第八話 捕らわれの王子
エリアスの人気は予想以上のもので、彼と連れたって廊下を歩いているだけで次々と侍女や兵士に頭を下げられるのはもちろんのこと、しまいには朝の給仕の準備をしていたと思われる食器や茶器を持った侍女の一群に周囲を取り囲まれてしまった。
「おはようございます、エリアス様! アキ様!」
「今日もいいお天気ですね!」
「朝食はもう召し上がりましたか?」
メイド服をまとった可愛らしい女性たちに四方八方から声をかけられて、エリアスはたじたじになりながら一歩後退している。
「あ、お、おはようございます、みなさん。今日もみなさんお元気で、なによりです」
そうして、エリアスがにこ、と笑ってみせれば、さらに侍女たちは揃って明るい声を上げ始める。
「きゃああっ、朝からエリアス様とお話しできるなんて、今日は良い日になりそうですわ!」
「アキ様も昨晩はゆっくり休まれましたか? 慣れない異世界の生活でお疲れでしょう。今度、なにか気の休まるものをお持ちしますね」
紅茶とか香料とかお花とか、と侍女が嬉しそうにアキに提案し、この国は良い茶葉が入ってくるんですよ、と特にお勧めの紅茶について語り始める。
それをお礼を言って聞きながら、この国は豊かで良い国なのだなあ、とアキは感じていた。
天から遣わされた英雄的存在であるエリアスが暮らしていることもまた、この国の華やかさに一役買っているのだろう。
アキは、自分に話しかけてくれる侍女たちにお礼を言って離れると、侍女たちとの話に追われて足止めを食らっているエリアスを遠目に見ながら、自分は一歩下がったところでぼうっとそれを眺める。
こうして少し離れて、人びとに囲われているエリアスを見ると、余計にさきほどのことを思うのだ。
エリアスはこの世界の英雄で、誰からも敬われ、誰からも愛される存在で、それゆえ、けっして誰かのものになる人ではないのだと。
どんなに好きになったとしても、その想いが届くことはないのだと。
(だったら、はじめから好きにならなければいいのかな……)
憧れているだけで終わらせることができれば、その想いが届かなくても、自分が傷つくことはないだろうから。
アキが侍女たちに笑いかけているエリアスをもう一度見つめたと同時、内ポケットにしまい込んでいた手帳がわずかに振動した。
また新しい女神様からの伝言が来たのではないかと、慌てて手帳を手もとに取り出せば、いつもは普通の革の手帳であるそれが銀の光にうっすらと縁取られていた。
アキが頁を開こうとすると、突然手帳が彼女を導くかのようにふわふわと宙を舞いはじめ、通路脇にあった暗い路地へと一つの光明になって浮遊してゆく。
(え、どういうこと!?)
女神がこちらへ来いと言っているのだろうか。
おろおろしてエリアスのほうへと顔を向ければ、彼はこちらの様子には気づかず、相変わらず侍女の女性たちとなにか言葉を交わしている。
エリアスにはまだ女神様の手帳のことを話していないから、この状況を説明することもままならない。
こうしている間にも、手帳はアキを急かすようにどんどんと路地の奥地へと進み、その光の大きさを小さくしてゆく。
(とりあえずここは――……追いかけるしかないよね!)
エリアスならば、たとえ自分がはぐれたとしてもなんとか見つけてくれるだろう――そんな言い訳を頭でしながら、アキはエリアスを振りきって手帳のあとを追うのだった。
銀の光を放つ手帳は、寒気がするほどに陰湿な通路を奥へ奥へと浮遊してゆく。
明かり取りの窓すら造られていない通路は、壁から水がにじみ出ているのではと勘繰ってしまうほどにじめついている。
風のとおりも悪いのか、空気が淀んでいるように感じた。
明らかに、さきほどまでいた豪奢な王城の廊下とは造りを異にしている。
(……これって、ロールプレイングゲームでいうところの隠し通路……とか?)
