1 2-30 過去の遺産
朝方。鳥の鳴く声に混じって、戸を叩く音がした。
とんとんとん――と、三回続けて叩く音。それを来訪者は三回繰り返す。その三回目の音にはとんとん――とん、と微妙な間が置かれていた。
……あいつだ。来訪としてこんな変な真似をするのはあいつしか居ない。
そして、あいつが来たという事は、またろくでもない仕事がやって来たという事。
正直、あまり関わりたくない相手だ。だが、あいつが持って来る仕事は大きな収入源になる。
無下にあしらう訳にもいかなかった。だから戸を開けてやる。
がらがらと引き戸の音がして、ゆっくりと、外の光が室内に入り込んだ。
……姿がない。
見えるのは只の景色。いつも戸を開けて見えるのと同じ、生い茂る木々ばかり。見慣れた、見慣れないもない、只暗い森の中。
「……おい」
呼び掛ける。
引き戸から顔を外に出し、右を見ても左を見ても、その外側には身を隠すような場所はない。小屋の陰とかならば話は別だが――。
「馬鹿な事をしていないで降りて来い」
場所があるなら上だけだ。もっともそれ以前に上からこちらを覗き見るような、妙な視線を感じてはいたが。
「やあ、こんにちはエン君」
上方からの声。
同時に何かが屋根から躍り出て、すとん、と女が私の目の前に降り立った。すらりとした西方風の灰色服を来た、腰まで届く長髪の女が。
相変わらず訳の解らない奴だ。どうやって戸を叩いたのだろう。そしてどうやって屋根まで上ったのだろう。
「いやいや久しぶりだ。一月と十二日ぶりかな」
いつも通りの涼しげな顔で、何事もなかったかのような口調。そして気持ちの悪い月日の数え。私に向けられたものだとすると悪寒が走る。
「くだらない事をしていないで、まともに対応したらどうだ」
「いや、なんというか普通に面と向かって挨拶というのも芸がないと言うか、つまらないものだろう? 人は常に刺激を求める。理性ある者には退屈は最大の敵なんだよ。至福の時間にまともは必要ないね」
相変わらず馬鹿げた事に労力を使う奴だ、つまらなくて結構だから普通に挨拶して欲しい。そして出来れば挨拶以外も普通に接して欲しい。
「それに君は結構乗ってくれる。僕は好きだよそういう所」
「仕事の話だろう。聞いてやるからさっさと済ませろ」
無駄な話はさっさと終わらせたい。このおかしな女――ツヅカ サキとの関係は、あくまで仕事としての付き合い。それ以上の関係にはなりたくない。
「それ以外では来るなと言うからね。個人的にも呼んでくれれば楽しいだろうに」
「断じてご免だ」
「楽しくしてあげるよ?」
「要らない」
こいつと何刻も顔を突き合わせて語り合うなどまっぴらだ。それ以前に、そんなに余りある時間などないんだろうに。
「そうつれない事を言わないでくれ給え。君が教えている弟子も、今ここには居ないんだろう?」
弟子――ヒイラギ クオンという、先生から押し付けられた私の弟子。それは確かに今ここには居ない。ちょっとした修行――という名目で、外に使いにやっている。
つまりは今一人で暮らしている訳で。――まさか、それがこいつの目的か。
「寂しい訳ではないのだがな。元よりここは一人用だ」
「こんなうら寂しい所でよく我慢が出来るねえ」
「喧しい。一人が長かったから充分なだけだ」
寂しくはない……という事がない事もないが、それはこいつの前では言わない。喜んで居座るに決まっている。
それに、いつの日だか、誰かと共に居たという記憶は確かにあるのだから。それは断じてサキだった訳ではない筈。だと願いたいが。
・
森の中の小さな小屋。
人が三人程度しか入れない狭い室内に、詮無くサキを招き入れる。
「話はなんだ。出来るだけ手短に用件を述べろ」
小屋の最奥、小さな寝台に腰掛けて、サキに向かった。サキはいつも通り、入口の戸の横に背を預けて私に向かっていた。
「解った、あまり時間もないから出来るだけ手短に用件を述べるとしようか」
言葉の真似をするな、と言う前に。いつものように、そこでサキの雰囲気が変わった。
表情や口調が変わった訳ではない。こいつが発する雰囲気だけが、全く別のものになる。ワヅチ皇国を裏から支え仕える、諜報員としての顔だ。
「事の始めは今から二刻前。我が国の近海に正体不明の船が現れたという知らせが入ってね」
「正体不明?」
「ああ。俗に言う、幽霊船というやつだね。なんの兆候もなしに突然海洋上に現れたらしい。にわかには信じられない話だけどね、それが事実だと言うのだから笑えないよ」
言ってはっはっはと笑う辺り、やはりこいつの頭の螺子は幾つか捻じ曲がっているとしか思えない。だがこれでも真面目にやっている方だ。普段の言動からすれば。
「それになんの関係がある。まさかその処理が仕事か」
「その程度ならわざわざ君の平穏を乱すような真似はしないんだけどね、事はそう簡単な話じゃないんだ。取り敢えずその船を観測してみたところ、思ってもいない事実が判明した」
「……思ってもいないだ?」
「メサと言う国を知っているかい?」
いきなり話が飛んだ。こんな言い回しにも慣れてしまうと違和感を感じなくなっている自分が凄い。
「メサ……というと、昔共和国に統合された?」
それくらいは知っている。寺院に居た頃に習った覚えがある。共和国とは、この国、ワヅチの海を跨いだ隣国だ。このワヅチよりもずっと大きな国土を持ち、昔から各地で侵略行為を働いている傍迷惑な国。メサという国も、その共和国の被害者であったりする。また、こちらの方に侵略の矛先が向いた時勢もあるのだが……それはまあ別の話。
「そう、そこが最重要なんだよエン君」
どうやら重要個所に触れたらしい。サキはぴっと私の目の前に人差し指を立てる。
「メサという国が消えたのは今から六十年程昔の事。現在は共和国の支配下にあり、メサ自体にまともに動く力はない。なのに今になってそこの船が我が国の海域に現れたんだ。幽霊船となってね。面白いネタだと思わないかい?」
「あいにく全く興味はないな」
所詮は他国での事。私の人生、一遍たりとも接点はないだろうし。
「そう言わないでくれ給え。話が続かなくなるじゃあないか。
メサは国としてあった当時、世界中を見てもかなりの小国だったんだ。自国だけではとても国民全てを賄えるだけの生産力はない。実際国土は農業に適したものでなく、狩りをしようにも動物が居ない。居住地としては最悪に近いね」
言って、サキはまた私の目の前に人差し指を突き立てる。
「そんな国が、六十年前に共和国に侵略される以前、なんと七百年近くも続いていた。神魔戦争が終わった頃からずっとだ。その理由は?」
……そんな事を訊かれても解らんぞ。私は歴史家ではないのだから。
「答えは国々の奥深くが知っている。
メサは希少中の希鉱物、エアウラ――こっちで言う五金剛の産出国だったんだ」