第七話 勇者の旅立ち
リリリリ……といつもの目覚まし時計が金切り声をあげた気がして、アキは跳ね起きた。
今日も仕事に行く時間だ。
顔を洗って、歯を磨いて、そして鞄に書類を詰め込んで電車に飛び乗らなければ……!
はやる気持ちのままにベッドから飛び降りようとして、アキははたとその場で固まった。
自分が寝ていたのは豪奢な天蓋つきのベッドで、上質な絹で作られたすべらかな寝具が肌に心地よい。
(あれ、自分のベッドってこんなに豪華だったっけ……?)
ふとそんなことを真面目に考えて、アキは一人でぽんと手を叩いた。
そうだ、ここは……異世界だった。
昨日、エリアスたちと夕食を食べたのち、自分にあてがわれた客室で一晩ゆっくり眠らせてもらったのだった。異世界にやって来たというある種の興奮状態で元気を保っていたが、実は相当疲れていたらしく、部屋でひとりになった途端泥のように眠ってしまったのである。
アキは立ち上がると、部屋の中庭に面した部分に造られている出窓を両手で開け放った。途端、柔らかな風が部屋へと舞い込み、春の陽光を思わせる優しい朝の光がアキを出迎える。遠くで小鳥のさえずりが軽やかに耳に飛び込んできた。
いい天気、思わずそう呟いてしまうような気持ちのいい朝だった。
(今日は、いよいよ旅に出発するんだよね……)
目の前に広がる異世界の風景を眺めながら、アキは気を引き締めるように思う。
自分はいつものように会社に出勤するのではない。勇者一行と共に魔王を倒す旅に出かけるのだ。
攫われてしまった妹のナコを魔王の手から取り戻して、妹と一緒に自分の世界に帰るために。
そして、勇者としての使命を背負った、エリアスの役に立つために。
女神が生み出した美の彫像のようなエリアスが、自分の役目について淡々と語っていた姿を思い出す。
魔王もしくは勇者が倒されなければ、創造エネルギーという名の生命力が枯渇してゆくこの世界を救うことができない。その務めを悟ったように……どこか割りきっているかのように話した彼。
(『勇者の片腕』としてこの世界に来た自分が、少しでも彼の力になれたらいいのに……)
そう強く思うのに、自分には、女神から授かるべき力もなければ、レオのように魔法を使うこともできないのだ。いったい自分は、なんのために『勇者の片腕』に選ばれたのか……。
どんどんと気持ちが重くなってきて、アキはその考えを振り払うように頭を左右に振った。
今日は旅立ちの日なのだ。弱気でいては上手くいくものも上手くいかない。
(でも、せめて女神様からお力をいただけていればなあ……。私、女神様に嫌われちゃったのかな)
はあ、と肩を落として後ろを振り返った瞬間、まるでこちらの心中に応えるかのように、ローテーブルに置いてあった女神様から授かった手帳の頁が、ひとりでにぱらぱらとめくれ始めた。アキは驚いて窓の方向を振り返るが、頁がめくれるほどの強い風は吹きこんでいない。
ということは、なにか女神様の力が働いているのではないだろうか?
直感でそう思ったアキは、慌てて手帳のもとへと駆け寄った。
触れていないのに自動でめくられてゆく手帳は、ちょうど真ん中あたりを開いたところでぴたりと止まった。おそるおそるアキが上から覗き込むと、まるで宙に光のペンでもあるかのように、淡く銀色に輝く文字がさらさらと書きこまれてゆく。
そうして無造作に書かれた文字は、
【本日の予定】
1.国王に謁見後、魔王討伐の旅に出発
2.最寄りの港町に立ち寄ること
の二行が書かれていた。
これは、もしかして……。
「……女神様が、私たちをお導きくださってる……とか?」
アキは、手帳を手に取ると、描かれている文字を前にして嬉しさからふるふると震える。
まだ確証はないが、もしかしてこの女神様からのメッセージを受け取る能力が、自分が女神から与えられた能力なのではないだろうか。
『勇者の秘書』である自分には、手帳を通じて女神の言葉を授かることができるのではないだろうか。
(もし、そうだとしたら――……)
アキは、手帳をぎゅっと胸元で抱きしめる。
もしそうだとしたら、自分も『勇者の片腕』としてエリアスたちの役に立てるかもしれない――!
