第五十六話 色褪せる世界
ミーナとサトクリフに見送られて部屋を出たアキは、はやる気持ちのまま、エリアスの部屋をめざしてまっすぐに足を進めていた。
ミーナの話では、彼は二階のつきあたりの部屋でひとりで休んでいるらしい。
エリアスの部屋に近づくにつれてどんどんとはやくなる歩調と鼓動に、アキは、自分の中で彼がどれだけ大きい存在だったのかを痛感していた。
早く彼の顔が見たかった。
彼が、本当に自分たちのところに帰ってきてくれたことを確かめたかった。
(エリアス、本当に大丈夫……だったのかな)
まだ彼の無事な姿を見ていないからか、彼が本当に正気を取り戻して自分たちのところに帰ってきてくれたのか、いまだに実感がわかないのだ。
ミーナが彼を看病してくれていたのだから間違いないだろうとはいえ、考えはじめるとどんどんと不安になってしまって、アキはいつのまにか駆け出しながらエリアスの部屋の前へとやってきていた。
木製の扉を前に、アキはごくりと唾を飲み込み、急いてしまう気持ちを落ちつける。
(エリアス、ここに、いるんだよね……?)
もし起きていたら、なんと声をかけたらいいのだろう。
無事でよかった、とか、身体はもう大丈夫、とか。
(ううん、きっと――……)
――彼の無事な顔を見たら、きっと、なにか声をかける余裕なんてない。
そう思った途端にふっきれた気持ちになって、アキはためらわずに扉に手をかけると、なるべく音を立てないようにしながらそっとそれを押し開いた。
「エリアス……?」
まず目に入ったのは、薄く開けられている窓から入り込む風によって、ふわふわとやさしく舞っている薄桃色のカーテンだった。
部屋にはベッドがひとつと、その脇に椅子がひとつ無造作に置かれている。
室内は風の出入りによって涼やかで、部屋の床全体に陽射しがあたって木目があたたかく照らしだされていた。
物音ひとつしない部屋には、窓辺を飛び交う小鳥の、ピピピピ、というさえずりが陽気に響いている。
平和そのもののおだやかな空間に、アキはどこか不安だった心がすっと落ちついていって、ゆっくりとした足どりでベッドに歩み寄った。
上からそろりと寝台を覗き込むと、そよいでいる風を心地よさそうに受けながら、すやすやと寝入っているエリアスの姿が目に飛び込んできた。
綿の掛け布を体にかけたエリアスは、静かな寝息を立てて胸を上下させている。
いつも彼が着ている白いマントやコートといった仰々しいものは身につけておらず、普段それらの内側に着ている薄い青のシャツ姿をしていた。
青白い顏色をしているけれども、表情はとてもおだやかで、寝顔はどこかあどけない。
アキは、実際に彼を目の当たりにしたからかひどくほっとして、しばらくその場にたたずんだまま彼の寝顔を見つめた。
彼が自分の手の届くところにいる――そのありふれた日常が戻ってきたことが胸がいっぱいになるほどうれしくて、アキは自然と涙で目をうるませる。
あわててそれを指でぬぐって、ベッドの脇にあった椅子にすとんと腰かけた。
(……エリアス、よく寝てる)
彼の無防備な姿に小さく笑いながら、アキはすこやかに寝ている彼に片手を伸ばした。
彼の前髪に指をとおして、そっとそれをすいてみる。
金に輝く絹糸のように綺麗な髪が、さらりと指のあいだをすり抜けていった。
「……エリアス」
聞こえていないだろうとわかっていながらも、ささやくような声で彼に呼びかける。
アキは、椅子から立ちあがって彼に顔を寄せると、彼の耳もとでそっとささやいた。
「エリアス……――おかえりなさい」
「う……」
直後、彼の口から小さなうめき声がもれて、アキは驚いて体を離す。
どきどきと緊張しながらエリアスの顏を見つめていると、軽く身をよじった彼が、閉じられていた両目をうっすらと開けた。
まだどこか焦点が合っていないけれども、正気を失っていたときとは違う、光を取り戻した緑色の目がたしかにこちらを見つめている。
「アキ……?」
エリアスが、かすれた小さな声でアキの名を呼ぶ。
