1.婚約破棄
「フルール・ルル・フレージュ。君との婚約は破棄する」
ジルベルトの冷ややかな声が、夜会を切り裂くように響いた。それは、私たちの卒業を祝う夜会でのことだった。
それまで思い思いに歓談にふけっていた貴族たちは、水を打ったように静まり返り、さまざまな視線が私に向けられるのを痛いほど感じた。
私の婚約者であるジルベルト・クロード・ネージュニクスは、この国の第二王子だ。王妃譲りの黒髪に、国王と同じすみれ色の瞳を持ち、中性的な美しさのある人。
私の初恋の相手でもある。
そんな彼の腕には、一人の女子生徒がしがみついていた。庇護欲をそそるような可愛らしい少女。ディディエ男爵の娘で、名をスピカという。
一言でいうならば、彼女は秋桜の花のような令嬢だった。
ピンクブロンドの髪の毛からそう思っただけではない。全体的な印象が、野に咲く可憐な花のような少女なのだ。
華奢な身体は風でかんたんに傾ぐ野の花のようだったし、エメラルド色の瞳がこぼれそうなくらい大きく、うるうるとしているところも。
スピカは男爵とメイドとの間に生まれた子どもで、つい一年前までは市井で生活していたと聞いている。
彼女が来てから、学園の空気はすっかり変わってしまった。
エスコートもなく一人で入場した私は、彼女の姿を見とめたとき、平静を装うだけでも精一杯だった。
肩の下あたりまで伸びたふわふわの髪の毛はそのまま下ろし、頭にはコサージュとレースのついた大きなヘッドドレス。そのコサージュは、色こそ違うものの、コスモスの花を模しているらしく、私は自分の見立てがあっていることを悟った。そして、その中心には、雪のような色をした宝石が埋め込まれている。
スピカのドレスは、ほかのどの令嬢も身に着けないような、奇抜なデザインだった。
上半身はぴったりと身体に沿うようなつくりで、繊細なレースで覆われており、袖がない。そして、腰のあたりからくしゅくしゅとした花のような、すぼまった見たことのない形のひだのあるスカートがふわりと広がっている。膝から下があらわになっており、まわりの令嬢たちはみな眉を潜めていた。
でも、私が何より驚いたのは、この世界における非常識なデザインではない。その色だった。
スピカは、全身にジルベルトの色を身に纏っていたのだ。
ミニ丈のドレスは朝焼けのような薄紫色をしていて、ヘッドドレスのコサージュを飾るチュールや、踵の高い華奢な靴は彼の髪の毛と同じ黒。
彼の寵愛を一身に受けていることは明らかだった。
「フルールさん、どうか、罪を認めてください……!」
弱々しく告げるスピカの瞳には、ぷっくりと涙の珠が浮かんでいる。
その様子に、ジルベルトをはじめ、彼女を守るように囲んでいた男性たちは、胸を打たれたように眉を寄せた。それから、私にひときわ厳しい視線を投げつけた。
その中には、幼なじみのアンリとドミニク、さらには誰よりも頼りにしてきた兄のシャルルの姿もある。
それから彼らは、次々と私が彼女に対してしたという行動を述べ、責め立てた。
たとえば、彼女の持ちものを切り裂いただとか、階段から突き落としただとか、歩いている彼女に花瓶を落としただとか。果ては彼女を暴漢に襲わせようとしたのだという。
身の潔白を証明するのは難しいことではない。
なぜなら、私には王家の監視がついていたからだ。ジルベルトと結婚するに当たって、一点の曇りもないように、学園内では生徒に扮した影の者たちにつねに見張られていた。
また、学園が終わるとそのまま王城へ向かい、厳しい王子妃教育を受けていた。嫌がらせなどしている暇はなかった。
自分に非がないと証明するのはかんたんだ。
現に、騒動を遠くから見ていたジルベルトの双子の兄であり、第一王子のクレメントがつかつかと歩いてきた。
彼の後ろでは、私の親友であるサロメ・フランソワーズ・ブルゴーニュ伯爵令嬢が、スピカに呆れたような目を向けており、ほかの令嬢たちも概ね同じ様子だった。
サロメはすぐにこちらにやってきて、私を支えるように肩を抱いてくれた。
クレメントは、ジルベルトやスピカに私が潔白であることを説明している。まもなく疑いは晴れるだろう。――でも、心は悲鳴を上げていた。
大切な人たちが自分に軽蔑のまなざしを向けている。
これまで短くはない月日を過ごしてきた私ではなく、出会ってわずか半年のスピカのほうを信頼している。
それは自分で思っていたよりも遥かに辛いことだったらしい。
はっと息が上がりそうになったとき、肩に乗っていたシュネーが、心配そうに頭を私の頬にこすりつけてきた。
「――またその悪魔か」
ジルベルトの吐き捨てるような声が、ふたたび広間を揺らした。