第一話 冒険の始まり
その日はひどく仕事が多かった。
オフィスの壁掛け時計を一瞥し、ベージュ色のスーツに身を包んだOL――小西アキは、椅子の上で伸びるように背を反らした。
時刻はすでに夜の九時を回っている。だいぶ没頭して仕事をしていたらしい。
やり終えた仕事のファイルをデスクの脇に立てかけ、アキは隣で残業している同僚の男性に声をかけた。
「お疲れさまでした、加藤さん。今日も忙しかったですね」
同僚――加藤恒彦は、アキの言葉にのそりと顔を上げる。
「お疲れさま。やっぱり小西さんは仕事が早いね。俺なんてまだまだ帰れそうにないよ」
「いえいえ、残業してる時点で仕事は早くないんですよ。仕事って、不思議とやればやるだけ増えますよね」
「そうなんだよねえ……」
同意するように深々と息を吐く加藤に、アキは自分の鞄を漁っていくつかのお菓子を差し出した。残業中に小腹が空いたときのために持ち歩いていたものだ。
「加藤さん、よかったらどうぞ」
「ありがとう。――そういえば、小西さんってたくさんお菓子を持ってるよね。甘いものが好きなんだっけ?」
「いえ、私が好きっていうよりは妹が好きなんです。妹は、私が仕事中にお腹が空くと大変だからって、いつもたくさんお菓子を持たせてくれるんですよね」
「ふうん、お姉さん思いの優しい妹さんなんだね。それじゃあ、妹さんに感謝してありがたくいただくよ」
「はい。――それではお先に失礼します」
気さくに手を振る加藤に頭を下げ、アキは足早に会社を飛び出した。
(今日も遅くなっちゃったな……。ナコ、心配してないといいんだけど……)
アキは手元の時計を執拗に確認しつつ、帰路を急ぐ。
アキは、都内の法律事務所で働く新人OLで、会社にほど近いマンションで妹と二人暮らしをしている。社会人一年目の自分と大学一年生の妹の組み合わせだ。
両親は海外赴任のため別々に暮らしており、一年に一度会うか会わないかという頻度だった。
離れ離れに暮らしてはいるけれど、両親との関係は良好で、取り立てて問題のない普通の家庭で育ってきた。
ほどなくして自宅のマンションに到着し、アキは手慣れた手つきで部屋の鍵を通し、玄関の端に鞄を置いて廊下へと足を踏み入れる。
「ただいま、ナコ! 遅くなってごめんね」
そうしていつもの調子で妹に声をかけてみるが、家の中からは誰の返事もない。
普段なら、妹のナコから「おかえり」と多少舌足らずな挨拶が返ってくるはずなのだけれど……。
不気味なほど静まり返った室内に、妙な違和感を覚える。
廊下の電気は点いていないようだが、奥のリビングからはわずかに光が漏れていた。妹が帰宅しているのは間違いなさそうだ。
アキはほっと胸を撫で下ろすと、様子を窺うように廊下を進み、少しばかり開いているリビングの扉の隙間から室内を覗き込んだ。
「ナコ、ここにいるの?」
「あ、お姉ちゃん、おかえりなさい!」
部屋の奥側にある窓辺に佇んでいた妹が、緩く波打った栗色の髪をひるがえして振り返った。
アキは、ナコのいつもと変わらない様子に安心して息を吐く。
(よかった、ナコ、ちゃんと帰ってたみたい……)
そうして妹に歩み寄ろうとして、アキはぴたりと足を止めた。妹のすぐ傍らに、見知らぬ長身の男が佇んでいたからだ。
男は、異常に整った顔立ちの美青年だった。
暗緑色の長髪に、血を流し込んだような深紅の瞳。明らかにこの世の人間とは思えない色彩をしている。よくよく目を凝らせば、男の耳はおとぎ話に登場する妖精のように尖った形状をしていた。
男は妹と寄り添うように窓際に立ち、片手を妹の肩に回している。
一見、嫌がる妹を無理やり連れ去ろうとしているようにも見える。
(な、な、なんなのこの人……! まさか――誘拐犯とか!?)
アキは全身を強張らせる。
――とりあえず、妹を助けなければ……!
アキは胸の辺りで拳を握り、威勢良く啖呵を切った。
「だ、誰ですかあなたは! ナコを放しなさい!」
「――おまえこそ何者だ」
相手の男も負けじと顎を上げ、冴え冴えとした瞳でアキを見下ろした。
男の底冷えするような低い声音に、アキは怯んで立ち竦む。
(おまえこそ何者だ、はこっちの台詞ですよ……!)
ぎりぎりと歯噛みして男を睨みつけると、男もまた真似をしたようにこちらを睨み返してきた。
まさに一触即発の空気の中、ナコが戸惑ったように傍らの男を見上げる。
「魔王様、大丈夫です! アキちゃんはわたしのお姉ちゃんなんです!」
「……姉?」
「――魔王様?」
魔王と呼ばれた男の訝しむような声と、アキの素っ頓狂な声が重なる。
ナコは今、この男のことを魔王と呼んだのだろうか。――魔王?
