第二話 勇者様の秘書
暗かった空間が開けた途端、広大な大自然の景色がアキの視界を覆い尽くさんばかりに広がった。手前には青々とした緑の平原が続き、遠目には水平線が清らかに伸びている。そこに、光を散らしたように輝く水面がわずかに見て取れた。――アキが穴から吐き出された先は、見知らぬ風景の大空の真っ只中だった。
そのあまりに雄大な景色に、アキは自分が落下していることも忘れ見入ってしまう。
「綺麗――……って、見惚れてる場合じゃないですよね!」
自分の呑気な性格に泣きたくなる。
このまま落ち続けたとしたら――その先を想像するだけでぞっとするが、アキにはさきほどの魔王のように空を浮遊する力はない。
(どうしようっ、どうしたらっ……!)
――とりあえず、叫ぶしかない!
「誰かっ、誰か助けて――――っ!」
『――了解。助けるからちょっと待ってろ』
不意に頭の中に聞き慣れない男の声が流れ込んだ。
アキははっとして周囲に視線を巡らせるが、視界に映るのは下から上へと駆け抜ける大自然の景色ばかりだ。
「だ、誰ですか!? 一体どこに――」
『ちょっと待て今しゃべんな。気が散る』
(お、怒られたっ……!)
いきなり理不尽に頭の中で叱られたと思いきや、男の不可思議な言葉が続く。
『――大地よ、遠くへ運んでおくれ。未来が我々を招いている。どこにいても、平等に時は流れるのだから』
(なにかの、呪文……?)
そう思った瞬間、アキの視界に映っていた景色が一転し、場面が切り替わるようにして広大な自然から石造りの神殿へと様変わりした。吹き抜けの神殿内に突然放り投げられた状態になり、反射的に地面を見下ろせば、石畳の床が突進するかのごとくこちらに差し迫ってくる。
(え、ええええええ―――!?)
アキは大混乱しながら、目に涙を滲ませて力の限り叫んだ。
「きゃああああああ誰かああああああっ!」
ひどい痛みを覚悟して目を閉じかけた瞬間、ちょうど真下に待ち構えていた金髪の男が、アキを受け止めんばかりに大きく両腕を広げた。
「大丈夫です! 俺が受け止めますので、体の力を抜いてください!」
「えっ……―――わっ!」
アキが金髪の男に気づいて目を瞬いたと同時、体が宙でくるりと仰向けになったと思うと、男の腕の中にぽすんと収まった。
アキはきょとんとして瞬きを繰り返す。
(い、一体なにが起こったの……?)
突然場面が変わったと思ったら、今度は男の人に抱き留められて……。
おそるおそる視線を巡らせると、至近距離でこちらを心配げに見つめる金髪の男と目が合った。その顔立ちを見るなり、アキは瞬間的に顔を赤くする。
(な、な、なっ……!)
男は、絹糸のような淡い金髪に、明るい緑色の切れ長の瞳をしていた。通った鼻筋と優しげに細められた目は、まさに絶世の美男子だ。
まるで王子のような外見に目を奪われていると、男が形の良い唇を動かしてアキの顔を覗き込んだ。
「平気ですか? 怪我などされていないといいのですが」
男の声音は、低くもなく高くもない、耳に心地良い高さだった。
見目麗しい男に抱きかかえられた体勢に、アキは熱くなる頬をそのままに硬直する。
「あ、の、ええとっ……!」
「ああ、すみません。女性に気安く触れては失礼ですよね」
男は柔和に笑って、アキの体を丁寧に床に下ろした。
(い、いろんな意味で心臓止まるかと思った……)
アキはどきどきと鳴る胸を抑えながら、金髪の男の外貌を観察する。
男は、白と青を基調にしたロングコートの上から純白のマントを羽織り、肩当てや胸当てといった軽装の鎧を身につけていた。すらりとした高身長がスマートだ。
男は透き通った緑色の目を優しく細め、アキの目線の高さまで腰を屈めると、こちらを気遣うように眉尻を下げた。
「いきなりのことで驚いたでしょう。突然、異世界に召喚されたんだからね」
「……異世界に、召喚?」
それは、一体、どういう……。
男は事実を確認するかのように首を傾げる。
「うん、そうだよ。君は、この世界とは違う並行世界からやって来たんだろう?」
(並行世界……?)
