終章 はずれ王子の初恋
嫌いだと口にするたびに、好きになっていた。
その感情の名前に気づいたのは、すべてが終わったあとだった。
兄と寄り添うフルールの姿は今でも忘れられず、思い起こすたびに胸がひどく痛む。
あんなにも彼女を拒み、傷つけてきたのは他でもない僕なのだ。だというのに、この心のなんと都合の良いことか。彼女を失ってしまった今、僕の心は声にならない悲鳴を上げるばかりだ。
僕は今日も、執務の合間に礼拝堂に通う。溶けない氷の前に跪き、懺悔し、そして氷の女神とやらに祈りを捧げる。不信心なのが見透かされているのだろうか。今日もそれが通じる様子はない。
フルールが倒れてから二年が過ぎようとしていた。
この王国にはさまざまな変化があった。
僕が想いを寄せていたスピカ・ディディエは、国境の修道院に送られた。気が触れてしまった上に、尖塔の上から落ちたと伝え聞いたが、どうでもよかった。
術が解けると、彼女に感じていた愛おしさはじゅっと溶けるようにに消えてしまった。残ったのはおぞましさと激しい後悔だけだった。
いや、もう少し厳密に言うと、彼女の言葉に心を動かされたこともあった、と思う。
いつも夢に浮かされたような心地で、どこまでが自分の感情で、どこからがそうではないのかを明確に線引きすることは難しいのだが。あのときは確かに、自分の孤独に寄り添ってくれる人なのだと解釈していた。
僕自身や、ほかに魅了の術にかかったものたちには咎めはなかった。多くの人々の心を傷つけたというのに、現時点では防ぎようのなかったことだと寛大な沙汰がくだった。それは、兄の口添えが大きかったのだという。
でもむしろ、罰してくれたほうがどんなによかったか。こうして何事もなく生きていることがとにかく苦しいのだ。
せめてもの償いに、必死でさまざまなことを学び直し、執務に励むことにした。
僕は、当事者として、新しく創設された魔女と聖女についての研究機関の責任者を任された。
遠い未来にふたたび訪れるであろう厄災に備えるために。魔女自身が残した資料を元に仮説を立てて検証したり、対策を考えたりしている。また、国内外に他に資料がないかも探しているところだ。
さらに、この厄災に限ったことかはわからないものの、転生者という存在の多さも浮き彫りになった。僕たちは、そうした存在への対応も考えていかなければならない。現状転生者だとわかっている者たちが、軒並み話を聞けない状態だというのは困りどころだ。
フルールは礼拝堂で眠りについている。硝子の匣の中で。彼女の身体は、不思議な繭に包まれている。
やや白く濁りのある透明な膜は、雪を鉱物にしたような硬質さがある。それでいて触れてみると冷たくはなく、柔らかい。そして、彼女の鼓動がとくとくと聞こえてくるのだ。
フルールが僕をかばって倒れたあと、彼女の身体には雪の形の魔法陣が浮かび上がり、気づいたらこの繭の中でねむりについていた。錯乱する僕に、確かに息はある、ねむっているだけだと魔術師たちが慌てて告げた。近衛兵たちが暴れる僕を押さえつけていた。
フルールは生きている。
ただし、その生命をつなぎとめるためには、魔力が必要だ。火の魔力でも、水の魔力でも、風の魔力でも、土の魔力でもない。疎まれていた命の魔力が。
それは命の魔力を持っていることを明らかにし、魔術師たちと共に調べてわかったことだった。それまでは、日に日に青ざめ、冷たくなっていく彼女の様子に誰もが憔悴しきっていた。
藁にもすがる思いで、これまで未発見の魔力を持つ者たちを探し出した。僕自身の魔力について公表したことから、思いのほか多くの者が集まってくれた。
僕自身もまた研究に参加し、半月ほどかけてようやく見つけたのだ。
僕には、動物たちの言葉がわかる以外にも能力があるということを。それは、植物に宿る命をなにかに吹き込むことだった。
だからこそ、彼女を家に帰してやることはできずに、この礼拝堂に寝かせたままになっている。
僕は毎日欠かさずここへやってきて、懺悔と祈りを捧げ、そして、彼女のために作った花束を捧げて、その魔力を注ぐのだ。本当はひと月に一度で構わないと言われているのだけれど、それでも僕は毎日彼女に会わずにはいられない。
王太子である兄には、未だに婚約者がいない。自らの義務に忠実なクレメントが、生まれて初めて譲らなかったわがままで、貴族たちの反発はあったものの、両親が許した。
だが、クレメントには時間的な猶予があまりない。あと一年以内には婚約するように言われている。
