第二十話 あの日の約束(中編)
そうして魔王は、毎夜ナコの部屋を訪れては、さまざまな話を彼女に伝え聞かせた。
彼が生まれ育った世界のこと、彼を取り巻く環境のこと、彼の世界を創造したとされる女神のこと――。
物語を話し終えると、魔王は約束を果たすかのように、毎度欠かさずにナコの身体に魔法をかけていった。ナコの中に眠る女神の力を鎮めるという、彼女の体調を安定させるための特殊な魔法だ。
それを数日繰り返すうちに、ナコの病状は見違えるように良くなっていった。
ナコにとっても、毎晩魔王が遊びに来てくれることが待ち遠しいほどに楽しみであった。
毎日の活力になっていたそれの影響もあって、身体の回復も早かったのだと思う。
魔王は真夜中にナコのもとを訪れては、一時間もすれば去っていった。ナコの身体に負担がかからないよう配慮をしてくれていたのかもしれない。
ナコにとって、魔王と一緒にいる時間はとても楽しかったし、別れの時が来ると寂しかった。
それは魔王も同じであったらしく、別れ際、魔王は必ず「また明日会いに来る」と約束して帰っていった。
ナコにとっても魔王にとっても、お互いになくてはならない時間になっていたと思う。
そして、そんな楽しい日々が数週間ほど続いたころ、二人の逢瀬に変化が訪れた。
――別れの時がやって来たのだ。
「――ナコ、起きているか」
「魔王様!」
初めて出会ったときと同じように、今日も窓から忍ぶようにやって来た魔王に、ナコは飛び起きるようにして上体を起こした。
今日はどんなお話を聞かせてくれるのだろう、今日はいつまで一緒にいてくれるのだろうと、ナコはうきうきと胸を高鳴らせる。
ナコは身を乗り出し、ベッドの脇に佇んでいる彼に満面の笑顔を向けた。けれども、魔王はナコの笑顔に応えることはなく、どこか落ち込んでいるように視線を伏せる。
今まではナコの顔を見れば目もとを緩めていた魔王のいつもとは違う表情に、ナコは胸騒ぎを感じて表情を曇らせた。
(なんだろう……。なんだか、いやな予感がする……)
どこか不安になる気持ちのまま、ナコは拳を胸もとに寄せ、小さな声で問いかける。
「……魔王さま、どうしたの? なにかあった?」
魔王は口ごもるばかりでなにも答えない。
答えてくれないということは、やはりなにかあったのだろうか。
そんなに言いにくいことなのだろうか。
ナコは、押し黙っている魔王を辛抱強く見つめる。
魔王はしばらくその視線から逃れるように顔をそらしていたが、やがて観念したように長く息を吐き出した。ひどく言いにくそうにしながら、ぽつりと口を開く。
「……ナコ、今日は一つ、報告があるのだ」
「報告?」
「……ああ。事情があって、しばらくここには来られなくなった」
魔王が辛そうに視線を伏せる。
ナコは、まさかという思いで、うつむいている魔王を凝視した。
魔王の言った言葉がすぐには飲み込めず、代わりにひやりと体温が一気に冷えた感覚がする。
(もう、ここには来られなくなった……?)
