序章 はずれ王子の懺悔
嫌いだと口にするたびに、好きになっていた。
その感情の名前に気づいたのは、すべてが終わったあとだった。
兄と寄り添うフルールの姿は今でも忘れられず、思い起こすたびに胸がひどく痛む。
あんなにも彼女を拒み、傷つけてきたのは他でもない僕なのだ。だというのに、この心のなんと都合の良いことか。彼女を失ってしまった今、僕の心は声にならない悲鳴を上げるばかりだ。
僕は今日も、執務の合間に礼拝堂に通う。溶けない氷の前に跪き、懺悔し、そして氷の女神とやらに祈りを捧げる。不信心なのが見透かされているのだろうか。今日もそれが通じる様子はない。
僕は情けなくため息をつきながら、教会の重い扉に手をかけた。向こう側は春だった。丸裸だった木々はぐんぐん芽吹きだし、可憐な花がそこかしこに咲き出した。空の色もずいぶんやわらかくなった。
冬は終わったのだ。でも、氷漬けの罪は今もそこに静かにあるだけだ。ステンドグラスの青色に照らされながら。
今朝の夢を思い出す。
僕がまだ14のころ。寝台から出られなかった時分のことを。
「あ、ーー蝶々」
王城の庭を見下ろしていた彼女が、ぱっとこちらを振り返った。
あれもちょうど今ごろの時期だった。
「その年、はじめて見た蝶々の色が明るかったら、吉兆なのですって。殿下はきっと、今年元気になられるわ」
眩しいくらいの陽光を背負って、彼女は力強く言った。
温度を感じない冬空のような瞳が優しげにこちらに向けられると、胸の奥がざわめく。薔薇色に染まった頬も、花のようにほころぶ口元も、そのすべてを不快に感じた僕は、ぐっと眉根を寄せて彼女を睨みつけた。
それでもその人は表情を崩すことなく、寝台のそばに据えられた椅子に優雅に腰を下ろした。
それから持参した花を、妙に慣れた手つきで生けていく。その美しい手に、さっと走る赤い傷の意味を、あのときの僕は知らなかった。
彼女が僕の元を訪れるときは、いつも変わった香りのお茶が出た。
毎回手土産だと持ってくるその薬草茶は、彼女の領地で取れたものを使っているらしい。薬草茶といっても香りは決して悪くなく、果実水のように甘いにおいだ。
彼女はいつも、そこに手ずから花蜜を入れてくれる。自分のものに入れるのより、少し多めに入れてくれるのを知っていた。それが子ども扱いされているようで、また僕を苛立たせた。
僕は、甘いものが好きだ。でも、それを彼女に知られたくはなかった。
いつも目の前で残してやる。話にも鷹揚に頷くくらいで、自分から話題を提供してやるようなこともしない。
そうして彼女が困った顔をして帰ったあとに、冷たくなったそれを飲み干すようにしていた。冷たくなった薬草茶は、においと同じように、果実水のような甘みが口に残った。
帰路につく彼女を見送る侍従は、憐れむような目をしている。それは僕の態度だけではなく、蔑称のせいだろう。
口さがない連中は、僕のことをはずれ王子と呼んでいる。まったくもって失礼な話だ。
それというのも、医師の見立てでは、僕は大人になるまで生きられないそうなのだ。だからなのだろう。僕は、生まれたときから王家の要らない子どもだった。
父にも母にも兄にも、ほとんど会うことはなく、日がな一日ぼんやりと暮らしていた。広く豪奢な部屋とたくさんの書物。何不自由無い生活を与えられてはいるものの、いつでも孤独だった。
はずれの第二王子の婚約者。そんな最悪のカードを引いたの彼女は、意外な人物だった。
時の権力者とも呼ばれる公爵家の長女。雪姫と名高いフルール・ルル・フレージュは、真っ白な肌に、月光をそのまま纏ったような銀色の髪をした美しい少女だ。
「雪姫もおかわいそうに」
城のあちこちで、そんな囁きが交わされていて、僕はますます不愉快になっていた。
居室から出ることは叶わなかったが、僕にはいろいろな友だちがいた。彼らがすべて教えてくれたから、城の中のことも、城の外のことも、手に取るようにわかった。
また、フルール自身のことも僕は嫌いだった。人に囲まれた恵まれた暮らしをしているところもそうだし、健康で、無頓着なところも。何度君が嫌いだと伝えても、傷つくような素振りひとつ見せず、曖昧に笑っているところも。
何度嫌だと言っても「ルルと呼んでくださいまし」と愛称で呼ぶようにすすめてくることも。
そして、何よりもあの不吉な猫だ。
フルールの肩には、いつも真っ白な子猫が乗っている。彼女にシュネーと呼ばれていたその猫は、誰も気づいていないけれど、悪魔だ。
僕はそう確信していた。だから、悪魔なんかを侍らす彼女は魔女なのだと信じて疑わなかったし、どうにかして婚約を解消したいと思っていたのだ。
ネージュニクス王国には、ある伝説がある。兄が気まぐれに差し入れてくれた子ども向けのその絵本『愛の魔女』で知ったお伽噺だ。
その絵本は色褪せ、擦り切れていて、書庫の奥深くにしまわれていたのか黴臭い。兄が飽きたものを僕に押しつけてよこしたのだと感じた。
絵本によれば、数百年に一度、この国には魔女が生まれるのだという。詳しいことはわかっていない。それは神が与える試金石だとも、単なる厄災だとも言われるが、いずれにしろ、魔女の存在そのものが国をかき乱すのだという。
僕たちは皆、魔力を持って生まれてくる。その性質は人により違うが、魔女は特殊な魔力を備えていると聞く。
魔女を見分けるには方法がある。それは、「シュムックカッツェヒェン」。
ここだけは古語で書かれているためわからなかったのだが、恐らく、あの猫に違いないと踏んでいる。なぜなら、シュムックというのは宝石、カッツェというのは猫、ヒェンというのは可愛らしいという意味を持つ言葉だからだ。
「――帰ってくれないか」
僕の声は、静かな部屋のせいか、思ったよりも大きく響いた。フルールは訝しげにこちらを見ている。
「そして、願わくばもうここには来ないでほしい。君のようなかしましい人間は嫌いだ。僕は静かに過ごすのが好きなんだ。君だってこんなはずれ王子との婚約なんて不本意なのだろう。ご機嫌伺いに来なくたって、僕は構わない。むしろ君の顔を見なくて済むなら清々するね」
憮然としてそう告げると、彼女は目を見開いた。
ああ、この人は泣くのだろう。自嘲するようにそう思ったのだけれど、彼女は花がほころぶように、ころころと笑った。
僕は、今でもあのときのことを夢に見る。
フルール。僕は、君のことを嫌いだと思っていた。いや、そう思おうとしていた。
嫌いだと君に伝える、その意味に僕は気づいていなかった。そんな愚かな僕だったからこそ、すべてを失ってしまったのだろうと思う。