第五十八話 すれちがう想い
(レオに、迷惑かけちゃったかな……)
レオの部屋で所在なげに彼の帰りを待っていたアキは、ふう、と体の力を抜くように息を吐きだした。誰もいない室内、自分のため息だけがやけに響く。
レオが、元気のない自分に気をつかってくれ、相談にのるために部屋に招いてくれたり、代わりに飲み物を取りに行ってくれたりと、彼にひどく心配をかけてしまっていることはわかっていた。
そんな優しい彼にこれ以上負担をかけないためにも、エリアスとなにがあったかをきちんと説明して、いつまでも落ち込んでいないでしっかりしなくちゃいけない――そう頭ではわかっているのに、あまりにも自分の失ったものが大きすぎて、気持ちが……追いつかなかった。
(私、エリアスのこと、大好きだったんだなあ……)
そんなことわかりきっていたはずなのに、こうして彼を失ってみて初めて、自分の中で彼の存在がどんなに大きかったかを思い知るのだ。
自分に向けられる彼の優しくて落ちついた声に、おだやかな笑顔に、何者からも守ってくれる強くて大きな背中に、どんなに恋焦がれていたのだろう――と。
そう思うと同時に、さきほど目の前でぼろぼろに傷ついて落ち込んでいた彼を慰めようとして、ああ、自分は知らず知らずのうちに彼にずっと頼りっきりだったのだな……ということを痛感していた。
自分は、彼の恋人を気どって、彼と対等な関係であると思い込んでいて、その実、たとえなにがあっても彼がいれば絶対大丈夫だと、彼ならなんとかしてくれると、心のどこかで彼に寄りかかりっきりだったのだ。
それが、無意識のうちに彼に重圧を押しつけてしまっていたのかもしれないと――今回、自信をなくしてしまった彼を見ていて、やっと気づくことができたのだ。
そんな大事なことにも気づけていなかったなんて、自分は彼の恋人として失格だと、今までの自分を省みては後悔と反省で胸が押しつぶされそうだった。
エリアスは、周囲の大きすぎる期待に、おそらく生まれてからずっと『勇者』として応えようとして気を張って生きてきたのだ。
それが今回、彼の内に秘めた力が自分や周囲を傷つけるような事態になってしまって……彼は、みんなを期待を裏切ってしまったと、過度に自分を責め立てているのかもしれなかった。自分自身を追いつめてしまうほどに。
(……私が、エリアスの背負ってるものを少しでも軽くしなきゃ、いけなかったのに……)
自分のことを好きだと言ってくれた彼。
きっと、彼の一番近く、彼の心の一番近くにいたのは自分だったはずなのに――。
(私は、自分のことばっかり考えて、結局エリアスに頼ってばっかりで、彼を支えることができなかったんだ……)
あまりの自分の情けなさに、アキは、ぎゅっと唇を噛み、膝の上に乗せた両手の拳を握る。
もっと自分に、エリアスの恋人であるということは同時に、この世界でもっとも責任をあずかる『勇者』の恋人であるのだという自覚があったなら――、エリアスが守らなくても済むくらいに力があったなら、彼が果たさなければならない責任を少しでも一緒に背負うことができたかもしれないのに。
(こんな無力な自分じゃ、エリアスの隣に立つ資格は、ないのかもしれない……)
自分で自分が恥ずかしいと、もう何度ついたかわからないため息をまた吐きだしたところで、廊下から扉ごしにレオのくぐもった声が聞こえた。
「――おいアキ、ちっと戸ぉ開けてくれ。両手がふさがっててな」
「へ? あ、ああ、ごめんね、レオ! 気づかなくて!」
アキは慌てて立ち上がると、部屋の扉をそっと引く。
途端、ふわっとたちこめた甘い香りに顔を上げると、陶器のポット、それから二つのカップを木製のトレーに乗せたレオが、身軽な足取りで室内に入ってきた。
「お待ちどーさま、お嬢さま。さあどうぞ」