一度、夜に礼拝堂を訪れたとき、硝子の匣にすがって涙を落とす兄の姿を見た。兄は、彼女を傷つけ続け、あまつさえ婚約破棄まで申し出た僕が、いまだに彼女に執着していることを、どんなふうに思っているのだろう。
僕は、そっと視線を落とした。フルールの隣には、いつでも女がいる。
葡萄色の美しい髪を投げ出し、彼女が眠る匣のそばに跪き、許しを乞うような格好をしているのはサロメだ。苛烈な赤い目は固く閉じられ、その身体は透きとおった氷のような鉱物に包まれており、だれも触れることができない。
礼拝堂に跪くサロメを見つけたのは、フルールの身体に命を吹き込むようになったある朝のことだった。どうやっても彼女をどかすことは叶わなかった。また、魔術師たちによると、彼女の身体から命の反応はないそうだ。
誰が罰したわけでもない。おそらくは、彼女自身がしたことだったのだろう。ーー彼女は行方をくらまし、そして死んだことになっている。
二年の月日は、僕自身のことも大きく変えていた。
当時の僕からすると考えられないくらい、饒舌になったのだ。
目を閉じたままのフルールに、毎日いろいろなことを話して聞かせている。その日の天気、咲いている花、執務内容、晩餐で食べたもの、城下で人気の本に菓子、彼女の友人たちの近況。どんなに細やかなことも伝えている。
かつて、彼女がそうしてくれていたように。そして時折ふっと寂しさに襲われる。あれはなんて特別な時間だったのだろうと。
僕は無知だった。
彼女に感じる苛立ちを履き違えていたのだ。嫌いだと告げるたびに胸の中で暴れまわるいびつな感情。あれはきっと、――初恋だった。
情けなくため息をつきながら、立ち上がる。繭に包まれたままのフルールの額にそっと口づけを落とし、背を向けた。こつこつと硬質な音だけが響いている。
教会の重い扉に手をかけて、眩しさに目を細める。
扉の向こうは春だった。丸裸だった木々はぐんぐん芽吹きだし、可憐な青い花がそこかしこに咲き出した。空の色もずいぶんやわらかくなった。
冬は終わったのだ。
でも、氷漬けの罪は今もそこに静かにあるだけだ。ステンドグラスの青色に照らされながら。
そのときだった。僕とすれ違うように、青い蝶が礼拝堂へと入り込んでいった。そして、匣の中で眠る彼女の鼻先にとまった。
「ああ、――蝶々だ」
思わず口にして、彼女の言葉を思い出していた。
もし、これが吉兆だというのなら、どうか、彼女を返してくれないだろうか。今度はきちんと言葉を伝えるつもりがある。罰を受けろというなら僕が受けるから。
「――フルール」
そうつぶやくのと、涙がひと筋流れるのとは同時だった。慌ててそれを手の甲で拭う。けれども誰もいない礼拝堂はしんと静まり返っていて、僕はむなしく笑った。
大きく息を吸い、吐く。
癇癪を起こしていた幼い僕に、昔彼女が言ったことだ。深呼吸をするだけでもずいぶん落ち着くのですよ、と。
「――ルル」
一度も呼んだことのなかった愛称を、僕ははじめて口にした。そのとき、背中に衝撃を感じた。
驚いて振り返ると、僕が悪魔だと勘違いしていた白猫だった。かつてとは違い、乗れそうなくらいに大きくなった猫は、宝石のようなオッドアイで不機嫌そうに僕をにらみつける。そして、渋々といった様子で、鼻を礼拝堂のほうに向けた。
僕は夢中で走り出していた。
匣の中に、座る人影がある。彼女は窓硝子から差し込む青色の光の泉の中で、腕を上げ、伸びをしていた。近づいて目が合う。フルールは、確かにそこにいた。
しばらくぼうっとしていた彼女の手をそっと取ると、花のようなほほ笑みが浮かぶ。やわやわと細められた、優しい雪色の瞳。
僕は、その目が嫌いだった。胸が痛くなるからだ。
フルールは、ゆっくりと辺りを見渡した。何が起こったのか忘れている様子だったが、ふと、足元に目を止めて、小さな悲鳴を漏らした。氷漬けの親友を目にしたからだろう。匣から抜け出そうと立ち上がり、よろけたフルールを僕は慌てて抱きとめた。彼女の目からは、幾筋も、幾筋もの涙が溢れ出していた。
彼女は、魔女の真実をまだ知らないのだ。
目まぐるしく過ごしているうちに、ひと月ほどが経っていた。
僕はあれからフルールに会えてはいなかった。今夜、改めて彼女に結婚を申し込む。受けてくれるかはわからない。兄もまた彼女に結婚を申し込んだと聞いた。
あのとき、スピカの前に飛び出した君の身体が震えていたことを思い出す。彼女の答えを聞くのは怖い。今も逃げ出してしまいたい。嫌いだと告げる方がどんなに楽だろうか。
でも、僕も勇気を出して、君に伝えることにする。
「――君を愛している」




