大きな夢の木の下で
ブロロロロ……と軽快な音を立てながら、一台の赤い車が丘を越えてきた。運転席では髪を後ろで丸く束ねた女性がハンドルを握っている。そしてその隣には、麦わら帽子をかぶった小さな女の子。目を輝かせながら窓の外を眺めている。後部座席にこんもりと荷物を積んでいるところを見ると、どうやらこの町の人ではないらしい。差し詰め、季節外れの引っ越しといったところだろうか。町の木々はもうすっかり燃えるような紅葉色に色づいている。
「ねえねえお母さん見て!あっちの丘にでっかい木が立ってる!」
「こらっクルミ!ちょっとは大人しくしてなさい!」
クルミと呼ばれたその女の子は、お母さんの言うことなどちっとも耳に入っていないようだった。それよりも、初めて見る景色や草花、そして、都会とはほんの少し違う風の匂いに頬を赤らませていた。
「……せめて、窓から転げ落ちるのだけはやめてよね。」
クルミのお母さんはため息交じりにそう呟いた。
どうしてこの町に引っ越してきたのかなど、クルミはきっと知らない。ただ、お母さんに「お父さんが遠い所へ行っちゃったから」と聞かされただけだった。本当は、クルミはもっとその話を聞きたかったが、お母さんがあまりに悲しそうな顔をするので、結局聞けずじまいになってしまった。だが、クルミもお母さんも今はそんな素振りを全く見せず、ただ目の前に広がる新しい世界に胸を弾ませていた。
「……では、ここに名前とふりがなをお願いします。」
役所の人にそう言われて、クルミのお母さんはそっとペンを取った。早坂アオイ。クルミのお母さんの名前だ。アオイは今、引っ越しの手続きの真っ最中なのである。なにせ、全く知らない土地にぽんと越してきたのだ。慣れないことも多い中で、アオイはひとりで目の前の一切れの紙と奮闘していた。そんなアオイを尻目に、クルミは退屈そうな表情を露わにしながら、役所の窓から遠くの景色を見つめていた。家、家、木、小さな森……クルミの住んでいた街とは大違いである。何しろ、高い建物がひとつもないのだ。デパートの屋上の小さな遊園地で遊ぶのが大好きだったクルミは、少し残念に思った。この町って、案外退屈なのかしら……そう思ってぼんやりと景色を眺めていた。
その時、クルミの視線が一本の木を見て止まった。それは、車の中から見えた、あの大きな木であった。少し小高い丘の上に悠然と立っている木。クスノキなのかモミノキなのかは分からなかったが、クルミにはそんなことはどうでもよかった。ただクルミは、その木の中で光る小さな灯りをじっと見つめていた。目をよく凝らさないと見えないような微かな光。だが、クルミの茶色い大きな目はその灯りをしっかりと捉えていた。「あの木にはなにかがある!」そう直感したクルミは、いてもたってもいられなくなった。そして、頭を抱えてウンウン唸っているアオイに、
「ちょっとあそこの丘まで行ってくる!」
と言葉を投げて、役所の外へ飛び出していった。
「あ、ちょっとクルミ!」
アオイは咄嗟にクルミを注意しようとしたが、もちろんその声はクルミには届いていない。
「元気なお子さんですね……」
そう役所の人に言われて、アオイは少し恥ずかしさを覚えた。
「知らない町ですからね……迷子にならないといいけど……」
アオイは恥ずかしい気持ちを抑えながら、慎重に朱肉を押した。遠くから、ひぐらしの鳴く声がきこえた。
その木は意外と遠かった。クルミは息を切らしながら、丘を駆け上った。突然、視界が開けた。遠くからはよく見えなかったが、その丘はクルミが思っていたより広く、そこにはあの大きな木だけがそびえ立っていた。
「へぇ……これがさっきの木かぁ……」
クルミはその木の下に近寄った。近くで見てみると、意外と平凡な木だった。クルミは少し口を尖らせた。
「でも、さっきの灯りは何だったのかなぁ。」
そう思って上を見上げた瞬間――何かがクルミの額に勢いよく落ちてきた。
「痛っ?!」