熱いから気をつけろよ、と言い添えて、レオがトレーからカップをひとつ取り、慎重に手渡してくれる。
ありがとう、と伝えて両手で受け取り、カップの中を覗き込むと、そこには綺麗な褐色をした紅茶が揺れて煌めいていた。蜂蜜を入れてくれているのか、甘い匂いがやさしく香っている。
おそらく、レオが気を利かせて女性が好みそうな飲み物を選んでくれたのだろう。
(――……ありがとう、レオ)
レオの気遣いがうれしくて、紅茶の水面を見つめながら頬をゆるませると、こちらを見つめていた彼とばちりと目が合った。
彼は、一瞬どことなく照れた様子でアキを見つめてから、気恥ずかしそうに視線をそらす。
そのやりとりが、否応なしにレオに告白されたことを思い起こさせて――アキはどぎまぎしてしまい、同じように視線をあさってにそらすことしかできなかった。
レオは、なにも言わずに手近にあった台に自分のカップを置くと、そのままさきほど座っていたベッドに身を投げ出すようにして腰かけた。
そうして、妙な沈黙がアキとレオの間に流れる。
本当は、すぐにでも本題に入らなければいけないのかもしれない。
彼は、それを聞くために自分をここに招いてくれたのだから。
そう思ったけれど、なかなか勇気が出なくて切りだせず、気づけばアキは本題とずれた話題を口にしていた。
「……そ、そういえば、下に誰かいた?」
思いがけない話を振られたからか、レオが一瞬、え、と目をまばたいたのち、思いだすように宙を見上げる。
「ああ、みんないたぜ。ミーナにルイス、サトクリフ、それからヨハンな」
「ヨハン!」
気がかりだった仲間の名前を聞いて、アキはうれしくなって顔の前で指を合わせた。
ミーナから、ヨハンも聖遺物を使った影響で意識を失ってしまったと聞いていたから、無事だったか心配していたのだ。
「よかった! ヨハンも気がついたんだね!」
「ああ。まだ本調子じゃないだろうが、元気そうだったぜ。――今回、あいつがいてくれてほんっと助かったよな。あいつがいなかったら、俺ら、無事に帰ってこられた保証はねぇもんな」
後ろ頭をかきながら苦笑するレオに、アキもまた何度も頷いた。
ヨハンの活躍で思いだされるのは、あの遺跡で、レオがエリアスから致命傷を受けてしまったときに間一髪で回復魔法を放った姿や、エリアスの太陽の女神の紋章を封じる方法を提案し、それを鮮やかに決行した姿だ。あのときのヨハンの頼もしさは、思いだすだけで気持ちが昂るほどだった。
本当に、ヨハンがいなかったら、自分たちは今ごろどうなってたかわからない。
ヨハンがいてくれたおかげで今こうして無事にここにいられるのだと思うと、彼は自分たちの命の恩人である。
(ほんと、あのときのヨハン、かっこよかったなあ)
遺跡でレオと二人きりになり、レオがエリアスと一騎打ちをすることを決めて、自分は彼をその場に残して来た道を駆け戻ったあのとき――。
不安と焦燥に駆られながら無我夢中で遺跡を戻っていた自分の視界に、魔物を蹴散らしながら駆けつけてくれたヨハンの姿が見えたときは、あまりにも嬉しくて大声で彼の名前を叫びながら飛びついたほどだった。
彼と合流できた安堵からか、自分はそのまま堪えきれずに泣きだしてしまって……涙声でしどろもどろに状況を説明する自分に、ヨハンが「大丈夫です、落ちついて」と何度も励ましてくれたのを覚えている。
(……そういえば、ちゃんとお礼言えてなかったな)
あのときは一刻を争う状況であったし、気が動転していたこともあって、きちんとヨハンにお礼を言えないままになっていた。
次にヨハンに会ったときは真っ先にお礼を伝えよう――そうひとり心に決めていると、そんなアキを見守っていたレオがおだやかな口調でいった。
「――……で、どうだ、アキ。そろそろ気持ちは落ちついたか」
