第三十九話 招かれた花園
ひと通り濡れた服が乾き、いそいそと出発の支度を整えたエリアスは、少し離れたところで衣服を着替えているアキに声を投げかけた。
「アキ、そろそろ着替えは終わった?」
「あ、はい! お待たせしました」
岩場の陰から、レオの召喚したスーツを身にまとったアキが小走りに駆けてくる。そうして自分のかたわらに立ってこちらを上目遣いに見上げてくる彼女に、エリアスは多少頬を染めてぽりぽりと頬をかいた。
(なんというか……)
アキが自分の恋人になってくれたのだ――と思うと、それまではあまり感じたことのなかった所有欲がわいてくるから不思議だ。
いままでは、『勇者』としてすべてを分け隔てなく思う……言い方を変えれば特別に愛するものを作らない、ということを徹底していた自分には、はじめての感情だった。
けれど、その衝動のままにアキを振り回したら彼女の負担になってしまうかもしれない……と思うと、感情の抑制って難しいのだなあと痛感する。
「加減が難しいなあ……」
「なんの?」
うっかり心情を口にしたエリアスに、アキが首をかしげる。
(しまった、声に出てた……!)
自分が失態をやらかしたことに気づいたエリアスは、あわてて顔の前でぶんぶんと両手を振って、なんでもない、とごまかした。
けれど、アキは納得できなかったらしく、かわいらしく眉根を寄せて両手を腰にあてる。
「もう、エリアスはまたそうやって自分の気持ちをごまかすんですか? それ、エリアスの悪い癖ですよ! じ、自分の彼女くらいには、本音を言ってもいいと思うんです!」
アキは、彼女がよくそうするように両手の拳を握って、真っ赤に照れながら身を乗りだしてくる。
一生懸命に愛情を伝えようとしてくれる彼女は、本当に愛らしい。
これでは、気持ちを制御しろというほうが無理な話だと思う。
(あー……、やっぱり加減は無理かもしれない)
エリアスは拳を握っているアキの手首をそっとつかむと、自分の体のほうへ軽く引き寄せる。とん、と胸元に飛び込んだ彼女の背に腕を回し、包み込むように抱きしめた。
「アキ、好きだよ」
「わ、私もで――……じゃなくて! エリアス、こんなことしてたらいつまで経っても先に進まないじゃないですか! 行きますよ!」
アキはエリアスの胸を軽く押して体を離すと、彼の手をむんずとつかんでぐいぐい引っ張って歩きだした。
……もしかして、こうやって自分は、彼女の尻に敷かれていくのだろうか。
(――それも、悪くないかもしれない)
自分はずっと誰かを引っ張っていかなければならない役で、誰かに引っ張ってもらうことなどほとんどなかったから。
手を引いて前を歩く彼女の小さな背中を見つめながら、いつまでも彼女とこうして過ごしていけたらいいと、エリアスは心の中で願った。
「なんだか、ますます冷え込んできましたね……」
「そうだね。霧も出てきたし、視界が悪いな。アキ、俺の傍を離れないで」
うん、と心細そうにうなずくアキの肩に手を回して、エリアスは自分の近くに彼女を寄せる。
あれから地下洞窟の内部を奥へ奥へと歩き進めているのだが、場内は水滴が落ちる音がひっきりなしにしていて薄暗く、エリアスの持つカンテラがぬらぬらと濡れている岩壁を幽鬼のように照らしている。
奥に進むにつれて冷え込んだ空気が流れ込み、しまいにはうっすらとした霧が立ち込めるようになっていた。
霧に触れた衣服は徐々に湿っていってべたべたと体に張りついて、そこに容赦なく冷えきった空気が触れるので、どんどんと体温を奪っていく。
(長くここにいるのは危ないな……)
レオのように火属性の魔法が使えれば状況は違うのだろうけれど、あいにく勇者である自分には魔法が一切使えないのだ。
(レオ、いまごろどうしているだろう……)
手鏡に転移魔法用の魔力を溜め終わったころだろうか。
レオやヨハンに迷惑をかけないためにも早くこのクエストを終わらせて帰らないと……と自然と足取りが早足になる中、エリアスとアキは小道の曲がり角に差しかかる。
ここを曲がればある程度広い通りに出るはずだから、やっとメインの進路に戻って来られたのだと思う。
それにほっと安心しながら、角を曲がって大通りに出ようとしたそのとき――エリアスの耳に、何者かが地面を這いずるような音が聞こえ、エリアスはぴたりと足を止めた。
「……エリアス、どうかしたんですか?」
同じように立ち止まって不安げに見上げてくるアキに、エリアスは「静かに」と唇の前で人差し指を立ててみせる。
定期的に聞こえてくるこのざわざわと地面を引きずるような音は、次第にこちらに近づいてきているようだ。
エリアスはアキを庇うように片腕で引き寄せながら、気配をひそめて、地面を這いずって近づいてくる何者かから隠れるように、岩壁の壁際にそって立つ。
「……この音、おそらくなにか魔物が近づいてきているんだと思うんだ。この地下洞窟は他に人の気配がないから、俺たちが魔物たちの格好の的になってしまうのかもしれない。アキ、とりあえず手帳を確認してみて」
