第2話 スリッパで木登りするのは難しい
吉井川は暗く、真っ黒い水面をさらう波の部分だけが、時折白く光って見える。それに比べると、夜空の方が明るいぐらいだ。
夕楽橋を渡ったあたりで、僕はスリッパで来たことをかなり本気で後悔していた。
展望台に上がる入り口は新しく整備されたとは言え、街灯などなく、闇に包まれていた。
僕はふーっと大きく息を吐いて、ふくらはぎに止まった蚊を叩き落としてから、スマホのライトをつけて、山道を登り始めた。
木々の隙間から星空が見える。その中でもひときわ輝く彗星は、今はちょうど夏の大三角の重心あたりにあった。
展望台の看板。砂利で敷き詰められた駐車場には、今にも消えそうな街灯に蛾が集っている。
展望台とは名ばかりの、物見やぐらの下で僕はあたりを見渡した。
ーー何もない?
木々のざわめき。涼しい風が林を抜けていく。耳を澄ますと、裏の雑木林から声が聞こえてきて、僕はびくりと体を震わした。
「・・・・・・ーい。おーい、誰かいませんかー?」
振り向いてライトを向ける。林の暗闇に光が当たる。誰もいない。奥は見えない。
僕は内心、かなりびびっていたが、それでも呼ばれる声に誘われて、奥へと足を踏み入れた。
「こっち、こっち」
声は近くなる。それにしても、声のする角度がおかしい。僕はライトを上に向けた。
「うわ、まぶしっ」
ーー二本の杉の間に、女の子が引っ掛かっていた。
引っ掛かっている。片方の枝に両腕を、もう片方に両足を引っ掛けて、ぶらぶらしていた。これを引っ掛かっていると言わずに、何と言えばいいのか。他の適切な表現を僕は思い付かない。
「よかったぁ。ずっーーと、このままだったらどうしようかと。ねぇ、ちょっと助けてくれない? 自分でも分かんないんだけど、いつの間にかこんなことになってたの」
安心したのか、早口で捲し立ててくる。安心したのはこちらも同じ。恐怖から解放され、僕はこの奇妙な状況を冷静に眺めていた。
ーーあの制服、うちの高校の子か。後輩か? 見たことないけど。先輩なら少なくとも一度は見たことがあるはずだろう。にしても、どうやって登ったんだ。木登りして、彗星でも見てたのか。
「おーい、ねぇ、聞いてる? 聞こえてる?」
木の上から聞こえる不平の声に、僕の思考は一時中断。彼女のことは後で考えればいいか。
「ああ、すまん。でも、助けてって言われてもなぁ。・・・・・・いや、待てよ」
僕はライトを周りに当てて様子を見る。そして、1本の杉に狙いを定めた。あの木からなら飛び移れる。彼女の体を起こすことさえできれば、なんとかなるはずだ。
僕はため息をついた。全く、木登りなんて中学生以来だ。おもむろに屈伸を始めた僕に、上から声がかかった。
「どうするの?」
「今からそっちにいくよ」
およそ3年振りの木登りは予想よりも時間がかかった。暗闇とスリッパが難易度を上げている。あとは、ブランクか。
なんとか隣から移り、スルスルと枝まで降りていく。初めて近くで見る彼女は、思っていたより小柄だった。
僕は股に挟んだ枝から、体を倒し、思いっきり腕を伸ばした。
「早く」
「うん」
先程までの饒舌はどこへ行ったのか、小さく頷いた彼女は僕の手を掴む。小さいな。僕は手首を掴み直すとそのまま思いっきり、引っぱった。
「わっ」
起き上がった彼女は、反動に任せて僕の背中に抱きついた。額が肩に当たる。彼女の黒い髪からは、ふうわりと石鹸の匂いがした。
彼女は僕の背中で何度も息を吸っては、吐いている。シャツ1枚。背中が痒くなってきて、僕は我慢できずに言った。
「ひとりで降りられるか?」
「たぶん、できると思う」
ゆるゆると降りていく彼女の足場を僕はライトで照らす。地上に降り立つと、安心したのか、へたりと座り込んだ。それを見て、僕の降り始める。