もうひどく聞き慣れた愛しい人のおだやかな声音に、アキはとどめていた感情が一気にあふれ出して、寝転んでいる彼の首もとに腕をまわしてぎゅっとしがみついた。
「エリアス、よかったっ……、よかった……!」
彼に言いたかった言葉などすべて吹き飛んでしまったアキは、こぼれる涙を止めることもできずに、子どものように彼の肩口で泣きじゃくる。
エリアスのぬくもりも、匂いも、頬をくすぐるさらさらとした髪も、そのどれもがずっと取り戻したいと願っていたもので――こうしてまた彼に触れられたことが奇跡のようにうれしかった。
あのとき、女神に操られて別人のような姿で敵にまわってしまった彼を見て、自分は彼を失ってしまったのではないかと、もう自分の声が彼に届くことはないのだと、そう思っていたから……。
エリアスに抱きついたまま止まることなくすすり上げていると、彼はアキの背にそっと手をまわして、何度も何度もやさしくその背をさすった。
「アキ、ごめん……ごめん……! 俺っ……」
必死になにかを伝えようとして言葉につまるエリアスに、アキは少しだけ体を離すと、ふるふると首を振る。
「エリアス、大丈夫、もう、大丈夫だから……! あなたが無事に私たちのところに帰ってきてくれて、私、それだけでもう充分だから……!」
彼のベッドに膝をついて座りながら、必死に涙をぬぐってほほ笑みかける。
自分にとっては、いま彼がこうしてここにいてくれる――その事実だけで充分だったから。
エリアスは、そんなアキの心中を察してか、ぽたぽたと上から落ちてくるアキの涙を頬に受けながら、どこかさびしな笑顔でありがとうとだけつぶやいた。
――いつもの彼が、戻ってきてくれた――……。
そのことが嬉しくて嬉しくて気持ちがいっぱいだったアキは、このとき彼の心が少しだけ自分を遠ざけていることに――気づけなかったのだ。
そうしてさんざんに泣きはらしてから、アキは、ここにいたるまでになにがあったのか順を追ってエリアスに説明した。
彼が言うには、自我を失っているあいだのこともおぼろげに記憶が残っていて、自分がみんなになにをしてしまったのか……その一部始終を覚えているらしい。
ただ、アキが月の女神の力によってエリアスの太陽の女神の力を抑え込んだその瞬間からは、彼も完全に意識を失ってしまって、なにがどうなってこの宿に戻って来られたのかは覚えていないということだった。
アキは、ルイスとサトクリフの転移魔法によって自分たちはこの町に戻ってこられたこと、レオやヨハンも命に別状はないことを伝えた。
それを聞いたエリアスは、はっと目を見開いたあと、「よかった……よかったっ……」と心底ほっとした様子で顔をゆがめて、まるで少年が必死に涙をこらえるように肩を震わせて静かに泣きだしてしまった。
操られているあいだも記憶が残っていたというエリアスは、きっと、自分の意に反して仲間たちを傷つけていく自分を、止めることも泣き叫ぶこともできずに、ただ胸のつぶれる思いで見ていることしかできなかったのだろう。
そのくやしさやつらさを思うとあまりにも理不尽で、アキは、歯を食いしばって泣く彼に寄り添い、あやすように抱きしめた――。
「太陽の、女神の紋章……?」
あまりの安堵感に、アキがいる前で気がすむまで歯をくいしばって涙を流したエリアスは、それが落ちついてから、彼女が教えてくれた驚きの事実に目をまたたかせていた。
彼女は、エリアスが自我を失ってしまった原因――太陽の女神の紋章というものについて、ヨハンから聞いたという話を教えてくれたのだけれど、その太陽の女神と月の女神の話は自分の知らないことばかりで――それらを知らずにひたすら女神にいわれるままに必死に戦い続けてきたなんて、なんだか女神の手のひらで思うままに転がされていたようで、どうにもやるせない気持ちになるのだった。
それを知らなかったがゆえに、自分の中に眠っていた太陽の女神の力を感情のままに暴発させて、仲間や……そして、誰よりも大切だと、なにがあっても自分の手で守りたいと思っていた彼女を傷つけてしまったのだ。
