第十九話 あの日の約束(前編)
ナコとの話がまとまり、皆で魔王城への出発準備を整えることになったエリアスたちは、男連中だけで町の中央広場にある道具屋へ買い出しに来ていた。
買い出しというのは実のところ建前で、実際は、アキとナコを宿屋で二人きりにすることで、姉妹で気兼ねなく話せるように配慮したためである。
特にアキは、ナコから詳しい事情も聞けないままこの世界に来てしまったようだから、積もり積もった思いがあるはずだ。
そのときに自分たちが傍で聞いていたのでは話しづらいこともあるだろうと思い、買い出しという名目のもとに、エリアスたちは宿屋から席を外したのだった。
商品として置かれているいくつかのランプによって薄ぼんやりと照らされる店内で、レオが棚から薬の瓶を手に取りながら呟いた。
「ナコと腹割って話せてるかねぇ、アキの奴」
レオとわずかばかり離れたところで壁にかかっている木製のお面を見つめていたエリアスは、それを両手で取ってから彼に顔を向けた。
「たぶん大丈夫だと思うよ。アキもナコも、俺たちがいないぶん、お互いに本音で話し合えているんじゃないかな。少し道具屋で時間を潰してから戻ろうか」
答えると、籠に入っていた薬草を一房手に乗せて吟味していたヨハンが顔を上げた。
「そうですね。早めに戻るのは無粋というものでしょう。――ところでエリアス」
「なに?」
半眼になるヨハンに、エリアスはきょとんとして返す。
ヨハンは、頭痛でも抑えるように額に手を当てた。
「……まさかその仮面、購入する気ではないですよね?」
「へ? ああ、うん、これ買おうかなって。顔面の防御力アップにもなるし、正体を隠したいときに覆面の代わりにもなるかなって」
名案とばかりに人差し指を立てたエリアスに、つかつかと歩み寄ったレオが、むんずとお面をつかんで取り上げる。
「アス、こんな呪いの儀式にでも使いそうなお面つけたって逆に目立つだけだろ! ったく、おまえってどっか美的センスずれてるよな」
美の象徴ですみたいな見た目しといてその壊滅的なセンスはなんなんだ、とレオにけんけんとつっ込まれる。
エリアスはふてくされて頬を膨らませた。
「そんなこと言われても、その仮面、けっこう可愛い細工だからほし……」
「そう思うのはエリアスだけです。ほら、さっさと次の店に行きましょう」
ヨハンに首根っこをつかまれるようにして、ずるずるずると、エリアスは店から引っ張り出されていく。
そんなこんなで、男三人の買い物の時間が楽しく展開されているころ――。
宿屋に留守番中のアキとナコは、部屋のベッドの一つに仲良く隣り合って座り込んでいた。
アキは、久しぶりに妹と二人きりになったからか、やや落ち着きのなさを感じて一度深呼吸をする。
(なにから聞けばいいんだろう……)
会ったら聞きたいと思っていたことがたくさんあったはずのに、いざ本人を前にすると言葉に詰まってしまう。
ナコも緊張しているのか、そわそわした様子で膝の上に乗せている手に視線を落としていた。
エリアスたちは、自分たちが気を遣わずに話せるように買い出しに出てくれている。
――せっかくエリアスたちが話し合いの場を設けてくれたのだから、この時間にしっかりナコから事情を聞かなくちゃ。
アキはそう意を決すると、ナコの横顔を見つめて話を切り出した。
「……それで、ナコ。さっき、前から魔王と知り合いだったって言ってたけど、どういう事情があったの?」
おそらくその事情があったからこそ、ナコはあの日、魔王に逆らわずにこの世界に行ってしまったのだろう。とすると、最初に聞くべきなのはその事情だ。
ナコは姉を見つめ返し、おもむろに自分の首もとに下がっていた金細工の鎖を取り出した。そこには大ぶりの深紅の宝石を冠した指輪が通されており、ナコの胸元で軽やかに揺れている。
アキは目を見開いた。
「ナコ、それ――……」
「……うん。これ、わたしが小さいときに魔王様からもらったものなんだ。魔王様に、いつかまた迎えに来るから、この指輪を代わりに持っててって言われて……」
ナコは、当時の魔王との約束を思い出すように、ペンダントの先につけられた指輪を大切に握る。
「お姉ちゃん、ちょっと長くなるけど、魔王様とわたしが出会ったときの話を聞いてもらってもいい? そうすれば、事情をわかってもらえると思うから……」