アキは景気よくクローゼットを開け放つと、そこにしまい込んであったスーツに着替え、手帳を内ポケットに、ペンを胸ポケットに差し込む。
一刻も早くエリアスに報告したくて、気持ちが急いて上手く釦が留められないほどだった。
すべての装備を終えてから、アキは部屋の姿見の前で身だしなみを確認し、よし、と気合を入れる。
そうして、彼が喜んでくれる顔を想像して頬を緩ませながら、軽快な足取りで部屋を飛び出すのだった。
二階の廊下を駆け抜けてエリアスの自室の前にたどり着いたアキは、ノックもそこそこに部屋の扉に手をかける。
「エリアス、おはようございます! 女神様のお力のことでちょっとお話しがあるんですが――……」
うきうきと言いながら扉を押し開けるアキに、部屋の中からエリアスの慌てたような声音が返ってきた。
「アキ!? ちょっと待って、今開けないでほし――」
「へ?」
エリアスの制止の声にはたとアキは動きを止めたが、時すでに遅し、アキの視界にはエリアスの室内の光景が飛び込んできていた。
エリアスは窓際に佇んでおり、無駄な筋肉のない引き締まった体つきが、窓から差し込む朝日によって美しく縁取られていた。
黒い衣服を履いた足はすらりと長く、上半身に羽織った白い上着の胸元がはだけていて、そこから少しだけ彼のたくましい胸板が……。
――胸板がっ!?
「き、き、きゃああああああああっ!」
エリアスも耳を塞ぐほどの大絶叫を上げて、アキは両手で自分の顔を覆って肩を縮めた。
全身の血が一気に顏に集まったのではないかと思うほど、焼けるように顏の表面が熱い。
(まさか、まさか、まさか……!)
アキは視線が上げられずに、床を一心に見つめたままその場に石のように固まる。
自分はどうやら、エリアスの着替えの最中に彼の部屋に飛び込んでしまったらしい。
いくら女神様の力のことで気が急いていたとはいえ、彼の断りもなしに部屋に入るなんて非常識もいいところである。
どうしようどうしよう……と冷や汗をぼたぼたと落としつつも、とりあえず謝らなければとアキは目を閉じたままで頭を下げる。
「エリアスっ、お着換え中にごめんなさい……! すぐ出ますのでっ!」
「あ、いやいや、大丈夫! 俺のほうこそ、お見苦しいものを、ごめんね」
エリアスは焦った様子で上着の釦に手をかける。
アキはおそるおそる目を開けて彼の様子を伺い、ふと、彼の胸元から覗く肌にいくつかの切り傷があることに気づいた。
目に留まるほどにつけられている傷跡に、アキは一気に冷静さを取り戻す。聞いていいものかと迷いながらも、上目づかいで遠慮がちにエリアスに問いかけた。
「あの、エリアス、その怪我は……?」
古傷のようだが、それにしても数が多い。
エリアスは、自分の傷跡を隠すように手で触れる。
「……ああ、これは、幼い頃に魔物から受けた傷なんだ。『勇者』は常に『魔王』の従える魔物に狙われるものだからね」
「魔物……?」
「うん。あとで詳しく説明するけれど、この世界は、街や村といった人々が暮らす範囲以外は魔物が徘徊しているんだ。魔物とは、人や動物を食らう生態系で、俺たち人間にとっては天敵にあたる」
淡々と言葉を発していくエリアスに、アキは背筋にひやりとしたものが流れる。
つまり、この世界では、街や村を一歩でも出れば人間も危険と隣り合わせということなのだろう。
(この世界をゲームにたとえたら、またレオに、怒られるかもしれないけれど……)
けれど、街や村以外の野外で魔物が出現するというのは、ロールプレイングゲームなどにある状況と一緒だ。
ただ、ゲームとは確実に違うのが――。
(魔物にやられたら、死んでしまう、ということ……)
ゲームオーバーになったら前回のセーブに戻ってやり直し、ここはそれが利く世界ではないのだ。
ぞっとして、アキは身を震わせた。
旅に出ればまた意識も変わるだろう、そう言っていたレオの言葉が思い出されるようだった。彼は、旅は命懸けなのだということを警告してくれていたのだろう。
エリアスは押し黙るアキを横目に見てから、静かに言葉を続ける。
「魔物は、彼らを従える魔王のことが大好きなんだ。魔王のためだったら、どんな残忍なことも厭わずにできる。彼らに理性や慈悲といった機微はほとんど存在しないから、本能のままに生きる野獣に近い存在なんだ」
エリアスは、自分が小さい頃の光景を思い出すように胸に手を当てる。
