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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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やりなおし

作者: 判子

 長い夢から醒めた。嫌な夢だった気がするが覚えていない。

 窓の外を馬鹿みたいに大きな声で選挙カーが通る。どうにも煩い。

 部屋の中を見渡す。腐敗が進んだカップ麺やコンビニ弁当の容器が部屋中に散乱している。今日の様な暑い日は腐臭が部屋を蒸しあげて堪らない。自分の生活が原因とは言えど、どうにも耐え難い。

 冷房を入れようにも電気代の未払いで電気が止まっているため、リモコンは一切の返事をしない。

 空腹である。財布にも通帳にも一銭も残されていない俺は、ただエネルギーの消耗を抑えることで日々をしのいでいる。最後に腹が満たされたのはいつだっただろう。

 働かなくてはなるまい。ただ、空腹による不調が一切のやる気をそぎ落とす。

 これまでは日雇いのバイトでしのいでこれたが、怠惰で体力を使う気になれない。いよいよ進退窮まるといったところか。

 このまま引きこもっていてもどうにもなるまい。部屋から出よう。


 昼過ぎの日光照射は肌を刺すものの、部屋の蒸し腐った空気よりはどれほどマシだろう。時より吹く薫風に感謝しながら道を行く。

 平日の昼間ではあるが思いの外、人通りがある。子供が多いな。そういえば、学生は夏休みの最中だろうか。すれ違った少年を見ながら十数年前の自身の夏休みを思い出す。小学校の頃までは友達もいて、それなりに楽しんでいたような気がする。

 俺は、どうしてこうなってしまったのだろう。

 二十代も終わりが近づき、定職にもつかず、金銭や精神の助けを求められる交友関係もない。日々にあるのは漠とした焦燥感だけであり、未来への道は数歩先も暗中である。

 何も積み上げず、何も得ず、何も残せないであろう自分を顧みて気落ちした。以前は涙が流れることもあったが、今はそれすら出ない。ただ、不安の霧の中を手探りしながら日々押し進んでいくだけだ。

 分かれ道に出た。

 左に進めば交通量の多い繁華街。右に進めば閑静な住宅街。

 繁華街には自然と足が遠のいていた。人通りが多く、その全員から白い目で見られているような気がするからだ。自意識過剰と自ら言い聞かせても、幾重にも重なった被虐精神は拭えない。耐え難い空腹の最中ではあるものの、飲食店やコンビニに入れる金銭的ゆとりもない。

 また、繁華街の片隅には公共職業安定所がある。一度は所内で職業を探したものの、人と話すことの不慣れ、何も持たない自己の再認識に耐えられず、二度と敷居を跨いでいない。以降、施設の前を通るだけで動悸が激しくなる。

 右に進んだ。

 住宅街は人通りが少なくて落ち着く。人通りの絶える深夜に住宅街を徘徊していたこともかつてあったが、職務質問にあってからは止めた。挙動の怪しさから執拗に言及され心身を大幅に摩耗してしまった。警察官は公僕に過ぎないのになぜあそこまで横柄なのだろう。

 住宅街はいい。洗濯物やガーデニングといった要素から「家庭」を連想してしまうのは不快だが、一軒ごとに異なる建築物の意匠を見るのは好きだ。無機質ながら堅牢な邸宅には惚れ惚れとしてしまう。

 一軒の邸宅の前に出た。

 三階建てで庭もあり、敷地の中には大きな広葉樹も見受けられる。庭に生えた新緑により、公道まで影が差している。そのせいもあり、建物は仄暗い雰囲気を纏っている。

 見上げる。二階ベランダの掃き出し窓が少し空いている。

 その時、何かが耳元でささやくのを聞いた気がした。恐らく悪魔だろう。

 庭先の駐車場を見る。駐車スペースに車はない。地面の汚れや周囲にある用具の配置から、普段はそこに自家用車が駐車されており、今日は出張らっているということが推測される。

 玄関脇の電力メーターの数字を見る。数字はほぼ止まっていると言って差支えない。この真夏日に室外機が動いていないことから考えても、この家は現在空き家という認識で間違いないはずだ。

