第三話 勇者と魔王
アキが全力で言いきった瞬間、場内がこれ以上ないほどの静寂に包まれた。
(あ、あれ? 駄目だった……かな?)
さすがに突拍子もなさすぎただろうか。
あまりの気まずさにおそるおそる顔を上げると、綺麗な口をぽかんと開けたエリアスと目が合った。
「あ、の、エリアス……」
沈黙を破ろうと口を開きかけたアキに、エリアスが頬を掻きながら確認するように訊ねる。
「ええと、それはつまり、俺の秘書をしてくれるっていうことだよね?」
「は、はい。エリアスの日程や時間管理を担当させてもらって、身の回りのお世話をさせていただけたらなって……」
両手の指を合わせて俯くと、今まで黙って状況を見守っていたレオが楽しそうに笑い声を上げた。
「ああーなるほど、勇者様の秘書ってか! 前代未聞だが、面白いんじゃねぇの。正直、アキが旅の記録を取ってくれれば俺らも楽だしな」
「旅の記録?」
「おうよ。勇者の旅っつーのは、物語として後世に受け継がなきゃいけねぇんだ。だから、今日はどこ行っただのなにしただの、日記みてぇな記録をつけなきゃならねぇんだよな。俺やエリアスがきったねぇ字で書くより、アキに書いてもらったほうが後で物語に纏める奴が見やすいだろ」
ああなるほど、とアキは頷く。
勇者様の旅というものは、伝記という形にして後世へ語り継ぐ必要があるらしい。
それなら、エリアスと一緒に旅をする自分が適役なのではないだろうか。日々の出来事を記録していくだけならお安い御用であるし、この世界を知るという意味で自分の勉強にもなりそうだ。
私にもできることがありそう、と目を輝かせるアキとは対照的に、エリアスがレオに対してむすっと頬を膨らませる。
「汚い字とは失礼な。俺はレオの怪文書みたいな走り書きよりは綺麗な字で書けるよ」
レオが片眉を跳ね上げる。
「怪文書ぉ? ったくよく言うぜ、おまえだって似たようなもんだろ。そもそも、俺は自分がわかりゃいいから綺麗に書く必要ねぇんだよ」
「だったら俺だって誰にも見せないんだから丁寧に書く必要はないじゃないか」
「ばっかおまえ、勇者が字ぃ汚ねぇっつーのは体面上問題だろうが!」
売り言葉に買い言葉で、エリアスとレオがぎりぎりと顔を突き合わせる。
(……えーと、要するにエリアスもレオも字が得意じゃないってことですね!)
二人の骨肉の争いを見るに、おそらくどっこいどっこいといったところなのだろう。
アキは、まだ言い争っている二人の手を片手ずつ取って憂うように笑いかけた。
「じゃあ、字が汚いエリアスとレオの代わりに、私が旅の記録係を担当させてもらいますね!」
「字が汚ねぇは余計だろ!」
すかさず返ってくるレオの突っ込みに、エリアスとアキが同時に吹き出した。
そうしてひとしきり笑ったあと、エリアスが身を屈めてアキを覗き込む。
「それじゃあアキ、次は俺たちのもう一人の仲間――神官のヨハンから、より詳しい旅の説明をさせてもらうよ。場所を移動するけれど、疲れてない?」
アキは慌てて顔の前で手を振った。
「えっと、はい、大丈夫です。自分でもびっくりなんですけど、ほとんど疲れてなくて」
自分でも信じられないのだが、まったく体の疲労を感じないのだ。
思い返すと、家に帰ってからすぐにこちらの世界に来たため一睡もしていないのだが、眠気も一切感じない。もしかして、異世界間を移動したときに体内時間が切り替わったのだろうか。
それこそなんらかの形で女神の力が働いているのかもしれない。
「へえ、不思議なもんだな。時間の観念ってのは、並行世界同士で調整されてんのかもな。まあ、そこは俺たち人間が関与できる次元じゃないのかもしれねぇけど」
肩を竦めるレオに、アキもまた思案する。
「やっぱりそうなのかな……。ただ、気になるといえば気になるんですよね。私の世界とこの世界は同じように時が流れてるのか、それとも時間の進み具合が違うのか、もしくは自分のいない世界の時間は止まっているのか」
