-1-62 明日を想って
結局、途中から隠す気もなく、お姉とリイさんは酒をがぶがぶ呑み始めた。
そしていつしか二人がぐーすか眠ってしまったので、いつもの如く私がトオナの面倒を見る事に。
「大丈夫だったか、トオナ」
「うむ、大事はないぞ。酒も呑まずに済んだ事だしの。とは言え大分遅くなってしもうたが」
それは、ちょっと困るな。トオナの両親はトオナがここに来る事を、只でさえ快く思っていないんだし。何かあったら私達の責任を追及されかねない。
「ここまで暗いんだ。途中まで送って行くぞ」
「い、いや儂なら大丈夫だぞ。慣れた道でもある事だしの」
「だからって危なくない訳じゃないだろう? 遠慮せんでも」
「う、うむ……」
という訳で、森を出るまでは一緒に行く事に。
酔い潰れた二人は放っておく。どうせ起こそうとしても目覚めやしないだろうし。
「あの二人の暴走ぶりも、大人しくなればいいのにな」
「人の大元を変えるのは無理だぞ。人間は簡単には変わらぬ」
そうだな。一度出来上がってしまった人間は、そういった意思や性格で固定されてしまう。
……変わらない事がいい事というのもあるんだけど。
二人して、神社の石段を下りる。下の鳥居をくぐって、森の外への道を行く。
いつかの山登りじゃないにしても、夜の森は何かが起こりそうな雰囲気抜群だ。
「一応、気を抜くでないぞ。夜とは妖怪の時間なのだからの」
言われるまでもない。何年ここで過ごして来たと思っているのか。
「私は今よりトオナが帰れたあとの方が心配だけどな」
取り敢えずは二人きりな訳だし、今のところ妙な気配もない。今なら順調に帰れる筈。
寧ろ危惧するのは、家に戻ったトオナが理不尽に叱られたりしないか。それだけだ。
「儂は……」
言い淀む。その先を言うと、もう引き返せないとでも言わんばかりに。
「儂は、家にはあまり居とうない。ハトリのような母が羨ましいぞ……」
「トオナ、でもそれは」
「解っておる」
私の言葉を、遮る。
「……解っておる。だがそれでも、儂はハトリを好ましゅう思うのだ」
それは、子の思いとして。
……実の母よりも、他の母を取る。思えばなんて寂しい事だろうか。
それでも。トオナは優しい子だ。嘘なんて吐きたくはなかったんだろう。
「トオナは、ナトセお婆と同じ道を進みたいんだよな」
こくりと、トオナが頷く。
ナトセお婆。アサカエ神社の先代の巫女。その祖母の生きた通りに、己の道を進む事を決めている。
トオナは、何があろうと巫女になると決意しているんだ。
「なら、私は応援するしかないな」
それを邪魔する事は出来ない。元より邪魔をする意思もないのだけど。
なってくれるのならば大歓迎だ。トオナは素質もあるし、巫女となれば、ずっと一緒にアサカエ神社に居られるのだから。
そうなれば――それはとても楽しい時間が生まれる事になるだろうな――。
「うむ、そろそろかの」
道なき道の、分かれ道――いやこの場合別れ道とでも言うか。トオナの家は森の少し外側にある。妖怪山の範疇にはない。だから“何か”に襲われる事も、多分ない。
トオナが、もしも――。
「ああ、そろそろだな」
考えても詮無い事。トオナはアサカエの巫女になる事を望んでいる。いずれ、私達と共に住まう時が来る筈だと。
「じゃあ、また明日」
「うむ、また明日な、エンよ」
そう、いつも通りの挨拶を交わし、そして道と共に別れていく。
――いつも考える時がある。
私達、親しい仲で言い合う最後の言葉。“また明日”。
思えばなんて遠い約束なんだろうと、最近強く考えるようになった。
明日にならないと会えないんだ。今日には絶対に会う事はない。
日が沈み、月や星が出て、そしてまた日が昇って来るまで、決して叶う事のない約束。
「……遠いな」
暗い、森の中を歩きながら、只一言、口を付いて出て来た。