 周囲を見渡す。住宅街の中ではあるものの、その外れに位置しており通行人は今のところ確認されない。

 建物は巨躯を誇示しながらも防犯カメラは確認できない。近隣の住宅、電柱も同様である。

 再びささやきを聞いた。今度ははっきりと聞こえた気がした。

 どうせ、都内で庭付きの一戸建てを持っている人間なんて悪いことをしている連中に決まっている。

 決心が固まった俺は門扉に足をかけ、雨どいをつかむ。身体が重い。もう少しでベランダまで届きそうだ。

 そうとも。俺がここで金を手に入れなければ飢えて死んでしまうことも考えられる。これは緊急避難だ。

 ベランダの柵を掴む。体重をかけすぎて破壊してしまわないように、慎重に屋根に足を掛ける。

 どうせ捕まったところで悲しむ親族や恋人、交友関係なんてない。肩書も社会的地位も存在しないのだから俺は無敵だ。逮捕されたところで痛手はない。

 ベランダに乗り込み周囲を見渡す。目撃者はいないようだ。窓を開け室内に入る。お邪魔します。

 少女の部屋だろうか。壁に女子高生と思しき制服が掛かっており、男性アイドルのポスターが貼ってある。不法に住居に侵入したことも、女性の部屋に侵入したことも無いため緊張が高まる。

 勉強机脇の写真立てを見る。女子高生二人が笑顔で写っている。二人組の容姿の良い方がこの部屋の主ならいいな、と思う。一仕事終えて時間も余ったならこの部屋で性欲を満たそうか。

 一階リビングに降りる。整理整頓されており家主の清潔な性格が推察される。また、要所に飾られている陶器や置物からは、所得の高さとそのセンスの高さを感じ取られる。自分が生まれ育った環境とは天と地の差だ。

 空き巣というのは通帳や印鑑を探すというのがセオリーなのだろうか。なにぶん、初の試みなのでどういった行動が正解なのか検討がつかない。考えあぐねた結果、通帳類の詮索は止めることにした。無事引き下ろせた時の収益こそ大きいものの、それまでの手間とリスクを考えると割に合わない気がしたからだ。

 この家にある高価と思われる物品を頂き、なるべく遠く、できれば東京都庁管轄外の買取専門店で売り払おう。

 いざ物色し始めると盗品の選定に難儀した。クローゼットの中に高値で購入されたであろうバッグ、化粧台にジュエリーを発見したもののどれが高価で取引できるのか、ブランド価値の知識も鑑定眼も持ち合わせていない俺にとっては皆目見当がつかない。

 早く見定めないと家主が帰ってきてしまうと焦り始めた時、書斎の片隅にガネーシャの真鍮像を発見した。

 腕が四本あり、全身が燦爛たる金色の像頭の神は、持ち上げると存外に重量があり、細った俺の片腕では持ち上げるのがやっとであった。

 これを持ち帰ろう。

 直感的にそう考えた。よく観察すると細かい彫り込みも多く、製作者の技巧が確認できる。きっと高価なものだろう。

 ガネーシャを小脇に抱え書斎から出た。

 眼。

 少女と眼が合った。

「きゃぁぁぁぁぁぁぁ」

 闖入者の登場に一瞬困惑の間はあったものの彼女は声帯から甲高い悲鳴を上げた。

「静かにっ」

 少女の悲鳴に動揺した俺は持っていたガネーシャを振り上げ。

 彼女の前頭に強かに叩きつけた。

 ひっ、と少女は息を吸い床に倒れこんだ。

 動揺しつつ、少女はまた叫ぼうとする。黙らせるしかない。

 気が付いたら俺は二発三発と続けざまに彼女の額を像で殴り続けていた。血飛沫が飛び散る。

「まぁちゃん、どうしたの?」

 別室から母親らしき女性が心配そうに出てくる。

 目が合った。

 しまったな。

 俺は床に昏倒している娘の様子に動揺し口をパクパクさせている母親に突進した。ガネーシャを振りかぶる。

「あっ、あっ」

 悲鳴すら発することの出来ずにいた母親の額に像を叩きつける。

 頭蓋骨が砕ける感触が手に伝わる。嫌な感覚だな、と思った。

 顔と犯行を見られては仕方ない。後はひたすら殴り一刻も早い昇天を祈る。

 十分ほど経っただろうか。母子ともに完全に呼吸を止めた。絶命したのだろう。

 先ほどまで全身痙攣し泡を吹いていた娘も、その動きが止まり、一安心と胸をなでおろす。

 これからどうしたものか。

 窃盗だけなら指紋を取られたところで前科のない俺に警察がたどり着く確率は低いと踏んでいたし、もし逮捕されたところで執行猶予が付くだけだと考えていたが。強盗殺人とはマズいことをしてしまった。