といえばまたレオに怒られてしまいそうだ、とアキはレオの明るい表情を思い出して自分を励ましながら、こちらを導くように先を進んでいく手帳を一心に追いかける。
ひどくひと気のない廊下のように思えるから、人の出入りも少なそうだ。
一番奥に、隠しボスのような強い魔物と出くわさないだろうか。ここは女神の結界の内なのだからそれは心配ないのだろうか。
(うう、やっぱりエリアスに声をかければよかったかなあ)
そんなことを今さらに後悔しながらも、引き返すこともできずにおどおどしながら進み続けると、ほどなくして廊下の突き当たりに到着した。そこには木製の小さな扉があり、手帳はその手前でふよふよと立ち止まるように浮いていた。アキが手帳に手を差し伸べると、光をまとっていた手帳は急激にそれを失い、アキの手の内にぽとんと落ちる。
途端に真っ暗になる路地に驚いて、アキは反射的に目の前の木製の扉を開け放っていた。
一気に視界が開けた。
アキの目に眩しいほどに広がったのは、王城から尖塔へと続く野外の渡り廊下だった。
見上げれば薄い青を引き延ばした空が迫り、手前に視線をやれば広大な平野がはるか遠くまで伸びている。
もしかして、この平野がエリアスの言っていた原野なのだろうか。
遠目にわずか海の表面が見て取れ、再度目を凝らして原野を見れば野獣の群れのような黒い物が点々と疾走している。
(もしや、あれが魔物なのかな……?)
ここからでは、とても形を捉えることはできない。
突然出迎えた雄大な景色に、アキは恐怖も忘れて自然と足を進め、回廊の淵に立って両手を広げて大きく息を吸い込んだ。
春の陽気に似たあたたかい空気が肺いっぱいに入り込み、アキは大きく伸びをしながらそれを一気に吐き出す。
「んーっ、なんて気持ちいい……!」
とても晴れやかな気分で、アキは異世界の風景をぐるりと見渡す。
下から巻き起こってきた風に、髪や服が心地よく舞い上げられた。
この世界に来て、この景色を目にしたときに感じた高揚感を思い出すかのようだった。
自分が住んでいた都会とは違う、押し迫るような大自然の風景がそこにある。
自分は今から、この世界を守るための旅に出るのだ。大変な旅になるかもしれないが、それはなんて心躍ることだろう。
(ナコも、どこかでこの景色を見ているのかな?)
――魔王と一緒に。
ナコのおかげで当初の目的を思い出したアキは、名残惜しいながらも景色を背にして歩き始め、回廊が続いている尖塔の入口へとやってきた。
逆光に手をかざしながら上部を見上げれば、この位置からでは先端が目視できないほどの高さを誇る、石造りの立派な塔である。
こんな立派な塔がありながら、そこへ続く通路はあんなじめついて暗いものなのだろうか。どうにも違和感を覚えてしまう。
(とりあえず、次はこの塔に入れってことですよね)
内ポケットにしまっている手帳は、特に反応を示さない。おそらくそれで正しい、ということなのだろう。
アキは手を伸ばすと、塔の入口である重々しい鉄製の扉を押し開く。
すると、狭苦しい空間に、渦を巻くようにして螺旋階段が上部へ向かって伸びていた。階段の先は高くなるにつれてほの暗く沈んでおり、どの程度登れば最上階に行き着くのか皆目見当がつかない。
アキは額に手をかざして上部を見上げながら、深々と溜息を吐き出した。
「うわあ、この階段を登るのかあ……」
こりゃ骨が折れる、と呟けば、そんな彼女を叱咤するように内ポケットの手帳が振動した。女神に怒られたのかもしれない。
「もう、わかってますってば!」
頬を膨らませてここにはいない女神に返事をしてから、アキは塔の壁に片手をつきながら右回りに階段を登り始めた。
ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。
いよいよ目が回って息も切れてきて、そろそろ最上階に着いてもいいのではないかな、と思い始めて最後の一段を登りきったところで、申し訳程度に開けた場所に出た。
螺旋階段はそこで終わっており、どうやらここが最上階で間違いなさそうである。
最上階は、塔の最上部らしく円形の床をした部屋で、その円を半月に切るようにして中央に壁があり、そこに一つの木製の扉が用意されていた。おそらく半円部分が部屋になっているのだろう。
その扉を守るように、衛兵が一人、槍を上に向けて持った格好で佇んでいる。
