8.ある令嬢の野望
ノエミは、冷たい石の上で目を覚ました。
このような硬い寝床は生まれて初めてで、体の節々がひどく痛む。
用意されていた毛布から抜け出すと、だんだん苛立ちが募ってきて、ノエミはそれを蹴飛ばした。
背伸びをして、やや高いところにある、灯り取りの小さな窓を覗いてみる。
そこに広がっているのは地面。
ノエミの目線は、花をも見上げるような低さで、空が遠く感じられた。
この牢は、半地下にあるのだろう。
ほかに住人はいないらしく、ひどく静かで、それがよけいに不気味だった。
牢とはいえ、そこはきちんと掃除が行き届いており、一日に二度、温かい食事も差し入れられた。
湯浴みは出来ないが、熱いタオルを渡されて、清拭をすることもできた。
ノエミが牢に抱いていたイメージとはずいぶん異なる。それでも。
こんなはずではなかった。
邪魔者を追い出し、王太子妃になるはずだったのだ。計画は確かに上手くいっていた。
それなのに、--どうして、こんなことに。
ノエミには、前世の記憶があった。
ここではない世界で暮らす、どこにでもいる普通の女子高生だった。
学校帰りには、友人とファストフード店やゲームセンターに寄ったり、試験の前にはみんなで集まってうんうん唸るような、--ごくごく普通の。
人と違うことといえば、恋愛願望がないことだろうか。友人たちはみな、きらきらした恋の話に夢中だった。
でもノエミは、容姿に自信がなかったことや、両親の離婚がきっかけで、恋をする気にはなれなかった。
そういうこともあって、友人は少なくなかったが、完全に分かり合えるような親友と呼べる人はできずにいた。
一方、姉が貸してくれた乙女ゲームには、どんどんののめり込んでいった。
疑似恋愛を楽しむというのではなく、ヒロインを育てていく、その過程を楽しんでいたのだ。
ゲームのヒロインを全力でサポートするのは、自分だけの親友ができたようで楽しく、幸せな時間だった。
だから、この世界に生まれ落ちたときはうれしかった!
大好きなヒロインのスピカを間近で見られる。
陰ながらサポートしていこう、そう思うとわくわくしたのだ。
やがて、攻略対象の一人であるアンリが婚約者になった。
特段興味はなかったし、もしもスピカがアンリを選ぶ場合に手助けができるよう、愛想は振り撒いておいた。
ところが、思うようにはならなかった。
フルールの性格が、ゲームとは違いすぎたのだ。このままでは悪役令嬢として機能しない。
焦ったノエミは、談話室で彼女に焚きつけてみた。
ゲームには存在しなかった第二王子と婚約していた彼女だったが、彼に寄り添うスピカの存在に心を痛めているのはすぐにわかったからだ。
ところが、何を思ったのか、自分を変える方がいい、などと言う。
フルール自身が動かないのなら、取り巻きがやったことにすればいい。
そう思ったノエミは、周りの令嬢を煽動することにした。
ところが、誰もが可哀想なものを見る目でノエミを見た。
「ノエミ。アンリ様を見るあなたが辛いのは、よくわかるわ。
でも、そのようなことをして品位を下げるよりも、フルール様が言ったように、自分自身を変えた方がきっと早くて楽なのよ」
そう告げたのは、スピカへの嫌がらせに賛同しかけた、メアリー自身であった。
「お互い辛いけれど、がんばりましょうね」
メアリーはそう言って、瞳に浮かぶ涙を拭い、晴れやかに笑った。
ノエミはその様子に嫌悪感を持った。
綺麗事ばかりで健全なその思考が気持ち悪いと思ったのだ。
誰もやらないなら自分がやろう。
そう思い、こっそりスピカの持ち物を隠そうと決める。
ところが、人気の無いはずの教室で、気がつくと、サロメが後ろに立っていた。
彼女は、ふだん学院では見せない冷たい目でノエミを見据えており、思わず背筋が粟立つのを感じた。
そうして、結局何もできないまま卒業の日を迎えたのだった。
婚約破棄イベントは不思議と成立した。
内心歓喜したが、それは一瞬だった。
その後がまずかった。ゲームにはなかった展開が次々に起こり、--スピカは修道院に送られてしまったのだ。
ノエミは目標を失ってしまった。
アンリは、事件以来うだつの上がらない男になってしまったし、母のすすめで侍女として王城へ上がることにした。
「最近、侍女が多く補充されたでしょう? クレメント殿下の婚約者選びを兼ねているらしいわ」
そんなことを噂していたのは誰だったのか。
ふと、学院での出来事を思い起こす。
スピカが選んだのは、恐らく隠しキャラだったのだろう。ゲームには登場しない、ジルベルト王子だった。
でも、ノエミ自身が一番好きだったのは、太陽のように華やかなクレメント王子。
ヒロインはもう居ない。悪役令嬢もサロメもどこかへ消えた。
それならば、ゲームとは違う世界を作っていけばどうだろう?
ノエミ自身がヒロインになって。
地味だと思っていたけれど、私の容姿だって決して悪くはないのだ。
きっとノエミは、このために生まれてきた。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
この世界で暮らしてきて、わかったのだ。
ここはゲームの世界じゃなくて現実なのだと。真心を込めて接していけば、きっとクレメント王子の心だって掴める。
それは確信だった。




