他者不在=非統合
私という人間の統合性はどこにあるのか、私にはそれが分からない。私は私自身を、無数の断片としか思うことができない。そこにそれらを纏め上げる秩序は存在しない。かろうじてあるのは漠然としたカテゴリーのみ。無数の物語を持った者たちを、「私」と大まかに括るような抽象性。
とはいえ、私にも自己の一貫性を認識することはできなくはない。二十余年という人生の歳月に一つの物語として輪郭を与えることくらいはできる。私は私の人生をじかに体験しており、私という物語の唯一の読者なのだから。
しかし、人間の自己に必要なのは他者の存在だ。人間は自分一人で自己を作り出すことはできない。他者があってはじめて自己が生まれ、そして紡がれていく。そういう風にできているのだ。ところが私の場合、この他者の存在が十分にないため、私が私であるという客観的な証明ができずにいる。私は主観でしか私を証明できないのだ。
いわゆる転勤族だった私の一家は、ほぼ年単位で転居を繰り返していた。一つの土地には長くて二年、短くて半年しかおらず、私は常に変化を余儀なくされていた。せっかくできた友人とも一年ほどで別れ、そして次の友人に切り替わっていく。私の記憶には作りかけのジグソーパズルが、埃を被って積み重なっていた。このような日々は私が高校を卒業するまで続いた。
私が安定した生活を送れるようになったのは大学に入学し、親元を離れて一人で暮らすようになってからのことだった。変わらずに帰る場所があるというこれまで経験したことのない感覚は、とても奇妙で私の常識は揺さぶりにかけられた。それでも次第に慣れていくことができた。
人間関係についても、私はこれまでになく長期的で親密な友人や恋人を作ることができた。それ自体はとても喜ばしいことだし、充実した日々を送ることができた。しかし、ふと考えてみると、私には歴史がないことを知る。人間社会がそうであるように、人間個人にも生まれてから死ぬまでの間に辿ってきた歴史がある。
私にはその歴史が本当にあったものなのかどうか証明することができないのだ。確かに文書の上ではそれを証明することはできる。生まれてから現在にかけての私の沿革はそこで確かめられる。だが、私がどのような人間だったのかを人の口から聞くことはできない。私は常に移り変わり、揺蕩う存在だ。望むと望まざるとに関わらず匿名的な存在にならざるを得なかった。
それは、私という人間がこの世に生まれ、少なくない軌跡を残してきたこと、それを知っているのは私一人だということを意味していた。いくら新しい関係を築いたところで、それはその時点からの始まりであり、彼らにそれ以前の記憶はないのだ。私はこの世界に少なくない時間存在しているのにわずか数年前からでしか存在の証明ができないでいる。それは私という存在の統合性、一貫性を著しく損なわせた。後に残るのは解消しようのない心のつっかえ、空虚感。現在を紡ぐことはできるが、過去を紡ぐことはできないのだ。