それはもはや、取り返しのつかないことだった。
(……俺は、自分の近くにいてくれる人ほど、傷つけてしまうのかもしれない……)
レオやヨハン、ミーナやルイス、そして、アキの顔が頭をよぎる。
みんな、『勇者』としての自分ではなく、エリアスというひとりの人間として自分のことを見てくれる、かけがえのない人たちだった。
自分が自分らしくいられるのは、仲間である彼らの前でだけだったのだ。
この居心地のいい場所を守りたいと、なにに変えても自分の力で彼らを守るのだと、そう心に誓っていた。
『勇者』といるとつねに戦いがともなうという、その危険を知っていてもなお一緒にいてくれる彼らの恩にむくいたいと思っていたのだ。
それなのに――。
(……俺の『勇者』の力が、みんなを傷つけてしまったんだ……)
自分が『勇者』であるばかりに、自分の手で守りたいと思っていた人たちを、あろうことか己の手で危険な目にあわせてしまった。
あの場に、月の女神の力を宿すアキや、彼女の力を支える聖遺物を操るレオとヨハンがいなかったらと思うと――想像することも恐ろしかった。
やはり自分は、誰かと一緒にいてはいけないのだ。
自分のそばにいれば、かならず『勇者』の強い運命に巻き込んでしまう。
自分は己の持つ太陽の女神の力を使いこなせていないのだから、なおさらだ。
最も大切な人たちは、自分から最も遠ざけなければならない。
そうすることでしか、自分は大切な人たちのことを守れないのだ……。
(……望んでは、いけなかったんだ……)
くやんでもくやみきれない後悔が、ぽとりの冷たく心の芯に落ちていく。
願ってはいけなかったのだ。
冗談を言って笑いあえるような仲間が……友人がほしいだなんて。
どうしようもなく大好きで愛しい女性のことが……――アキのことが、ほしいだなんて。
(俺は、エリアスとしての野心を、持ってはいけなかったんだ……)
自分は、我を持って生きることは許されないのだ。
『勇者』はこの世界のものであり、女神の所有物。女神に造られた人形らしく、この世界と女神のためだけに生きて、そして命を終えればいい。
(……わかっていた……ことじゃないか)
『勇者』として生まれたときから、自分はなにかをほしがってはいけないのだと、むしろ人びとになにかを与え続けなければならない宿命なのだと、わかっていたのに。
いつのまにか自分は、とてもわがままになってしまって……ほしいものをほしいと思うようになってしまったのだ。
(だから……ばちがあたったんだ……)
自分がそばにいてほしいと願って、それに応えてくれたかけがえのない人たちを、ことごとく傷つけてしまった。
まるで、自我を持ってしまった自分を女神にいさめられたかのように、女神の力で、自分自身を見失うことによって……。
どうしたら、償えるのだろう。
どうしたら、これ以上みんなを傷つけずにすむのだろう。
どうしたら――――。
「エリアス、大丈夫……?」
急に黙り込んでしまったエリアスを心配して、かたわらの椅子に腰かけていたアキが気づかうように眉根を寄せた。
エリアスはそれに弱々しくほほ笑んで返すと、細々と息を吐きだす。
――近しい人たちを傷つけてしまうのならば、ひとりになればいい。
ひとりになれば、誰も傷つけずにすむ。……自分も、傷つかずにすむ。
(……思えば、最初からそうやって生きてきたじゃないか)
いつのまに自分は、ひとりであることが、孤独であることが、怖くなってしまったのだろう――。
エリアスは、拳に握った手を、自分の胸もとにあてる。
(心など、なくしてしまえばいいのかな……)
そうすれば、ひとりでさびしいと思うことも、仲間と一緒にいたいと思うことも、誰かを好きだと思う気持ちも、いっさいの感情を抱かずにすむのに。
人形は人形らしく、主人に命令されたことだけを忠実にこなせばいいのだ。
自分は、この世界の誰とも異なる、異物なのだから……。
それを思いだした途端に胸のつぶれるような思いがして、その直後、自分でも目を疑うほどに、いままで色鮮やかに見えていた周りの情景が、まるで白黒で塗りつぶされていくように急激に色を失って見えた。