すがるように言うナコに、アキは、もちろん、と真摯に頷く。
ナコはほっと表情を緩めて、記憶を思い出すように宙を見上げた。
「あの日、魔王様はわたしを攫いに来たんじゃなくて、わたしとの約束を守るために、わたしを迎えに来てくれただけだったの――……」
そうして彼女から語られる話は、彼女と魔王の、遠い日の約束の物語だった。
ナコは、小さい頃からひどく病弱な体質だった。
生まれつき小児喘息を患っていた自分は、学校も休みがちで、登校しても授業の途中で具合が悪くなることが多く、そのたびに両親に迎えを頼んでは早退する日々が続いていた。
物心つくころからずっとそんな病院通いの日々が続いていたため、ナコ自身も精神的に塞ぎ込みがちになり、不安定な精神状態にあった小学生時代のある日のことだった。
その日もナコは、体調を崩して学校を早退し、自室のベッドで一日中横になって静養していた。
なんとか薬で咳を抑え込み、うとうとしながら夜を迎えたころ、その出来事はやってきたのである。
真夜中の二時を回ったころ、薬が切れたのか、また息苦しさを感じてナコはふと目を覚ました。家族は寝静まっているのか、人の気配も物音もなに一つしない。
ナコはよろよろと上体を起こし、荒い息を繰り返しながら胸もとに拳を寄せた。
(……息が、苦しいな……)
そう思った途端にごほごほと激しく咳き込み、ナコは呼吸を落ち着けるように弱々しく息を吐き出した。
むせたせいで涙目になる瞳をそのままに、そっと手を伸ばして、窓にかかっていたカーテンを軽く開いてみる。すると、白い星が点々と輝く夜空が顔を出し、ナコは額に汗を浮かべたまま顔を綻ばせた。
(もしかしたら、明日は天気がいいのかな)
夜空に星がたくさん見えると次の日はお天気になることが多いんだよ、と、学校で聞いてきたらしい姉がいつか自慢げに話していた。
姉のアキは面倒見がよくしっかり者で、病弱で家族に心配をかけてばかりの自分をよく助けてくれていた。
ナコにとって自慢の姉であり、それでいて、どこかうらやましい存在でもあった。
(わたしも、お姉ちゃんみたいに元気だったらな……)
青空の下をランドセルを背負った友達と一緒におしゃべりしながら登校してみたい。
いったいいつまで、自分はこんな辛い日々を過ごさなければならないのだろう。
両親にも姉にも心配や迷惑をかけて、それなのに一向に病気はよくならなくて――……自分など、本当はいなければよかったのではないだろうか。
そこまで考えて、ナコは力なく首を振った。
(そんなこと考えちゃだめ。いつかきっとよくなるんだから)
弱気になどなっては、それこそ病が悪化してしまうかもしれない。
――しっかりしなくちゃ。
そう思った矢先、一際大きな咳がナコの気管に込み上げた。
「げほっ、げほごほっ……!」
――苦しいっ……!
絶え間なく繰り返す咳に呼吸困難になり、ナコはぜえぜえと音のする呼吸を繰り返す。
(薬っ……薬はどこにあったっけ……)
ベッドの脇にあるローテーブルに、薬と、水の入ったコップがきちんと並べて置かれている。寝る前に母親が用意してくれたものだ。
ナコは体をテーブルのほうに伸ばし、必死に薬に向かって手を伸ばす。その瞬間、再度大きな咳がナコの体にこみ上げた。
(胸がっ……苦しい……!)
なにかを吐き出してしまうのではないかと思えるほど大きく咳き込むと、その反動で指先がコップを突き飛ばしてしまう。目の前でコップが大きく傾いだ。
(そんな、お水が――)
こぼれる、そう思って愕然としたのとほぼ同時、ナコの背中側にある窓からひゅうと涼やかな夜風が吹き込んだ。カーテンがぱたぱたと音を立てて揺れる。
たしか窓なんて開けてなかったはず――とナコが後方の窓を振り返ろうとすると、目の前で倒れそうになっていたコップが、突如独りでに宙に浮き上がった。まるで見えない糸にでも吊るされているようにふわふわと浮遊するコップは、それを唖然と見守っていたナコの両手にすっぽりと収まる。
なにが起きたのかと、手もとのコップを眺めて目をぱちくりしていたナコの耳に、聞き慣れない少年の声がかけられた。
「大丈夫か。水がほしかったのだろう?」
(誰……?)