 恐らく警察は自分のような素人が想像もつかないような手段を使い、俺に到達するだろう。そしたらどうだ。極刑もあり得るだろうか。

 うじうじと血溜まりを見下ろしながら考えていたが、途中で吹っ切れた。

 起こってしまったことは仕方がない。死刑になったところで、俺の人生は元々死んだようなものだったし、大した痛手ではない。

 それはそうと、運動したことにより空腹に拍車が掛かった。元々物品を回収したらそそくさと退散するつもりだったが、二人殺してしまった以上焦っても仕方あるまい。

 台所に行き、冷蔵庫に入っていた総菜を口に運ぶ。旨い。汗を流した後の食事というのはかくも美味なるか。

 それよりも。

 廊下に倒れている顔の潰れた少女の死体を遠目に眺める。

 写真立ての女子高生の美人の方がこの家の住人だったのか。惜しいことをした。


「――主文、被告人を死刑に処する」

 裁判長が大仰に言い放った。傍聴席がにわかにざわつく。遺族の鳴き声が背中越しにかすかに聞こえる。

 やはり死刑か。仕方あるまい。

 俺は事件後、とりあえず帰宅し昼寝をしていたが、その二日後には警察が家に踏み込み、逃走するでもなく呆気なく御用となった。

 シャツに血のりを付けた不審者の目撃情報からの捜索だったようだ。

 心神喪失でもなければ情状酌量の余地もない。死刑を逃れたところで生活する能力がなければ気力もない。俺は一審の判決を受け入れ控訴しなかった。


「俺は、いつ死刑が執行されるんでしょうね」

 拘置所内で私語交わすことのできる数少ない人物、刑務官のヤスオカに訊ねた。

 彼は配属1年足らずの新人で、週三回、戸外運動場へ異動する際に少しずつ言葉を交わすようになった。

「さぁな。刑事訴訟法では六ヶ月以内とされているが、まぁ、もっとかかるだろうな。平均は七年ともいわれるが、四九年っていう死刑囚もいたらしい」

「俺の場合は冤罪の疑いも無いからきっと早いんだろうな」

「かもな。いずれにしても刑の執行は法務大臣の指先一つだ」

 ついたぞ、とヤスオカは戸外運動場へのドアを開け、俺を進むよう促す。運動場といっても三方を壁に囲まれ六畳ほどしかないそのスペースで何ができるというのか。

 暇つぶしがてら借り受けていた縄跳びを跳び、天を仰ぐ。天井は吹き抜けになっており空を見上げることができるが、今日は鈍重な雲が太陽を覆い隠している。

 東京拘置所に拘留されて半年ほど経つ。面会者もおらず、日々がとても長く感じる。小説を読むのにも飽き、手紙を書いてみようとも思ったが送り先がない。絵など描く者もいると聞くが美的センスも表現したいもの無い俺は一向に食指が向かない。

 ヤスオカは平均7年と言っていたな。俺は後どれほど生きなければならないのだろう。

「時間だ」

 扉を開けヤスオカが言った。

「行くぞ」ヤスオカは俺の後ろにつき独房へ向かわせる。

「先ほど、拘留期間は平均七年とおっしゃいましたね」

「あぁ。そうだが」

「手っ取り早くしてほしいものですね」


 一向に刑は執行されなかった。

 執行まで七年と言われていたため一年一年を指折り数えていたが拘留されて現在までで十年経っている。

 ヤスオカに日本の情勢を尋ねたところ、数年前、政権交代があり、新与党はギリギリの支持率のまま現在まで政権を維持し続けているというそうだ。死刑執行の様なセンシティブな問題は後回しにされているのではないか、という推測込みで教えてもらった。

 十年という期間は俺の宗門改めには十分すぎる歳月だった。

 困窮を極め、殺人を犯し、あげく死刑判決を受けたばかりの俺はやけっぱちで生きることを放棄していた。

 しかし十年。

 小説や週に一度の映画鑑賞、月に一度の教誨を経て、俺は徐々に人間に戻っていった。悔恨の情が芽生え、ただ死ぬのではなく、償いに命をささげたいと思うようになったのだ。

 貧しく強盗殺人を犯してしまった頃の自分は、今となっては矮小で飢えた獣のように回想される。

 当時の自分を振り返ると後悔してもしきれない。なんであんなことを平気でしまったのだろう。

 毎週のように残された遺族へ贖罪の手紙を出し続けているが、ずっと受け取りを拒否されている。可能であれば直接謝罪をしたいのだが、許されるはずもなく届くこともない。

 俺はどこで人生を誤ったのだろう。

 小中学校の頃は友人に囲まれ、快活に生活していた。世界は自分の物だった。高校でのいじめと両親の離婚が重なり学校を退学した事が契機となり自分の人生はゆっくりと腐っていった。今となってはやり直しはできないし、いくら悔やんだところでどうしようもない。

