1 1-9 詮無き事
狂気病という言葉は元々は外来語だ。この国に異国の教会が根を張る際に定着した名前で、この国、ワヅチでは数は少なかったものの、それに該当する言葉があった。感染したそれは狂ったように暴れ出し、体が黒くなるまで腐っても治る事なく人を襲う。かつてからこの国では、それを“蟲憑き”と呼んでいた。
感染したそれは、理性や知性をなくしながらも、動くものを襲う本能のみが発達し、狂化と共に強化される。
只、それだけならばさしたる脅威ではない。種族での差はあるが、精々が猛獣程度。一般人なら充分な脅威になり得るだろうが、例えば人型の“蟲憑き”であれば、何かしら得物に心得があれば充分に対処出来たりする。――もっとも、人型の“蟲憑き”は、力の位としては下位に値する。人間に強い力はない。それをなくしてまで得たものが知恵なのだから、その知恵が吹っ飛んだ“蟲憑き”など、精々が暴れ狂う猿程度のもの。ある程度の武術、或いは法術で対処する心得があれば、それ程怖いものでもない。
暴れ狂うだけなら只の猛獣――だがそいつの脅威はそんなものではない。
その恐るべきは三つ。
感染してしまった事と、感染させてしまう事。そして、戻すすべがない事。
治った、という事例もなくはない。何百年の中で、幾つか数える程度にはあるらしい。
だがどうして治ったのかまでは解らない。解らなければ、治療法はないと同じ。
故に、この国に限らず、世界中の国、思想、宗教において、この“蟲憑き”を殺す事は、元が人間であっても認められている。
秩序を乱すしかない意思に、人権など与えられる事はない。
あれは、感染した時点で罰を受ける側になる。
そうしなければ、人間は恐れを除く事が出来ないから。
化物などと同じ。こんな脅威に対して、何も出来ないままで居たなら、人間は己の尊厳を保てないし、誰も化物になんてなりたくはないと思うだろう。
私達、人間達は、この人間の姿をした悪魔に恐れを見ていた。
触られれば、死ぬと同じ。
誰も、理不尽などに殺されたくはない。
そして良心を持つ人間は、殺しをする者を認めたくない。
被害者である事に違いはない。加害者になる事にも変わりない。そして奴らは、それを増やすものにもなる。
最後の理由が勝った結果、あの元が人間でもある狂気病は、排除されるべきものになる。
そしてそれは、やはり一般人である私達には手に余る事だった。
「あっ!」
町の入口で。キセクラが私の姿を見て、驚きと安堵の声を漏らす。
「今まで何してたの! 大丈夫だった!?」
心配してくれるのはいい事だが、説明は面倒だな。
「ああ、大事はない。少し野暮用をな」
「野暮用って?」
「そんな野暮な事を訊くものではないぞ」
「別に言葉を掛けんでも……」
まあ、本当に野暮な用事だったのだし。大した事もしていない。
「狂気病人はどこに?」
キセクラが連れて来たのであろう、二人の男がそこに居た。腰に長い刀を差した、恐らくは役人だ。
「この道を行った所だ」
指を差して道を示す。
「一人かそれ以上、感染した馬鹿者が居るかもだが、気を付けて欲しい」
言葉を聞いた役人は、互いに目配せして頷き、
「じゃあ、お前らは町に戻れ。あとの事は任せろ」
それだけ言って、二人して森の方へ。
「ちょっ、あいつらは」
「あいつら?」
役人の足が止まる。振り返って、言葉を問う。
「賞金首の事よっ」
ああやはりそこに思い至るか。だが、これ以上連中に関わるのは危険があり過ぎる。
何よりも、ごろつきが全員感染していたとしたら、キセクラでは手も足も出まい。
「これ以上関わる必要はない。奴らの処分は役所に任せよう」
「そんな事したら賞金……」
「そういう状況は通り過ぎている。術符使いに狂気病まで関わったらもう個人の手には負えん。無理をして町にまで被害を出したいか?」
既に一人二人がどうにか出来る範疇を超えている。少なくとも、事を収めるには役人や法術師に任せる方が賢明だろう。
「いずれにしろ奴らは処分されるよ。早いか遅いかだけだな」
それだけが私達にどうにか出来る範疇。
私は早く片付けたかった。只でさえ面倒事に巻き込まれた身だ。
「行ってもいいか?」
役人の一人が訊いて来る。
「うむ、済まなかった、足止めをさせて」
そうして、二人は行く。
「ああ……賞金が」
「もう諦めろ。事が大きくなり過ぎている」
「うう、うん……」
結局はキセクラも納得し、今からの事は全て役所へ任せる事になった。
賞金を惜しがっていたが……やむを得んか。あとであのツヅカ サキにでも話してみようか。はした金くらいなら提供してくれるかも知れない。仮にも私達は、町を救う英雄になるのだから。……私は目立つのは嫌なんだがなあ。
・
町にまで戻った私達だが、まだやるべき事が残っている。
それはごろつき共が持っていた術符の事。連中が持っていたそれは、一体どんな形で取り引きされたものなのか。どこぞの法術師が関わっている事は間違いない。扱う事は誰でも出来るだろうが、元となった法術の力は法術師がその力を込めない事には作れない筈。その報告は然るべき所にしておく必要がある。
もう一つ。それは狂気病に関する情報。これもまた報告をしておく必要のある事だ。もしもごろつき共、特に狂気病と一緒に倒れていた男一人は、感染している可能性が非常に高い。そして仲間を助けようと、残る二人がそいつに触れていたなら。
それは大きな危険となる。野放しには出来ない事だし、役人だけに任せるというのも心配な事ではある。
その目的を持って、町にある寺院の支部へ向かう。キセクラも一緒に付いて来ているが、そこはまあ、キセクラにも目的があっての事だから。それに一応現場で事を見て来た証人でもあるしな。
しばらく歩いて、そこに着く。広さはあるがどこか質素な、この国、東方風の外観の建物。それがこの町の法術師が集う、寺院というものだった。
寺院の支部は基本、大きな町には一つはある。自警団のような意味合いもあるが、その実は単純な力の誇示だ。大仰なのはその表れ、多くの法術師を抱えているという見栄が外観に現れている。法術師の人数が多い、つまりはそれだけ大きな力を持つという事なのだから。
「そこで止まれ」
入口に近付くと、野太い声がした。
玄関の前に立ち塞がっていた、大柄な男の門番だ。
「何用か。ここは一般人は立ち入り禁止だぞ」
一般人は、ね。自分達が優秀であるという、特別意識か。嫌だ嫌だ。
「法術師のアサカエ エンだ。外法を扱う者に関して、報告と確認に来たのだが」
「法術師……?」
男が、じっと私を見つめる。法術師としての素質のある者かどうか、見ているのだろう。キセクラが私を法術師だと解った事、それと同じ事を今している筈。
「確かに。それで、外法使いの報告ですか」
認識した途端、口調が少し変わった。
「加えて狂気病に関わる事だ。先程役人に処理をお願いした所だが」
「……解りました。詳しくは中で」
男が、入口への道を開ける。