小声で伝えると、アキがこくりとうなずいて、スーツの胸ポケットから手帳を取りだして開いてみせる。
そうして開かれた見開きのページには、自分たちのいる小道を曲がって一本道に出たあたりに、赤い魔物反応の光が三つ点滅している。
非常にゆっくりな速度ではあるが、確実にこちらを狙って近づいてきているようだ。
(……この進行速度の遅さ、粘着系の魔物かな……)
そう予想を立てながら、エリアスは、ありがとう、とつぶやいてアキに手帳を閉じるように手で示す。
「手帳を見る限り、敵の数は三体か……。まあ、これくらいなら俺でもなんとかなるかな」
エリアスが何気なく言った一言に、アキは目を丸くする。
「エリアスでもなんとか……って、そんなに強い魔物なんですか?」
「いや、強いっていうか、この粘着系の魔物はいわゆるスライムみたいな形状をしているんだけれど、どうも剣が効きにくい魔物でね。『勇者』の武器は聖剣だから、あまり俺と相性がよくないんだ」
スライムにはレオやルイスの使う月系魔法がよく効くんだよ、とエリアスが加える。
アキは、記憶を思いだすようにあごに人差し指を当てた。
「スライムって、もしかしてあのぶよぶよした感じの魔物のことですか?」
「そうそう、よく知ってるね」
「私の世界でも、よく映画やゲームに登場してたんですよ。実際に私の世界には魔物はいないので、架空の生物って感じだったんだけど」
「ふうん。それを考えると、アキの世界と俺たちの世界って、わりと共通点が多いよね。発想されている世界の在り方が似ているというか……。やっぱり、俺たちの世界はなにか関連性があるのかな」
余計なことを考え始めてしまって、エリアスは首を振った。
駄目だ、今は考えごとをしている場合じゃない。
この先にいるスライムをなんとか切り抜ける方法を考えないと。
エリアスは壁に背をつけると、曲がり角にわずかばかり身を乗りだして、大通りにいるスライムたちを目視する。
アキの手帳が示したとおり、そこには生きた凶暴なゼリーの魔物――スライムが、うねうねとうごめきながらこちらに迫ってきていた。
……あまり、悠長に話している時間はないかもしれない。
「アキ、手短に説明するけれど、スライムっていうのはゼリー状の粘液質の魔物のことで、彼らは分裂する特性があるから、切ってもどんどん数が増えていくだけなんだ。火の魔法で焼き尽くさないかぎり彼らが消滅することはないんだ。で、俺たちは二人とも物理攻撃系の職業だから、ある程度攻撃して足止めをしたら、隙を突いて逃げたほうがいいかもしれない」
「な、なるほど……。切ったら切っただけ数が増えていくってことですね」
顔を青ざめさせるアキに、エリアスは神妙にうなずいてみせる。
アキにも説明したとおり、レオのような『魔法使い』がパーティにいてくれればスライムを一気に丸焦げにできるのだが、物理攻撃しかできない自分たちでは、スライムに致命傷を与えることができないのだ。この場合は、逃げるが勝ち、というやつである。
「それを踏まえて、ここからの作戦なんだけれど……」
次第ににじり寄るスライムの足音に意識を向けつつ、エリアスはアキに向き直る。
「ここから先は、俺が君を抱えて大通りを一気に走ろうと思うんだ。さっきも言ったとおり、俺たちだけじゃスライムにとどめを刺せないから、走って突破するしかない」
「え……!」
エリアスの提案を受けて、アキがふるふると首を振る。
「それなら私も走ります! エリアス、私を抱えて走るなんて大変でしょう!」
「それはまったく問題ないよ。むしろ、君をひとりで走らせたら途中で転ぶんじゃないかって逆に気が気じゃないんだけれど」
本音、とばかりに真剣な表情で言うと、アキが憤慨した様子で頬をふくらませた。
「な、なにそれ! だいぶひどい言い草なんですけど! ――って、わぁ!」
エリアスはむくれているアキを左手でひょいと持ち上げ、右手で聖剣を抜き払った。
――やっぱりアキ、軽いなあ……。
ここ最近の慣れない生活でがりがりにやせてしまったせいだろう。
彼女は見ため元気に振る舞っているけれど、やはり疲労が溜まっているのだ。
(このクエストが終わったら、少しでも休息がとれるといいんだけれど……)
ともかく、今はこの目の前の困難を切り抜けることが先決だ。
「アキ、落ちないように俺の首もとにしっかりとつかまっていてね。――行くよ!」
エリアスはアキを抱えたまま身をひるがえすと、大通りへと躍りでた。
そうして、風のような速さで前方に迫るスライム群へと突っ込んでいく。
現れたエリアスとアキの気配を察したスライムたちは、すぐさまにじり寄るスピードを上げてなだれのようにこちらに覆いかぶさろうと大きく丈を伸ばした。
「きゃああっ、エリアス、スライムがっ……!」
「大丈夫! アキ、舌をかまないように口を閉じていて!」