クルミは思わず額を手で覆って地面にしゃがみ込んだ。おでこがズキズキする。しばらくクルミはその体制のまま動けなかった。そして、おそるおそる目を開けて周りを見渡すと、木の近くに大きな果実のようなものがひとつ転がっていた。クルミの拳よりもひとまわりほど大きく、重たそうな果実だった。クルミは少し高鳴る鼓動を抑えつつ、恐る恐るそれに近づいて、両手でゆっくりと拾った。
それは、とても綺麗な色をしていた。まるで海をそのままキャンバスにこぼしたような、或いは星空を丁寧にすくって散りばめたような、そんな深い青色だった。そっと果実の奥を覗いてみる。色が綺麗すぎるせいか、それは芯の奥深くまでとてもよく透けて見えた。中はもっと深い藍色だった。光の届かない深海のような、全てを吸い込んでしまうような藍色。それは絶え間なく打ち付ける波のように、静かに、流れるように蠢いていた。
クルミはしばらく、その果実に見とれていた。これはなんという実なのだろう。どんな味がするのかな……。クルミは周りのことなど気にもせず、ただその美しい果実を眺めていた。クルミは完全に、その果実の虜であった。そして、近くに人がいるということにクルミが気付いたのは、背後からいきなり肩をポンと叩かれた時だった。
町中に響き渡るようなクルミの悲鳴があたりにこだました。
「いやぁ、ごめんごめん。あんまりじっとして動かなかったもんだからさ……。」
「おじさんっ!なんでいきなり肩を叩いてくるのさ!」
クルミは思わず叫び声をあげてしまった驚きと恥ずかしさで、つい強い口調で肩を叩いてきたおじさんにあたった。誰もいないと思っていた丘に人が居たなんて……といっても、悪いのは果実に見とれていたクルミのほうなのだが。しばらくの間、クルミの小さな心臓は大きく鳴り続けた。おじさんは困った顔をしていた。
そのおじさんはゲンと名乗った。長い間この町に住んでいるらしい。少し白が混じった顎鬚に、人のよさそうな垂れた目。首に巻いたタオルと薄汚れた長靴がよく似合っていた。
「それにしても君、見かけない顔だね。どこから来たの?」
とゲンは訊ねた。クルミは、さっき落っことしてしまった果実を拾い上げながら、
「……遠いところ。」
と小さく言った。
「へぇ……それじゃ引っ越ししてきたのかな?お父さんとお母さんはどこにいるの?」
「お母さんは役所。お父さんは……すごく遠い所に行っちゃった。」
「……そっか。」
クルミの言葉を聞いて、ゲンおじさんは曖昧な笑みを浮かべた。そして、そっぽを向いて果実を見つめているクルミに、
「おじさんはこの町のことならなんでも知ってるよ。なにか困ったことがあったらおじさんのとこまでおいで。」
と言葉を投げた。ゲンはその小さな女の子のことが少し心配だったが、「ま、お母さんがいるなら大丈夫だろう」と思って背中を向けた。すると、
「この木はなんの木なの?」
と、背後から声がした。ゲンは少し驚いて、クルミのほうを見た。クルミがじっとゲンを見つめている。
「だから、この木はなんの木なの?おじさん、なんでも知ってるんでしょ?」
クルミはそう言って、ゲンの目を見た。ゲンの目は、真っ直ぐで、透き通っていて、それでいてどこか哀しみを孕んでいるような、そんな目だった。ゲンはしばらく考え込んだ後、クルミに優しく言った。
「この木はね、夢の木っていうんだよ。」
「夢……の木……。」
クルミはその言葉を声に出してみた。今まで聞いたこともなかった、不思議な言葉。唇が、なんとなくくすぐったい。クルミは、その言葉の響きに、なにかとてもドキドキするものを感じた。
「この木は遠い昔――そう、この町ができる遥か昔からここにあったと言われていてね。」
ゲンはどこか遠くを見るような目で話し始めた。
