4.瑠璃羽蝶の占い
父からは炎の矢が帰ってきた。
触っても熱さを感じない。私の手の上で止まると、じゅっと燃え尽きて、一枚の羊皮紙に変わった。「すぐに行く」とだけ書かれていた。
私の腕の中で、少年は苦しそうに喘いでいる。
その様子が辛くて、私は彼の額にそっと手を当てた。かつての私の母が、そうしてくれていたからだ。母のひんやりとした手が熱を奪い取ってくれるようで、安心したのを覚えている。
私の場合は、てのひらに薄く粉雪の膜を張ることができる。調節はむずかしいが、これがきっと彼を楽にしてくれるだろう。
しばらくそうしていると、少年の息遣いが静かになっていき、やがて寝息を立てはじめた。
ほっとして手を下ろすと、今度は不思議なものが見えた。
彼の体の中に、黒い靄が見えるのだ。
それは、心臓のあたりにあった。
もしかして、これが病の原因なのではないだろうか。そう思った私は、その黒い光を包み込むように、氷を細かな雪に変えて注ぎ込んだ。
魔力を帯びた雪は、汗のつぶが浮かぶ首元から、じゅっと溶けるように体の中へと入っていた。
どうしてだかわからないけれど、そのときの私には、これが正しいことだという確信があった。
そして、それは正解だった。
それからしばらくして、彼の婚約者に志願した。分かり合えることがあると思ったのだ。
優しい家族に愛され、たくさんの友人もできた今でも、私の中には前世で感じた寂しさややるせなさが澱のように残っている。
きっとお互いに支え合って、埋められる。そんな確信があった。
そうしてジルベルトのお見舞いに通えるようになったあとのことだ。
私が氷で包んだ黒い靄が、会うたびに小さくなっているのがわかった。この靄が消えれば大丈夫。
はじめはいろいろな手土産を持参していたのだが、一緒にティータイムを重ねたところ、領地で取れる薬草茶を飲むと、黒い靄が早く収束することがわかった。
そのままでは渋い顔をされたので、花蜜を添えて、必ず毎回飲ませるようにした。
彼は、気に入ったものほど私の前では食べたり飲んだりしないのだと付き合ううちにわかった。薬草茶は、毎回口をつけていなかったので、確実に飲んでくれているのだとほっとした。
そう思うと、どんなに悪態をつかれても、会うたびにうれしくなった。
それに、私には病にある子どもの気持ちがわかる。彼の不機嫌さはきっと、愛情の裏返しだ。本当は私が来るのを楽しみにしてくれている。どこまで言っても許されるのか、無意識に推し量っている。そう確信していた。
現に、私の見舞いを彼が拒むことはなかったし、いつでも甘い焼き菓子が用意されていた。そしてそれは、私の反応を見て品が変わっているらしかった。
素直になれない可愛い人。ジルベルトのことを私はそんなふうに思っていたのだ。
そうして私たちが14になった、ある春の午後。それは本当に気持ちの良い日だった。
私はいつものようにジルベルトの元を訪れた。彼の居室は、落ち着いたブルーの壁に彩られ、すっきりとしたシンプルなデザインのシャンデリアが吊るされていた。
窓辺にはテーブルと椅子があり、部屋の奥側には大きな寝台、そしてその横に、付き添う相手のための小さな椅子があった。
そのころの私は、実は、疲れていた。
何度も見舞いに来ているけれど、残念ながらジルベルトが心を開いてくれることはなかった。ましてや目も合わせずに、私の肩のあたりへと視線を外しているのだ。
会うたびに嫌いだと言われ続けるのも、天の邪鬼のような反応だとわかっているものの、自分に余裕のないときだったので妙に胸に刺さった。
王子妃教育も想像していた以上の辛さだったし、王城で行き交う貴族たちが憐れみを向けてくることへの苛立ちも感じていた。
ついため息をついてしまい、はっとした。この態度はよくない。以前の生で、疲れ切った母の様子を見て自分も傷ついたではないか。
病のときは、ただでさえ気力を消耗する。付き添う相手が笑顔でなければ、闘えないのだ。
ふと気分を変えようと外に目をやる。
すると、庭園の色とりどりの花たちを縫うようにして飛ぶ、二頭の蝶々が見えた。一頭は檸檬のような美しい色をした蝶。そしてもう一頭は薄い水色で、人魚石のような輝きがあり、羽の縁は黒色をしている。あれは確か、瑠璃羽蝶だ。
私の胸は期待でいっぱいになった。
かつての母が教えてくれた、小さな占いを思い出したのだ。現に、彼の胸にあった黒い靄は、爪の先ほどの大きさにまで収縮していた。
うれしくなってジルベルトに蝶の話をした。
彼はいつものように不機嫌で、私のことを嫌いだと告げた。
そして、私を追い出すような物言いをしながらも、いつか読んでみたいと話していた異国の物語を押しつけられたので、私は思わずくすりと笑ってしまった。
するとジルベルトは顔を真っ赤にして怒り、早く帰れと重ねたのだった。
そして、それと同時に、その日わかったことがある。
彼は恐らく、無意識に自分から私を遠ざけようとしていたのだと思う。人々がささやく心無い噂を知って。
だから、私は嬉しくなった。ジルベルトは私を心配してくれているのだ、と。
その年の冬、私たちは成人を迎えた。そして、見立て通りに彼の胸にあった靄はすべて消えた。ジルベルトは健康になった。
これからはきっと、お互いに笑顔でいられる。
少しずつ一緒に散歩に出るのが楽しみだ。また、春になれば、貴族の子女が通う学園も始まるはずだ。きっと交流を深められる。そう思っていた。
ーーー*転生者向け ネージュニクス王国 百科事典*ーーー
・瑠璃羽蝶:
オオルリアゲハに似た蝶。宝石のような煌めきの羽を持つ。ただし、羽の青色はごく薄い水色。
・人魚石:
アクアマリンに似た宝石。石言葉は「幸福の訪れ」。
ーーーーーーーーーー
実用書を書いています。代表作は『時間が貯まる 魔法の家事ノート』。台湾・中国でも発売されています。
おもなテーマは時間術・ノート術・家事術です。本作品以外では、本業の経験を生かして、暮らしがちょっと楽しくなったり楽になったりするような小説を目指しているので、よかったらそちらもどうぞ。