やって来たアキの姿を認めるなり、衛兵は片眉を跳ね上げた。
「何者か。この部屋の主に用事か」
あまり歓迎してくれている様子ではなさそうだ。
アキは一瞬たじろぎつつも、ここで押し負けてはせっかく階段を苦労して登りきった意味がないと、勇敢に前に進み出る。
「あの、突然すみません、私は小西アキといいます。『勇者の片腕』に選ばれた者で、ちょっと事情があって、ここまで来たんですけど……」
エリアスたちにも女神の手帳のことを言っていない状態で、まさかこの衛兵に手帳に導かれてここまで来ましたと言うのもはばかられて、アキはもごもごとごまかす。
衛兵はそこには気をとられず、むしろアキの肩書きのほうに疑いを持ったようだった。
訝しげな顔で、アキのことをまじまじと覗き込む。
「勇者の片腕? おまえがか……?」
どうやら、まだ自分の顔はこの城中に知れ渡っているわけではないらしい。
『勇者の片腕』とは思えない貧弱な人相なのかと、わかってはいたけれどもアキはそれをまざまざと思い知らされたようで、内心ひどく落胆した。
けれど、やはりここで引き下がるわけにはいかない。なにか、自分の身分を証明するものは――。
この無言の威圧感に耐えきれず、とりあえずアキは衛兵に向かって口を開く。
「あの、『勇者の片腕』であることを証明するものはなにもないんですが、事実なんです。エリアスに聞けばすぐに――……」
彼の名前を出すと、衛兵がすぐさま顔色を変えた。
「エリアスだと? それは、勇者エリアス・リーランドで間違いはないか?」
「あ、ええと、はい。さっきまで一緒にいたんですけど……」
やっぱりエリアスと一緒に来ればよかった、と再度後悔したところで、アキと衛兵の言い合いに気づいたのか、室内から落ち着いた男性の呼び声がかけられた。
「衛兵、どうしたんだ。エリアスの知り合いが来たのか」
男声にしては少し高めの、育ちの良さそうな声音だった。
部屋に誰かいたんだ、とアキがきょとんとしている中、声の主に対して衛兵が震え上がる。
「は、はい。勇者の片腕を名乗る女が来ております」
「――そう。どうぞ。入ってもらって」
えらくあっさりと快諾が出る。
衛兵はそれを咎めたそうにしながらも、声の主に意見することはできないのか、しぶしぶとアキを部屋に入れるために扉の前をどいた。
「入れ。くれぐれも失礼のないようにな」
アキが部屋の前に立ったところで、脇に控えていた衛兵から念を押される。
部屋の主が誰なのかはわからないが、衛兵の様子を見るに、ただ者ではないのかもしれない。
「失礼いたします」
アキは緊張からごくりと唾を飲み込みながら、静かに扉を押し開けた。そして、室内の光景を目に入れるなり、息を呑む。
その部屋は、離れの塔に不釣り合いなほどに、金細工の技巧に富んだ調度品が並べたてられていた。ここから見て取れるだけで戸棚には金の壺、皿、像、蝋燭、杯などが惜しげもなく並べ立てられており、足もとは紅の絨毯が臆面もなく敷かれ、その布の端には金の刺繍が幾重にも施されていた。
部屋の中央には広々とした寝床があり、そこに一人、線の細い男が腰かけている。色素の薄い水色の長い髪をベッドに添うように流し、おだやかに細められた瞳は宝石のように深い紺色をしている。
この慇懃なほど豪奢に飾り立てられた部屋に飲み込まれそうなほど、儚く小奇麗な外貌をしていた。まるで、飾り立てられた人形のようだ。
男は、病的に見えるほど青白い顔でアキに微笑みかけた。
「初めまして。この部屋にお客さんがやってくるとは思わなかった。貴方が今代の『勇者の片腕』?」
「あ、は、はい」
男の外貌に見惚れていて反応が遅れれば、男はそれに気づいたのか気づかなかったのか、くすりと可愛らしく笑ってみせた。水色の髪が肩先に零れ落ちる。
ずいぶんと女性的な男性だな、とアキは思った。女性であるこちらがどきりとしてしまうほどに艶がある。
男は、久しぶりの来客に気分が高揚しているのか、楽しそうに声を弾ませた。
「今代の勇者の片腕は可愛らしいお嬢さんなのだね。エリアスがうらやましい」
まるで友達の名前を出すかのように、男はエリアスの名前を自然と口にした。
この人は何者なのだろうと、アキは部屋を進んで、男から少し離れた距離で立ち止まって問いかけた。
「あの、あなたは……?」
男は、少し自嘲気味に見える笑みを浮かべた。
「僕は、アーノルド・クラウディウス・テオフィルス。――この国の、王子だ」