第二十九話 ミーナとルイス
一歩足を踏み出すごとに、ねちゃりと靴が土に沈む。腐葉土で踏み固められた山道は、旅慣れない自分にはなかなかに歩きにくい。
いつもよりも重たく感じる足を一生懸命に踏み進めながら、アキは、生い茂る木々の合間から覗く晴れた空を見上げた。
折り重なる葉の間から注ぐ陽射しはきらめていて、その眩しさに目を細めて足もとに視線を落とせば、湿った土の生き生きとしたいい匂いがする。
陽が入りにくいため日陰の多い山道ではあるが、その陰鬱さが気にならないくらい、澄んだ空気に満ちた森林だった。
さきほどミーナに見せてもらった依頼書によると、目的の遺跡は、この原生林のような奥深い森のさらに奥に建てられているらしい。
いかにも秘薬の眠っていそうな未開の秘境、といった印象を与えるが、それにしても、いったいどこまでこの道を歩けば遺跡に到着するのだろう。
この森自体は港町からさほど遠くない場所にあったため、たいして苦労することもなくやって来られたのだが、この森に一歩分け入った途端、外の世界とは別世界なのではと思えるほどにひと気がないのだ。
町からほど近い距離にあるため、他の冒険者がいてもおかしくはないはずなのだが、人っ子一人見当たらない。
ときおりかさこそと茂みが音を立てるほうを見やれば、野うさぎと思われる小動物が、鼻をひくひくさせて髭を揺らし、こちらに背を向けて去っていった。
ここまで深閑としていると、どこか清浄な神気さえ感じさせる。
神の森――まるで女神の神域にでも入り込んでしまったかのような、そんな畏れ多さがあった。
アキは、足もとにごろごろと転がっている苔の生えた小岩をせっせと避けて歩きながら、額の汗をぬぐって顔を上げる。
ゆるやかな登り坂が続く山道は、日ごろ体を鍛えてこなかった自分にはなかなかに骨だ。
(足が痛い……)
じんじんと痛む足の裏に正直にそう感じるが、ここで音を上げるわけにはいかなかった。
まだまだクエストは始まったばかり、こんな序盤でエリアスたちの足を引っ張るわけにはいかないのだ。
アキの前方を、相変わらず全身を布でくるんだエリアスが、軽い足取りで颯爽と登っていく。
仲間に気をつかってゆっくり登ってくれているのだろう、彼は、たまにちゃんとこちらがついてきているかを振り返って確認してくれていた。
そのたびに「自分は大丈夫だ」と笑顔を作って手を振り返すのだが、エリアスは終始心配そうに眉を寄せている。
自分が強がってみせていることなど、とっくのとうにお見通しなのかもしれない。
アキは、気合いを入れるように短く息を吐くと、果敢に足を前に進める。
実際、このクエストにとって山登りは前哨戦だ。遺跡に着いてからが本番である。
この時点で息を切らしている場合ではないとわかっているから、つい出そうになる弱音をぐっと飲み込んで耐えていた。
(ミーナとルイスはどうしてるかな)
自分たちの後方を歩いている彼らを振り返ると、二人は、あいかわらず賑やかに何事かを言い合いながら、軽やかな足取りで歩みを進めていた。
手練れの冒険者である二人にとって、このくらいの山道などいつものこと、なんということもないのだろう。
アキら顔を前に戻すと、誰にもわからないようにひそかに肩を落とした。
(……戦う技術だけじゃなくて、体力面でもみんなの足を引っ張っちゃうなんて……)
生まれ育った世界が違うのだから、生活環境も違ってあたりまえなのだが、この世界の人たちとは、体力も戦闘技術も今からでは追いつけないような絶望的な差がある。
(ううん、気持ちで負けちゃだめだ……! このくらいの山道、なんてこと――……)
自分の疲労をごまかすように、意気込んで大きく足を踏み出した瞬間、地面にむき出しになっていた大木の根に靴のつま先がとられる。
ぐらり、と目の前の視界が斜めに傾いだ。
「わ、と、――ひゃあっ!」
「アキ!」
転ぶ――と瞬間的に思ったアキは、泥に突っ込むのを覚悟して思わず目を閉じた、けれど、待ってもその悲惨な瞬間は訪れない。
あれ、とおそるおそる目を開けると、一瞬で駆け戻ってきたらしいエリアスが、体勢を崩したアキの体を、両の腕を差し出してしっかりと支えてくれていた。
