も共犯という事に。
「おいお前!」
そちらを見やる。だが、
「な――」
居ない。あいつの居た場所に、切られた縄だけが落ちていて、縛っていた筈の妖怪の姿はそこになかった。
馬鹿な。あまりにも手際が良過ぎる。全ての事を終えるのに、気配を全く感じさせないだと。
息を呑む。
……許せん。私の領域で好き勝手しておいて、悠々逃げ延びるとは。
「許せんな」
本当に。こんな時、この憤りをどうすればいいか。
「……クオンよ」
「は、はい」
「お前は今から自習だ。私は、呑む」
そう、そうしたものの力を頂くしか、今のこの状況を納得させられるすべがない。
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――そんな波乱があって。その日の夕餉を用意していた時に。
「で? あのちび人形の言う事、真に受けるのか?」
僕の前に、マノクズコの姿が現れる。マノクズコも、僕と繋がっていたのなら、どこかであの話を聞いていた筈だ。
「真に受けるも何も」
僕だって訳が解らない事とは思う。だけど。
「いいか。あいつはやべえ。ありゃ関わるとろくな事にならねえ感じだぜぜってえにな」
「……先生への報告はいつでも出来るよ。あれが悪い事を企んでいたらね。……それにあの人の正体も知りたい。先生の符を持ってて、僕に渡した理由も」
「それでまた厄介になるんだ、ええ? リーレイアん時みてえになあ。いっつもだ、てめえがなんにもしなきゃあ、俺は平穏に居られたんだぜ?」
「悪かったとは思っているよ」
「けっ」
呆れたような声を上げて、マノクズコは草原のようになっている所でふて寝するように寝転んだ。僕もまた、夕餉作りに集中する。
その日の夜中。
先生が眠っているその部屋の隅で、懐に仕舞ってあった符を取り出す。
「……これって」
本当に、先生が持っていたものと同じっぽい。見覚えのあるもの、それに間違いはない。
「同じものを、か」
お手本はここにある。そして作り方も、ある程度のものなら先生に教えて貰っていた。
だけど。全く同じものとなると話は別だ。先生の教えてくれた製造過程には、普通には真似の出来ない、先生独自の“何か”が仕込まれている。
だから、完全に同じものとなると――。
「解析すれば、解るのかな……」
このお手本、僕が教わった術式を細かく分解出来れば、残るのはその“謎”の部分だけだ。それを見る事が出来れば――。
「……先生に、か……」
気付かれないように。そう言われた。だからこっそりと小屋の戸を開け、外に抜け出す。
暗い夜空。星と月の明かりだけが、周囲を薄く照らしている。
「……、よし」
やるべき事。これは試験だ。やれるだけの事はやってやろう。
――前に先生から聞いたんだけど、厳密に言うならばこの小屋と外とはある意味分断されている。外に居るものは、小屋の壁を隔てては中の様子を察する事は出来ないらしい。
そしてそれは中に居るものも同じ事だ。壁を隔てて外の様子は察する事が出来ないようになっている。
その例外が、戸になっている。戸もまた外と内を隔てるもの。だけどもう一つ役割があって、開いたならば外と内を繋げるものへと変わる。この小屋に来訪者等が来た時に、戸を通じてならば外と内は干渉出来る。だから、例えば外から戸を叩けば誰かが来たんだと解る。
要はこの小屋、外からは中を知る事が出来ない。中から外も同じ事。例外が戸を通じてのみ干渉出来る、そんな仕掛けがここにある。
なぜそんな事になっているのか。その意図は先生にしか解らない事だ。多分だけど、先生は小屋の中の領域を守る為に仕掛けを作ったんだろうとしか。
と小難しい回想をしてみたけれど、要はこの符をいじくる為に、それを小屋の中でしたなら先生に察知されるかも、という事だ。それはそう、これの大元は先生のものなんだろうから。これが外なら、壁に隔てられた状態だから、法術の気配を悟られる事もないだろう、という事。
……先生にばれないように。
どうしてそんな制約が付けられたかは知らないけど。前提としてあるのなら仕方ない。だけど、ひらけた所とはいえ夜中の森の中って、色々雰囲気があり過ぎる。具体的に言うなら、突然“何か”が現れても不思議じゃない。
「こんなこっそり人のをいじくるなんて、悪い奴だよなあお前も」
いつの間にか、外に出て来たマノクズコが厳しめの物言いをする。
「ぼやかないで。僕も後ろめたいんだから」
……そうは言ったけど、これは切っ掛けだ。僕が何か変わる為に、この試験、やってみようと思って。
森の方。手近な木に寄り掛かって、根っこの部分に腰を下ろす。月明かりの下で、符をじっくり見ながら解析を行う。
……幾つもの、複雑な術式。
だけど出来る筈。それらは先生から教わった事。符に仕込まれた幾つもの術式を分割して、取り除いていったあとに最後の謎の部分が残る筈。解析出来ないその部分だけを理解出来れば――。
――同じものを、作ってみなさい。
となったら、当然最後の謎の術式も複製出来ないといけない。この件、一番難しいのはそこだ。
――気付けば、森の木々の隙間から光が差し込んで来た。
……日の出。そんなに没頭していたんだ。鳥の鳴き声も、森の中らしくちゅんちゅんと聞こえて来る。
朝まで解析を行なって、謎の部分はもう見付けていた。だけど朝まで掛かって、結局謎の部分の解析は出来なかった。
「……難しい」
簡単に出来る事じゃないというのは解っている。だけど、
「よう、もうお目覚めの時間だぜ?」
マノクズコがいつの間にか、木の根元に座り込む僕の前に立っていた。
「ああ……おはようマノクズコ」
「おはようじゃねえっつーの。本当、徹夜してまで粘ってるなんて思ってなかったっつーの」
「見ててくれてたんだ」
「お前に引っ張られて寝られなかったってだけだ」
悪態を付きながら、マノクズコが言う。
「つー訳で、俺は寝てる。“先生”の事は任せた」
マノクズコが僕の中の領域に引っ込む。そう、いつも僕はこの時間には“朝餉を作っていないといけない”んだ。それが日課の筈。いつも通りでなければ、それは異常や違和感を生む切っ掛けになる。
それはまずい。違和感を先生に察知されれば、この件がばれるのは明白だ。
「……ご飯、だよね」
僕はいつも通り、だけどふらふらな頭を押さえながら、朝餉の準備を始めた。
「ふああ――」
しばらくして、先生があくびをしながら小屋の戸を開けて、外に出て来る。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはようだクオン。今日もまた朝餉を済まんな」
「いえ、僕にはこれくらいの事しか」
「自分を卑下するのは、悪い癖だぞ」
注意された。だけど僕には、本当何が出来るのか解らない。自分に自信がないんだから、当然そんな考えになる。
「しかしクオンよ。今日はいつにも増して呆けているな」
先生からの突っ込みが入った。流石に先生だけあって、僕の様子がおかしいと解るのか。
「いえ、僕はまだ」
とは言ったけど、確かに頭がふらふらだ。そして眠い。
「あの時からか。訊いても詮無い事だが、眠りを妨げているのは感心せんな」
「だ、大丈夫です多分」
「多分だと困る。徹夜も程々にしないと、肝心な時に動けないでは私が迷惑ではないか」
「は、はい……」
多分、先生は薄々気付いてる。先生にばれないようにとの事だけど、猶予はあまりないのかも知れない。
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