「まあ、並行世界っていうくれぇだから、どっちかの世界にいる時はどっちかの世界の時間が止まってるっつー考えはナンセンスだろうな。二つの世界が同じ時空に存在するとしたら、時間はどこにいても一貫して刻まれるもんだろ。その進み具合はわかんねぇけどな」
流暢に話すレオは、ずいぶんこの手の話が好きそうに見える。
感心していると、レオがアキを見てやんちゃに笑んだ。
「ま、そのへん調べといてやるよ。学問の研究は、俺みたいな魔法使いの性分だからな」
「へえ、レオって実はお勉強得意なんですね!」
「実はってなんだよ、実はって!」
憤慨するレオに、アキはくすくすと笑って返す。
彼は、見た目はぶっきらぼうな印象だけれど、言葉の端々から知的な雰囲気が伝わってくるのだ。実は図書館に籠って一日中勉強しているようなタイプなのかもしれない。
(もしかしたら、この世界の『魔法使い』って、私の世界でいうところの学者や研究者にあたるのかもしれないなあ……)
わからないことがあったら真っ先にレオに聞こう、とアキは思う。
レオはアキの頭のぽんと手を乗せてから、エリアスに向き直った。
「――んじゃあエリアス、俺は次の準備にかかるから、ひとまずアキのこと頼んだぜ」
「わかった。レオもほどほどにね」
「あれ、レオ、これからなにか用事でもあるんですか?」
思わず身を乗り出したアキに、レオがきょとんとする。
「まあ、ちょっとな。――おいおい、そんな寂しそうな顔しなくても、またすぐ会えるから心配すんなって!」
レオがからかうように笑い、アキは急に恥ずかしくなって顔を赤らめた。
そんなに寂しそうな顔をしていただろうか。急にいなくなると聞いて、心細くなったのかもしれない。
アキは恨めしそうにレオを見上げる。
「べ、別に寂しそうな顏なんてしてないですよ! それよりも私、二人にお礼を言わなくちゃって思って……!」
「お礼?」
エリアスとレオが同時に目を丸くする。
アキは二人の顔を見渡してから、勢いよく頭を下げた。
「あの、お礼が遅くなりましたが、助けてくださってありがとうございました……! 私、女神様のお力はいただけませんでしたが、お二人の足を引っ張らないように頑張ります!」
エリアスとレオは顔を見合わせ、二人同時ににこりと明るい笑顔を浮かべた。
「ああ、そんなこと気にすんなって。俺たちもまだまだ未熟だからさ。な、エリアス」
「そうだね。これから一緒に力を合わせて頑張っていこう」
レオがエリアスの肩に手を回して、エリアスがくすぐったそうに笑う。
本当に、この世界に来て最初に出会ったのが彼らでよかったとアキは思う。
自分が向こう見ずにこの世界に飛び込んだものだから、レオに召喚魔法で助けてもらわなかったら、あのまま落下して取り返しのつかない事態になっていたかもしれないからだ。それに、仮に無事に着いたとしても、右も左もわからない状態でこの世界を彷徨っていたかもしれない。
自分は本当に幸運だったと思う。
(助けてくれた二人のためにも、私、お役に立たなくちゃ……!)
ひっそりと気合を入れるアキに、レオがひらひらと手を振りながら部屋を後にしていく。
残されたエリアスとアキは、お互いになんとなく目を合わせた。
(や、やっぱり、二人きりって緊張するなあ……)
エリアスが美男子だから、なおさらだ。
そんなアキの心中を知ってか知らずか、エリアスは彼女の緊張を和らげるように穏やかに微笑んだ。
「アキ、さっそくだけど俺たちも行こう。俺についてきて」
扉口まで先に歩いたエリアスが、アキをエスコートするように扉を開けて振り返る。
アキはどきどきと心臓を高鳴らせながら、エリアスに向かって駆け出した。
「――はい!」
(わああ、広い……!)