少年のような声音だけれども、それにしてはひどく落ち着いた口調だった。
ナコが両手でコップを握りしめたままそろりと振り返ると、窓枠に器用に座り込むようにして、血のように赤い瞳に尖った耳をした不可思議な少年が腰かけていた。やや長い爪をした指先をナコの持つコップへと真っ直ぐに伸ばしている。まるで、彼がコップを意のままに動かしたとでもいうように。
ナコはどう反応したらいいのかもわからないまま、おろおろと少年を上目遣いに見る。
誰かはわからないけれど、倒れそうになっていたお水を取ってくれたことは変わりない。
とりあえず、お礼を言わなければ。
「あ、あの、ええと……」
しどろもどろに口を開こうとすると、少年は訝しげに首を傾げた。
ナコの困惑した様子を見て、少年はあっと思いついたようにわずかに目を開くと、窓枠から軽やかに飛び降りてベッドとローテーブルの間に音もなく着地した。
少年のまとっていた黒いローブがふわりと舞う。
まるで空を飛んでいるかような跳躍に驚いていると、少年はテーブルの上に置かれていた薬の袋を手に取った。つかつかとナコに歩み寄ると、それをそっと手渡す。
「すまない、薬を飲もうとしていたのだな。これで良いか?」
窺うように軽く首を傾げる少年に、ナコはまだ軽く咳き込みながらも、にこりと笑顔を浮かべた。
「うん、ありがとう。ちょっと待っててね」
少年の赤い瞳にじっと見つめられる中、ナコは袋から医者から処方されていたいくつかの鎮静剤を取り出して、それを順々に口に含んだ。
水で薬を喉に通すと、冷えたそれが、ひりひりと痛む喉を癒すように下ってゆく。
薬を飲んだだけで不思議と落ち着きを取り戻したナコは、傍らでじっとこちらを伺っている少年を改めて観察した。
こうしてまじまじと間近で見ると、少年は、幼いナコでもはっと息を呑むほどに美しい顔立ちをしていた。深い赤の瞳にぴんと尖った耳、腰まで伸ばされた暗緑色の長髪は浮世離れしていてやや異様にも思える。
まるで絵本から飛び出してきたかのような変わった外見をしているのだが、彼は何者なのだろうか。
少年はナコの視線など気にしていない様子で、ナコの体調を気遣うようにこちらの顔を覗き込んだ。
「落ち着いたか?」
どうやら心配をかけてしまっていたらしい。
ナコは目もとを綻ばせて小さく頷いた。
「うん、大丈夫。あの、助けてくれてありがとう。ええと、あなたのお名前は……」
「私の名か?」
少年は自分を指差し、至極真面目な表情で答える。
「私は魔王だ。魔王、と呼んでかまわない」
「魔王?」
予想外の名前に、ナコはきょとんとしてしまう。
魔王とは、自分が知っている絵本などによく登場するあの魔王のことだろうか。
少年の不可思議な外見といい、魔王という名前といい、ますます目の前の男の子の存在が夢の中のできごとのように思えてくる。
少年――魔王はおもむろに腕を伸ばし、指先でナコの前髪にそっと触れた。突然のことに驚いて身をすくませるナコにかまわず、魔王はその深紅の目でナコの額をじっと見つめる。
至近距離にある魔王の顔をナコがおずおずと上目遣いに見ると、魔王はナコの額を一心に見つめたまま眉を顰めた。
「……やはり、女神の力の影響が出ているようだな」
(女神……?)
「ナコ、少しじっとしていてもらえるか」
突然名前を呼ばれて目を瞬くナコに、魔王はナコの額を覆うように片手をかざし、両目を静かに閉じた。そうして、ナコには理解できない言葉を短く呟く。
すると、明かりのない部屋に一瞬カメラのフラッシュをたいたかような光が瞬き、その直後に、額に触れている魔王の手を通してなにか温かいものが身体全体に流れ込んだ。
途端、だるさを感じていた身体が嘘のように軽くなってゆく。まるで、今まで病気だったことなど忘れてしまうくらいに。
(なにが起きたの!?)
