第3話 ネットとスマホと充電器
「信じられないっ」
吉岡さんが新しくできた山道を知らないのは、どうやら本当だったようだ。
僕の隣を歩く彼女の足取りは慎重で、それとは反対に声の調子はどこか高めだった。僕の手に持つスマホが気になるようで、ちらちらと顔が動いている。
「ねぇ、"それ"もう一度貸してよ」
「いやだ」
「なんでよ」
「さっきみたいに落とされたら、困る」
「それは思ったより軽くて、手が滑っただけだから」
「テレビだって落としたら壊れるだろう」
「テレビも観れるのっ!?」
高い声が山道から林に響く。遠くで獣の鳴き声が聞こえた。
ーーどんな時代だろう。
1962年と言われても、全くピンと来ない。昭和なのも分かる。戦後なのも分かる。高度経済成長期なのは授業でやった。でも、当時の流行なんて歴史ではやらない。
ふと、この状況を受け入れつつある自分に気づいて、僕は唸った。
なるほど、今とは文化が異なるだけ。日本語が通じる外国人だと思えばいいのだ。
「その、吉岡さんの時代の流行りってなに? それこそ、テレビなのか?」
「うーん、流行りと言うか、便利なもののひとつよね。3種の神器? あとふたつはーー」
「ああ、授業でやったよ。3C。カラーテレビ、クーラー、カーの3つ、だろ?」
高度経済成長期の日本。1964年に東京オリンピックがあったはずだ。だけど、隣を歩く吉岡さんは首を傾げていた。
「なぁに、それ? 3種の神器って言ったら、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵じゃないの……」
そして、なにやら納得したのか、前に向き直って、言った。
「へぇ、そんな時代も来るんだねぇ」
「……流行りの歌とかは、ないのか?」
「『上を向いて歩こう』かなぁ。知ってる? 私の好きな曲」
ふんふんと鼻歌をする。その音程が妙に懐かしい。僕は夜空を見上げる。街灯がない空では小さな星もよく見えた。
「そうか。その時代なのか」
「あれ、知ってるの?」
「小学校の授業でやるよ。あと、ばあちゃんの好きな曲だった」
「お祖母様は今おいくつ?」
「今年で77歳。でも、もうここには居ない」
僕の言葉の意味を、彼女はすぐに理解してくれた。
「……そう。ごめんなさい」
「別に、いいさ」
「77歳かぁ、60年前じゃあ、私と同じ年なのね」
77歳引く60歳は、17歳。簡単な計算問題で、吉岡さんの年齢が割り出せる。つまり、
「僕と同い年、なのか」
勝手に年下だと思っていた。
吉岡さんは「えっ」と呟いたかと思うと、両手で口元を押さえた
「そうなんだ。純一くんもなのね」
「その制服、作東高校のだろう。僕と同じ学校だから、分かる」
「学校まで一緒なの? なるほど。それが私と純一くんを繋いだ縁なのね」
彼女の言葉に、僕は口の中で唸った。それは、対象者が多過ぎるのではないか。田舎の学校とは言え、僕の学年はなんとか3クラスを保っている。
その中で"たまたま"僕だけが彗星から落ちる光を見ていたのか。まあ、実際のところは、佐々木たちに訊いてみたら分かるだろう。
夕楽橋を渡ると、ようやく町の灯りが戻ってくる。
吉岡さんは駆け出すと、左右に歩きながら、きょろきょろと町の様子を見回す。僕は立ち止まって、ぼーっと彼女の様子を眺めていた。
綺麗な子なのだ。暗闇の中でおぼろげだった彼女の存在が、ようやくちゃんとした輪郭を持って見えてくる。背が低いから幼く見えたが、当時はこれくらいが普通だったのかもしれない。発言が現代に近い割に、仕草が丁寧なのは、時代の移り変わりの時期だからだろうか。それが僕には新鮮だった。
彼女が歩くたびに腰まで届く長い黒髪がさらっと揺れる。
それに、なぜか彼女と話していると妙に懐かしい気がする。
初めて抱く感情だった。
「なんか、あんまり変わってないね。すこし、道路と街灯が綺麗になったぐらいかなぁ」
吉岡さんがため息をつく。もう少し、近未来を予想していたのだろう。
町の雰囲気に変化が少ないのは、今の僕でもなんとなく分かる。この60年で大きく変わったものといえば、家電関係が多い。1番はおそらく、スマホを含めたインターネットの存在だ。
1番変わったものを、1番最初に見ているため、彼女の期待値は高かったに違いない。
60年では川の流れは変わらないし、街灯は依然として少ないままだ。変わるものがあるとすれば、増水するたびに再整備される川の護岸と、事故があるたびにその場所だけ増える街灯の数。
廃れゆく田舎の匂い。
現状維持は後退だと、この町は身を持って教えてくれている。
「でもね、変わったものもあるの。あの、すごく明るい建物はなあに? お店?」
「ああ、あれは、コンビニね」
「"こんびに"って?」
うっと言葉に詰まり、僕は無言で酒屋の角を曲がった。
「まあ、駄菓子屋、雑貨屋、たばこ屋、文具屋の総まとめみたいな感じかなぁ」
「スマホは売ってるの?」
「それは電気屋に行かないと多分、ない」
「そうなの」
明らかにしゅんとする彼女。売っていたとして、どうやって買うつもりだったのだろう。旅行客を案内するガイドのような気分だった。
「中見てみようかな」
「その時は僕も付いていくよ」
旧街道に入ると、彼女の足取りには迷いがなくなった。
「どこに向かっているんだ?」と、僕は追いすがり、行き先を訊ねた。
「私の家だけど、一応。まだあるか分かんないけどね」
「残ってたらいいな」
「うん」
民家を抜け田んぼ道に出ると、彼女の歩くスピードがさらに上がる。今や僕が彼女に引きつられる様子だ。背中の髪はせわしなく左右に動いている。
ーーこの道は。
ふっと、僕は直感した。次に彼女はその田んぼの角を曲がる。背中の髪が動く。予想通りだった。
今や僕の心臓は痛いぐらいに鳴っている。
ーーありえない。この先の家は、1つしかない。
なんとなく、年齢が分かったあたりから既視感はあったのだ。もしかしたら、名前を訊いたときには、もう心の底では気づいていたのかもしれない。
そう言えば、ばあちゃんの旧姓を僕は知らない。
家の前で止まった彼女は、背伸びをして塀の向こうをなんとか覗こうとしていた。
はたから見たら不審者だ。でも僕はなにも言えず、そんな彼女の様子をただ後ろから眺めていた。
「ここが私の家、のはずなんだけど。あっ、変わってないっ。でも、なんで、同じ敷地にもう一軒あるんだろう。それに、縁側の窓、開いてない? 誰もいないのかな。 ーーどうしたの?」
彼女が振り返る。よく知っている風鈴の音。ここまで微かに香る線香の匂い。街灯の灯りに包まれた彼女は幽霊か。
僕は深く息を吐いた。
「その家は、僕のお祖母さんの家だ。隣が僕の家。名前は"樋口正子"。今年で77歳。でも、ばあちゃんは、6月頭に死んだ」
僕は答え合わせするように、これまで交わした会話の断片を繋ぎ合わせて言った。
「樋口正子……」
下を向いたまま、口の中で呟いた彼女の声は、なんとか僕の耳まで届く。そして、はっと顔を上げて、目を開いた。澄んだ綺麗な瞳をしていた。
「純一くんは、私の孫?」
僕は頷いて答える。多分、そういうことになるのだ。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
『あらすじ』のところまで一気に来ました。
続きは19時ごろになるかと思います。
よろしくお願いします!