声をかけられ、はっとしてレオの顔を見ると、彼はこちらが思わずどきりとしてしまうほどやさしく目を細めて微笑んでいた。
(レオ、ずっと待っててくれてるんだよね……)
このまま彼に心配をかけ続けるわけにはいかない。自分の中で抱え込んでいても、なにも状況は変わらないのだから。
エリアスが自分に言った言葉は、すべて、現実なのだから。
エリアスが落ち込んでいること、これ以上みんなを傷つけないためにひとりで魔王城に行くと言ったこと、そして、それと同時に自分の恋が終わってしまったこと――。話さなければいけなことは、たくさんある。
アキは、膝の上に乗せた拳をきゅっと握りながら、ぽつぽつと言葉をつむぎ始める。
「……あの、レオ。上手く、言えないかも、しれないんだけど……」
言い始めてすぐに、さきほどのエリアスとのやりとりが鮮やかに脳裏によみがえる。
必死に押し込めていたつらさが堰を切ったように盛り返してきて、アキはそれに耐えるように唇をかんだ。
そうして、さきほどエリアスと交わした会話を、ときどき言葉に詰まりながらもひとつひとつレオに説明する。
順を追って話すうちにどうしようもなく悲しくなってしまって――アキはいつの間にか、涙を呑むようにして言葉を発していた。
にじんでしまう目もとを手で押さえ、鼻をすすりながらたどたどしく説明するアキの話を、レオは一言も発さずにうんうんと頷きながら聞いてくれている。
その彼のおおらかな雰囲気が、遠慮なくなんでも話してくれていいのだと言ってくれているようで――アキは次第に子どものように泣きじゃくりながら、自分の思いを全部レオに打ちあけていた。
「――……それで、私、つらくて、悲しくて、なにも考えられなくて……。エリアスに、なにも言えなかった……」
すべてを説明し終えたアキは、膝の上で握った拳に視線を落としながら歯を食いしばった。
今度こそ泣くまいと思っていたのに、自分の意に反してこみ上げてくる涙が止められず、ぽろぽろととめどなく手の甲に落ちてゆく。
泣くことしかできない自分が情けなくて、ごめん、とかぼそく謝るアキを、レオはひどくつらそうな表情で見つめていた。
彼はアキの嗚咽が止まるまで少し待ったのち、言葉を選ぶようにして静かに言う。
「――……そんなことが、あったんだな」
話してくれてありがとな、と言い添えて、レオはその光景を思い浮かべるように宙を見上げた。
「……『自分は近しい人ほど傷つけてしまうから、大切な人ほど自分から遠ざけたい』、か。まあ、あいつらしい考え方ではあるよな。本当はさびしいくせに強がりやがって、ほんっと……――不器用なやつ」
誰に言うわけでもなく呟いて、レオはさびしげに苦笑した。
なんと言葉をかけたらいいものかと迷っていると、レオはこちらをちらりと見てから、どこか遠くを見やる。
「本音を言うとさ、あいつには、もっと俺たちのことを信じてほしいんだよ。エリアスが俺たちを守ろうと躍起にならなくても大丈夫だって、むしろ俺たちがおまえを守ってやるよって、あいつにそう思ってもらえたら……いいのにな」
やさしく呟かれたレオの最後の言葉に、アキは目の端をぬぐいながら、こくりと頷いた。
――エリアスに頼ってもらいたい。彼に信頼されたい。
それは、自分だけではなく、レオも……そして他の仲間たちも、切に思っていることなのかもしれない。
それもこれも、みんな、エリアスのことが好きだから。
何者にも立ち向かう強さと、人を思いやるやさしさを兼ねそろえた彼を、誰もが傍にいて支えたいと思っているからだ。
(……どうしたら、エリアスを守れるくらい強くなれるんだろう)
戦う力だけではなく、心も強さも。
レオはベッドから立ち上がると、ゆったりとした足取りで歩き、アキの真向いの椅子に腰を下ろした。足を組み、指先を組んだ両手をその上に置いて話し始める。