「だから魔物たちは、魔王の敵である俺を倒すことで魔王の役に立つため、『勇者』が幼少期で未熟なうちに執拗に命を奪いにくるんだ。俺も、今でこそ戦えるけれど、当時はやっと剣を振り回せるくらいの力しかなかったからね。魔物に襲われるたびに、何度も大怪我を負ったよ」
だから体中傷跡だらけでね、とエリアスが小さく首を傾げて軽く笑う。
彼はなんでもないことのように言うけれど、四六時中魔物に狙われていたのなら、きっと気の休まらない日々だったのではないだろうか。
特に年若かったころの彼ならば、恐怖と緊張に苛まれて、満足に眠れない毎日が続いたのではないだろうか。
(あんなに体に傷が残るくらい、たくさんの魔物と戦ってきたなんて……)
おそらく自分の想像が及ばないほどに、辛く苦しい毎日だったはずだ。けれど、『勇者』として生まれた彼は、それが宿命で、それから逃れることもできなくて……。
エリアスの過酷な幼少期を思ってアキが黙り込んでいると、エリアスが少し慌てた様子で歩み寄った。
「けれど、心配しないで。俺、今は『勇者』にふさわしいくらい強くなってきているから。君のことも、きちんと守れるよ」
こちらを安心させるように笑ってみせるエリアスに、アキはふるふると首を振る。
どうやら、『勇者』としての彼の力量に不安を感じて黙り込んだのだと思われてしまったらしい。
アキは誤解を解こうとエリアスを見上げる。
「違う、そうじゃないんです、エリアスがすごく強いのはわかってて――……ただ、エリアスのことが、心配、で……」
「心配?」
「はい。エリアスは、この世界やここで暮らす人たち、それに仲間や私を守るために一生懸命頑張ってくれるじゃないですか。それはすごく、嬉しいんですけど……でも、じゃあ、そのエリアス自身のことは誰が守ってくれるんですか?」
「え……?」
思いがけないことを聞かれたとでもいうように、エリアスが目を大きく見開く。そして、ふっと力が抜けたように微笑んだ。
「アキ、勇者は誰にも守られないよ。自分のことは自分で守るだけだ。それで『魔王』に倒されたのなら自業自得だから」
どこか寂しそうに答えて、エリアスは手近にかけてあったロングコートに手を伸ばそうと踵を返す。
小さい頃から魔物に命を狙われて、必死にそれに耐えて育って、そして強くなったら今度はそれを他人を守るために使い、けっして自分は誰からも守られることなく、生涯この世界と他人のために戦い続ける。
『勇者』というのは、この世界の英雄なのではなかったのか。
これではまるで、体よく英雄と祀り上げられた、重い責務を背負わされた生贄のようではないか。
自分を犠牲にするエリアスの生き方に、アキは胸のつぶれるような思いがする。
この世界での『勇者』の使命が、エリアスをそうさせてしまうのなら――。
せめて、異世界から来た自分だけでも、エリアス自身を守ることは、彼自身を支えることはできないだろうか。
アキは、こちらに背を向けているエリアスの腕を、後ろからぐいと引っ張る。
なに、とエリアスが振り向いたと同時、アキはしがみつかんばかりの勢いでエリアスに掴みかかった。
「自業自得じゃないですよ……! 少なくとも、少なくとも私は、エリアスに守ってもらってるだけで自分があなたの役に立てないのは嫌なんです! 私だって、少しでもいいからエリアスの力になりたいっ……」
あふれでる思いを言葉にした途端、堰を切ったように感情がこみ上げてきて、アキはわれ知らず瞳が涙で濡れてくる。
はじめは、ただ妹のナコを助けるためにこの世界に飛び込んだだけだった。
けれど、『勇者』として自分の心を殺して戦いの矢面に立っているエリアスの寂しげな姿を見て、微力ながらも彼の支えになりたいと強く思ったのだ。
(私、きっと――……)
アキは、自分の中に芽生え始めているたしかな思いを感じる。
こんなにも彼のことを強く思うのは、『勇者の片腕』としての責任を果たそうとしているからだけじゃない。
自分はおそらく、彼に惹かれ始めているのだ。
そう気づいた途端に急に恥ずかしくなり、アキがわれに返って身を引こうとすると、今度はその腕をエリアスに強く引っ張られた。
え、とアキが目を見開いた頃には、自分は彼の胸の中に引き寄せられ、背に腕を回されて強く抱きしめられていた。
「……ありがとう」
心臓がどきどきとしすぎてなにも考えられなくなっていたアキの耳元で、エリアスが静かな声でそっと囁く。