あれは、私がまだ小学校に通っていた頃――丁度君と同じくらいの時だな――私は家を飛び出した。多分、親としょうもないことで喧嘩になったんだろう。雪のちらつくような寒さの中を、泣きながらこの丘まで走って来た。なぜここに来たのかはわからない。けれど、ただただひとりになれる場所に行きたかった。案の定、この丘には私以外誰もいなかった。その時はもう夕暮れが迫っていて、あたりは少しずつ海の底に沈むように暗くなっていた。私は日が完全に暮れるまで、この木の根元でひとりで泣き続けた。あの時、どれくらいの時間泣きじゃくっていたのだろう。目を開けると、あたりはすっかり日が沈んで真っ暗になっていた。でも、不思議なことに、その木の周りだけはぼんやりと光にあふれていた。なんでだろうと思って木のそばから離れてみると、その理由はすぐに分かった。その日はとても綺麗な満月が空に浮かんでいた。そして、その月明かりが、ちょうどこの木に降り注いでいたんだ。それはもう見事な眺めだったなぁ。私はしばらくの間、その木に見とれていた。ついさっきまで抱いていた嫌な気分も何処かへ消えてしまったようだった。その時私は、木の中に光る小さな灯りを見つけたんだ。それは、小さな青い光だった。あれはなんだろう――?そう思って、その灯りを眺めていると、突然その灯りが頭の上に落ちてきた。それは、ひとつの大きな果実だった。闇夜の中でも明るく輝いていたのをはっきりと覚えている。私はすぐに、その果実を家に持ち帰った。
ゲンはここまで話した後、ふっと溜め息をついた。
「じゃあ、あたしが窓から見たあの灯りって……」
クルミがぽつりと言葉を漏らした。
「ん、どうしたんだい?」
「あたし……見たの。小さな灯りを。それで、ここまで走ってきたの。」
「そうか……」
ゲンは小さく頷いて、クルミが手にしている果実に目をやった。
「じゃあその灯りは、この実のものだったのかもしれないなぁ。」
クルミはもう一度その果実を眺めた。今はまだお昼時で外も明るい。お日様からの光を吸い込んで、その果実はガラスのようにキラキラと光を放っている。
「で、結局この果実は何なの?」
クルミはゲンの方に振り向いて言った。ゲンはまた、静かに話しはじめた。
私は夢見心地のまま家まで急いだ。持って帰った果実を親に見せたら、二人とも目をまあるくして驚いたよ。「お前……もしかして、夢の木のところまで行ったのか?」その時に私は初めて夢の木のことを聞いたんだ。夢の木っていうのはね、“町の人々の心を映す木”なんだそうだ。最初にその話を聞いたときは、あまりよく意味が分からなかった。でも、もう一度その果実を眺めて、なんとなく意味が分かったよ。「ああ、この果実は僕の哀しい気持ちを吸い込んでるんだ」ってね。だって、その果実は、本当に哀しそうな色をしていたんだもの。
話を聞き終えると、クルミはもう一度その果実を眺めた。深く、暗い青。その向こうには、何かが隠れているような気がした。
「君も何か、哀しいことがあったのかい?」
ゲンはクルミの目を覗き込んで優しく言った。
クルミは、今にも泣きだしそうだった。普段はほとんど涙を見せないクルミだが、このときだけは何故か涙をこらえることができなかった。
「おじさん、あのね……」
クルミは、ゲンに、本当の気持ちを打ち明けた。
クルミの手から、果実が落ちた。
それから何年が過ぎただろう。クルミは中学校に上がり、中学生最後の冬を迎えていた。町には粉雪が冬の始まりを告げ、小道には小さなフキノトウが顔を出していた。クルミはすっかりこの町が大好きになっていた。友達も増え、毎日がとても楽しかった。学校帰りにはゲンの家にもよく遊びに行っていた。偶然にもゲンの家とクルミの家は、ひとつ家を挟んだお向かいにあった。畑仕事をしているゲンは、クルミが訪ねてくるといつもミニトマトを食べさせてくれた。真っ赤に熟したミニトマトはとてもおいしかった。ゲンは町の人にも慕われていた。ゲンは町の人気者であった。
あの日以来、クルミはあの丘へ行くことはなかった。友達との会話の話題に上ることもなく、クルミ自身でさえあの日の出来事を少し忘れかけていた。本当に、毎日が楽しかった。いつまでもこんな日々が続くと思っていた。
――ゲンさんが倒れた。