「なんつーか、あいつは誰に対しても誠実すぎるんだよな。せめて俺ら仲間には、もっとわがままに、利己的に振るまってくれてかまわないんだけどな。けど、あいつの立場がそれを許さねぇんだろうな。――だから」
そこまで言って、レオは冗談めかした笑顔をアキに向ける。
「おまえとエリアスが恋人同士になってたって聞いて、正直驚いたぜ。おまえらが相思相愛っつーことは周知の事実だったとはいえ、まさかあいつが、おまえに自分の気持ちを伝えるとは思わなかったからなあ」
(周知の事実っ……)
面と向かって言われて思わず照れていると、レオが笑いを含みながら言う。
「なにせあいつ、今までどんなに高貴なお姫さんや誰もがうらやむ美女に言い寄られても、すっとぼけてんじゃねぇかってくらい興味を示さなかったんだぜ。いっそ俺らが心配になるくらいにな」
「そ……そうなんだ?」
そう言うレオもヨハンも浮ついた話はなさそうだけど、と言おうとして思いとどまる。
彼らはおそらく、そんな意識を持つ余裕もないほどに、魔王と戦うために武芸や勉学を磨いてきたのだろう。他の追随を許さない彼らの強さは、生まれ持った才能はもちろんのこと、かけてきた時間の多さにもあるのかもしれない。
アキの相づちがどこかずれた反応に感じたのか、レオが半眼になる。
「おいおい、あいつがこと恋愛に関してはどうしようもねぇくらい鈍感なのはおまえもよく知ってるだろ。まあ、それだけが理由じゃなく、あいつは立場的に、恋人を作らない……というか、自分にとって大切な存在を作らないようにしてたんだろうな。――おまえに会うまでは」
不意にレオにやさしく微笑まれ、アキは気恥ずかしくなってうつむいた。
まるで、今まで恋愛感情から頑なに逃げていたエリアスだったけれど、その彼にとって、自分は特別な存在だったのだと言われたようだったからだ。
レオはアキの心中を知ってか知らずか、少し耳もとを赤く染めた顏で言う。
「――……あいつのその気持ち、俺もよくわかるんだぜ」
「え?」
聞き返すようにレオの顔を見やれば、彼はさらに恥ずかしそうにあさってに視線を向けた。
「いやな、アキ、おまえはとくに絶世の美女ってわけじゃねぇけど――」
いきなりなにを言いだすのかと口を挟もうとしたアキを制して、レオは続ける。
「おまえって、なんに対しても一生懸命で、とにかくまっすぐにがんばるところあるだろ? おまえはさ、この世界に来て慣れねぇことばっかでいろいろつらかったと思うんだよ。それでも逃げずに踏みとどまって、わかんねぇことは俺たちに積極的に聞いて、で、逆に俺たちが困ってるときは支ようとしてくれたじゃねぇか。それがなんか健気で、かわいいっつーかさ……って、俺なに言ってんだろうな」
手放しで褒められ、恥ずかしくなって口を引き結ぶアキに、レオもまたさらに耳もとを赤くしながら後ろ頭をかいた。けれどそこで言葉を止めることなく、レオはアキを真摯に見つめる。
「まあいいや、この際だから全部言っちまうとな、おまえがそんなだから、なんつーか、そばにいておまえのこと応援したくなるんだよ。で、危なっかしいおまえを見てると、俺がそばについてて守ってやんなきゃって思うんだよな。で、そう思ってるうちに、まあ、うん、どんどんおまえのこと好きになっちまうんだよ」
まるでレオからもう一度告白されたような気持ちになって、アキは今度こそ顔を真っ赤にしてうつむいた。レオのような実直で真面目な男性にそう言ってもらえて、うれしいようなくすぐったいような、とにかく照れてしまうのだ。
レオもまた、アキから顏をそらしながら、気恥ずかしそうに視線だけをこちらに流す。
「だからあいつも、おまえのそういうところに、惚れたんだと思うぜ」
「そ、そうなのかな……」
(――恥ずかしいっ……!)