「ありがとう、アキ。なかなか、そう言ってくれる人はいなくて……。君が、『勇者の片腕』として俺のところに来てくれた意味がわかった気がするよ」
心底ほっとしたように、エリアスが呟いた。
ずっと孤独だった自分に気づき、手を差し伸べてくれた人がやっと現れたかのように。
この世界に生まれた人たちにとって、『勇者』が人々や世界のために命を張ることは当然のこと。
だから、勇者自身を守るという考えに至らない。勇者は、守るものであって守られるものではない。
けれど、『勇者』だってひとりの人間なのだ。常に勇敢であるわけではない、不安や寂しさ、辛さや痛みを感じるのだ。
そんな彼自身を見つめてくれる人が、必要なのだ。
大丈夫、安心して、そう伝えるように、アキもまたエリアスの背に腕を伸ばしてそっと抱きしめ返す。
あたたかかった。お互いの体だけではなく、心の奥まであたためてくれるかのようだった。
互いに気の済むまでそうしたのち、エリアスが少しだけアキの体を離し、その両肩に手を置いた。
「……アキ、ひとつお願いがあるんだけれど、いいかな」
「お願い?」
はて、と首を傾げるアキに、エリアスは神妙に頷く。
「そう。俺は、絶対に……君を失いたくないんだ。君は、その、……大切な人だから。だから、街の外に出たら、なにがあっても俺の傍を離れないでほしい」
真剣な眼差しでエリアスが言う。
さきほどエリアスは、街や村の外には魔物が出現するといっていた。おそらくそれのことを言っているのだろう。
なにも言わずにアキが頷くと、エリアスは彼女の肩から手を離す。
「この世界の街や村は、人の居住地区として女神の結界で守られているんだ。だから、結界の内側には魔物が入り込むことができない。けれど、それで守られた範囲以外は魔物の暮らす土地なるんだ。つまり、街や村を出るということは、魔物の縄張りに踏み込むということになる」
うん、とアキは頷く。
女神の采配で、人と魔物が暮らす場所が住み分けられているのだ。
「だから、街や村に暮らす人たちは、よほどのことがなければ結界の外へ出ることはないんだ。けれど、行商人や舟人といった、街から街へと渡り歩く仕事をしている人たちはそうはいかない。その場合は、魔物から自分たちの身を守るために、魔物の討伐を専門にしている生業の人たち――『冒険者』と呼ばれる護衛をつけるんだ」
「冒険者?」
「そう。冒険者とは、それぞれ武器や魔法に長けた戦いを専門とする人たちのことで、結界の外に出る行商人や舟人、王侯貴族に雇われて、彼らと道中をともにし、魔物に遭遇したら雇い主の命を守る仕事をするんだ」
エリアスの話によると、『冒険者』は冒険者ギルドと呼ばれる組合に所属している同職集団のことで、その支部が各街や村にあり、雇い主が冒険者ギルドに護衛の依頼を出し、その依頼を受けることで生計を立てている人たちのことらしい。
『冒険者』とひとくくりにいっても、各々の得意とする戦闘技術――スキルというらしい、によって職業が分かれていて、その職業は、戦士や盗賊、魔法使い、神官……といったさまざまな職業に分岐しているそうだ。冒険者の職業のことは、一般的な職業と区別するために、ジョブ、と呼ぶらしい。
ちなみにエリアスもレオもヨハンもその『冒険者』であり、エリアスのジョブは『勇者』、レオは『魔法使い』、ヨハンは『神官』職に就いているのだそうだ。
「そっか。この世界では、やむを得ない状況じゃなければ、みんな街の外には出ないっていうことなんですね」
それはそれで寂しいかもしれないなあ、とアキが思っていると、エリアスが小さく笑った。
「そうともいえるけれど、護衛さえつければ結界の外に出られるわけだから、ひどく窮屈ではないと思うよ。俺たちの世界では、結界以外の場所を原野と呼ぶんだけれど、そういうわけだから、原野に出たら魔物との戦闘は避けられないんだ。冒険者である俺たちなら魔物に太刀打ちできるけれど、アキはそうではないからね、だから、原野に出たら必ず俺の傍を離れないでいてほしいんだ」
約束だよ、とエリアスにぽんと頭に手を乗せられる。
この世界にとって、結界の外に出て原野を旅するということは、命懸けの行為なのだ。
魔物と戦いながら旅をするということは、命を危険にさらしながら敵地に向かうということ。