クルミがアオイからその話を聞いたのは、学校から帰ってきた時だった。この町には病院がひとつしかない。知らせを聞いたアオイが、車で丘の近くの病院まで送って行ったという。ひとりぐらしで身体に負担がかかっていたのだろう。今日の夜が峠だと医者は言ったそうだ。クルミはその話を聞くや否や家を飛び出して、病院まで駆けていった。クルミの目は涙で揺れていた。
「神様、ゲンさんを助けて……!」
しかし、クルミの願いは届かなかった。
ゲンさんはその夜、遠い、遠いところへ旅立ってしまった。
町の人はみな、涙を流して悲しんだ。クルミはどうしたらいいか分からなかった。今まで当たり前だった毎日が、音を立てて崩れていくように思えた。今日の朝まで、あんなに元気だったのに。学校から帰ったら、ミニトマト食べさせてくれるって約束してたのに……!クルミの心は壊れそうなほど、いろんな感情がぐるぐると廻っていた。でも、なぜだか涙はちっとも出てこなかった。外はもうすっかり暗くなっていた。優しく降る雪が、乾いたクルミの頬を濡らす。
そのとき、クルミは最初にゲンに会った時のことを思い出した。そう、あれは丘の上での出来事だった。確か、月明かりが綺麗だったって、ゲンさんは言ってたっけ……。クルミはふと、もうすっかり暗くなった空を見上げた。綺麗な満月が昇っていた。月明かりが、丘の上に降り注いでいる。そしてその月明かりの先に、あの木がぼんやりと見えた。クルミは迷わず、あの丘に向かって走り出していた。月明かりはその時、クルミを導く道しるべとなった。
どのくらい走っただろうか。クルミはやっと、その丘に辿り着いた。必死に走ってきたので、身体が熱い。クルミはしばらく俯いて肩で呼吸をしていた。そして、ゆっくりと顔をあげた。
そこには、あの大きな木があった。あの日と変わらない、大きな木。しかし、クルミはその木を見て、声を出すことができなかった。木全体が青い光に包まれていたのだ。いや、木が輝いている訳ではなかった。光の中で、青く輝く果実が、木を覆い尽くすほど実をつけていた。果実は、月明かりを受けて、より深い輝きを放った。世界中の時が止まったようだった。その光景を見て、クルミは、ふとあの日のゲンの言葉を思い出した。
「”町の人々の心を映す木“……」
そう言葉に出して、クルミは気づいた。そうか、この木は今泣いているんだ。町の人が泣いてるから、この木もきっと哀しんでるんだ。この木はまるで、町の人の心を映す鏡みたいだ――
その時、クルミの隣にひとつ、果実が落ちてきた。しかし、それは青色などではなかった。それは驚くことに、綺麗なオレンジ色をした果実だった。青く包まれている空間の中で、たったひとつだけのオレンジ色の果実。しかしそれは、決して青い光に飲み込まれてはいなかった。むしろ、他の果実を芯までオレンジに染め上げてゆくような、そんな力強い光を放っていた。クルミはその果実を見てすぐに分かった。これは暖かい気持ちが表れているんだ。誰かの穏やかな気持ちが、実になって落ちてきたんだ。でもいったい誰の?
そして、クルミは分かった。ああ、これはゲンさんの実だ。ゲンさんはきっといま、天国で笑ってるんだ。みんなが悲しんでいるのを見て、「おいおい、なんでそんなに淋しそうな顔をしてるんだ。私はずっとここにいるよ。もっと笑顔になればいいじゃないか。」って、ケラケラ笑ってるんだ。なぜだかわからないけど、クルミはそんな気がした。クルミは目を閉じて、昔のことを思い出していた。赤い車に乗ってこの町へやってきたこと。小さな灯りを見つけたこと。初対面のゲンさんにひどく驚かされたこと。そして、ゲンさんにお父さんのことを話したこと――。クルミの閉じた目から、少しだけ涙が零れた。そう、もう帰ってはこないんだ。ゲンさんも……お父さんも。だから、私が前を向いて生きなくちゃならないんだ。そしていつか、この夢の木が太陽のようなオレンジ色に輝くような町にしてみせる。みんなを笑顔にできるような人になるんだ。クルミはそう心に思って、夢の木に寄り掛かった。
その日、丘には一人の少女と青く染まった大きな木、そして、小さなオレンジ色の果実があった。
夢の木の中にもうひとつ、オレンジ色をした果実がなっていたことは誰も知らない。