それは、今日を最後に、魔王は自分に会いに来てくれなくなるということだろうか。
自分はまた、ひとりになってしまうのだろうか。
(そんなの、いやだっ……)
ナコが見るからに愕然としているのがわかったのか、魔王は気まずそうに視線を伏せる。魔王はナコに歩み寄ると、身を屈めてナコの顔を覗き込んだ。
「すまない。おまえの中に眠る女神の力に対抗するため、自分の世界で本格的に準備を始めなければならなくなったのだ」
そこで言葉を切って、魔王は真摯な瞳でナコを見つめる。
「――私は必ず、おまえを助けたいのだ」
「わたしを、助ける……?」
魔王は肯定するように神妙に頷いた。
今まで聞いた魔王の話から、彼の世界には女神という神なる存在がおり、なんらかの理由があって女神の力が自分の中に眠っているのだということはわかっていた。
けれど、幼い自分にはなぜそのような事態になっているのか理解できなかったし、魔王もまた、説明するのは時期尚早と判断したのかナコに詳細を話そうとはしなかった。
だから、その女神が自分にとってどういう存在なのかはわからないけれど――それでも、魔王が真剣に自分を救おうとしてくれていて、やむにやまれぬ事情でここに来られなくなってしまったのだということはわかった。
それでも悲しくて瞳を揺らすナコに、魔王は彼女を諭すように言葉を続ける。
「女神は強敵だ。私はおまえを救うために女神と戦わなければならなくなるだろうが、一筋縄ではいかない相手なのだ。だから、私は自分の世界で同志を集め、女神と対峙する来たる日に備えて布石を敷いておかなければならなくなった。……だから、しばらくは自分の世界から出ることが叶わず、今のようにおまえには会えなくなるが、代わりにおまえが成人する頃に必ず迎えに来ると約束する」
魔王は、誓うように自らの胸に手を当てる。
(魔王様は、わたしのために女神様と戦わなくちゃいけないってこと……?)
なぜそういう状況になるのか聞きたかったが、おそらく聞いたところで答えてはもらえないのだろう。それに、きっと教えてもらったとしても今の自分には理解できない気がした。
(きっと、わたしのわがままで魔王様を困らせちゃいけないんだ……)
魔王は、ナコを助けるために時間が必要だと言っている。
それなのに、もう会えなくなるのはいや、などと自分勝手なことを言って魔王に迷惑をかけてはいけないのだ。
それに魔王は、女神と対峙するための準備を終えたら自分を迎えに来てくれると言っている。もう会えなくなるわけではない。
――少し、離れ離れになるだけ……。
だから、寂しくない。
(わたしは、ひとりでも大丈夫)
ナコは目を閉じ、そう自分を奮い立たせる。
寂しくない、大丈夫。
魔王を信じて、彼が迎えに来てくれるのを待っていられる。
ナコはそう気を強く持つと、こちらの返事を心配げな表情で待っている魔王に向けて、彼を安心させるようなとびきり元気な笑顔を浮かべた。
「わかった! ほんとはすごく寂しいけど、わたし、魔王様のことをずっとずっと待ってるね! だから、絶対また会いに来てくれるって、約束して」
「約束……」
うん、と頷いてみせれば、魔王はふとなにかを思いついたようにごそごそと黒いローブの内側に手を入れた。
なんだろう、と首を傾げるナコに、魔王はローブから取り出したなにかをしっかりと右手の拳で包み込んだ状態で、身を屈めてナコの顔を覗き込んだ。
「――ナコ、左手を出してもらえるか」
「え……?」
――左手?
突然脈絡のないことを言う魔王に戸惑っていると、魔王がナコに向かって左手の手のひらを差し出した。そこに左手を添えろということなのだろうか。
ナコは、困惑しながらも言われるままに魔王の左手に自分の左手を被せる。
魔王は自分の気を落ちつけるためか長く息を吐き出すと、拳に握った右手を恭しくナコの前に伸ばし、固く握っていた指をそっと広げた。
ナコが魔王の手のひらを見ると、そこには、中央に大きな深紅の宝石のついた金細工の指輪がひとつ置かれていた。それは、部屋の暗がりで月夜の光を受けて黒曜石のように煌めいている。
「再会の約束の証に、これをおまえに授けておきたい」
「これ、わたしに……くれるの?」
「そうだ。この指輪に私の魔力を込めておいた。これを身に着けていれば、おまえの体を女神の力から守ってくれるだろう」
どこか勝ち気そうに魔王は笑ってみせる。
きれい……、とナコが指輪に見惚れた様子で呟くと、魔王は嬉しそうに頬を緩ませた。自分の左手でナコの左手を支えながら、魔王はその指輪をナコの左手の薬指に通す。
吸い込まれるようにナコの指に収まった指輪から、魔王がいつも自分に魔法を唱えてくれるときに感じるような優しい温かさが流れ込んでくる感じがした。これが、魔王が指輪に込めてくれた魔力なのだろうか。
「魔王様、これ――」
こんな高価そうなものを本当にもらってもいいのだろうか。
おずおずと自分の左手の指輪と魔王の顏を見交わしていると、魔王はどこか気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「う、うむ、よく似合うぞ。私はおまえのことがとても大切なのだ。だから……」
魔王は、そこで一度言い淀んで言葉を切った。
暗がりでもわかるほどに、魔王は耳もとや顏を赤く染めている。
「魔王様?」
どうしたの、と首を傾げるナコに、魔王は意を決したように顔を上げ、指輪についた宝石と同じ紅の瞳で真っ直ぐにナコを見つめた。
「――だから、この指輪を通して、おまえに求婚しても良いだろうか」
(きゅうこん……?)
