身の程知らずの恋
身の程知らずにもエルド王子の妃の座を得ようとした男爵令嬢ノーラ。
その悪行は公爵令嬢により暴かれ、彼女は社交界を追放。生家からも勘当された。
身分も、家族も、王子の愛も、彼女は失った。今のノーラに残っているものはただひとつ。
だから咲き誇る白詰草の中、またしても俺は彼女を泣かせている。
次代の王たる私だが、多くの候補はいても定められた婚約者はいない。
けれどそれは表向きだけの話だ。このまま行けば従姉のシャルロッテ、公爵令嬢である彼女が私の妻となるだろう。
器量、品位、血統、権威、教養、どれをとってもシャルロッテは他の候補より抜き出ていた。彼女は誰の目から見ても王妃に相応しい女性だった。
このような状況において彼女との婚姻を公にしないのにはやむを得ぬ事情がある。
彼女の家系には病弱な女性が多かった。それはシャルロッテも例外ではないようで、幼い頃の彼女は病気がちでいつも寝台の上にいた。
万が一私と結ばれる前に死んでしまってはかなわない。故にシャルロッテは最有力候補止まりだ。だが私が成人を迎えても尚、彼女が健在である以上もうすぐ正式に婚約する事となるだろう。
この申し出を通すには今しかなかった。
「シャルロッテ、どうか彼女を王妃とすることを許してほしい」
内密の話があると城の一室に呼び出したシャルロッテは、私の隣に座る令嬢に冷ややかな視線を向けていた。
彼女を、ノーラをこの場に居合わせたのは間違いだったか。
重苦しい沈黙の中、シャルロッテがティーカップを置く音がほんに大きなもののように思えた。
「私に妾になれと?」
「それもできない、私はノーラだけを娶るつもりだ」
ますますシャルロッテの柳眉が逆立った、血のように赤い瞳にはありありと怒りが浮かんでいる。
ノーラの事はとっくに彼女の耳にも届いていたはずだ、だが彼女の中では悪趣味な噂止まりだったのか。
だとしても私は何としてもシャルロッテを説得しなければならない。
「ノーラは身分こそ低いが上流階級における知識も振る舞いを心得ている、少し教育を受ければ王妃として十分にやっていけるだろう。身分についても叔父上の養子となれば問題ない」
「その程度で私を退けられるとでも?……私も随分侮られたものですのね」
優秀で努力家な所はどちらも同じ、だが他は全て真逆だった。シャルロッテが咲き誇る大輪の薔薇ならば、ノーラは野にひっそりと咲く菫だろう。
偶然紛れ込んだ夜会で見初めた彼女は抱いた印象と寸分も違わず、その可憐で慎ましい様が愛しかった。
忌々しげにシャルロッテはノーラを見る、睨み付けられ彼女は俯いて肩を震わせていた。
「それ以上ノーラを責めるのは止めてくれ、シャルロッテ。恨むなら私を」
「陛下がお許しになるとお思いなのですか」
「無理は承知の上だ。だが私はノーラを愛している、彼女以外を妃に欲しいとは思わない」
父はシャルロッテをいたく気に入っている、彼女ほど王妃に相応しい女性はいないのだから。きっとノーラとの結婚を認めてもらうには一筋縄ではいかないだろう。
だが父は弟達に王位を譲ることを良しとしない。弟達は明らかに王の器では無かった。ノーラと結ばれぬ位なら王位を捨てるとなれば、きっと父はシャルロッテではなく私を選ぶことだろう。
シャルロッテが王妃に相応しくあるよう努力を重ねたことは知っている。それでも私はノーラを選びたい。
「その娘が男爵家にしては良い教育を受けているのは事実でしょう、侯爵家の娘となればひとまず身分差も解決します」
一息置いたシャルロッテはさっきよりも憎悪に燃えた瞳をしていた。
「だとしても貴族の令嬢と王妃としての教養は全くの別物です。それに元より侯爵家は王家の完全なる配下にある、これ以上縁を深めたところで政においては何の役にも立ちません。他にもあります、彼女の家は下手な上級貴族より資産に恵まれているようですが、公爵家には遠く及ばない。ましてや爵位をお金で買う者に権力も人脈も期待できません」
「その程度問題にもならない。私の力でどうにでもなる。私が王妃に望むのは誠実な愛情だけだ」
私の知らぬ所で彼女はノーラについて嗅ぎ回っていたらしい、淀みなくまくし立てる。
彼女の言葉は至って正論だが私の結論は揺らがない。
このまま水掛け論が続くのか。そんな中にシャルロッテはそれを投げ込んできた。
「誠実な愛情ですか。殿下に愛情を注がれてなお他の男に現を抜かす者におかしなものを求めているのですね」
「……どういうことだ、シャルロッテ」