「ナコ、魔王様って――なにを言ってるの。この人は誰?」
「魔王とは私のことだ、ナコの姉よ」
「え……」
アキはあんぐりと口を開ける。
(ま、まさか、本気で言ってるわけじゃないですよね……?)
突っ込み待ちか、否か。
頭を抱えたアキは、すらっと魔王を視界から省いてナコを見やる。
「ねえナコ、何度も聞くようだけれど、二人は知り合いなの? だとしたら、今日はもう遅いからお友達には帰ってもらってくれる?」
たとえ友人関係だとしても、こんなにも遅い時間まで異性の家にいるのは非常識だろう。
遠回しに帰宅を促せば、魔王がきょとんとした。
「姉よ、私とナコは友人ではないぞ。――婚約者だ」
「――は?」
思わず顎が落ちた。
――こ、婚約者……?
「……あの、婚約者、ですか? 妹はまだ、大学生なんですけど……」
混乱しているからか、そんな意味のない問答をしてしまう。
戸惑うアキに止めを刺さんばかりに、ナコが事実を訴えるように身を乗り出した。
「ううん、お姉ちゃん、本当なの! わたし、魔王様の婚約者に選ばれたみたいなの!」
「ナコ、なに言って……」
もはや、まともに取り合っても話が噛み合わないのではないだろうか。
二の句が継げずにいると、魔王もまた短く息を吐いた。
「……ふむ。このまま押し問答をしていても埒が明かんな。――ナコ、さっさと行くぞ」
魔王は傍らのナコに囁きかけると、その華奢な体を抱え上げた。これ見よがしにくるりとアキに背を向け、開け放たれていた窓からベランダへと躍り出る。
今にも妹を連れ去ろうとする魔王に、アキは焦って一歩踏み出した。
「ち、ちょっと待ちなさいっ! さっきからナコを放してって言ってるでしょう!」
話はまだ終わってないっ、と言いつのれば、魔王が赤い切れ長の瞳でアキを見据えた。
「――ナコの姉よ、妹を返して欲しければついてくると良い。おまえもまた、あの者に選ばれるだろうからな」
――え?
「なにを言って――」
アキが問い返す間もなく、魔王は何事かを呟きながら夜空に手を掲げた。途端、彼の指の先にあった空間が刃物で斬られたように割り開かれ、宙に漆黒の穴が広がる。
(あれは、なに……?)
アキが禍々しい穴に目を奪われていると、魔王はナコを抱えた体勢でためらいもなく夜空へ跳躍した。
「待っ……、危ないっ!」
アキは目を見開き、慌てて二人を追ってベランダへと飛び出す。
そうして手すりに両手を乗せて周囲を見渡したアキの視界に、信じられない光景が映り込んだ。魔王とナコが、宙に留まるように夜の闇に浮き上がっていたのだ。
(嘘! 空を、飛んでる……?)
――超能力か、魔法か。
ナコが切なげに眉を寄せ、一人取り残されているアキを見下ろした。アキに向かって手を伸ばそうとし、それを留めるように拳を握る。
「……ごめんなさい、お姉ちゃん。――行ってくるね」
「ナコ、待ってっ! お願い、事情を説明して……!」
――もう、わけがわからない……!
半ば錯乱状態で宙に手を伸ばすが、指先が空しく揺れるだけで魔王とナコには到底届きそうもない。
そんなアキを振りきるようにして、魔王とナコは漆黒の穴の中へと姿を眩ませてゆく。
こうしている間にも、宙に空いた穴がみるみる塞がっていく。
あれが完全に塞がってしまったら、二度と妹と魔王に会えなくなる気がした。
――迷っている時間はない。
アキは、意を決したように一度強く息を吐く。
「追って来いって言われたら、追いかけるしかないじゃないっ!」
この訳のわからない状況のまま、大切な妹をあの男と一緒に行かせるわけにはいかない。
――私が、ナコを助けなくちゃ!
アキは手近に置いてあった靴を乱暴に履くと、腕まくりをしてベランダの手すりに片足をかける。
「待っていなさい、魔王、ナコ! 必ず迎えに行くからね……!」
アキは力の限り手すりを足で蹴り、夜空へと舞い上がった。
そうして宙に広がる禍々しい穴に向かって指先を伸ばした瞬間、目に見えない力で体がそれに吸い寄せられる。
どれくらい長い時間、暗闇の中を進み続けただろう。妙な浮遊感が続く。
乗り物酔でもしたように気分が悪くなった矢先、視界の先から小さな光が差し込んだ。
もしかしたらあれが出口なのかもしれない――アキは目を凝らす。
光に向けて手を伸ばした瞬間、体が穴から吐き出された。
そして、見たこともない異界の景色がアキの視界一面に飛び込んでくるのだった。
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