9.雪の子猫
その日は、クレメントから王城の散策に誘われていた。場所は温室だ。少しずつ雪解けが始まっていたけれど、外はぬかるんでいてドレスでは歩けない。
求婚されたあの日以来、彼からは朝夕にまめに手紙と花が贈られていた。共に過ごすのもこれが三度目だった。
クレメントと私は、性格や嗜好が似ている。たとえば本の好みだとか、甘いものは好きだけど甘すぎるのはだめなところだとか。
ジルベルトのことで責任を取ろうとしてくれているのは知っている。でも、すごく大切にされていると勘違いしてしまいそうで、会う度に心が震えた。
それなのに、夜になると、ふと、ジルベルトに向けられた冷たい目を思い出しては涙がこぼれるのだった。きっと、それほどまでに長かったのだ。十年も片思いをしてきたのだから。
王城に着くと、サロメの姿が見えた。卒業後は、行儀見習いのために侍女になると聞いたのを思い出す。
城の紺色のお仕着せに身を包んだ彼女は、私を見とめると、それまでの怜悧な印象が嘘のように、ぱっと花のように笑い小さく手を振った。
そして、「あとでお茶をしましょう」と口だけで伝えてくれていた。
私は、自分がこれからしようとしていることを考えて不安になる。約束を果たせるだろうか、と。そんな私の気持ちを汲んだかのように、ネージュが頬に頭を寄せた。
ネージュと出会ったのは、ジルベルトの婚約者になってしばらくしたころ。雪期だというのに、珍しくからりと晴れた気持ちの良い朝だった。
私の部屋のテラスに小さな子猫がやってきたのだ。大人のてのひらくらいしかないので、生まれたてなのだろうか。そう思い、慌てて窓を開けた。
新雪のように真っ白なふわふわの毛をしていて、瞳は宝石のようなオッドアイ。部屋に招き入れると、子猫は軽やかに飛び上がって私の肩に乗った。
ところが、かわいいその子は誰の目にも見えないらしい。
もしかしてこの世界には精霊のようなものがいるのかもしれない。そう思った私は、誰にも言わずに子猫を育てることにした。名前は雪を意味するネージュにした。
しかも、猫と同じようなものを食べてはくれなかった。
はじめにミルクを出したのだけれど、それには手もつけず、飛び立つようにふわりと庭に降り立つと、誰にも踏みしめられていないうつくしい雪を食んだ。
それから長い間ともに暮らしてきて、少しずつネージュの好物もわかってきた。
森の奥に並ぶ木々からしたたるつららや、凍った泉の表面をぱきぱきと割ったもの。人の手が触れていない、自然のままのものが好きらしい。
そうしたものが存在しない春にどうしたものかと困っていたら、私のてのひらから出した雪の粒をおいしそうに食べていた。
あれから何年も経つけれど、ネージュの体が大きくなることたなかった。
誰にも見えない相棒は、どんなときもそばにいてくれて、私の心の支えになっていた。
「肩に乗っている猫のことは、ジルベルトの妄言ではなかったのだな」
クレメントは深く考え込んだ。
「それが事実だとして、悪魔だと決めつけるのは早計だ。根拠はジルベルトの魔法だけだろう」
「ジルベルト殿下は、命魔法をお使いになるのですね」
「――ああ」
クレメントは、歯切れ悪く言った。
「秘匿していたのだ。この国では、四大魔法以外の魔力は歓迎されないからな」
「どのような能力なのですか?」
「ジルベルトは、動物の声を聴くことができるのだ。強いていうならば、諜報向きの能力だろうな。話し相手はいなかったものの、ジルは城に住み着いた野良猫や、鼠などから情報を得ていたのだと思う。先日の夜会まで気に留めたことはなかったが、妙に情報通なところがあったからな」
護衛は少し離れたところにいるので、大切な秘密を彼に伝えることに決めた。
「クレメント殿下。わたくしには、もう一つお話しなければいけないことがあります」
この話題を切り出すのには、勇気が必要だった。
護衛たちに背を向けて、私はクレメントと向き合った。
「わたくしの手を見ていてください」
声が震えた。私はてのひらを、水を掬うような形に合わせた。ふわりと青い光が湧き出たかと思うと、てのひらには柔らかな雪が乗っていた。
クレメントは目を見開いている。
「わたくしも、隠していたのです。この氷の魔力を――。ですから殿下、わたくしはあなたの伴侶になることは叶いません」
固まったまま、何も言わないクレメントを見て、私は薄く笑う。
胸が痛んだ。正直なところ、ここしばらくは楽しかった。久しく感じたことのない気持ちだった。
整った文字で綴られた手紙を読むたびに、彼と話したくなった。ジルベルトといるときの私は、いつでもお姉さんぶっていたけれど、クレメントと一緒なら迷わず歩いて行けるような安心感があった。
でも、それももう終わりだ。
私には氷の魔力がある。少なともこれでは王族との婚姻は叶わないだろう。私が愛の魔女かどうかはわからない。魅了の術だって、もし私がかけたのだとしたら、なんの得もないのだから。それでも、状況は良いとは言えなかった。
「短い時間ですが、ありがとうございました。わたくしのことを心配してくださって、婚約まで打診していただけたことがとても嬉しかったです」
そう言って私は、淑女の礼を取った。
「待ってくれ。白猫とその魔力は――」
クレメントは、焦ったように私を引き止めた。
下を向いたままの私は、後ろから会いたくない人たちがやってくるのに気がつかなかった。
「――やはり、魔女だったのだな」
ぽつりと落ちた声は、クレメントのものではなかった。
声の主を振り仰ぐ。見慣れたすみれ色の瞳は、怒りにゆらゆらと揺れていた。
「みんなに術をかけるなんて、フルールさん、ひどいです……!」
ジルベルトの腕にしがみついていたスピカがこちらに歩いてくる。
そして、私の前で立ち止まると、ほかの誰にも聞こえない声で言った。
「――あんたも転生者なんでしょう?」
はじめは何のことだかわからなかった。転生とは、――前世の記憶があること?
はっとしてスピカの顔を見る。目が合うと彼女は醜悪に嗤った。
「スピカ、その魔女のそばに寄ってはいけない」
ジルベルトが慌てたように駆け寄ってきて、スピカの手を取った。そのとき、ふっと、彼女の瞳から光が消えた。
訝しく思っていると、スピカはドレスの胸元から短剣を取り出した。
「――ジルベルト様!」
反射的に体が動いていた。私はジルベルトを押し倒すようにして飛び込んだ。刹那、背中に熱さが走った。
「フルール!」
私の名前を呼ぶ声が、重なった。
続いて悲鳴が上がったのを、どこか遠くで聞いていた。