目を瞬いてきょとんとしていると、エリアスはアキを自分の足で立たせると、片膝を折ってアキの顔を下から覗き込んだ。
「アキ、大丈夫? 怪我はない? 君は山道を歩き慣れていないから、大変なんじゃないか」
気づかうエリアスに、アキはふるふると首を振った。
「ううん、ごめんねエリアス、ありがとう。大丈夫、まだまだ全然歩けるから!」
やや意固地になって笑顔を作って言い張ったが、言葉とは裏腹に視線が泳いでしまう。
エリアスは一瞬面食らったあと、面白おかしそうに笑った。
「君は本当に強がりだね。それじゃあ、疲れたら俺がおぶることもできるから、もう少し頑張ってみようか。アキ、手を貸して」
うん、と頷いて右手を伸ばせば、エリアスがその手をつかんでぐいと力強く引いてくれた。
その勢いに元気をもらうようにして、アキの足取りにも活気が戻る。
「アキ、ほら、あの草を見て。あれは薬草の一種で、ヨハンあたりが詳しいんだけれど――」
エリアスは、自分に寄り添うように歩くアキに、ときおり足を止めては生い茂る草を指差し、楽しげに解説してくれる。
にこにこと自慢げに説明するエリアスが可愛くて、アキはうんうんと頷きながら、エリアスの言葉に耳を傾けた。
彼と楽しく話しているだけで疲れなんて吹き飛んでしまう――アキはじんわりと心があったかくなりながら、山道を登りきっていくのだった。
「あらあら、ずいぶん微笑ましい光景ねえ!」
仲睦まじく前を並んで歩いているエリアスとアキの後ろ姿に、ミーナがころころと楽しそうに笑う。
彼女の隣に並んで歩を進めていたルイスは、そのまま歩みを止めずにミーナの横顔をちらと見た。
「そういえば、君はあの二人とパーティを組んで長いのか?」
「ううん、違うわよ。エリアスたちとはこのクエストでパーティを組んだばっかりなの」
へえ、とルイスはわずかに目を見開く。
「三人ともずいぶん仲が良いようだったから、もう組んで長いのかと思ったのだが」
「そう思ってもらえたのなら嬉しいわ! エリアスもアキもいい人たちだから、打ち解けるのが早かったのよね、きっと」
「それは君にも言えると思うのだが」
君も人好きのするタイプだ、と言い添えれば、ミーナは一瞬きょとんとしたあと、照れたように視線を逸らした。
「それは、ありがとう。……あたし、どこかのパーティに属さないでずっとフリーの冒険者をしているから、クエストに行くときは毎回違う仲間と組んでるのよね。で、今回はエリアスとアキに声をかけたってわけ」
なるほど、と頷きながら、ルイスはふとエリアスの後ろ姿を見やる。
正直、よく『勇者』その人であるエリアスが、今回初めて出会った――言い方は悪いが正体の知れないミーナとパーティを組む気になったと思うのだ。
(大方、アキあたりに押し切られたといったところか……?)
エリアスはアキの言うことには弱そうであるから、きっと彼女の意思を尊重して今回のクエストに参加したのだろう。
『勇者』とはいえ、彼だってひとりの男性だ。思いをかける女性には、てんで頭が上がらないのかもしれない。そんな人間味のある勇者様には、同じ男として気持ちがわかるようで好感が持てるが。
「ねえ、あんたはパーティメンバーっていないの?」
とんとん、と自分よりも二、三歩先に進んだミーナが、足を進めながら振り返る。
ルイスは肩をすくめた。
「私も君と同じくフリーの冒険者でね、基本はパーティを組まずにひとりで活動しているんだ。そのほうが気楽でね」
「ああ、あんたもひとところに留まってるタイプじゃなさそうよねえ」
ころころと楽しそうに笑って、ミーナはスキップでもするように山道を登っていく。
苔の生えた石も地面にひしめいている朽ち木もなんのそのだ。冒険者の中で敏捷度が最も高い『盗賊』にとっては、このくらいの斜面など、平坦な道と変わらないのだろう。
魔法系の職業に区分される『吟遊詩人』は、『盗賊』ほどに体力値や敏捷度の能力に優れていないため、彼女の身軽さはうらやましいかぎりだった。
どんどんと先を行くミーナの背中を微笑ましく見ていると、彼女がちらりとこちらを振り向いた。
「ねえ、突然だけど、ルイスって貴族なのよね? フラフラ出歩いてるけど、家に許嫁とかいないの?」
「許嫁……?」
変わった質問が来たものだと、ルイスは一瞬足を止める。
