第四話 世界の仕組み
(す、すごく壮大な話を聞いてしまった……)
ぐったりと肩を落としたアキは、一人、重い足取りで二階の廊下を歩いていた。
頭の中で、さきほどヨハンから聞いた話を何度も何度も繰り返していたからだ。
『――以上が、今の僕から話せる範囲のことです』
その一言が、ヨハンから聞いた『勇者と魔王』の物語の締め括りだった。
彼の話によると、勇者と魔王の戦いの因果関係は、この世界の存続を賭けたものであるらしい。
(……これは、私たちの肩に世界の命運がかかってるって言っても過言じゃないのかも……)
決して生半可な決意でこの世界に来たわけではないけれど、『勇者の片腕』という自分に課せられた使命は、己が思っている以上に責任の重い立場なのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを考えながら二階の回廊に差しかかると、一階の中庭から賑やかな歓声が聞こえてきた。なんだろう、とアキは足を止めて中庭を見下ろす。
「勇者様、こんにちは!」
「エリアス様、ご機嫌はいかがですか?」
中庭では、金の髪をかろやかに陽光に反射させたエリアスが、その場にいる留学生たちや侍女の皆さまに取り囲まれて、揉みくちゃ状態になっていた。アキは手すりに肘をついて、その様子を微笑みながら見守る。
(エリアスって、どこにいても人気者なんだなあ……)
世界を魔王の魔の手から守る『勇者様』は、きっと自分の世界でいうところのアイドルのような存在なのかもしれない。ヨハンから告げられた『勇者』と『魔王』の戦いに秘められた真の意味を、一般の国民は知らないのだから――。
周囲の皆に穏やかに笑いかけているエリアスは、その隔たりをどう思っているのだろうか。
自分が女神様によって造られた命であること。辛いと思ったことは、理不尽だと思ったことは、ないのだろうか。
出会ったときから優しげな笑顔しか見せないエリアスからは、そんな悲壮感は見えないけれど、それは彼が本心を見せないようにしているからなのではないだろうか。
じっと見つめ続けていたからか、中庭で周囲の人たちになにか言葉を返していたエリアスが、ふと顔を上げた。ばっちりとエリアスと目が合い、アキはなぜか後ろめたい気がしてぎくりと固まる。
「アキ! ヨハンとの話は終わったの?」
当のエリアスはアキの心境には気づいていない様子で、アキを見るなり嬉しそうに顔を綻ばせた。
それにどこかほっとしながら、そしてエリアスが笑いかけてくれたことに嬉しさを感じながら、アキも笑顔を返す。
――せっかくの機会だ。皆で旅に出る前に、エリアスにヨハンから聞いた話のことを相談してみるのはどうだろう。もしかしたら、彼の本心の部分を聞かせてもらえるかもしれない。
(それで私が力になれるかどうかは、わからないけれど……)
けれど、『勇者の片腕』として、エリアスがどういった志で戦いに赴くのか聞いておきたかったのだ。
アキは踏ん切りをつけると、手すりに両手を乗せて身を乗り出す。
「はい、ヨハンからいろいろ話を聞いて……あの、エリアスとちょっと話したいことがあるんですが、少しお時間をもらえますか?」
エリアスはアキの心中を察したのか、少しの間を置いてから快く頷いた。
「わかった、そうしよう。それがいいかもしれないね。――アキ、ちょっとそこで待っていて」
言うなり、エリアスは周囲の人たちに軽く挨拶を済ませると、アキのいる回廊の下まで軽やかに駆け出した。なにをする気なのか、と困惑してエリアスを目で追っていると、彼はそのまま勢いを落とさずに片足で地を蹴り、空を舞うようにしてアキのいる回廊まで一気に跳び上がった。
(う、嘘っ!?)
――ここ、二階ですよね!?