「俺もレオもヨハンも相当な場数を踏んでいるから、冒険者としての腕っぷしは信頼してくれて大丈夫。ただ、原野というのは広大だから、俺たちでも全体像を知っているわけじゃないんだ。人が踏み込んでいない未踏の場所もたくさんあるし、未知の魔物も存在していると思う。だから、予期しないことが起きる可能性も十分あり得るんだ」
うん……、とアキは原野での旅がだんだんと恐ろしくなってきて、身を小さくしぼめていく。
つまり、原野を旅するということは、この世界で育ってきたエリアスたちにとっても、未開の地に足を踏み入れるようなものなのだろう。
視線を俯かせたアキの両手を、エリアスがそっと取ってすくい上げる。
「――まだなにが起こるかわからないけれど、歴代の勇者たちも同じように旅をして魔王を倒し、この世界を救ってきたんだ。だから、俺が怖気づくわけにはいかないからね。君もいてくれるから、きっと、すべて上手くいく……気がする」
気がする、ととってつけたように言うエリアスに、アキは小さくふきだす。
「なんでそんな確証がないみたいな言い方するんですか!」
ひどいなあもう、とアキが笑いながら言っていると、ふいに腕を伸ばしたエリアスに、また包み込むように抱き寄せられた。
「アキ、本当に、君が俺のところに来てくれてよかった。一緒にがんばろう。俺を、支えてほしい」
それは、エリアスが初めて人に頼った言葉だったように思えた。
人に頼ることを知らない彼は、人に弱音を吐くことも、人に甘えることもしてこなかったから。
もちろん、と腕の中で笑顔で頷くアキに、エリアスもまた心底嬉しそうに微笑み返す。
そうして旅支度を済ませたエリアスとアキは、連れたって部屋を出、颯爽と王城の廊下を歩いていく。
レオとヨハンは、王様のいる謁見の間の前で待っているらしく、これからそちらへ向かうらしい。
腰に剣――聖剣と呼ばれる勇者のみが持つことのできる宝刀らしい、そして純白のマントを靡かせて歩くエリアスに、すれ違う侍女や兵士たちが次々と頭を下げる。
勇者然とした彼の様子に、さきほどまで彼と普通に笑い合っていたアキは、どこか遠い壁を感じてちくりと胸が痛んでしまった。
(エリアスのこと、私はきっと、好きになってきているんだと思う……。でも、彼は、私なんかが好きになっていい人じゃないのかもしれない……)
自分はどこか思い上がっているのではないだろうか。
けっして手の届かない人を、好きになり始めているのではないだろうか。
その予感にますます胸が痛み、アキは自分の考えを振り払おうと、前を歩くエリアスに並んだ。
「あの、エリアス、謁見の間に行ってどうするんですか?」
たしか、女神からの手帳の伝言に、『国王に謁見後、魔王討伐の旅に出発』と書かれていた気がする。
ということは、謁見の間でやることは、国王に旅立ちの報告をすることなのだろうか。
そういえば女神様の手帳のことをエリアスに話していなかった、とアキはふと思い出す。
今は謁見の間に向かわなければならないし、国王様との挨拶が終わったらエリアスやレオ、ヨハンに話そう。
そうしよう、とアキがひとり頷いていると、エリアスがこちらに顔を向けた。
「勇者は、魔王討伐の旅に出る前に、必ず国王にそのご報告をして激励のお言葉を承って、そして姫の祝福を受けるんだよ」
「姫の祝福?」
なんだろう、なぜかいやな予感がする。
エリアスはなんでもないことのように言う。
「うん。この国の王には姫君が一人いらっしゃるんだけれど、姫の祝福というのは、勇者の旅立ちのときに、旅の成功を祈って姫から勇者の額に口づけを贈る儀式のことなんだ。そうすると、勇者は無事に旅を終えてこの国に帰ってこられるという言い伝えがあるんだよ」
「そう、なんですか……」
姫の口づけ、という言葉にまたまたちくりと胸が痛んで、アキはエリアスにわからないように小さく肩を落とした。
そうして無事に旅から帰還した勇者は、美しい姫君と結ばれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ、という筋書きになるのだろうか。
(そう、だよね……。そういうもの、だよね)
やはり、エリアスは自分などが好きになっていい人ではないのかもしれない。
好きになったとしても、けっして想いが通じることなどないのかもしれない。
隣に並ぶエリアスの整った横顔を見上げながら、アキはひとり、苦い思いを噛み締めた。