自分からこの世界に隔たりを持ってしまったからか、周囲の世界が急に色褪せて見えるようになってしまったのだ。
この世界のどこにも、自分は属していない。自分は、この世界に生きる者ではない。
そう自覚して、自分の存在を世界から切り離してしまったことが原因なのかもしれなかった。……この錯覚は、自分の心の現れなのだろう。
目の前で心配そうに見守ってくれている彼女の姿でさえ、いまは、どこか遠くにいるように感じられた。
(これで、いいんだ……)
これが、本来の自分の立ち位置なのだから。
これで、ひとりになっても、さびしくはない。
(もともと俺は、ひとりだったのだから……)
「……アキ、ひとつ……お願いがあるんだけれど、聞いてもらってもいいかな」
ぽつりと口を開いたエリアスに、アキは、なに、と不安げに身を乗りだす。
もしかしたら、自分の様子がどこかおかしいことに気づいたのかもしれない。
エリアスは、自分の本心を包み隠さず吐露するように、深く息を吐いた。
「……俺は、いま……自分が、自分自身のことが、とても、怖くて……」
自然と、声が震えた。
アキにこれから伝える事柄が怖くて震えているのではない。あのとき自我を失い、獰猛なほどに仲間に剣を振るっていた自分のことを思いだすだけで、手も、声も、不安と恐怖で震えるのだ。
まるでもう一人の自分が表に出て、本来の自分は裏に隠されてしまったような感覚だった。裏の自分は、表の自分が残虐な行為に及ぶのを、なにもできずにただただ嘆き叫んでいることしかできなかったのだ。
あのときの無力な自分のことや、やり場のない気持ちを思い返すだけで、押しつぶされるように胸が痛くなる。
エリアスは、黙って耳をかたむけてくれているアキのやさしさに甘えながら、とつとつと言葉を続ける。
「……きっと俺は、自分に近しい人ほど……傷つけてしまうんだと思う。近くにいてほしいと思う人ほど、たくさんのことに巻き込んでしまうんだ……」
もう、あんなことには耐えられなかった。
自分がこの場所を離れることで大切な人たちを守れるのなら、そうするしかないのだ。
エリアスは、消え入りそうなほほ笑みをアキに向ける。
「だから俺は、誰かと行動しては……いけないんだと思う。大事な人たちを守るためには、そうするしかないから」
エリアスの言い分を真っ向から否定するように、アキは激しく首を振った。
「そんなこと……! 今回は、いままで誰も知らなかった女神様の力が原因だったから、おおごとになっちゃった、だけで……。エリアスのせいじゃないですよ! もう、こんなことは二度とっ……!」
「――言いきれないよ!」
アキがみなまで言い終わる前に、おもわず声を荒げると、彼女がびくりと震えた。
エリアスは、大声をあげてしまった自分に驚きながら、口もとに手をあてる。
「……ごめん、アキ。君を責めるつもりじゃ、なくて……」
人前でこんなに感情的な声を出してしまったのははじめてだった。
それだけ自分は、彼女の前では本音を取りつくろえなくなっているのだろう。
エリアスは、アキの視線から逃れるよに手もとに視線を落とす。
「もう、こんなこと二度とないなんて……誰も、俺にも、わからないことだ。また、君やレオたちにひどいことをしてしまうかもしれない、今度こそ、俺がこの手で大切な人の命を奪ってしまうかもしれない……」
いまにも泣きそうな表情で瞳を揺らして聞いているアキに、エリアスは堰を切ったようにあふれてくる思いの丈を伝える。
「俺は、それがとても……こわいんだ。考えるだけでも気がどうにかなってしまいそうなんだ。そんなことになるんだったら俺は、ひとりで戦うほうを、選びたいんだ……!」
すがるように言うと、彼女はなにかを言いかけて、口をつぐんだ。
なぐさめようとしてくれたのかもしれない。あるいは、こちらの決断を否定しようとしてくれたのかもしれない。
けれども、かける言葉が見つからないのか、アキはつらそうに顔をゆがめたまま視線を伏せた。