確かに遠い。それでも、私は信じる。明日になれば、また必ず会えると。明日にはもっと楽しい事が出来る筈だと。
退屈な今日を耐えて、未だ見えない明日へ淡い希望を抱いて――。
・
これが、二年前との大きな違いだ。私は二年前から、父さんやカイに手加減を求める事を望んでいない。
二年前、エンがこの神社を去ってから。私はエンに追い付く為にあらゆる努力を積んで来た。それこそ、体が幾度も壊れる程に。
あの時は家族を始め、知り合いみんなに心配を掛けてしまった。その事は存分に反省している。
――勿論、後悔は微塵もしていない。
私の望みは一つ。エンに少しでも早く追い付く事だから。その技量も、知識も。
その為であれば、一時の痛みなど、実に些末な事。所詮それは消耗品なのだから。
じゃあなぜ、あの時あんな冗談を口にしたか。
答えは単純。エンが近くに居たから。
二年前と全く変わらないエン。だからこそ私は、変わってしまった、と思われる事を嫌がった。
私は、あの時と同じ。変わらなかったあの時をとても尊いものと思っている。
変わっていないエンを、私と同じように変えてしまう事を恐れたんだ。
エンはエンのままでいい。私は何より不変を望んでいたし、だけどエンが変わると決めたならそれを私は否定しないつもりだった。
嫌だったのは、私の為にエンが変わってしまう事。私がエンを変えてしまう事。
だからエンを越える事までは望んではいない。只近くに追い付ければそれでいいんだ。それを崩すような不定は認めない、そんなものがあれば私がそれを壊してやる。
越えると、言った。
だけども、それも本気で越えるつもりはなかった。
ここまで強い思いを抱くのも、二年前が最大の原因だ。
あの時までは、私はエンを越えたいとばかり思っていた。エンにとって、最も力になれる人になりたいと。だからエンよりも強くなりたい。それが最大の目標だった。
二年前に、それが決して越えられないものだと気付くまで、私がそれを越えてはならないと思い知るまで。
私はその二年間をなかった事にしたかった。
二年前、あの海岸で止まり。そして今、あの海岸で始まる。それを素直に享受出来ればどれ程良かったか。
だけどその二年は私には長過ぎた、全てを消す事は出来ない。
表向きには変わった素ぶりを見せていない。だがその間、私は笑っていながらも、自身の体と心を痛め付け続けていた。常に、何処にても、何時にも。
母さんは勘が良かった。今思えば、さり気なく無理を咎めるような事を言われていたんだろう。だけど、それ以外は騙し通した。
私は変わりはしない。変わらないままエンを待ち続ける。変わったのは私ではない、私とは違うものだ。そう自身に思い聞かせ、周囲にすらその騙りを信じさせて来た。
だけど、長い間あり続けたそれは簡単に消せるものではなくなってしまった。
私が造り出してしまったそれは、私と同じもの。それもまた、私の存在意義だったのだから、それが消えてしまえば、私は私で居られない。
私ではないものを消す事が出来ない。だから私は変わらない事を望みながらも、変わってしまった事を自覚してしまった。
結局私は変わってしまったんだ、二年間も全てを騙して来た結果が、真逆の結論を与えてしまうとは。
残ったものは、定まる事が拒絶されたという、不定の理だけ。
――ああ。私はどうして。
どうしてこんななんでもない日々すら忘れていたのだろう。
私には、まだ。まだまだやるべき事がある筈だろうに。
……記憶はまだ不完全だ。全てを知る為に、私はまだ動かないといけない。いけないのだ。
過去編第一章、取り敢えず終了です。
彼が手に入れた記録が良いものか悪いものか、この空白が埋まった時に解る事でしょう。その時まで、どうかお付き合い頂ければ幸いです。