「私ではなく彼女の口から伺った方がよろしいのでは?求められた以上はお答えしますが、申し上げた通りです。相手はこの王宮に勤める騎士でありファトーム家のご令息、二人は時折男爵家の庭で逢瀬を重ねていると」
その騎士についてはノーラの父君から伺っていた。幼い頃は家族ぐるみでの付き合いがあったものの、最近では疎遠になっていると。
他にも騎士団長から聞いた話によると、彼の家は騎士としては中流に当たり本来ならば王宮に仕えられる立場では無いそうだ。だがその才覚から特例で入団が認められたらしい。上の覚えめでたく王宮騎士の出世頭となった彼は多くのご令嬢から目を付けられている。だが浮いた話一つない。
私はそう耳にしたのだ。故に嘘だと思い込もうにも真っ青になったノーラの顔が真実だと語っていた。
「誉れ高い方だとお聞きしてましたのに。殿下の寵愛を受ける娘に手出しするなんて……騎士の風上にも置けない方ね」
次の瞬間、場を切り裂くように大声が響いた。
「彼は悪くありませんっ!!」
悲痛な叫びの主はノーラだった、それまで私の隣で震えていただけだった彼女がシャルロッテと対峙する。
先ほどまでの怯えきった様子が嘘のように、毅然とした態度をもって。
「私が退屈しのぎに彼を利用しただけです!彼は貴族の私に逆らえないから、だから、だから彼は何も悪くないっ……!」
ノーラは嫋やかでおとなしい女性だった、私の知る彼女はいつも静かに微笑んでいて。
だから初めてだった。今のようはっきりと感情を吐き出す彼女も、気丈に振る舞う姿を見るのも。
「この距離ですから声を張り上げずとも聞こえてます、喚き立てないでくださいな。仮にも淑女だというのにみっともない」
「……申し訳ございません、ですが全ての罪は私の浅慮にあることはどうかご理解いただきたく」
再び沈黙が訪れる。重苦しい空気が喉を締め付けているようで、全く声を出せずにいた。
ぱちんと小さな音が起こってシャルロッテの口元が扇で隠される。
「権威の前に愛など無意味です」
淡々とシャルロッテは口にする、彼女の冷え切った瞳と声に背が寒くなる。
「権威とは盾であり剣である。王家に徒なす者が、貴女の脆弱な盾に屈するわけがない、貴女ごときが振るえる剣に傷つくはずがない」
「……貴女など殿下を守るどころか斬り殺されぬよう怯えることしかできないくせに」
シャルロッテの追求はきっとノーラよりも私に突き刺さった。
真冬の湖に突き落とされたかのよう体が冷えていく。目の前が真っ暗になる。
「何にせよ、殿下を謀った罪は償っていただきます……二度とこの世界に足を踏み入れられると思わないでくださいな」
「殿下」
いつの間にかノーラはいなくなっていた。おそらくシャルロッテが退出させたのだろう。
そんなことにも気づけぬほど、私は長く放心していたらしい。まだ手が震えている。
「シャルロッテ、私は……ずっと自分でも気づかぬうちに彼女へ剣を突きつけていたのか」
初めてノーラが見せた激情、それを引き出したのは。極めつけはシャルロッテのあの言葉だ。
彼女は物静かだったのではなく何も言えなかっただけなのではないか。大人しいのではなく私の機嫌を損ねるのを恐れていただけなのではないか。
思い返せば心当たりはいくらでもあった。彼女は身分を理由に王妃の座を退こうとしていた、彼女はどんなに頼んでも恐れ多いと私の名を呼ばなかった、彼女は私の告白にただ困ったように微笑むだけだった。
私はずっと大きな間違いをしていたのだ。
「これからしばらく情勢が落ち着くまで、このような事は慎んでください。王位を狙う者は少なくないのですから」
「……まるで己が王妃になるとわかっているかのような口ぶりだな」
「それは殿下が一番ご存知ではなくて?」
父上ではなく彼女の元へ先に許しを乞うた。それは彼女が認めた相手ならば、他の候補達も異論無く受け入れるとわかっていたからだ。
確かにそれは彼女が王妃になることを見越したからこその行動だった。
「……権威の前に愛など無意味だとお前は言ったな」
「ええ。彼女以外にも私の存在を知りながら身の程知らずなふるまいを見せた者がいました、でもそれは過去のこと。刃向かった者は王妃を目指すどころではなくなってしまった」
その意味がわからぬほど、私は無知ではなかった。
うっすらと浮かべられた彼女の美しい笑みの下で何人の娘が犠牲になったのか、考えたくもない。
「そこまでして王妃になりたいのか」
「……私は王妃になる為だけに生きてきました、王妃でない私など意味がありません」