驚いて自分の両手を見つめるナコに、体を離した魔王が、さきほどのように気遣うようにナコの顔を覗き込んだ。
「調子はどうだ? だいぶ良くなったと思うのだが……」
だいぶどころか、いったいどんな魔法をかけたのだろうと思うくらいに体の調子がいい。
小さいころからずっと抱えていた病がすっかり消し飛んだような気分だった。
ナコは興奮気味に目を輝かせると、ベッドから身を乗り出し、心配げに様子をうかがっている魔王の両手をはっしとつかんだ。
「うん、すごく良くなった! 自分でもびっくりするくらい! お薬を塗ってくれたの?」
さきほど魔王が自分の額に触れていたから、なんらかの薬を塗りこんでくれたのかと思ったのだ。
けれど、魔王ははっきりと首を振った。
「違う」
「違うの?」
「そうだ、薬ではない。――私はおまえに、魔法をかけたのだ」
「魔法……?」
ナコは目を丸くする。
さっき、まるで魔法みたい……とは思ったのだが、まさか本当だったのだろうか。それとも冗談なのだろうか。けれど、魔王の今までの所業を見ていたら、それもあながち嘘ではない気がした。
ナコは、夢物語でも見ているような気持ちで、わくわくと魔王に問いかける。
「魔王様は魔法が使えるの?」
魔王は得意げに笑ってみせた。
「そうだ。私は魔法が誰よりも得意なのだ。誰も私には敵わないのだからな」
「そうなんだ! 魔王様はすごいんだね!」
だってわたしの病気を一瞬で治しちゃうんだから、と両手を広げて笑えば、魔王も嬉しそうに微笑んで、ナコのベッドの脇にちょこんと腰かけた。
魔王の様子を見るに、この不思議な客人はまだ自分のところにいてくれるつもりらしい。
(そういえば、どうして魔王様はわたしに会いにきてくれたのかな……)
どうしてここに現れたのだろう。
ナコは魔王の横顔に問いかける。
「ねえ、魔王様はわたしを助けにきてくれたの?」
魔王はちらりとこちらを見て、こくりと頷いた。
「そうだ」
「どうして?」
見たことも会ったこともない自分を、魔王はどうして助けにきてくれたのだろう。
直球に理由を聞けば、魔王は一度ナコの顏を見つめ返し、少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「――おまえが私の、片腕になる者だからだ」
(片腕……?)
なんのことだろう。
ナコは首を傾げる。
「よく、わからない……」
「今は理解しなくとも良い。ナコ、かいつまんで説明させてもらうが、私はこの世界とは異なる世界からやってきたのだ」
「こことは違う、世界……?」
「そうだ。そして、とある事情により、おまえの中には私の世界で女神と呼ばれる――いわゆる神の力が眠っているのだ、潜在的にな。女神の力は強大であるため、その力がおまえの体調を脅かしていたのだ。だから、私の魔法で女神の力を抑え込み、おまえの体を安定させた。これで、これからは問題なく生活できるはずだ」
魔王の言っていることは難しくてナコには理解できなかったが、要するに、自分には魔王の世界で神と崇められる女神様の力が眠っていて、それが原因で自分は体調不良が続いていたということなのだろう。そして、魔王がそれを鎮めるために世界をまたいで自分に会いに来てくれ、魔法を使って体調を安定させてくれた、ということなのだろうか。
(ということは、魔王様の住んでる世界って、こことは別にあるってことだよね……?)
小難しい事実はさておき、異世界という空想の物語のような存在がナコの気を引いた。
「魔王様は、別の世界からわたしに会いに来てくれたの?」
「そうだ」
魔王がにべもなく答える。
自分が生きてきた世界とは別に、同じように人々が生きる世界が存在している――。
その夢のような物語と、そこからやって来た魔王の存在に、ナコは心躍るようでわくわくと目を輝かせた。
別の世界から自分に会いに来てくれた魔王様など、まるでおとぎ話の始まりのようだったからだ。
ナコは身を乗り出して魔王の黒いローブを引っ張る。
「魔王様! わたし、魔王様の世界のお話を聞いてみたい」
体の弱い自分は、家族以外と接する機会は少なく、同世代の友達と遊ぶことも叶わなかった。
だから、突然やって来た魔王と過ごす不思議な時間が、ナコの好奇心をくすぐって仕方なかったのだ。
もしもこれが全部夢なのだとしても、こんなに楽しい夢だったら後悔はしない気がした。
たとえ夢から覚めたときに、魔王様はいなくて、自分の病気も治っていなかったとしても――。
ナコのお願いに、魔王は気を悪くした風もなく二つ返事で頷いた。
「良いぞ。私の世界のことは、いずれおまえも知らなければならないことだ。おまえの気が済むまで話そう」
どこか自分も楽しそうに言う魔王に、ナコは夢のような思いで満面の笑顔を向けた。
「ありがとう、魔王様!」
わたしに会いに来てくれて、ありがとう――……!