口をぱくぱくと開けているアキを尻目に、エリアスは風を孕んで舞う金の髪と純白のマントも鮮やかに、音もたてずにアキの隣へと降り立つ。
勇者は身体能力に優れているとは聞いていたが、自分からすればまるで超人のような運動能力だとアキは思う。
「エリアスってすごいんですね! 1階から2階も階段なしで行けちゃうっていうか」
冗談めかして言えば、エリアスはアキの正面に立ち、軽く前髪を掻き上げてから笑った。
「まあ、勇者たるもの、このくらいの優れた身体能力がなければ魔王とは戦えないからね。――それで、君の話っていうのは、ヨハンから訊いた勇者と魔王の物語についてでいいかな」
本題、とばかりにエリアスが切り出す。アキも表情を引き締めて頷いた。
「はい。旅に出る前に、エリアスとそのあたりのことを一度話しておきたいなって思って」
「うん、俺もそれがいいと思う。俺からアキに話しておきたいこともたくさんあるからね。――それで、どこで話すかなんだけれど……」
そこでエリアスは言葉を切って、どこか言いにくそうに、そして気恥ずかしそうにアキから視線を逸らす。どうしたんだろう、と首を傾げるアキに、エリアスは後ろ頭を掻きながら上目遣いでこちらを見上げた。
「あの、あまり人に聞かれていい話でもないから、よかったら……俺の部屋でもいいかな。男の部屋に女の人を招くのは失礼かもしれないけれど、そこなら、誰にも聞かれる心配がないから」
多少耳元を赤くして罰が悪そうに言うエリアスに、アキもまたつられるように顔が熱くなってくる。
誠実なエリアスに限ってなにかが起こることはないと断言できるが、それでも男女を意識してしまう。
なんて答えたらいいものかと考えながら、アキは慌てて顔の前で手を振った。
「あの、ええと、私なら大丈夫です! ほら、エリアスは信頼できるっていうか、そもそも勇者様のお部屋に私なんかが入ってもいいのかなっていうか……!」
しどろもどろになってしまい、自分でもなにを言っているのかわからない。
とりあえず平気です、というアキの気持ちだけ汲んだらしく、エリアスがほっとして自分の胸に手を当てた。
「そうか、それならよかった、ありがとう。俺、あまり親しい女の人っていないから、どう接したら失礼にならないのかな、とかよくわからなくて……」
え、と訊き返そうとすると、エリアスは近くを通りかかった侍女を呼び止めに踵を返してしまった。その後ろ姿を見守りながら、アキは思案する。
エリアスほど人気のある男性が、親しい女性の一人もいない、ということは、やはり自分から他人と距離を置くようにしている……という可能性はないだろうか。自分が女神様によって造られた命であるという、普通の人とは違う出生をしていることに思うところがあるのではないだろうか。
(やっぱり、エリアスとは腹を割って話してみたほうがいいかもしれない)
アキがそう思ったところで、エリアスが侍女を連れて戻ってきた。
「アキ、彼女に紅茶二つとお茶菓子を頼んだから、それをいただきながらゆっくり話そう。――お願いできますか?」
エリアスが侍女に頼み込むと、侍女は勇者様に話しかけられたという高揚感からか、顔を赤く染めながらこくこくと何度も頷いた。
「は、はい! エリアス様、もちろんです! すぐにご用意いたします!」
興奮した様子で、侍女はぴょこんと頭を下げると小走りに走り去っていく。鼻歌やスキップでもしそうな勢いだ。
エリアスと並んでそれを見守りながら、アキははーっと感心して息を吐いた。
(やっぱりエリアスは人気だなあ……)
だからこそ、親しい女性がいない、というエリアスの言葉がどこか不自然に感じるのだ。
エリアスはアキを振り返ると、廊下の前方を指差した。
「それじゃあアキ、行こう。俺の部屋は二階の突き当たりにあるから」
そうして足を進めるエリアスの背中を追って、アキもまた歩き出した。
エリアスの自室は、元々用意されていたと思われる調度品の他には、取り立ててなにも置かれていない簡素な部屋だった。勇者様の部屋とはどれだけ豪華なものだろうと想像していたアキは、あまりにも殺風景な室内に目を丸くする。
もしかしたら、勇者はいずれ旅に出なければならず、部屋に長居することはないから調度品にはこだわらないのかもしれない――アキはそんなことを考えながら、エリアスに勧められるままに部屋の中央にある長椅子に腰かけた。
すると、そのタイミングで侍女が美味しそうな紅茶とお菓子を差し入れてくれた。お菓子は焼きたてのクッキーで、香ばしい匂いがほんのりと香っている。
アキは最初に紅茶を手に取り、立ち昇る茶葉の香りにほっと頬を緩ませた。
(いい匂い……)
そう思いながら、真向いで同じように紅茶を口に運んでいるエリアスをちらりと見つめる。