わかりきった答えだった。なのに私は失望している。
王妃になる、その為だけに君はまた私の愛した人を殺していくんだな。
「私は君を愛してなどいない、それでもか」
私が初めて愛した娘は心優しく、少し目を離せば消えてしまいそうな儚さを持つ人だった。
名も無き花を喜んでくれる彼女が好きだった。彼女はただのエルドに対して妃になってくれると約束してくれた。
その約束をした直後から本格的に王族としての教育が始まり、私は彼女に会えなくなった。
数年後、ようやく再会が許された時には彼女は。
「かまいませんわ。貴族の婚姻は家の繋がりを深めるもの、権威を強める為のもの。そこに情など愛だの求むなど愚か者のすることですから」
私の唯一の望みを切り捨てる彼女に思い知らされる、かつて私が愛した少女はもうどこにもいないのだと。
「君が私の妃か!」
初めて出会った頃の陛下は無知で手の付けられない子供だった。
どこからか父の妄言を聞きつけ、隔離された私の部屋へと忍び込んでくるような。今思えば恐ろしい事も平気な顔で行っていた。
彼の第一声や正体よりも、久々に世話役以外の者が現れたのに当時の私は驚いて。
私に宛てられた教育は最低限だった、貴族の令嬢として家名を汚さぬ程度。だって両親は私に期待などしていなかった、成人を迎えられるかどうかも危うい身に何を求めると言うのか。
けれど私は全てにおいて望まれた以上の結果を出した。それが余計に両親を苦しめた。
いかに恵まれていようともこの病弱さでは王妃など夢のまた夢だと。だから彼らは私を忘れようとするかのよう端へと追いやった。
私はあまりにも弱すぎる、自分でも自分が信用できない。なのに陛下だけは私が未来の妃だと信じて疑わなかった。
酷い日は起き上がることすらままならない私は訪れる彼の相手を十分に行えず、寝台の上から会話を交わすのが精一杯で。だけども陛下は飽くことなく私の元へ毎日のように来てくださる、そんな彼の存在に何度私は救われただろう。
会える度増えていく、早く元気になるようにと彼から差し出されるささやかな野花は今まで貰ったどんな花束より嬉しかった。
「シャルロッテ、お前は王妃になりたいのか」
陛下が花を贈る日々は変わらず、だけど歳を重ねるにつれ私の虚弱体質は少しずつ改善を見せ、だからなのだろう。
父がその質問を寄越したのは。突然のことだったが私は迷うこと無く頷いた。
「ただでさえお前は遅れをとっている、容易い道ではないぞ」
それでも再び頷く。何を犠牲にしてもかまわない、彼の支えになりたい、王となる彼に相応しい娘でありたい。
私の決意を知って父は王妃としての教育を始めるよう手配してくれた。
これでエルド様の妃になれますねと報告した私に陛下は心から喜んで、だから私は。
思い出に浸るうち、いつの間にかうとうとしてしまっていたようだ。
蓋を閉じて、いつものように棚の奥へしまいこむ。椅子に深く腰掛けて私は大きくなった腹を撫でた。
私はきっとこの子が成長していく姿を見ることは叶わないのだろう。
子を育てられる体ではないと侍医から何度も言われてきた、産めば最後死は免れないと。だとしてもかまわない。そうでなくともずっと死と隣り合わせに生きてきたのだ、とっくに覚悟はできている。
一応この件については外に出さぬよう命じたのだが、人の口に戸は立てられないとは全く真実らしい。
ここのところ私に知られぬよう、次の王妃を定めるべく重鎮達がこぞって揉めていると聞いた。
どうして中途半端にこざかしい真似をするのか。私が口出しするわけがないのに。死んだ後のことなど、どうしようもない。
それにじきに私は彼の傍に居られなくなる。だから私の代わりに誰かが彼を守り幸福にしてほしい。
王妃となるべく生かされ、そのためだけに死んでいく。
そんな私を哀れむ声がある、嘲笑う者がいる、だけどもう私は私を惨めだなんて思わない。
誰がなんと言おうとも私ほど幸せな王妃はいない。だって私は一番大切なものを守り切れたのだから。
『ああ!そうさ!君は私の妃になるんだぞ、シャルロッテ!』
彼が忘れ去っていたとしてもそれは私の記憶の中でいつまでも鮮やかに輝き続けている。
エルド王の妃となったシャルロッテは姫君を産んでまもなく命を落とす。
彼女の娘では期待できまいとすぐさま次の妃達が宛がわれ、数多の王子が誕生した。
だが姫君は周囲の予想を裏切って、弟はおろか父までも退け、賢王として名を残すこととなった。
彼女の形見である宝石箱は色褪せた花々で溢れかえっていた、その理由を私は今もわからずにいる。