エリアスは、ひと息置いてから言葉を続ける。
「……だから、謝ってすむことではないけれど、まずは、みんなに謝りたいと思うんだ。それで、そのあと俺は、ひとりで魔王城に行こうと思う」
「え……?」
アキが表情を凍らせてエリアスを見つめる。
エリアスは、そんな彼女の様子をうかがうように見上げた。
「……魔王が和解を望んでいるなら、俺がひとりでいけばいい。みんなを危険な目に遭わせる必要はないんだ。それで、どうしてもアキ、君に来てもらわなくてはいけなくなったら、そのときには……迎えに来たいと、思う」
アキは、エリアスの言葉を肯定することも否定することもせず、ただ黙って視線を伏せて聞いていた。
返事に迷っているというよりは、エリアスの提案があまりにも信じられないものだったから、受け入れられなかったのかもしれない。
もしかしたら彼女は、エリアスが周囲にはっきりとした隔たりを持ったことを感じとったのかもしれなかった。
自分勝手なことばかりの自分が本当にいやになるけれども、そうすることでしかみんなを守る自信が持てず、自分の心を保つことができそうになかったエリアスは、すべてを自分から遠ざけることしかできなかったのだ――……。
アキは、目の前でいまにも消えてしまいそうなほどにかすかにほほ笑むエリアスを、ただただ、胸のつまる思いで見ていることしかできなかった。
彼から発せられた言葉が、あまりにも、悲しくて……。
仲間を傷つけてしまったあの出来事が、ここまで彼を追いつめてしまったのかと、後悔だけで気持ちがどうにかなってしまいそうだった。
エリアスが自我を喪失したあのとき、自分にもっと、力があれば……。
ちゃんと、自分の身を守れるくらいに強かったなら……。
くやんでもくやみきれなかった。
あの瞬間に戻ってやり直したいと思っても、一度起きたことは変えようがないのだ。
(やっと、エリアスが心を開いてくれるようになったのに……)
時間をかけて、少しずつ彼の本来の笑顔を取り戻していっていたのに。
今回の出来事で、彼は、開きかけていた自分の心をまた閉ざしてしまったのだ。
みんなを自分から遠ざけることで、いまにも不安に押しつぶされてしまいそうな己の心を守ろうとしているのかもしれない。
そうせざるを得ないほどに、エリアスを追い込んでしまったのだ。
あんなに、みんながいてくれて幸せだと嬉しそうに笑ってくれていたのに――。
エリアスは、アキの思いを察したように、そっと腕を伸ばして彼女の手をとった。
「……とくにアキ、俺は、君だけは……こんな俺を好きになってくれた君のことだけは、もうこれ以上危険なことに巻き込みたくないんだ。俺から離れることで、それだけで君を守れるのなら、俺は……そうしたい」
「それは……」
エリアスが言外に含んでいる意味がわかって、アキは、胸がずきずきと痛みはじめる。
この先の言葉を、聞きたくはなかった。
自分の予想がはずれてほしかった。
けれども、そう願ってもたしかめずにはいられなくて――。
アキは、歯を食いしばりながら、しぼり出すような声でエリアスに問いかけた。
「……それは、私と……別れるっていうこと……?」
言葉にするのもつらくて、アキは顔をゆがめて涙を浮かべる。
……エリアスの顔がぼやけて、よく、見えない。
彼は、そんなアキを気づかわしげに見てから、視線を伏せて静かにうなずいた。
「……そう、だね。お互いに、特別な関係をやめよう。別れるわけじゃない、もとの関係に戻るだけだ。勇者と、勇者の片腕の関係に」
最初のころの関係に、戻ろうということ――。
……自分は、エリアスを失ってしまったのだ。完全に、拒絶されてしまったのだ。
彼と想いが通じあったときの光景が走馬灯のように頭をよぎって、彼を失うことに耐えきれないアキは、駄々っ子のように自分の頭を押さえて激しく頭を振った。
「い、や、エリアス、私っ……」
アキは、言葉につまったままぽろぽろと泣きだしてしまう。
言いたいことがあまりにも多くて、上手く言葉にできない。
彼を困らせたくはないのに――涙が、涙が止まらない……!