どうしよう、言っていることがなに一つわからない。
アキはすがるように男を見上げた。
「あの、その並行世界がなにかはわからないんですが、私、魔王と名乗る男に妹が誘拐されて、それを助けるために空間の切れ目のようなところに飛び込んだんです。そうしたらここにたどり着いて……」
矢継ぎ早に説明すると、男はアキを落ち着けるように穏やかに微笑む。
「大丈夫、事情はわかっているよ。君は魔王を追ってこちらの世界に来たんだろう? でもって、君がこの世界に現れたところをレオの召喚魔法でここに引き寄せたんだ。あのまま落ちていたら危なかったね」
――召喚魔法?
アキはさきほどの光景を思い出す。
そういえば、落下している最中に知らない男の人の声が聞こえた気がする。あのときのことだろうか。
「……えっと、私がこの世界に来てすぐ、頭の中に男の人の声が聞こえたんです。その声がレオさんだったんですか?」
「そうだよ。今そこにいるんだけれど――レオ、そろそろ起きられるか」
金髪の男が神殿の高台を振り仰ぐと、別の男の呻くような声が返ってきた。
「……無理。さすがの俺も、異世界から人を召喚したら魔力切れで疲弊するから」
アキが声の主を探してきょろきょろすると、高台の上に黒髪の男がうつ伏せに寝そべっていた。その声音は、たしかに落下しているときに頭の中に聞こえてきたものだ。
黒髪の男はゆるゆると気だるそうに起き上がると、品定めするようにこちらを見下ろした。
男性らしいきりりとした眉に、勝ち気そうな瞳は紫色をしている。
(ひええっ、あの人もすごいかっこいいんですけど……!)
黒髪の男性も、金髪の男性に負けず劣らずの整った顔立ちをしている。
圧倒されているアキに気づいていない様子で、黒髪の男は脱力した表情でアキを見据えた。
「ほお、おまえが今代の『勇者の片腕』か。異世界から来る人間がどんな奴か期待してたんだが、意外と貧弱なのを引いちまったかもなあ……」
(……貧弱?)
アキが片眉を跳ね上げると、金髪の男が黒髪の男を咎めるように前に出る。
「こら、それは失礼というものだよ、レオ」
「だってよ、『勇者の片腕』なら、屈強な男とか、なんでも知ってそうなジジイとか、せめて絶世の美女を想像するだろ?」
「それは歴代の勇者の話だからね。俺の場合は、違ったのかもしれない」
男二人は、アキを蚊帳の外にしてどんどんと勝手に話を進めていく。
(なんか、ものすごく失礼なことを言われてる気がする……)
もしかして、自分は二人が期待していたような人物ではなかったのだろうか。
絶世の美女じゃなくて悪うございましたねっ、と頬を膨らませてみせると、それに気づいた黒髪の男が面白おかしそうに笑った。
「悪ぃ悪ぃ、冗談だって! おまえみたいに可愛らしい女の子で良かったって思ってるぜ」
「……本当ですか?」
半眼になって訊き返すと、黒髪の男が悪びれたふうもなく頷いた。
「ああ、もちろん! 素朴な可愛さっつーのかな、親しみやすさを感じるな」
「……それ、褒めてるんですよね?」
げんなりと言い返すアキに、黒髪の男はけらけらと楽しそうに笑った。
まったく、と腰に手を当てていると、二人のやりとりを笑って見ていた金髪の男が、アキと黒髪の男との間ににこやかに割って入る。
「まあまあ二人とも、みんな年齢が近そうだし、上手くやっていけそうじゃないか。――まずは自己紹介からでいいかな」
金髪の男がアキに向き直る。
「初めまして。俺はエリアス、エリアス・リーランドだ。この世界で『勇者』と呼ばれる職業に就いているよ。それから彼は『魔法使い』のレオ・ゲインズ」
「どうも。よろしく頼むわ、異世界のお嬢さん」
小首を傾げて、黒髪の男――レオが気さくに手を振ってきた。
(金髪の男性がエリアスで、黒髪の男性がレオ…)
アキは二人の名前を反芻する。
二人とも日本人名ではないようだ。やはり、ここは本当に異世界なのだろうか……。
戸惑うアキの目の前に、すっとエリアスの手が差し出される。アキが驚いて顔を上げると、握手、とエリアスが言って目を優しく細めた。
アキはおずおずと手を差し出し、エリアスの男性らしい節ばった手を握り返すと、エリアスが嬉しそうに微笑んだ。
「女の人の手ってすごく華奢だよね。これからよろしくね。ええと、君の名前は――」
