第四十四話 覚醒
サトクリフにしなだれかかるアキの姿を見たエリアスは、大切なものに土足で踏み込まれた怒りでどうにかなってしまいそうだった。
彼女は、はじめて自分を勇者ではなくエリアスという一人の人間として必要としてくれた人だ。
だから、誰よりも大切で、誰よりも愛しくて、そして、自分以外の何者も彼女に触れることは許さないと思っていた。
――それなのに。
自分が不甲斐ないばかりに、彼女は魔族の男にさらわれて、さらにその男に傷つけられるような事態を招いてしまったのだ。
……今まで、こんな激情を感じたことはなかった。
勇者だから常に冷静でいなければならない。自分の感情を揺さぶられるようなことがあってはならない。
幼いころからそう育てられてきたから、なにに対しても関心がなく、無感情でいることしかできなかったはずなのに―――。
「貴様っ、その手を離せ……!」
感情がたかぶるままに叫んで、エリアスは聖剣を抜き身で持ったままサトクリフめがけて駆けだす。
気を失っているアキの様子を見るに、さきほどあの男に口づけされたときに、なんらかの危害を加えられた可能性がある。
魔法か、あるいは触れることによって直接薬を飲まされたか―――?
「――まさか……、まさか彼女に毒を飲ませたのか!」
いきあたった答えを口にすると、岩山の上にいるサトクリフがにやりと笑った。
「そうそう、ご明察ぅ! いちいち勘がいいね、勇者殿は。早く助けに来ないと、勇者殿の大切なアキちゃん、命を落としちゃうかもしれないぜェ?」
意識のないアキの顎を、サトクリフが強引に持ち上げる。
――やめろっ、それ以上触るな……!
風を切るように走るエリアスに向けて、サトクリフが人差し指を突きだす。
「おおっとォ、そう簡単に助けられるワケにはいかないんだなァ。――まずは、コイツの相手でもしてくれよ、勇者殿?」
エリアスに向けた人差し指と親指をすり合わせ、サトクリフが指を鳴らした。瞬間、眼前にむせるほどの土煙が舞い上がり、その内に黒く巨大な影が浮かび上がる。
(大きい……! いったい、なにがいる――……?)
この地底湖の天井に届くのではないかと思われるほどの巨大さだ。
エリアスが足を止めて聖剣を人薙ぎすると、視界を覆っていた土煙が散るようにはけて、大きな影の全貌があきらかになった。
(これは……蛇か?)
影は、異形の魔物の形をしていた。蛇に似た首が絡み合うように九つもあり、胴体は巨大な恐竜を思わせる前足と後足を持った大蛇だ。
一見して、そこらにいるような魔物とは別格の、高位の魔獣だということがわかる。
エリアスが大蛇を見上げると、九つの首が一斉にこちらを向き、威嚇するように鋭い牙をむき出した。
(さすが、魔族ともなれば力のある魔獣を従えているんだな)
サトクリフは、この大蛇が彼の手足となって動くほどの実力を持っているのだろう。
ひとりで相手をするには強敵だが、自分はこんな魔物に足止めされているわけにはいかないのだ。
エリアスは、立ちはだかる大蛇の後方に控えているアキとサトクリフに視線を投げる。
ぐったりと倒れているアキの顔色が、どんどんと血の気を失って青白くなっているように見える。
早く解毒しないと、彼女の命が危ない。彼女は自分と違って、毒の攻撃に備えて身体を毒に慣らしているわけではないのだから。
エリアスは聖剣を眼前に捧げ持つと、一度目を閉じて短く息を吐き、後足で地を蹴って弾丸のように飛び出した。
九つある首のうちの一本が、手始めとばかりにエリアスに向かいくるが、横っ飛びに跳んで軽やかにそれをかわす。
その体勢のまま聖剣を振り上げると、側面から大蛇の首を叩ききった。
魔獣特有の緑色の血液があたり一面に噴きだして、大蛇は痛みに耐えるようにうねりながら、首の一本を失った頭部を振り上げる。
(これで一本……!)
残り八本、とエリアスが大蛇を見据えた瞬間、頭部のない首の断面が淡く光り、そこから新たに二本の首がにょきりと生えた。
エリアスは目を見張る。
「再生能力……!?」
「そういうことォ。切れば切るほど首が増える厄介な特性持ちなんだなァ。どうする勇者殿? モタモタしてるとアキちゃんやばいぜェ?」
サトクリフがこれ見よがしにアキを抱き寄せる。
厄介な能力だ、とエリアスは眉をひそめる。こんなところで足止めを食うわけにはいかない。再生するのならば、その能力が追いつかないくらい木端微塵にするまでだ。
(首よりも先に胴体を狙ったほうがダメージを与えられるか)
胴体に怪我を負わせることで、保持している再生能力を弱められるかもしれない。
そう思い立ったエリアスは、気を落ち着けるために長く息を吐き出す。そうして静かに聖剣を構え直した。
――冷静に戦えば、勝てない相手じゃない。
大蛇の後方にいるサトクリフが、困ったようなそぶりで髪をかき上げる。
「うーん、そうじゃない、そうじゃないんだよなァ、勇者殿。そう淡々と倒してもらっちゃ困るんだよ。どうすっかなァ」
――何を言ってるんだ。
いぶかしげに眉根を寄せるエリアスに、サトクリフは良いことを閃いたとばかりに、ぴんっと指を弾いた。それを合図に、彼の手元に一振りの短剣が現れる。
嫌な予感がした。
その短剣を、いったいなにに使う気だ―――?
