86.階段事件
オリビアはセオドアが常に自分の傍にいてくれることに終始ご機嫌だった。
授業中もオリビアの隣の席に座り、昼食も一緒に取った。常に傍らにいるセオドアに、今まで自分と離れていた時間を取り戻そうとしているのだとそう思っていた。だが、それにしては自分を見つめるよりも、周りに目が行っていることの方が多い気がする。気を配っているようだ。きっとオフィーリアが嫌がらせをしてくることを心配しているのだろう。
オリビアがもとの戻った翌日、早速セオドアの懸念していたことが起きた。オリビアが手のひらを怪我していたのだ。
「どうしたんだ?!」
簡単に包帯を巻かれた手を取り、厳しい顔でオリビアに尋ねた。
「ちょっと転んじゃって・・・。手を付いた時に少し擦り剥いただけなの。大した傷じゃないわ」
オリビアは焦ったようにセオドアから無理やり手を引き抜いた。
「転んだって・・・? 誰かに倒されたのか?」
「違うわ! 本当に自分で転んだのよ、ドジっちゃって」
オリビアは両手を隠すように背中に回すと、ニコッと微笑んだ。
「ありがとう、セオドア、心配してくれて。でも大丈夫よ。本当にちょっとした擦り傷なの」
頑なに口を閉ざすオリビアにセオドアはそれ以上追及するのは止めた。
ただ、何とも言えない違和感が残る。
いつもの彼女だったら、嫌がらせを受けたなら隠すことはしない。ここぞとばかりに訴えてくるはずだ。ここまで違うと言うのなら、本当に自ら転んだのかもしれない。
セオドアも口を閉ざした。
それから暫く何も起こることはなかった。このまま無事に卒業式を迎えられればと期待をしていた。しかし、とうとう事件は起きてしまった。
それは卒業式の前日だった。
この日、学生として受ける最後の授業は午前中で終わり、午後は自由時間だった。ただし、卒業式という大切な式典を控えているので、街などへの外出は禁止されていた。
そのためか学院内には多くの生徒たちが残りっていた。明日の式の準備に明け暮れる生徒や、私物を整理する生徒、友人たちと交流を楽しむ生徒たちなど、明日の学院最後の日を前にして皆それぞれ思い思いに過ごしていた。
学院内ではいつもセオドアと一緒にいたオリビアも、今日は卒業後には会えなくなるであろう(数少ない)友人と最後の交流をすべく、セオドアから離れた。
セオドアはそのことに不服そうだった。
「俺も一緒に行くよ」
そう申し出たが、オリビアは笑って首を横に振った。
「学院最後の日よ。セオドアだって話しておきたいお友達はたくさんいるでしょう? 私たちはこれからもいつも一緒だし」
「だが・・・」
オリビアは顔を曇らせるセオドアの両手を取ると、
「私を心配してくれているの? ありがとう、セオドア。でも大丈夫よ。こんな最終日にもうオフィーリア様だって何もしてこないわ。彼女だって私に嫌がらせするより、大切なお友達との時間の方が貴重でしょうから」
そう言って、セオドアの顔に自分の顔を寄せると頬に優しくキスをした。その瞬間、セオドアの身体にゾッと冷たい電流のようなものが走った。それを耐えるように奥歯を喰いしばった。
「分かった・・・」
セオドアが頷くと、オリビアはにっこりと微笑み、
「じゃあね!」
手を振って何処へ駆けて行った。
セオドアは後ろ姿を見送りながら、無意識に彼女が触れた頬を手の甲で拭っていた。
それから少し経った後だった。オリビアが階段から落ちたという知らせを受けたのは。
☆彡
「オリビア!」
オリビアが運ばれた救護室に、セオドアが駆け込んできた。
「セオドア・・・」
手当てを終えてベッドに腰かけているオリビアの顔は涙に濡れていた。足首には包帯が撒かれている。
「階段から落ちた時に捻ってしまったようです」
手当てをした看護婦がセオドアに向かって軽く頭を下げた。
セオドアは頷くと、看護婦はそのまま部屋を出て行った。
「大丈夫か? オリビア」
セオドアはオリビアの前に立った。オリビアは辛そうに彼を見上げた。
「ごめんなさい・・・、セオドア・・・。貴方の言う通りにすればよかった・・・。もう何も起こらないだろうと油断してしまったの・・・。それなのに・・・オフィーリア様が・・・」
流れる涙を両手で拭う。
「オフィーリアが?」
セオドアの問いにオリビアはコクンと頷いた。
「オフィーリア様に背中を押されて・・・。酷いわ・・・、明日の卒業パーティーでセオドアと踊ることを楽しみにしてたのに・・・。こんな足じゃ・・・」
グズグズと泣きながら自分の足首をみた。
「・・・本当にオフィーリアが君を突き落としたのか?」
「・・・ええ・・・。こんな最後日まで嫌がらするせなんて・・・」
「君ははっきりとオフィーリアを見たのか?」
「え?」
俯いて自分の足元を見ていたオリビアだが、頭上から想像とは違う少し強い口調に思わず顔を上げた。
「・・・それは・・・、落ちる瞬間は背中から押されたからはっきりとは見えていないけど・・・、でも、オフィーリア様よ・・・?」
「断言できるか?」
セオドアの真剣な顔にクッと言葉に詰まった。
「な、何でそんなことを言うの? だって、その人赤い髪だったわ! それは見えたの! あんなに長くて赤い髪、オフィーリア様しかいないじゃない! それに、周りには他に人もたくさんいたわ! みんなその赤い髪の人を見てるはずよ!」
「長くて赤い髪で黄色と青のリボンをしていた?」
「ええ! そうよ!」
「顔をはっきり見えなかった割には、リボンの色は覚えているんだな?」
「・・・!」
オリビアはハッとしたように息を呑んだ。
その時になって初めてセオドアが手に紙袋を持っていることに気が付いた。セオドアはその袋に手を入れた。オリビアは嫌な予感がしているのか、少しずつ顔色が青くなっていった。
「オリビア、君が見た赤い髪ってこれか? 黄色と青のリボンも付けている。階段の上に落ちていた」
セオドアが取り出したのは長くて艶やかな赤髪のカツラだった。




