1 2-34 理不尽の形
「神の御前にて許しを請う、哀れなる子羊、かな」
どうやら意識を失っていたらしい。覚醒と同じくして声が響いた――実際言葉の通りだった。私は冷たい床に両膝を付き、眼前に吊るされるように両手を封じられていた。
いつから、こいつは教会の信者になったんだ。先程の言葉は、まるで西方の教会の神父が教えを説く言葉そのものに聞こえたんだが。
「いやはや、さまになっているじゃあないか。うっとりするよ……っはは――」
耳に障る哄笑――と共に、視界内にその姿が入って来た。他に人は居ない。だがそいつの姿はよく解る。
睨み付ける。あの声を受けて――本気で殺意を覚えた。
「ふうん、殺したいかい? 僕を。っはは――」
殺気を受けて、尚そいつは笑う。
「嬉しいよエン君。それだけ人間らしい感情を僕に向けてくれる――僕にだけ向けてくれる。君にとっての特別に、僕は今成っているんだ」
腹立たしい。気分が悪い。こいつは全てを自己中心に捉えている。
「……考えさせられるんだよ。お前と永遠に縁を切るにはどうすればいいか」
「酷いなあ。僕は君の事をこんなにも想っているのに……」
手が、私の頬に伸びる。
「今なら……君をどうにでも出来るんだろうね」
手が、動く。
それは愛玩動物でも撫でるかのように、私の髪をゆっくりと撫でていた。
「僕は今まで君に手を出さなかったよ。君を貰ってしまったら、もう――僕には君しか居なくなるからね……」
そしてその手が、ゆっくりと前に行き、唇を塞いだ。
怖気がする。危ない奴だとは出会った時から感じていた。
だが、今のこいつはそんなものではない。
私を喰らう、化物――。
「ねえ……本気で、僕のものにならないかい? 君もこれ以上つらい思いはしたくないだろう? 僕も心苦しいんだ。連中にいいように穢されて傷付けられる……そんなもの僕は見たくないよ」
多分、本気だ。
今までだって、多分本気だった。だがしかし、これはそれとはまるで違う。
「僕の物になってくれるなら、君にこんな不自由はさせない。奴らは難癖付けるだろうけれどね、何があっても守ってあげるよ――」
――冗談。
私は、私だけのものだ。他の誰にも、干渉なんて――。
「言った筈だ。お前とは、仕事以上に関わってやるつもりはない」
「ふうん……じゃあ君は、ここで拷問死――っていう方がいいのかな?」
……こんな化物の、餌食になるくらいなら。
「その方がましだ」
「駄目だよ……寧ろ、まだ生きている事に感謝すべきだよ? 君は昔から危なっかしいと思っていたんだ。後ろで見ていてはらはらするんだよ。いつ壊されてしまうか――君はどこか、それを受け入れようとして動いているんじゃあないかってね」
「こちらの台詞だそれは……馬鹿げた芝居に付き合って、いつお前が斬られるかはらはらした」
――表情が、変わった。
化物の顔から、只危ない奴の顔に。
「――ああ、やはり君は気付いてくれていたんだね。流石は僕の相棒だ」
そして心底嬉しそうな顔をする。こちらはおぞましいだけだったが。
「まずは一言詫びておこうか。悪かったね」
簡単に言ってくれる。
「……謝罪に誠意がない」
こいつが居ない間にどれだけ酷い目に遭った事か。自由になったらその十分の一でも同じ目に――いややめた、多分こいつは喜ぶだけだ。
「いや悪かったとは思っているよ本当に。まあ言い訳も聞いてくれ給え。予想以上に向こうの動きが早かった。想定内とはいえ計画の修正は避けられなかったんだ」
私が拷問を受ける事も計画の一部なのか。酷い話だ。
「五金剛の入手、というのはそれ程重要な任務という訳じゃあないんだ。鉱物自体の価値は重々理解しているのだけれどね。だが今回の場合、重要視すべきは物よりも情報の方だよ。上にとっては鉱物なんて些末なものらしくてね、結果として餌に使わせて貰った。奴らを我が国の領海に呼び寄せ、その間に向こうの機密情報を掴むという事。そして僕は向こうの工作員を装って船に乗り込む、と――ああ、誤解のないように言っておくけれど、幽霊船の出現は本物の事件だよ。ザ、ミステリィ。現在真相解明中。そっちの調査は優秀な法術師に任せているよ」
……出来れば私もその謎解きの方に回りたかったが。
つまりこいつは。希鉱物を出しにして共和国に入り込む機会を作ったのか。自分達でさえ予測し得なかった事象を利用して……私まで巻き込んで。
誰の筋書きか知らないが、幽霊船なんてものを使う辺り、即興にしては出来過ぎなくらいに上手く事を運べたな。
「結果的に君にも餌になって貰ったけれど、お陰で出来るだけの情報は手に入れた。計画は順調だよ。あとは皇国に持ち帰るだけだ」
よくもまあぬけぬけと。
「さて、いつまでも磔にされている場合じゃあないよ。君にはもう一仕事して貰わないと。こんなかび臭い所で朽ち果てるのはご免だろう?」
そんな所に押し込めた張本人がよく言う。
「ふん。こんな無粋なもので僕のエン君を拘束しておくなんて、なんだか傷物にされたみたいで腹立たしいよ」