「……勇者殿には、もっと焦って、嘆いて、絶望してもらわないと困るんだよなァ。追いつめられてこそ、自分の奥底に眠っている力が開花するってモンだからなァ」
サトクリフは楽しげに笑い、赤い舌を覗かせて短剣の刀身部分を軽く舐める。気を失っているアキの後頭部に手を添えると、目を閉じている彼女の顔をぐいと自分のほうへ引き寄せた。
「――なにをする気だ!」
思わず感情をむき出しにして叫んだエリアスに、サトクリフが目を光らせる。
「そうそう、それだよ勇者殿。やっぱり、勇者殿を揺さぶるにはアキちゃんを使うのが一番だねェ」
今すぐ駆け出したいのに、自分のはやる気持ちを牽制するように、目の前の大蛇が尾で地を叩く。
唇をかむエリアスに、サトクリフはこちらの反応をおもしろがるように笑むと、短剣の刃を無防備なアキの頬に近づけた。
エリアスの頬を冷や汗が伝う。
――まさか……!
「やめろっ! 彼女を傷つけるな!」
エリアスの懇願も空しく、サトクリフは彼女の頬に短剣の刃を当て、すっとすばやくそれを滑らせた。
抵抗することなくあっさりと切られた彼女の皮膚から、すぐに赤い血が浮き上がって彼女の頬を伝う。
「い、たっ……」
痛みで意識を取り戻したのか、アキが苦痛に顔をゆがめる。
サトクリフの短剣に、彼女の赤い血が刃を縁取るようにぽたぽたと伝い落ちた。
したたる血を恍惚そうに眺め、サトクリフがついと顎を上げてこちらを見下ろす。
「どうだい、気が動転しそうだろォ、勇者殿。目の前で大切な人が傷つけられていく絶望感は耐えがたいよなァ。けどオレ様、この程度で済ませる気はねェから」
サトクリフの両目が残忍に細められる。短剣を投げ上げてそれを逆手でつかみ取ると、その先端部をアキの右肩上部に振り上げる。
エリアスは大きく目を見開く。
「待ってくれ、頼む、やめてくれっ……!」
そのあとの惨劇が思い浮かぶようで、エリアスは足がもつれるほどの勢いで無我夢中で駆け出す。
短剣を振り下ろすサトクリフの動きが――短剣の切っ先を向けられるアキの姿が、まるで時が止まったように緩慢に再生される。
大蛇の十の首がエリアスに向かって一斉に牙を剥いた。
けれど、そんなことに構っている暇は――――!
「アキ―――っ!」
必死に手を伸ばした先、サトクリフの振り上げた短剣が、彼女の細い肩に深々と突き立てられる。
「――っ! うあぁぁッ!」
貫かれた肩口から飛び散る鮮血。激痛に悲鳴を上げるアキ。無理やり意識を覚醒させられ、アキは目を大きく見開いたまま痛みに体を震わせる。
「アキっ、やめろっ、やめてくれっ!」
もう、これ以上、彼女を苦しめないでくれ……!
エリアスの悲痛な声を耳に入れ、サトクリフは愉快そうに口角を持ち上げる。そのまま、力なく瞳を開いているアキを抱き寄せると、血の流れている彼女の頬を舌で舐めとった。
「あ……あ……」
アキの瞳から涙がこぼれ落ちる。
エリアスはその目を大きく見開いたまま、大蛇が攻撃してくるのにも構わずその場に立ち尽くした。
言いようのない怒りが全身からわき上がってくる。
彼女を傷つけたサトクリフへの怒りが……――誰よりも大切だと思っていた彼女を守れなかった無力な自分への怒りが。
「次はどこを狙おうかァ。右肩の次は、左足なんてどうだろうなァ」
息も絶え絶えの彼女に再度短剣を向けるサトクリフを見、エリアスは全身の血が煮えたぎるように熱くなる。
体が熱い。額が、焼けるように熱い。
この遺跡に入るときに遺跡の暴走を止めた、あのときのように。
「……離せ。彼女を、離せ……!」
体中を突き破るほどの強い力が、自分の奥底から込み上げてくる。まるで、正体のわからない凶暴な生き物が自分の中でうごめいているようだ。
制御が、できない。意識が引きずられる。
体を、自分ではない得体の知れない力に支配される―――!
「エリ、アス……」
混濁していく意識の中、アキの弱々しい声と、こちらに向かって力なく手を伸ばす姿が鮮明に映る。
そのアキを強引に地面に引き倒したサトクリフが、彼女に覆いかぶさるようにして短剣を振り上げた。
「さあ、勇者殿、これで目覚めてくださいよ―――!」
鈍く光る刃が、アキに振り下ろされる!
「やめろっ、やめろおおおぉぉっ!」
エリアスの激情に呼応するように、額が焼けるような痛みを帯びて激痛を発し、地底湖内を照らし出すほどの閃光を放った。
ぐっと握りしめた聖剣が、エリアスの手から上下に波及するように白金色に変化していく。
渦巻いていた力が、自分の身体を突き破って表に解放されていく。
体の奥からみなぎる強大な力と、それに引きずられるように昇華されていく自分の意識。熱い塊のようなそれに、ただただ身を引きちぎられるような痛みだけを覚える。
(……駄目だ、これ以上、正気を保っていられない……!)
怒りに任せて爆発した力に、しびれたように心が止まり、代わりに熱だけが自分を支配していく。
遠くなる。アキの姿も、サトクリフの姿も、そして、自分の姿も。
エリアスは、奪われていく意識の中でアキに向かって手を伸ばす。
アキ、今すぐ、助けるから。
俺が君を、君を傷つける者すべてから守ってみせるから―――。