廊下に出ると、堅牢な石細工の床に臙脂の絨毯が敷かれた廊下がアキの視界の先へと伸びた。エリアスと並んでそれをひたすら歩き進むと、やがて回廊に出て、人々でわいわいと賑わう中庭が見えてきた。
中庭は、桃色や白色の花が花壇の中を咲き乱れ、中央には噴水があり、水盤に陽射が反射してうねるような幾何学模様を作り出していた。ずいぶんと豪華な造りである。
「すごい! 綺麗ですね!」
中庭の美しい景色に足を止めれば、エリアスが隣に並んで同じように中庭を見渡した。
「ありがとう。ここは俺たちが暮らす国の王城なんだよ。賑やかだろう?」
(王城……。ということは、さっきいた神殿は王城の中にあったんだ)
ふむふむ、と自分に位置を頭に叩き込みながら、アキは背の高いエリアスを見上げる。
「お城って物静かなイメージがあったんですけど、思ったより人がたくさんいるんですね」
回廊や廊下、中庭には様々な服装をした人々が忙しく行き交っていて、情報交換でもしているのか皆楽しそうに雑談している。
王城といえば、てっきり城の兵士や侍女だけがぽつらぽつらといる静かな雰囲気かと思ったのだが、ここはさながら小さな街のように多くの人々でごった返していた。顔立ちや服装に統一感がないところを見ると、いろいろな国から人が集まっているのかもしれない。
「ああ、そうかもしれないね。特に俺たちの王国は城の一部を外部に開放しているんだ。だから、後学のために他国から留学生や研究者、学者がたくさん訪れているんだよ」
「へえ、王様も寛容なんですねえ」
王城を他国に開放するなんて、それだけこの世界は治安が安定しているのだろうか。
そう考えると、勇者と魔王の戦いが定期的に繰り返されているような争いのある世界とは思えない気もする。この世界の治安と、勇者と魔王の戦いとではまったく関連性がないのだろうか。
エリアスと並んで中庭を抜け、王城内の敷地にある石造りの別棟へと移ると、入って一番手前にあった木製の扉の前でエリアスが足を止めた。長い腕を伸ばし、目の前の扉を軽く叩く。
「――ヨハン、いるか」
すると、室内から若い少年を思わせる澄んだ声音が返ってきた。
「エリアスですか? 開いています。どうぞ」
エリアスが扉を押し開くと、簡素な室内にヨハンと思われる一人の少年が佇んでいた。
さらりとした肩先までの銀髪に、碧眼をした中性的な顔立ちの美少年だ。床につきそうなほどの真っ白な祭服を纏っている。
(わ、これまた綺麗な男の子――……!)
アキは目をぱちくりしながらヨハンを凝視した。
エリアスもレオも美男子だと思ったが、ヨハンもまた目を惹くほど綺麗な顔立ちをしている。色白だからか、純白に金の刺繍の入ったローブの服装と相まって淡い光をまとった天使のようにも見えた。
アキが言葉を失ってヨハンに見惚れていると、彼はアキをちらと見てからエリアスに視線を戻した。
「エリアス、その方が今代の『勇者の片腕』ですか?」
「うん。名前はアキっていうんだ。俺の秘書をやってくれることになったんだよ」
エリアスの発言を受けて、ヨハンがその碧眼を瞬く。
「それは、勇者の秘書ということですか? ――なかなか面白い発想ですね」
「彼女は、並行世界で秘書の仕事をしていたらしいんだ。その特技を俺たちのために生かしてくれることになってね」
「なるほど。それは頼もしいですね」
エリアスの紹介に頷いて、ヨハンは意外に見えるほど可愛らしく破顔した。アキに歩み寄ると、そっと自分の片手を差し出す。
「僕の名前はヨハン・クラレンスです。僕たちの世界へようこそ。歓迎しますよ、アキさん」
アキも手を差し出し、ヨハンの色白の手を握り返した。
「ありがとうございます。まだまだ未熟者ですが、よろしくお願いします、ヨハンさん」
ヨハンはアキと視線を合わせて小さく笑んだ。
二人の様子を傍から見守っていたエリアスが、なんの前触れもなくくるりと踵を返す。
「それじゃあヨハン、俺は先に失礼するね」
「わかりました」
「え、エリアス? どこに――」
呼び止める間もなく、エリアスはアキに軽く微笑みを向けてから部屋を出て行ってしまう。
てっきり一緒にヨハンの話を聞いてくれるのだと思っていたのだが……。
急に心細くなって所在無げにしていると、アキの心中を察してかヨハンが安心させるように軽く笑んだ。
「アキさん、心配は要りませんよ。これから貴方にお話しすることは、『勇者』がいると少し話しづらいことなんです。ですから、エリアスが気を遣って席を外してくれたのでしょう。――どうぞ、お座りください」
アキは頷いて、勧められた長椅子に浅く腰かける。ヨハンも真向いに腰を下ろした。そうして、射抜くように真剣な瞳でこちらを見つめる。
どんな話が始まるのかと、アキはごくりと唾を飲み込んだ。
「――さっそくですがアキさん、率直にお聞きしますが、エリアスはいかがですか? 良い男でしょう」
「……へ?」
(い、いきなり何事!?)