 せめて。せめて犯行に及ぶ直前まで戻ることができたら。祈りにも似た後悔をしながら毎夜眠りに就く。


「出なさい」

 朝。独房のドアを刑務官が開けて言った。後ろを見ると他に2人刑務官が連れ立っている。ヤスオカの姿はない。見知らぬ職員達だ。

 布団を畳みながら顔を伺い見る。無機質で冷酷な印象を受ける。

「何か御用ですか。面会の予定はなかったと思いますけど」

「いいから出なさい」

 はっきりと俺に告げる。その眼はしっかりと意思を俺に投げかけている。説き伏せようとしている人間の表情にも似ている。

 悟った。今日、俺の刑は執行されるのだ。

「分かりました。ではその前に、髭を剃ってもいいですか?しばらく手入れをしていなくて」

「本日の剃刀の使用は承諾できかねます」

 執行前の自殺防止という訳か。

「分かりました。すぐ出ます」

 刑務官に囲まれ部屋を出る。

 十年経ってようやくか。長かった。

 今更抵抗することもあるまい。素直に部屋を出る。

 刑務官に促され初めての廊下を進む。十年間同じ壁と空間の行き来脇の小部屋に通される。

 最初に目に入ったのは入った正面にある壁に埋め込まれた仏像だ。汚れ一つない金のメッキから丁寧に掃除されていることが伺える。部屋の中には十人ほどの刑務官と教誨師が並んでいた。いずれも俺のことを見ているが、目は合わせようとしない。

「さぁ、最期の食事です。味わって食べなさい」

 机の上にはよく差し入れで食べていた塩大福と緑茶があった。

 これが最後の晩餐か。質素なものだな。

 大福を手に取り口に運ぶ。味がしない。いつもの大福と違う。口腔内がパサつく。急いで緑茶を飲むがこれも味がしない。なんだこれは。ますます喉が渇く。

 味のしない大福を食べた途端、急に体中から冷や汗が出てきた。寒い。血の気が引くのが分かる。手足の先が痺れ、こめかみがじんじんと締め付けられる。

 怖い。

 怖い。本当に俺は死ぬのか。

 今ある五感も、思考も、肉体の全て失わなきゃいけないのか。

 嘘じゃないのか。

 体が震えるのが分かる。

 今日という日をずっと視界の中に入れてこれまで生活してきた。食事の時も、入浴中も、寝る直前も。死の恐怖は常に背後にくっついていたが、この瞬間まで徐々にそのなりは薄まっていき、知らずのうちに超越したものと思っていた。いや、思い込もうとしていた。