この手に巻かれた鎖の錠、それを手でじゃらじゃらともてあそびながら、のうのうとサキが言う。
「それをさせたのがお前だ」
「いや本心だよ。僕は皇国を除いて、君という人間を一番に考えているんだから」
嘘を吐け、それでは二番目ではないか。
言いながら、サキは私の鎖を外していく。手際の良さは一流だ。時間も掛からず拘束具は全部外れて、体に自由が戻る。だが、まだ体力の方は戻ってはいなかったので、結果体は前のめりに倒れ掛け、サキにもたれ掛かる格好になった。……いやにいい匂いがした。
「ふふん、役得だなあ。この時の為に事前に風呂に入っていて正解だったよ」
ああ気色悪い。多分これさえも計算ずくだ。
「まあ、少し血と塩の臭いが強いとは思うけれどね。それさえも君さ」
「喧しい。好きでこうなったものか」
っふふ、とサキが小さく笑う。本当私本位な奴だ。勿論嬉しくない意味で。
「さて、名残惜しいがここからはリーレイアの弟子の見せ場だ。見事に僕をさらっていってくれ給え」
そしてサキは身を離し、目の奥をきらりと光らせて、実に勝手な要求を述べた。
「いっそ置いて行ってやろうか……」
「酷いなあ。仮にも僕は君を開放した恩人だろうに」
そうだな。私を拘束させた張本人でもあるが。
「お前ならここでも充分に生きていける」
「つれない事を言わないでくれ給え。僕は三食とも油まみれなんてものはご免だし、故郷の地はとても恋しいんだよ。それに君が居ない異国の地で過ごすなんて、寂しくて寂しくて、ああ、考えただけで僕の心は壊れそうだ」
これ以上なく色々とぶっ壊れた奴が何を言うか。
「息を吹き掛けるな擦り寄るな。本気で置き去りにしたくなる」
「それは困るね。今回の任務は僕という情報の塊の帰還――それなくして君の帰還も許されないよ」
「今度は脅しか」
「違うね、お願いだよ。僕の命は君の手の中にある。君は僕をどうにでも出来るんだよ。さっきとは逆。ふふっ、それもいいものだね」
この真性の変態め。
「その筋書き、お前が考えたな」
「ああ、解るかい」
解らない筈がない。こうまでこいつの主観が入り込んでいると。
「大筋は上司の案なんだけどね。帰還とそれに通じる部分は、僕が少々修正させて貰ったんだ」
……少々?
「これがなかなか受けが良くてね、二つ返事で了承を貰ったよ。上司に理解があると部下は楽しめていいものだね。いや僕も幸運な職場に就いたものだよ。はっはっは」
つまりは。こいつの上司もまた、同程度の変態という訳か。……本気で皇国の行く末が心配になって来る。皇国はこんな変な奴ばっかりを従えているのかと。
「ところで君、五金剛はどうするのかな?」
「何?」
それはもう用なしと言ったんだろうに。それ以上のお宝――情報を仕入れる事に成功したんだろうから。
「僕らとしてはもう無視してくれても構わないんだけど、君はさぞや酷い拷問を受けたみたいだからねえ」
「繰り返すが、原因はお前だ」
「対価として、それだけの臨時収入は受け取られる権利はあると思うんだよ君には。幸いあの船から引き上げられた五金剛はまだここにある。位置もしっかり把握しているよ」
言って、サキは紙切れを一枚手渡して来る。都合のいい話だ。とことん私を利用するつもりか。
「いいだろう。但しお前達の為ではない。全て私が頂く」
これ以上下手な思惑に乗って堪るか。という思いで言ってやったところ――サキは肩を竦めただけで、
「いいよ。元より皇国はそれを出しに使ったんだから」
あっさり承諾した。相変わらず真意が掴めない奴だ。どちらがこいつにとっての優先事なのか解ったものではない。
「持つべき者が持つ。使えるべき者が使う。物に幸せがあるとするならそこだよ。但し時間は殆どないと思ってくれ給え。君の逃亡が知られたら、僕の立場が真っ先に怪しまれる。君をここに連れて来たのは僕なんだからね」
「いい事を聞いた。お宝が確保出来て疫病神も祓えるいい機会だ」
「それもそうだね。いっそ君と逃避行でもしてみようか」
見捨てても平然と付いて来そうだ。今まで通り付き纏われるのと、国から逃げながら付き纏われるのと。どちらも嫌だが、冒険をしてみるつもりはないな。出来れば私は平穏に暮らしたい。
「……行って来る」
「了解だよ。それまで僕は身を隠しているからね。速やかに奪取して適当な所で切り上げてくれ給え」
軽く言ってくれるものだ。今すぐ脱出するならともかく、貴重な時間を使って気付かれてしまう危険性を増やそうとしているというのにな。
「自分の身が一番危ないだろうに」
「嬉しいなあ。やっぱり僕を心配してくれるんだね」
「寝言は死んで言え。持って帰る荷物がなくなるとあとが面倒になる」
「それでも君は僕を連れて行くしかないんだよ。愛情が大きい程厳しく当たる。君はそういう男だからね」
知ったふうな口を……。
「解った。ならば待とうじゃあないか。窮地に陥る程、ヒロインとは光り輝くものだからね」
「言っていろ。脳味噌馬鹿め」