その質問には、いったいどういう意図があるのだろうか。
ルイスはしばし足を止めて思案したあと、形のいい唇の端を持ち上げ、にやりといたずらに笑った。
「ずいぶん積極的な質問だな。もしかして、私に興味を持ってくれたのか?」
からかうように言えば、ミーナは面食らってから、心外だという風にうっすらと顔を赤くした。
「はあ? べ、別にそういうわけじゃないわよっ! ただ、貴族様で冒険者で、しかも高レベルの吟遊詩人って珍しいなって思っただけよ! どういう環境で生活してんのか気になったっていうか」
変なこと言わないでよねっ、とミーナはルイスに舌を突き出すようにしてから、逃げるように先を急いでしまう。
それをくすくすと笑って受け流したルイスは、ミーナに追いつくように歩調を速めながら、その背中に向かって声を投げた。
「許嫁なんかいないさ。私はこのとおり放浪癖があるから、誰も私の伴侶になろうなどとは思ってくれないのだよ。――家も、まあ、見識を広めるために冒険者をしているといえば聞こえはいいが、実質勘当されたに近いからな」
言葉とは裏腹に明るい声で言えば、ミーナがぴたりと歩みを止めて振り返った。
申し訳なさそうに眉を落とす。
「……ごめんなさい。余計なことを聞いたわ」
「気にすることじゃない。隠すつもりもないことさ。それよりも、ミーナには決まった相手はいるのか?」
「あたし!?」
ミーナがびくりと肩を跳ね上げる。
「こんながさつなあたしに決まった相手なんているわけないでしょ。年がら年中恋人募集中よ!」
冗談めかしてにっこりと唇を持ち上げるミーナに、ルイスはふと顎に手を当てる。
「そうか。――ならば、私が名乗り出ても良いということか」
一瞬の間のあと、ミーナがあんぐりと口を開けた。
「じ、冗談でしょ!」
すかさず否定される。
(そう微塵も信じてもらえないとは、いささか傷つくのだが……)
とはいえ、恋に障害はつきもの、というではないか。
ふむ、とルイスは自分の結論に納得してから顔を上げ、光でも灯っているような良い笑顔をミーナに向けた。
「まあ、考えておいてくれ」
「……あなたってどこまで本気かわからないわよね。――ねえルイス、それよりも」
その場に立ち止まっていたミーナの隣にルイスが追いつくと、彼女はエリアスとアキの背中が並んでいる前方に視線を向け、すっと警戒するように目を細めた。
「……あなたも気づいてるかもしれないけど、この森、ちょっと変じゃない? 港町からそんなに離れた場所にあるわけじゃないのに、異様に人の手が入っていない、というか……」
ミーナが言うことはもっともで、自分たちが今歩いている山道も、細々と踏み固められているだけでほぼ獣道に近いのだ。
まるで、長年誰も足を踏み入れなかったのではないかと思えるほどに、森は木々が生い茂り、倒木や朽ち木、落ち葉で地面が埋もれ、木や石ころには苔が生している。長らく放置されていたような自然のままの状態といえた。
「たしかにな。君が言いたいのは、今までこの森はなんらかの理由で人目に触れていなかったが、今回私たちだけが特別にこの森に招き入れられたという可能性がある、ということだろう」
真意を探るようなルイスの問いかけに、ミーナは否定しきれずにうつむく。
「そう、ね……。そこまでは……言ってないけど……」
歯切れの悪いミーナに、ルイスは肯定することも否定することもせずに、再度歩みを進め出した。
おそらく彼女も自分の言ったことと似たようなことを考えてはいるのだろうが、先のことを恐れて、ここで引き返すわけにもいくまい。
(ミーナは、この依頼書をどこで手に入れたのだろうか……)
ルイスの頭を、ふとそんな疑問がよぎる。
もしかしたら、その依頼書の依頼主になにか秘密が隠されているのではないだろうか。
なにせこのクエストは、ミーナをとおして、勇者エリアスとその片腕のアキが参加するという特殊な状況になっているのだ。
ミーナ自身が気づいていなかったとしても、依頼主が彼女を使って意図的にエリアスたちが参加するように仕向けたことは、充分に有り得る。
周囲を警戒するように先を行くミーナの後を追いつつ、ルイスは誰に伝えるわけでもなく呟いた。
「……このクエスト、一筋縄ではいかないかもしれないな」