顔が熱くて視線が上げられない。
いたたまれなくなる空気を切り替えるように、レオが軽く咳払いをする。
「だからまあ、エリアスにとって、おまえみたいな存在は初めてだったんだと思うぜ。だから、『勇者』としてもひとりの男としても、おまえのことを守りたかったんだよ。それなのに、今回いろいろなことが重なって、こんなことになっちまっただろ?」
さとすように言うレオに、アキは小さくうなづく。
「あいつは、大切なおまえのことを巻き込んで、苦しめちまったから、たぶん自分のことがあまりにも情けなくなっちまったんだろうな。だから、おまえと別れるなんてそんなひどいこと言いだしたんだろ。……ったく、今度はなにがあってもおまえを守れるように最強になってやるって、それくらい言えってんだよな」
いたずらっぽいまなざしで言うレオに、アキはほほえんでから拳を胸に寄せた。
(このまま、エリアスとの関係を終わらせたくない……)
このままでは、また彼は『勇者』として周囲に隔たりを持って、心を閉ざしてしまう。自分の心を、着飾ってしまう。
エリアスの、どこか無理をしているような、見ていて胸のつまるような他人行儀な笑顔をもう見たくはなかった。そうではなくて、愛しい人に向けてくれる、あの幸せそうな笑みをまた自分に向けてほしかった。
自分がこれからどうしたいのか、考えているうちにそれが見えてきたアキは、テーブルに置かれている紅茶に視線を落としたままレオに問いかける。
「……レオ、私、どうしたらいいのかな」
「ん?」
なにが、と首をかしげる彼に、アキは椅子から腰を浮かせて身を乗りだす。
「私、このまま、エリアスをひとりにしたくない……エリアスと、別れたくない……!」
本音と、素直な欲望が口をついて出た。
自分は、エリアスに孤独になってほしくないと願いながらも、それと一緒に、自分だけのことを見ていてほしいと願っているのかもしれない。
他の誰にも渡したくない、他の女性を見てほしくない、強い言葉で言えば、彼を独占したいと思っているのだろう。
この世界のみんなのものである勇者様に、こんな感情を抱くのは驕っているかもしれないけれど、これが自分の素直な感情だった。
――エリアスのことが、好きだから。
「私、エリアスのこと、大好きだからっ……」
あふれる気持ちのままにふるえる声で言えば、感情がたかぶって、まつげがまた涙でぬれてくる。
自分の彼への気持ちの大きさを自覚すると同時に、『もう終わりにしよう』と力なく首を振った彼の言葉が思い出された。
あれだけ傷ついて、追いつめられてしまった彼に、どうしたらまた振り向いてもらえるのだろう。
もっともっと自分が強くなってからでなければ、また彼の負担になるだけなのではないか。そんなことをいったら、自分など一生、彼につりあわないのではないか。
一度こうと決めたら、かたくなに信念を貫き通そうとする彼だ。
もしかしたら、もう、自分の気持ちが彼に届くことは、ないのではないだろうか――。
そう思った途端に胸が締めつけられる思いがして、涙が熱くふくれあがった。ぐっと我慢しようと唇を噛んだけれども、とめる間もなくこぼれ落ちてしまう。
言葉につまって嗚咽をもらすアキを、レオは悲痛な面持ちで見つめていた。なにかを言おうとして逡巡した様子を見せてから、彼は我慢できなくなった素振りでぼそりと言う。
「……泣くなよ」
「え?」
あまりにも低い声で言われて、アキは顔を上げ、涙でぬれた瞳を瞬いた。
レオは、そんなアキを瞳に鋭い光を宿して射抜くように見る。
「泣くなよ、アキ。俺は、そんなふうにおまえを泣かせるために、今回、死にもの狂いでがんばったわけじゃねぇんだよ。あいつと……エリアスと戦ったわけじゃねぇんだよ!」
「レオ……?」
勢いよく立ち上がったレオは、真向いに座るアキのところに歩み寄ると、ひどく傷ついた表情で彼女を見下ろす。
目の前に立つ、どこか豹変した様子のレオを見上げて、アキは首をかしげた。
「レオ、どうし――」
「――頼むよ、アキ!」