魔王の真摯なまなざしを受け止めながらも、ナコはきょとんとして目を瞬いてしまった。
魔王の使う言葉はどれも難解で、幼いナコにはすぐに理解できなかったのだ。
ええと……、と戸惑っていると、魔王は赤くなっている顏をさらに赤らめ、焦った様子で視線を宙に泳がせた。どう伝えたらいいものか、と一生懸命考えているようにも見えた。
魔王は自分自身を落ちつかせるために短く息を吐くと、指輪のはめられたナコの手の上に自分の手を乗せ、ナコの左手を包み込んだ。ナコの瞳を一心に見つめる。
「――ナコ、求婚とは、将来私とずっと一緒にいることを約束するということだ」
「将来、ずっと……」
「そうだ。だが、無理に確約するつもりはない。私はおまえの気持ちを尊重する」
できれば快諾してほしいが……、と、魔王はどこか懇願するようにナコの手をしっかりと握っている。
ナコは、魔王が自分に伝えようとしている内容を理解しようと懸命に頭をひねった。
求婚とは、将来魔王様とずっと一緒にいることを約束することだと、彼が言っていた。
その約束をすれば、また魔王様は自分に会いに来てくれるということだろうか。
これでお別れにはならないのだと、この指輪を通して約束してくれるということなのだろうか。
(だとしたら……)
――もう、返事は決まってる。
ナコは目の前の魔王の顔を見上げる。
「魔王様、その約束をしたら、またわたしに会いに来てくれる?」
「もちろんだ。おまえは私にとって最も大切な者になるのだから」
魔王の返事に、ナコは嬉しくなって彼と重ねた手に力を込めた。
難しいことはわからないけれど、魔王様とまた会える――その事実こそが、ナコにとってなによりも代えがたい喜びだった。返事を迷うことなどなかった。
「うん、わかった! わたし、魔王様と約束するね。絶対絶対また会いに来てね! わたし、ずっと待ってるから」
魔王様が迎えに来てくれるそのときまで、ずっと。
じわりと涙が滲んで、濡れた瞳をそのままに魔王を見つめると、彼もまた優しく目を細めてナコの両手をたぐり寄せるように包み込んだ。
そっと顔を寄せて、ナコのおでこに自分のそれを当てる。
「――必ず迎えに来ると約束する。今からおまえは、私の婚約者だ」
「うん……!」
幸せそうに笑ったナコに、魔王は自分の額を離して、いつもしていたようにその指先をナコの額に添える。短い言葉を一言呟くと、彼女の額に魔法陣が描かれ吸い込まれていった。
彼女の記憶を曖昧するための魔法だった。
自分が迎えに来るまで、彼女にはこの出会いは夢物語だと思ってもらっていたほうが良い――魔王はそう判断したのだ。
ナコは力が抜けたようにふっと目を閉じると、力なくベッドに横たわった。すぐに穏やかな寝息をたて始める。
魔王は彼女の布団を掛け直してから窓枠に足をかけた。
これが永久の別れではないが、しばらく彼女の顔を見られなくなる。
魔王にとっても、それはとても寂しいことだった。
夜空へと飛び立つ寸前、魔王は名残惜しそうに彼女の寝顔を振り返る。
「ナコ、私が迎えに行くまで、どうか、元気で……」
――必ず私が、おまえのことを守ってみせるから。