なにかを思案しているように睫毛を伏せたその表情は、完璧と思えるほど絵になる格好良さだ。
優雅な所作、柔和な表情、端正な顔立ち。……それらはすべて、女神によって意図的に造り出されたものなのだろうか。
アキはソーサーの上に紅茶のカップを置き、エリアスに問いかける。
「……ねえ、エリアス。私、ヨハンから聞いたんです。この世界を存続させるために、勇者が魔王を、もしくは魔王が勇者を倒す必要があるって……」
ヨハンの話は驚くべきものだった。
まずこの世界は、『女神』と呼ばれる偉大な創造神によって生み出されたものらしい。
彼女は、世界を創造するための『創造エネルギー』という奇跡の力を持っており、その力を使ってこの世界を構築し、運営、維持してきたのだそうだ。
創造エネルギーとは、この世界にとって生命力そのものであり、女神が絶えずその力を世界に送り続けることにより、この世界は成り立ってきたらしい。
けれど、そのエネルギーは無限ではなく、世界の時間が経過するごとに徐々に減退していくそうだ。女神の創造エネルギーを消費することでこの世界は脈動しているのだろう。
そのため、この世界の命を維持するためには、定期的に創造エネルギーを充填する必要があるらしい。
世界に創造エネルギーを注入する――それが、勇者と魔王の役目なのだそうだ。
その方法として、まず『女神』は自身の創造エネルギーを魂に込めた人工生命――勇者と魔王を造り出し、彼らを地上に産み落とす。そして、両者のどちらかがどちらかの手によって倒されることにより、彼らの命に込められた創造エネルギーが世界に充填される仕組みになっているらしい。
女神が直接世界に対して創造エネルギーを充填しないのは、女神が勇者と魔王という生命体を通してでないと世界に干渉できないからだそうだ。
つまり、勇者と魔王は、この世界を生かすための点滴のようなものなのだろう。
「……ヨハンからこの話を聞いた時、なんだか途方もない話で頭がついていかなかったんです。ある意味、世界も一つの生命体ってことなんですよね」
世界もまた、生きていくためにエネルギーを必要とし、定期的にそれを充填しないと死んでしまうのだ。
エリアスもカップをソーサーに乗せると、静かに頷いた。
「そうだね。世界にだって生まれたきっかけがあり、そして存続していくためには生命力を必要とするんだ。そう考えると、俺たち人間と同じだよね。……いや、俺は人間とは言えないか」
エリアスが自嘲気味に笑って、アキははっと息を呑んだ。
やはりエリアスは、自分が女神に造られた命であるということに思うところがあるのだろう。女神の目的を果たすために意図的に造られて生まれてきた、自分の出生に。
寂しげに微笑んだまま再度紅茶を口に運んでいるエリアスを、アキはじっと見つめる。
もしかして彼は、その事実を気にして、自分はこの世界に生きる人とは違う異物なのだと思っているのではないだろうか。だから、自分の心を悟らせまいとして、他人と一歩距離を置いているのではないだろうか。常に穏やかな笑顔を浮かべることで、自分の内に秘めた悲しさや寂しさを誤魔化しているのかもしれない。
(そんな状態で、それでも世界のために命を張って戦い抜かなきゃならないなんて――……)
アキは、ぐっと拳を握りしめる。
こんなに追い詰められた気持ちのまま戦っては、きっとエリアスはいつか倒れてしまう。
辛いのに、寂しいのに、誰にも打ち明けることができないなんて。
(きっとこんなのは……――っ間違ってる!)
「あの、エリアスっ!」
ばんっ、と勢いよく両手でテーブルを叩いて立ち上がると、エリアスがびくりと肩を跳ね上げた。
「は、はい!」
驚いたせいか思わず敬語になっているエリアスの手を、アキは身を乗り出してかき寄せるように両手で包み込んだ。目を白黒させているエリアスの緑の瞳を、必死に見つめる。
「私、ヨハンからエリアスの出生のことを聞いて、よく考えたんですけど、エリアスは女神様に造られただとか勇者であるとかそんな難しいことの前に、この世界に生きる一人の人間だと思うんです! 女神様から生まれたってだけで、他の人となんら変わりない普通の男の子だって思います。むしろ、女神様に生んでいただいたのだから、エリアスにとって女神様はお母さまなんですよね? それってすごいことだと思います!」
たしかにエリアスは、この世界にたった一人しかいない『勇者』であり、その出生は女神に造られた人工生命なのかもしれない。
けれど、彼だってこの世界に生きる一つの命に違いはないのだ。
それなのに、一人で自分の出生の秘密を抱えて、何もかもを背負って耐えながら戦い抜くなんて、そんな人生は、辛すぎる……!