そんなアキをせつなげに見つめたエリアスは、彼女の手をそっと握った。
「――アキ、俺は、いままで誰のことも好きになることはないと思っていた自分が、君のことを……どうしようもないくらい好きになって、そして、君も俺を好きだと言ってくれて……こんな奇跡があるのかって、こんなに幸せなことがあるんだって、俺、君のおかげではじめて、生まれてきてよかったなって、思えたんだ」
とつとつと気持ちを伝えるエリアスに、アキはあふれる涙を止められないまま耳をかたむける。
エリアスはそんな彼女を見守りながら、さとすように目を閉じてほほ笑んだ。
「本当に……ばかみたいにうれしかったんだよ。勇者という称号よりも、この世界よりも、俺にとっては君がすべてだったんだ。……けれど」
エリアスは、自嘲気味の笑みを浮かべる。
「きっとそれは、許されないことだったんだ。だから、女神の怒りに、触れてしまったのかもしれない」
エリアスは、ぽろぽろと泣き続けるアキの頬に手を添えて、長い指でその涙をぬぐう。
「……アキが好きだよ、本当に。だから、守りたいんだ。女神からも、魔王からも、この世界からも、そして――……『勇者』の俺からも」
最後をとくにはっきりと口にしたエリアスは、アキがなにかを言いつのろうとするのをさえぎるように、力なく首を振った。
もう、すべてをあきらめてしまったかのようなしぐさだった。
「――だから、もう、終わりにしよう」
エリアスから発せられたその一言が、どすんと、鈍痛のように心の奥底に落ちる。
それは、完全な別れの言葉だった。
アキはそれにいやと首を振ることもできず、言い返すこともできず、ただ呆然と彼を見つめたまま涙が頬を伝い落ちていく。
(もう、届かないんだ……)
もう、彼が愛しい恋人に向けるあの笑みを、自分に向けてもらうことはできないのだ。
この手を伸ばしても、彼の心に届くことは、ないのだ……。
「エリアス、私、は……」
悲しくて、悲しくて、どうしようもなく泣き続けるアキに、エリアスはひどくさびしげな表情を浮かべて、そっと彼女の頬に触れた。
アキは、彼にうながされるように顔をあげる。
すぐ近くにある彼の綺麗な顔が、とても悲しそうな表情をしていた。
――私は、また、彼をひとりにしてしまうのだ……。
「……――好きだよ、アキ。大好きだ」
彼の悲痛なほどに想いのこもった言葉を聞きながら、アキは目を閉じる。
そっと重ねられる唇は、わずかに触れただけなのに、胸が痛むほどにせつなかった。
彼と唇を離すと、アキは、すがるように彼の胸もとをつかんで彼の胸に頭を寄せる。
けれども、彼はなにも言わずに首を振った。
もう終わりにしよう、さきほどの言葉を、もう一度言われたかのようだった。
アキは立ちあがると、エリアスを振り返らずに、気持ちを振りきるようにして部屋を飛び出した。そうでもしないと、この事実を受け入れられそうになかったのだ。
そうして部屋の扉を閉めて、ひと気のない廊下にたたずみながら、後ろに倒れ込むように扉に寄りかかる。
(……終わっ……ちゃったんだ……)
――自分は、失ってしまったのだ。大切な、人を。
そう実感した途端、心の中に空洞ができたかのように愕然として、アキはずるりとその場に崩れ落ちる。
胸が痛くて痛くて、心が裂かれるようで、アキは力なく廊下に座り込んだまま、悲鳴をあげるように大声で泣いてしまった――……。




