1 1-8 人類の脅威
――端的に結果を述べよう。
私達がその場に向かった時、連中は罠には掛かっていなかった。
その代わりに、連中が悲鳴を上げた原因とは。
……第三の脅威が、その場に現れたが故だったのだ。
間近の草むらに身を潜め、様子を窺う。
「あいつは……」
全身が黒ずんだ、理性の欠片もなさそうな人型が立っていた。
蟲憑き。狂気病となった、恐らく元人間が。
……しかし、こんな短い間に二度も遭遇するものかね。何かが、動いているのかも知れんというか――まあ考えるのはあとだ。
取り敢えずは状況確認。草むらの奥から、見える範囲の“今”を探る。
どうやら一人、倒れている。立っているごろつきは二人だけ。丸刈りの奴と、外法を使って来た覆面男が、怯えた様子で人型の狂気病の前に突っ立っていた。
「ちょっと、あれ大丈夫なの?」
キセクラがいつの間にか後ろに居て、小声で訊いて来る。
が、こんな状況、今すぐ的確に答えられる言葉がない。
「――走るぞ」
呟く。キセクラにしか聞こえない程の声で。
「えっ?」
「とにかく逃げる!」
その言葉に、全員が私達に気付く。が、構っていられない。
“振動”“実行”。
音の波――振動そのものを只放つ。
ほぼ時間を要しない、二言単位の単純な詠唱――これ自体は必殺ではないが、この法術が私の奥の手だったりする。
それで充分。逃げるだけなら。
空気の振動が連中の行動――主に反応時間を奪い、
共に、人型の狂気病も動く。一番近い獲物――ごろつき共を標的にして。
「う、うわあ!」
逃げようとして、すっ転ぶ二人のごろつき。
ああもうこんな時まで馬鹿なのか。まあいい事だが。
振動がぴったり、狂気病に対してぶち当たる。びくん、と体を痙攣させて、足をもつれさせて倒れ込んだ。
今だ。私達以外の全てが動けない今こそ、逃げる機会に他ならない。奴を死なせた訳ではないもの。
「行くぞ」
キセクラの手を掴み、その場から離れる。
「ちょっ、あいつらは?」
「構っていられん」
最低限の援護はしてやった。それで奴らが逃げ切れるかどうかまでは知らん。
そうして走る最中の、草むらの中に二人逃げ込む。
……こうして引っ込むのは、今日で何度目だろうね。だが取り敢えず、誰かが追って来る気配はない。
だが、今ここに予想外の脅威が現れた事実はどうしたものか。
確かに、私は“あれ”に対する者としては特化している。
そして多分、今ここであれを倒さない限りは犠牲者は増えるのだろう。
つまり、今この場においては私が動く以外にない。酷い話だなまったく。
「……ねえ、あんた」
「んあ?」
キセクラが神妙な顔をして訊いて来るが、
「さっきの全身黒かった奴ってあれ、狂気病っての?」
若干声が震えて聞こえたが……まあそうか。
「うむ、よく知っているではないか」
キセクラの身が強張る様子が見えた。当然か。あれは接触されれば感染してしまうのだから。
そして感染したならどうなるのか。見た感じだと、人としての理性は完全に消えているようだが。
「ごろつき共も一人触られたらしいな。程なく変貌をする事だろう」
「ちょっと、それってどうするの。ほっとく訳にも――」
言いたい事は解る。だが、私の思っている事とは少し違う。
「なんとかなるだろう。いいから大人しく聞け」
取り敢えず現状、こいつをなだめる事、そして少し遠ざけておく事が優先か。
「あれは気や武術でどうにか出来る相手ではない。触れてしまってはお仕舞いなのだからな」
「うん……」
「だからだ、ここは一応は法術師である私に任せるがいい。その間にお前は町まで行って、事の次第を役人や寺院に報告しに行くんだ。私があいつを仕留め損なった時の為にな」
まあ、仕留め損なう筈はないのだが。私がまともに対する限りは。
「……それって、大丈夫なの?」
キセクラが不安そうな顔を見せるが、
「うむ、信じろ」
現状こうするしかあるまい。……それにこいつの前で、狂気病と立ち回りをするというのも少し困る事になろうしな。
キセクラが町の方に行ったのを見届けて、茂みから道に出て様子を窺いに行く。そして連中の居た方向に少し進んだ所で、
ずがあん!!
と聞き覚えのある轟音が。
恐らくはごろつき共の術符だ。私達を狙って撃って来たものと同じ。狂気病との戦いが始まっているのかも知れん。
更に歩んでいく。程なく、二つの塊が地面にあるのが見えた。
立っている連中の姿はなかった。恐らくあの術符で逃げ切れたのだろう。そのくらいはしてくれないと困る。
――そして、あの轟音の元を喰らったのだろう狂気病と、一人残されたごろつきが、そこで未だ痙攣して倒れていた。
私の姿を認識したのか。狂気病の方が立ち上がろうとして手を付き――もつれて倒れる。何度も何度も繰り返して、狂ったように、飛び掛ろうとさえして、のたうち回る。恐らくはまだ振動の余韻が消えていないせいだろうか。或いはごろつき共の術符をまともに喰らったからか。
――なんて奴。
人間よりも術の耐性がない筈――奴らの術符は、下手をすれば人間でさえ死ぬかも知れ
ないものだが、それを喰らって尚、動ける余力が残ったとは。そこまで来ると賞賛の気さ
え沸いて来る。
凄いと思う。その気分くらいは楽に済ませてやろう。結果は変えようがないが。
小刀を抜く。すらりと、音もなく、現れる鈍い刃。
日の光を受けて光るは、魔を払う神薙のよう。
それは神聖。信念によって斬り、害物と認めるものを消す。
絶対に。
――未だ地面でのたうつ“もの”。
それに切先を構え、思い切り――。