帰るまで遠足なように、降りるまでが木登りだ。最後の最後まで気を緩めてはならない。
あと、一歩。最後の枝に足をかけて、飛び降りるつもりだった。
カッコ付けたかった部分も少なからずある、と思う。
ーーそして、滑った。
全てはスリッパだったのが悪いのだ。
「いってぇ」
背中をついて倒れる。そのまま大の字に。杉の合間を縫って、真上には彗星の尾が見えた。
横目に見える彼女は、背筋が伸びた綺麗な正座で隣にちょこんと座っていた。
「大丈夫?」
「たぶん」
「助けてくれて、ありがとう」
上から覗き込まれ、夜空が見えなくなる。僕はちょっと顔を逸らした。
「・・・・・・君は、ここで何をしていたんだ?」
彼女は首を傾げる。自分でもよく分かっていない様子だった。僕は体を起こし、背中を払う。彼女は話し始めた。
「何を、していたんだろうね。彗星を見ていたのよ。そしたら、急に光が落ちてきて、気付いたらあんな所にいたの」
「そんなこと」
「信じられないかもしれないけど、本当なの」
ずいと寄せられた顔。その真剣な眼差しに、懐かしさに似た、何かを感じて、僕は思わず名前を訊いていた。
「君の名前、なんて言うんだ?」
「私? 吉岡正子って言うの。正の字に子どもの子で正子。あなたは?」
「吉野純一。純は、・・・・・・って別にいいか」
「吉野くんなのね。それとも、純一くん?」
「どっちでもいいさ」
吉岡正子。聞いたことのない名前だ。僕の知る限りでは、その字を書く"正子"は1人だけだった。
「純一くんはどうしてここに?」
「似たようなものさ。彗星を観てたら、光がここに落ちるのが見えたんだ」
「ふーん」
半信半疑なのだろうが、彼女に対する僕の考えも同じようなものだった。
僕が続いて口を開けようとした時、彼女は「あっ」と、急に立ち上がって言った。
「しまった。早く帰らないと。お父さんに怒られちゃう。ごめんね。吉野純一くん。うん。名前、覚えたから。近いうちにお礼に行くねっ」
彼女はそのまま僕を置いて、雑木林を抜け、左右を見渡したかと思うと、展望台の方に向かって走る。僕は一瞬、今の行動が理解できなかった。
ーーまさか。
「いや、そっちは」
そっちはダメだ。彼女の行く末を追いかける。向かう先が分かった。でも、そっちは行けないのだ。雑木林を抜け、背中が見える。
彼女は足を止めていた。後ろからでは分からないが、雑草で茂った旧山道を目にして、多分、呆然としているに違いない。
ゆっくりと振り返った。わずかに届く街灯の光は、彼女の顔を白く浮かび上がらせる。
「おかしいよ。ねぇ、なんで道がなくなってるの?」
そのはずだ。旧山道は5年前の豪雨で、もう使えなくなっている。この辺りに住んでいれば、誰もが知っている事実。それを、彼女は知らない。まるで、登ってきたときには、在ったかのように。
ーーなぜ?
60年振りの彗星。
落ちたはずの流れ星。
登れるはずのない旧山道。
知っている制服。
見たことがない生徒。
少女は知らぬ間に木の上にいたと言う。
『ありえないことを除外した後に残ったものは、どんなに信じがたくても真実である』
ふと、最近読んだ小説のそんな言葉を思い出した。
「吉岡さん。今年って何年かな?」
展望台の周りは静かなもので、街灯がチカチカと点滅する音さえ聞こえてくる。質問の意図が分かっていないのだろう。彼女は首を傾げた。
「昭和37年って、西暦だと何年だっけ?」
僕は黙って、手に持つスマホで『昭和37年 西暦』と打った。検索結果が画面に映る。
「1962年だ」
今から60年前。僕は画面を見続けたまま、彼女が近づいてくるのを気配で感じた。
「ねぇ、手に持ってる"それ"って懐中電灯じゃないの?」