「あ、ごめんなさい。私は小西アキです。アキって呼んでください」
「アキだね。良い名前だ」
言って、エリアスが小首を傾げて可愛らしく笑んだ。
(エリアスもレオも、優しそうな人だなあ……)
穏やかなエリアスと気さくなレオの雰囲気に、アキはどこか緊張していた心がだんだんと解れてくる。
とりあえず、今自分が置かれている状況を確認しなければならないだろう。魔王に攫われてしまった妹は無事なのか、一体どこに行ってしまったのかも――。
アキは頭の中で必死に質問を順序立てしながら、エリアスを見上げる。
「あの、エリアス。どうして私はここに呼ばれたんですか? それに、なんで魔王は妹を……」
アキはあの日の光景を思い出す。
あの日も、普通に残業をして家に帰って妹が夕食を作って待っていてくれる――そんないつもと変わらない日常が過ぎていくものだと思っていた。まさか妹が魔王によって異世界に連れ去られ、それを追って自分もこの世界に来るなんて考えもしなかった。
(どうしてこんなことになっちゃったんだろう……)
これからどうすればいいのか、元の世界はどうなっているのか、不安なことだらけだ。
口ごもって視線を伏せたアキに、レオががしがしと後ろ頭を掻く。
「……まあ、詳しくは後で話すが、まずこの世界は『勇者』と『魔王』と呼ばれる二人の英雄の戦いが継続的に行われることで成り立ってんだ。でもって、その『勇者』に生まれたエリアスは、宿敵である『魔王』を倒す旅に出なきゃならねぇ。――この世界を、維持するためにな」
「この世界を、維持?」
訊き返したアキに、エリアスが穏やかに頷く。
「そう。そのあたりは後で詳しく説明するね。……そして今回、君は『勇者の片腕』という役割でこの世界に呼ばれたんだ。勇者と魔王には、アキの世界――ここでは並行世界と呼んでいるけれど、そこからそれぞれ『片腕』と呼ばれる補助者が召喚される仕組みになっているからね。今回は君が勇者の片腕、そして君の妹さんが魔王の片腕に選ばれたみたいだね」
エリアスの説明に、アキはわかったようなわかっていないような状態で頷く。
まるで、どこぞのロールプレイングゲームのような話である。
(勇者の片腕と、魔王の片腕かあ……)
要するに、それぞれの右腕みたいなものなのだろうか。
思い返せば、魔王は妹のことを『婚約者』だと言っていた。あれは、『魔王の片腕』の誇張表現だったのだろうか。
(……なんとなく、この世界に呼ばれた理由はわかったけど……)
ナコはどこまでこの事情を知っているのだろう。
もし、『勇者の片腕』として自分がエリアス側に、そして『魔王の片腕』としてナコが魔王側につくのだとしたら、自分たちは敵対してしまうのではないだろうか。
ひやり、とアキの頬に冷や汗が伝え落ちる。
(……ううん、でも、ナコが魔王から『婚約者』という漠然としたことだけを聞かされて、自分が『魔王の片腕』となってエリアスと戦うっていうことを知らない可能性もある……よね)
もともと彼女は争いが好きな性格ではないから、誰かと戦わなければならないといわれてほいほいと付いていくはずがないと思うのだ。
けれど、あのときナコは抵抗らしい抵抗をしていなかった。ということは、魔王に騙されているのだろうか。
(どちらにしても、このままナコを魔王の許に行かせるわけにはいかないよね)
大切な妹を守るのは、姉である自分の務めだと思うから。
「――そういえば」
エリアスが思い出したように口を開いた。
「俺はレオに君を召喚してもらったけれど、魔王は直接妹さんを迎えに行ったみたいだね」
「あ、言われてみるとたしかに……。魔王はこの世界と私たちの世界を自由に行き来できるんですか?」
訊くと、レオが高台に手をついて立ち上がった。その場で片手を正面に伸ばし、宙にキャンバスでもあるかのようにするすると指を滑らせてゆく。彼の指の軌跡を辿るように淡く青く光る線が描かれ、それはやがてよく本で見かける魔法陣の形を取る。
陣を描ききったレオが軽く手を払ってそれを掻き消すと、瞬間、彼の全身が風を孕んで宙に舞い上がった。ぽかんとしているアキを尻目に、レオはそのままふわふわと浮遊しながらエリアスとアキの近くまで飛んで、軽やかに着地する。
(す、すごい……! レオ、空を飛んでる!)