 それなのに。

 怖い。どうしようもなく死ぬのが怖い。助けてほしい。

「お食事はもう、よろしいですね」

 刑務官の声で我に返った。

 大福の餡は握力で全て出てしまっていた。

「は、はい」

 あがく気力もない。俺は、されるがままに部屋を出され廊下を進んだ。大勢いた刑務官達も付いてくる。別の小部屋に入れられた。

 この部屋にも仏像がある。仏像の前に机と椅子。机の上にはボールペンと便箋が置いてある。

「何か残したいことをお書きください」

 机に座らされ、ペンを執らされる。

 同時に教誨師により経が読まれ始める。

 残したいこと。なんだ。

 なにも無い。

 なにも無い。ただひたすら怖い。嫌だ。このまま死ぬのは嫌だ。助けてほしい。やり直したい。すべてやり直してまっとうに生きていきたい。助けてくれ。怖い。死にたくない。

 便箋には「やりなおしたい」とだけ書いた。

 震えた字でとても読めたものではない。

 読経が続く。

――それでは参りましょう。

 立たされる。

 嫌だ。

 脚が痙攣して上手く立てない。刑務官二人掛かりで両脇を抱えられて立ち上がる。

 読経。

 入ったのと別の扉が開く。隣室への入り口。

 隣室の床には赤い線で二重の正方形がマーキングされている。その真上には。

 先端に輪が作られた絞縄がぶら下がっていた。

 嫌だ。助けてくれ。

 意識が朦朧とし床にへたり込んでしまった。刑務官が脇から支え、マリオネットの様に俺を無理やり持ち上げ歩かせる。

 怖い。怖い。どうにかならないのか。どうにか。許してくれないか。

 気が付くと無言で泣いていた。顔は涙と鼻水でぐしょぐしょになっている。刑務官に顔を拭かれると嗚咽を漏らしてしまった。

 赤い正方形へと向かわせられる。

 読経。

 寒い。震えが止まらない。

「最後に」

 ようやく、声が出せた。小さいが、届いただろうか。

「最後に。俺を、抱きしめてください」

 朝、俺を迎えに来た無機質な刑務官がそっと抱きしめてくれた。少しだけ温度を感じることができた。震えは止まらないが。温度はある。腕がごつごつとして大きい。

「腕を後ろに」

 抱擁により少し落ち着いた俺を、後ろ手に組ませる。手錠が掛けられる。

 赤い正方形の上に立たされる。四角の真ん中にはこれから口を開けんとしている切れ目が見える。縄はもう目の前にある。

 首にロープが掛けられる。

 苦しい。

 まだ締まっていないはずなのに、急に酸素が薄く感じられる。苦しい。

 読経。

 袋を頭にかぶせられる。視界が消えた。黒。

 怖い。怖い。怖い。怖い。

 再び全身の震えが止まらなくなり、息が荒くなる。呼吸ができない錯覚に落ちる。

 嫌だ。助けてくれ。何でもする。あぁ二人を殺さなければよかった。やり直したい。反省している。許してくれ。こんなの嫌だ。殺されるために生まれたんじゃない。何も残してない。何も成していない。こんなのあんまりだ。人殺しだ。怖い。死にたくない。やり直させてくれ。一生留置所でもいい。どんなに貧しくてもいい。だから。だから死にたくない。怖い。許して。しにたくな


――ガゴッ


 目が覚め、跳ね起きた。首を触ってみる。呼吸ができている。深呼吸をし、大きく酸素を取り込む。

 窓の外を馬鹿みたいに大きな声で選挙カーが通る。どうにも煩い。

 部屋の中を見渡す。腐敗が進んだカップ麺やコンビニ弁当の容器が部屋中に散乱している。腐臭が部屋を蒸しあげて堪らない。

 ここは留置所じゃない。俺の部屋だ。

 これまでの全ては夢だったのか。

 身体を見る。やつれていることには変わりないが十年は若返った感覚だ。三畳の独房で凝り固まった感覚は一切ない。

 安堵したと共に空腹に気が付いた。床に投げ捨てられている財布と通帳に目を通す。一銭も残されていない。けれど最高だ。

 俺は生きているのだ。

 洗面所に駆ける。洗面台の鏡に映るのは冴えない顔だ。しかし最高じゃないか。鏡に映るのは老けた二十代ではあるが死刑囚ではない。自然と笑みが零れる。

 俺は自由だ。颯爽とドアを開け外へ飛び出す。


 夏の日差しは容赦ない。しかし、太陽の下で大手を振って歩けるだけで素晴らしいではないか。

 平日の昼間だというのに子供が多いな。夏休みの最中なのだろう。すれ違った少年を見ながら十数年前の自身の夏休みを思い出す。小学生の頃は友達が多かったが、今はいない。なら作ればいい。これから人生は長い。何だって出来るのだから。

 知らず知らずに早足になり、思わず駆けだす。

 分かれ道に出た。

 左に進めば繁華街。右に進めば住宅街。

 迷わず左へと駆ける。今すぐ職業安定所へ行こう。

 これまでの人生はダメな人間だった。高校を中退し、日雇いのバイトで空腹を癒し、誰にも愛されず、締め切ったカーテンの部屋の中でゆっくりと朽ちていくだけだった。

 だが今日からは違う。

 俺には健康で若い肉体と、前科の無い経歴がある。最初はアルバイトからでもいい。派遣だっていい。後ろ指さされるような仕事だっていい。なんだって出来る。何せ自分は自由で太陽の下に生きているのだから。今日は残りの人生の最初の一日だ。どんなことだって挑戦しよう。なんたって俺は生きて


――ガゴッ


 夢中で掛けていた為、横断歩道を猛スピードで突っ切るトラックの存在に気付かなかった。

 気付いたのはトラックのフロントパネルに全身を強かに打ち付け、跳ね飛ばされた後だった。

 脊髄が砕け、内臓に肋骨が突き刺さり破裂したのを感じた瞬間、自分は間もなく死ぬことを悟った。

 ゆっくりと宙を舞う。

 一秒もない時間が、とても永く、永遠に感じられる。

 なんだ、やり直せたところで結局死ぬんじゃないか。しかも即座に。

 何の罰だ。なんの因果で俺はまた死ななきゃいけないんだ。

 つまらない人生だった。本当につまらない人生だったよ。

 こんなことなら、あと十年、留置所の中で安穏と暮らしていた方がよっぽど長生きできたんじゃないか。

 地面が目前に近づいてくる。

 こんなことなら。

 こんなことなら、母子を殺していればよかった。

 読経。


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