エリアスは、ぐっと片手で口を押さえるアキのちらりと目視したあと、走る速度を落とさずにスライムに差し迫り、前方の一体を聖剣を水平に薙いで切り裂いた。
上下に胴を引き裂かれたスライムは、地面に弾んで落ちたと同時に新たな二体のスライムとなってうごめきだす。
それを確認することなく、エリアスはその場で勢いよく足を踏みこむと、風をその身にまとっているかのように軽やかに宙に跳躍した。
分裂したスライムを飛び越えて向かい側に着地したと同時に、エリアスはそのまま一目散に大通りの先へと駆け抜けていく。
戦っても倒せないのなら、余計に交戦をして体力を減らさないほうがいい。
スライムの速度では自分の足には到底追いつけないのだから、さっさと切り抜けて先に進むのが一番なのだ。
エリアスは、目を閉じて自分の首ともにしっかりとつかまっているアキの無事を確認しながら、後方のスライムたちからどんどんと距離を離して洞窟の最奥を目指した。
「よし、この辺まで来れば平気かな」
洞窟の奥へ奥へとあまりなにも考えずにひたすら疾走したあと、エリアスは大通りの窪みで足を止めて、後方にスライムが追ってくる気配があるかを確認した。
今まで自分たちが走ってきた通路は、あかりもなく暗く沈んでいてしんと静まり返っている。
(……スライムが追ってくる気配はなさそうだな)
完全に撒けたかもしれない。
エリアスはほっと息をはくと、腕に抱えていたアキの体を降ろした。
アキは一瞬よろめいたあと、しっかりと自分の足を地につけて立つ。
「ありがとう、エリアス。もう追ってこないのかな……」
「たぶん大丈夫だと思うよ。かなり距離を離したから、スライム側も俺たちの体温や気配を察知できないはずだ」
「よかった……」
あきらかにほっとした様子のアキの手を引いて、エリアスは注意深く周囲を警戒しながら通路の先へと歩きだす。
あいかわらず水滴の滴る薄暗い道を進んでいくと、やがて、通路の先から光が漏れ入ってくるのが見えてきた。
もしかしたら、あそこの先は少し開けた場所なのかもしれない。
エリアスとアキは顔を見合わせると、お互いの手を強く握りあって、光が射しこんでいる出口をくぐった―――。
途端、エリアスたちの視界いっぱいに、思わず息を呑むような美しい光景が広がった。
薄暗い通路を抜けた先は、抜けるように高い天井をした巨大な洞穴の空間が広がっていたのだ。
辺り一面に青い光沢を放つ百合の花が咲き乱れていて、その花から光の粒子のような花粉が舞い上がり、息を呑むほど幻想的な場所だった。
空間の中央には、その青々とした花に取り囲まれるようにして大きな地底湖があり、その水面に花の放つ青い光を無数に映しこんでいる。
(なんだか、太古の花園みたいなところだな……)
感心して立ち止まりながらも、エリアスは花畑へ足を進められずにいた。
このような光の差し込まない地底に、花が咲き誇っている状況は異常だ。
それにこの不気味なまでの美しさ……なにか強い魔力が働いている可能性がある。
ここは、強い水属性を持つ遺跡だ。その要因は、この場所にあったのではないだろうか。
地底湖……水属性……、エリアスは思考を巡らせながら、警戒して周囲を見渡す。
「綺麗……」
隣で風景に見惚れたふうにつぶやくアキに、エリアスは考えるようにあごに手を添える。
「……遺跡の地下にこんなにも広い地底湖があったとはね。もしかして、この湖があるから上に遺跡を建てたのかな」
「ええと、それは……この湖を守るために、もしくは祀るために遺跡を造ったってことですか?」
「そう、だね。もしくは、この地底湖にいる強い魔物を封印するためかもしれない」
「え……」
ぞくりと肩を震わせるアキを見やって、エリアスは神妙にうなずいてみせる。
この花園、見ためこそぞっとするくらい美しい場所なのだが、それと比例して得体の知れない恐怖を感じさせるのだ。
(なんだろう、ひどく胸騒ぎがする……)
このまま先に進んでいいものか、ためらうくらいの。
けれども、ここで立ち往生していては、この寒さではどんどんと体力を失ってしまう。ミーナとルイスと合流するまで動かないという手もあるけれど、彼女たちが必ずここへやってくるという確証はない。
――とすると、俺たちだけで先に進むしかないのかもしれない……。
そう結論づけると、エリアスは不安げなアキの手をそっとつかんだ。
「……どうも、あまり良い感じがしないんだ。アキ、俺の傍を離れないで」
風などないはずなのに、さわさわと花が擦れてさざ波にように涼やかな音を立てる。
それは洞窟内を揺るがすように反響し、こちらの恐怖を煽りたてるようで不気味だった。
青く発光する花々も、穏やかな輝きではなく、まるで死を誘うような妖しさなのだ。
エリアスは聖剣を鞘から抜き払うと、右手で剣を、左手でアキの手をとって花畑へと足を踏み入れる。地を踏みしめた足音が異様に大きく感じた。
――なにごとも、なければいいんだけれど……。
おさまらない胸騒ぎに、エリアスは気を引き締めるように口を引き結んだ。