これも魔法の力なのだろうか。
レオは軽く服装を整えると、魔法を目の当たりにして頬を紅潮させているアキに向き直った。
「――とまあ、この世界はこういう魔法っつー力があるわけだが、異世界同士を移動する魔法――転移魔法ってのは、目ん玉ぶっ飛ぶくれぇ甚大な魔力を必要とするんだ。だから、基本魔王以外は使用できねぇ。魔王っつーのは、この世界で化けもんみてぇに魔力が高いからな」
「そう……なの? 勇者様のエリアスでも無理なんですか?」
「うん。勇者は、強力な魔力を持つ魔王と対比されるように一切魔力がないんだ。その代わり、人智を超える体力と運動神経があるんだけれどね」
エリアスの説明に、ああなるほど、とアキは納得する。
だからエリアスは、空中から落下した自分を易々と抱き留めることができたのだろう。
とはいっても、エリアス自身はどちらかというと細身で、筋肉隆々といった見た目ではない。潜在的な能力として備わっているのかもしれない。
「――アキ」
エリアスがおもむろに手を伸ばし、悶々と考えていたアキの手を両手で掬い上げた。
アキは驚いて、握られた手とエリアスの真剣な顔を交互に見比べる。
エリアスが真摯な瞳でアキを真っ直ぐに見つめた。
「こちらの事情で君たちを巻き込んでしまってごめんね。俺が必ず、君の妹を助け出すと約束する」
彼はそこで一度言葉を切って、アキの手を握る腕にそっと力を込める。
「――だから、俺を信じて一緒についてきてくれないか」
「エリアス……」
勇者様が一緒ならば、きっと妹を助け出すことができるかもしれない。
けれど、自分は今まで平々凡々に暮らしてきた一介の会社員だ。異世界で旅をするような特別な力など持ち合わせていない。
……自分は、エリアスたちの足を引っ張るだけなのではないだろうか。
「あの、私も、エリアスたちと一緒に行けたらすごく心強いです。でも私、なんの力もなくて……」
「え?」
エリアスとレオが顔を見合わせる。
「力がない?」
レオが訝しげに眉根を寄せた。
なんだか二人の様子が変だ。なにか自分はとんでもないことを口走ったのだろうか。
エリアスがアキの肩に遠慮がちに手を添える。
「アキ、この世界に来るときになにか特殊能力を授からなかった?」
――え?
「特殊能力、ですか?」
それはなにか得意なことを言えばいいのだろうか。料理だとか、掃除だとか、洗濯だとか。
とはいっても、平凡OLな自分にはこれといって人に言えるような特技はない。
(ど、どうしよう……)
押し黙って俯くアキに、レオがまいったように後ろ頭を掻く。
「あのさ、おまえみてぇな『勇者の片腕』は、こっちの世界に召喚されると同時に女神から特殊能力を授かるんだよな? おまえ、女神と会ってないのか?」
(女神……?)
自分がこの世界に来るまでに出会ったのは、魔王とエリアス、レオだけだ。女神というからには女性なのかもしれないが、まったく出会った記憶はない。
本来ならば、召喚された時点で『勇者の片腕』としての特殊能力を授かっていなければならなかったのだろうか。
アキは唇を噛み締める。
このまま、ただのお荷物としてエリアスたちの旅について行くわけにはいかない。彼らの足を引っ張りたくはなかった。
どんな些細なことでもいい。なにか自分でも彼らの役に立てることはないだろうか。
アキは必死に考えを巡らせる。
(OLの私にもできること――)
そのとき、アキの頭の中に天から降ってきたように名案が舞い込んだ。
「あ―――――っ! 良いことっ、良いこと思いつきました!」
「うおっ! 突然大声あげてどうしたんだよ! びっくりすんじゃねぇか!」
仰け反るレオに構わず、アキは興奮から頬を紅潮させてエリアスとレオに詰め寄る。
「あのっ、私! 元いた世界では秘書っていう仕事に就いてたんです! 上司……この世界風に言うと上官でしょうか、主に上官の日程を管理するのが仕事でした!」
「そ、そうなんだ。――それで?」
話の意図がわからないのか、エリアスがアキの気迫に押されながら、まいったとでも言うように諸手を挙げる。
そう、勇者様の冒険の旅といえば、様々な町を渡り歩いて有力者に挨拶をしたり、大陸を渡るための交通手段を予約したり、道中で宿を取ったり、日程や時間の管理が必要なのではないだろうか。その仕事は、今まで秘書をしてきた自分の得意分野なのだ。
アキは言葉を待っているエリアスを見上げ、大きく息を吸って盛大に言い放った。
「エリアス! ――どうか私を、勇者様の秘書にしてください!」