意気込むアキに手を掴まれたままで、エリアスは最初戸惑っていたけれども、彼女の必死の言葉を聞いてふっと柔らかく微笑んだ。
「――……ありがとう。そうか、俺にとっては女神が母親なのか。母様、うん、そう思うと嬉しくなってきたな」
噛み締めるようにエリアスが呟く。
もしかしたら、エリアスは女神に造られたという事実だけに縛られて、自分は人工生命だという考え方に捉われていたのかもしれない。けれど、別の考え方をすれば、エリアスは女神様という母親から生まれた一人の男の子なのだ。しかも、誰にも侵されることのない高貴の生まれなのである。
そう考えると、自分も他の人たちとなにも変わりないと、異物なのではないと、そう思えるのではないだろうか。
エリアスは自分に言い聞かせるように続ける。
「……俺、今まで自分のことを、この世界を存続させるためだけに造られた道具みたいなものだと思っていたんだ。だから、アキにそう言ってもらえて、ちょっと気が楽になった」
エリアスはそこで言葉を切ると、アキを見上げて少年のように無邪気な顔で笑んだ。
「――ありがとう、アキ。やっぱり君は、俺の『勇者の片腕』なんだね。今まで俺にそういうことを言ってくれる人っていなかったから、すごく、嬉しかったよ」
そう言って照れ臭そうに満面の笑みを見せるエリアスは、いつもの張りつけた笑顔とは違う、とても生き生きとした表情だった。
本当はこんなあどけない顔で笑う人なんだなあ、可愛いな、とアキもつられて破顏する。
この頑張り屋で不器用な勇者様を、守っていけたらいいと思った。
傍で支えていきたい。勇者の片腕として、勇者様の秘書として。
「エリアス、私、まだまだ力不足ですけど、精一杯あなたの力になれるように頑張りますね! まず私、なにをしたらエリアスのお役に立てますか?」
「え? え、ええと――」
突然質問したからか、エリアスが戸惑ったように口ごもる。
(……う、やっぱり私なんかがエリアスの役に立てることなんてないのかな……)
アキがしおしおと萎れていると、エリアスが気恥ずかしそうに後ろ頭を掻いたのち、意を決したようにアキを真摯に見つめた。そして、はっきりと告げる。
「――君には、俺の隣でそうやってずっと笑っていてほしいんだ。それだけで、俺、なにがあっても頑張れる気がするから」
(――へ?)
アキが目を瞬いて見つめ返すと、エリアスは耐え兼ねたように顔を逸らした。
「ご、ごめん……。自分で言っておいてあれなんだけれど、なんか、恥ずかしい……」
「わ、わ、私だって恥ずかしいですよ! そ、そういう台詞を不意打ちで言わないでください!」
そういう台詞は、好きな女の子ができたときのためにとっておいてください!
そう心の中で突っ込んだ矢先、エリアスがさらに言葉を重ねる。
「そんなことを言われても、君に俺の傍で笑っていてほしいっていうのは、俺の本音だったから!」
ああもうっ、とアキは熱くなった自分の頬を両手で覆う。
その台詞がまた恥ずかしいのだと、エリアスはわかってくれないのだろうか。
勇者様は、先陣を切って真っ直ぐに進んでいく英雄であるだけに、なんでも直球に伝える性格なのかもしれない。
エリアスはそのまま顔を上げないアキを困ったように上目遣いで見てから、気を落ちつけるように自分の胸元に手を当てた。
「――アキ、ひとついいかな。たしかに『勇者』の役目は、君の言うとおり大変なんだけれど、女神が……母様が俺にしかできない使命を与えてくださったのは感謝すべきことだと思っているんだ。自分が生まれてきた意味がはっきりしているからね」
エリアスは、顔を上げたアキの目を真っ直ぐに見返す。
「俺には『勇者』として戦い続ける人生しかないけれど、それを辛いとは思ったことはないんだ。――これを運命というなら、俺は自分の役目を全うするだけだよ」
エリアスの確かな覚悟と決意の秘められた言葉に、アキもまた力強く頷く。
彼は、強くて優しく、そしてどこか儚い。
たくさんのものを背負って人々の先頭に立つ彼を、少しでも支えていくことができたらいい。
(それがきっと、『勇者の片腕』に選ばれた私の使命だと思うから)
アキもエリアスに倣って自分の胸に手を当て、高らかに宣言した。
「わかりました! 私、エリアスのその運命に添い遂げますね!」
「――え?」
エリアスが、虚を衝かれたようにアキを見返す。
意味が、通じなかったのだろうか。
「だ、だから、エリアスの勇者としての使命を一緒に背負おうって思って」
補足すると、エリアスが自分の勘違いを恥じたかのように後ろ頭を掻いた。
「あ、ああ、そういう意味か。ちょっと違う意味にとった……」
「え? 違う意味って、どういう意味だと思ったんですか?」
首を傾げれば、エリアスは少し耳元を赤くする。
照れた顔でそっぽを向きながら、呟いた。
「……なんでもない」