真意の読み取れないヨハンの質問に、アキはわずかに頬を染める。
たしかにエリアスは、端正な顔立ちで性格も穏やか、加えて世界中から英雄視される『勇者』の青年だ。それだけの美点が揃っているのだから、ヨハンの言うところの『良い男』で間違いないのだろう。
「そ、そうですね。優しそうで、かっこいい人だなと思います」
「そうでしょう。――『勇者』とは、そのような者で造られているからです」
「……え?」
さらりと言ったヨハンの言葉に、アキは弾かれたように顔を上げる。まじまじとヨハンを見つめた。
今、彼はなんと言ったのだろう。
『勇者』とは、そのような者で造られている―――?
「……あの、それは、どういう意味ですか?」
「『勇者』も『魔王』も、その役割のために必然的に生み出された者だということです。民衆の目を引くように、眉目秀麗、文武両道の人物として造られる。世界中から注目される人物ですからね」
「ち、ちょっと待ってくださいっ!」
アキは思わず立ち上がる。
「それって、『勇者』も『魔王』も意図的に造られたってことですか?」
「その通りです。いわゆる人工生命体ですが、彼らを造り出すのはこの世界に生きる人間ではなく、この世界を造り上げた女神と呼ばれる者なのです」
「女神……様……」
あまりの衝撃に、すとん、とアキは長椅子に座り込む。
その女神様というのは、自分がこの世界に来るときに出会えなかったあの女神様のことだろうか。
ヨハンの話が本当ならば、エリアスは女神様によって意図的に造られた工作物ということなる。
自分が、造られた命……。
エリアスは、その事実を知って――……?
「……もちろん、エリアスは自分が人工生命体であることを知っています。この話を知っているのは、エリアスやレオや僕といった勇者の旅に同行する仲間、それから国の重要人物である王や一部の執政官だけです。一般の民衆は、ただ勇者は世界を守るために魔王を倒す存在である、という認識しかないのです。ですが――」
そこでヨハンは一旦呼吸を置き、アキを冷静に見つめる。
「この世界にとって、勇者と魔王の因縁の戦いは、そんなぼんやりとした理由で成り立っているわけではありません。――貴方は勇者エリアスを支える片腕として異世界から召喚された方だ。だから、彼が背負っている真の役割について知っていただく必要がある」
こちらを試すようなヨハンの物言いに、アキは押し黙る。
女神によって造り出される勇者と魔王。
そして、その二人が繰り広げる戦いの意味――。
ヨハンの口ぶりから察するに、自分と妹は、これから大きな戦いに巻き込まれていくのかもしれない。
けれど、自分は妹を助けるためにこの世界に来たのだ。目的も果たさずに帰るわけにはいかない。
アキはヨハンの碧眼を見返して、覚悟を決めて力強く首を縦に振る。
「……あの、正直なところ、まだわからないことだらけで自分がどこまでできるのか不安でいっぱいなんです。でも、私は妹を助けるために覚悟を決めてこの世界に来ました。だから、私にできることは精一杯やらせてください!」
両手の拳を握って意気込めば、ヨハンは少し驚いたように目を瞬いた。
「ありがとうございます。……実のところ、貴方は妹を追ってこの世界に導かれただけで、実質僕たちの事情に巻き込まれた形でしたので、無理強いはしたくないと思っていたんです。ですが、貴方は信頼できる方のようだ。エリアスのことを、どうかよろしくお願いします」
ヨハンは深々とアキに頭を下げる。そうしておもむろに長椅子を立ち上がると、室内の本棚にあった一冊の古びた本を手に取って戻ってきた。それを座卓の上で開き、アキに見せるように開く。
「それではアキさん……いえ、アキ、勇者と魔王に秘められた本来の役目についてなのですが――」
そうして彼の口から語られる、勇者と魔王の戦いの意味。
それは、この世界の命運を賭けた理不尽な戦いの歴史だった。