レオの顔をうかがおうとテーブルに片手をついて立ち上がろうとした瞬間、レオがその両腕を伸ばし、彼女の体を強く抱きすくめた。
びっくりして目をまばたくアキの肩口、頬に髪が触れるほど近くにレオの顔がある。
「レ、レオ……?」
アキが目を白黒させて体を強張らせると、彼はかまわずに、彼女の背に回していた腕に力を込めた。力強く、胸が苦しく感じるほどにアキを抱き寄せる。
「こんなときに……卑怯、かもしんねぇけどさ……、俺じゃ、駄目なんだよな……?」
戸惑うアキの耳もとで、レオがささやくように言う。
彼の言わんとしていることがわかって、アキはなにも答えられずに息を呑んだ。
「俺なら、おまえのことこんなふうに傷つけて、泣かせるようなことはしねぇ。もうこれ以上、おまえにつらそうな顔してほしくないんだよ……!」
「レ、オ……」
――胸が、痛い。
彼が、自分のことを想ってくれる気持ちが、痛いほどに伝わってきて。
(どうして……)
アキは、レオに抱きすくめられた腕の中で、なだめるように彼の肩に手を添える。
――どうして、人を好きだと想う気持ちは、すれ違うのだろう。
届いたり、届かなかったり、ほんの些細なことをきっかけに行き違ったりするのだろう。
『君も俺を好きだと言ってくれて……こんな奇跡があるのかって、こんなに幸せなことがあるんだって、俺、君のおかげで初めて、生まれてきてよかったなって、思えたんだ』
ふいに、エリアスが自分に告げた言葉を思いだす。
自分が想う相手に自分のことも想ってもらえる、それは本当に、かけがえのない奇跡なのだと思う。やはりそれを、失うわけにはいかないのだ。
「――アキ」
レオに耳もとで熱を込めた声で名前を呼ばれ、心臓が飛び跳ねる。
肩口にあるレオの顔に視線を向けると、彼がくぐもった声でささやいた。
「……おまえが好きだよ あいつに負けねぇくらい」
レオの強い想いが伝わってきて、それに応えられない自分がどうしようもなくて、やりきれない思いが一筋の涙となってアキの頬を伝う。
レオは、それ以上なにも言わずにアキの体を離した。彼と向き合って戸惑った視線を向けるアキを、彼は熱を宿した瞳で射抜くように見つめる。
その深い紫色にきらめく双眸に、端正な容貌に、息を呑むほどに捉われる。
レオを見つめ返したまま微動だにできないでいると、そんなアキの片腕を、彼がぐいと自分のほうへ引き寄せた。息が触れあうほどの至近距離で彼が告げる。
「あいつがおまえを手放したんなら、俺は――遠慮しねぇからな」
アキは目を見開き、彼の熱情を感じる視線を受けきれなくて、視線をそらして何度も首を横に振る。
「レオ、私っ……」
答えられない。彼の気持ちには応えられないのだ。
自分は、エリアスのことが、好きだから。
もしもエリアスに、もうこの想いが届かないとしても、諦められないから。
けれどそれは、レオも同じなのかもしれない。
誰かを想う気持ちは、止められるものではないのだろう。
アキが言葉に詰まっていると、レオはぱっと、あっさりと手を離した。アキが声をかけるよりも早く、彼は踵を返す。
「――エリアスの様子、見てくる」
それだけ言って、彼はアキに背を向ける。
そのまま歩き出そうとする彼の背中に、アキはとっさに手を伸ばした。
「レオ! 待っ……」
「おまえはここで待ってろ」
ぴしゃり、と静かな声音で言われて、アキはびくりと震え、伸ばしかけていた手を引いた。
声をかけたくても彼の背中がそれを拒絶していて、尻込みしてしまって口から言葉が出てこない。
なにも言えない代わりに、アキは唇を引き結んでうつむいた。
レオは、こちらを一度も振り向かずにそのまま部屋を出て行ってしまう。
ぱたん、と乾いた音を立ててしまる扉。
場内には、また自分ひとりが取り残される。
耳が痛く感じるほどに静まり返る室内で、自然と目尻に涙が浮かんで視界がぼやけていく。
(……どうして)
アキは唇を噛んで、成すすべもなくその場に膝をついた。
(どうして、こんなことになっちゃったんだろう――……)




