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第百六十五話 崩壊への足音


 一瞬――……、なにが起きたのか、わからなかった。


「レナードッ……!」


 ユリの悲鳴に似た声が広間に響き渡ったと思った瞬間、その声にびくりと震えて振り向いたレナードの視線の先に、まるで自分を守るように両手の広げたユリの華奢な背中が飛び込んできた。


 そんなユリの先には、どす黒い気を放つ聖釘を高々と振り上げたマヌエルの狂気の姿。


 まるで悪夢のような光景に、レナードは大きく目を見開く。


 自分の前に滑り込むように立ちはだかったユリのビーズの髪飾りがちりちりと舞う姿や、マヌエルが振り下ろす腕が、まるでスローモーションのようにレナードには感じられた。


 世界のすべての色と音が失われたかのようだった。


(……なんだよこれ、なんなんだよ、これっ……!)


 いやだ。


 この先をむかえたくない。


 この先を……、見たくはないっ……!


 ……やめろ。


 やめろっ……!


「やめろ―――――っ!」


 ――……時を止める魔法が、あればよかったのに。


 無我夢中で椅子を立ち上がったレナードは、とっさにユリを突飛ばそうとしたけれど――それよりも速く、マヌエルの振り下ろした凶刃が、ユリの胸に吸い込まれていった。


 ずぶり、という生々しい音が聞こえた気がした。


 ユリの胸から放たれた鮮やかな鮮血が、レナードの放心した視界を赤く塗りあげる。


「あ、あ、あ……」


 そんなことしか言えなかった。


 なにが起きたのか頭がついていかなくて、いや、いま起きている光景を受け入れたくないと全身が拒否していて、意識が飛んでしまいそうだった。


 ユリの力の抜けた身体が、ぐらりと後ろに倒れる。


 そのときの彼女がそっと自分に笑いかけたのだと――「あなたに怪我がなくてよかった」と優しく口を動かしたように見えたのだと――錯覚かもしれないけれど、レナードには、思えた。


 その瞬間、いままで失われていた世界の色と時間がすべて戻ってきたように感じた。


 レナードは、いままで放心して留まっていた涙を一気に目から溢れさせながら、喉がつぶれんばかりに絶叫した。


「ユリ――――ッ!」


 震える両腕を、倒れるユリの下へと必死に差し入れる。


 なかば転がり込むようにして彼女の身体を支えると、ずっしりとした重みが両腕にかかって、レナードはその場に両膝をついた。


 いつもの彼女なら羽のように軽い――だからこそ、彼女から全身の力が抜けているのだと、いま起こったことは夢ではなく現実なのだとつきつけられるようだった。


 自分の腕のなかで、ユリは青白い顔をしたままかたく目を閉じている。


 口もとからは一筋の血が流れて、無情にも聖釘が深々と突き刺さった胸もとからはとめどなく血がにじみ出て、彼女の純白の巫女の装いにじわじわと深紅が広がっていた。


「――ユリッ、レナードッ!」


 呆然自失しているレナードと、その腕に隠すようにして抱きかかえられているユリのところへ、自分の席を蹴るように立ち上がったイヴァンが駆けつける。


「――なんてことだッ! 今すぐ回復魔法を……!」


 ユリの巫女服から滴り落ちる血で、すでに血だまりができている床に膝をついて、イヴァンが唇まで白く真っ青になった表情でユリの傷元に手のひらを寄せる。


「イヴァン、頼む! ユリを……、ユリを助けてくれ……!」


 レナードが、声が裏返るほどに叫びながら、すがるようにイヴァンを見上げる。


「うん……!」


 イヴァンは神妙な面持ちで頷き、頬に冷や汗を伝わせながらユリの傷元に集中した。


「――創世の女神よ、彼の者の傷を癒し給え――っう!」


 イヴァンが太陽系魔法の回復呪文を唱えようとしたその瞬間だった。


 バチッ、と聖釘から黒い衝撃波が発せられて、イヴァンの手を弾いたのだ。


「……っ……!」


 イヴァンがはじき返された右手を左手で押さえる。


「まさかっ……」


 驚愕に目を見開くイヴァンと同時に、レナードも凍りついた表情で息を呑んだ。


 ――まさか、聖釘から生じる『憎』のエネルギーが太陽系魔法を受けつけない、のか?


 太陽の女神フィリアの『愛』のエネルギーを借りて発動するのが太陽系魔法、月の女神エリスの『憎』のエネルギーを借りて発動するのが月系魔法と言われている。


 その特性どおり、太陽系魔法は『愛』の名のもとに対象を助ける回復魔法や補助魔法を担い、逆に月系魔法は『憎』の名のもとに対象を排除する攻撃魔法を担っている。


 ふたつの相反する属性は、たがいに混じり合うことはない、どちらかの魔法を修得するとどちらかが修得できなくなるようにふたつの魔法系統は相いれないのだ。


(だから――……)


 『憎』のエネルギーに支配された聖釘をその身に受けているユリは、『愛』のエネルギーである太陽系魔法を受けつけないのかもしれない――……!


 絶望的な気持ちが、レナードの心を支配する。


 ――助からない、助けられない、このままじゃ、ユリを……!


 焦りと憎しみ、怒りの感情が心の底から一気に湧き上がってくる。


(マヌエルッ、貴様っ、貴様―――――っ!)


 声にならない怒りで、レナードは目の前で凍りついているマヌエルを睨みつける。


 彼への激しい憎しみの感情が、『憎』のエネルギーに変換されて、レナードの携えていた聖短剣と聖衣からほとばしった。


(なんだ……!? 意識が……意識が引きずられる……!)


 なにか巨大な渦にでも意識を持っていかれるような感覚。


 それが自分の憎しみの感情に聖遺物が呼応して、『憎』のエネルギーに傾き、その強大な力に己の意識が引きずり込まれそうになっているのだと、レナードは感じられた。


 このままでは我を失ってしまうと思ったけれど、もう、止められなかった。


 大切な彼女を目の前で傷つけられ、そして命の灯が消えていく彼女を助けることもできない自分に絶望して、その怒りの矛先をマヌエルに向けることしかできなかったのだ。


「ぐ、う、あああああ……っ」


 ――頭が、割れるように痛い。


 薄れゆく意識と、かすれていく自分の視界が、マヌエルの姿だけを捉える。


 ――許さねぇ、絶対に、おまえだけは……!


 そう強く思った途端、腰に下げていた聖短剣から、ぼうう、と黒い気が立ち昇った。


 片手でユリを支え、もう片方の手を誘われるようにして聖短剣の柄へと伸ばし、それを勢いよく引き抜くと、聖短剣の刀身が闇に染まったかのように黒々と輝いていた。


 ――闇に堕ちる、とはこういうことをいうんだろうか……。


 レナードは、聖短剣の柄を、力を込めてぐっと握りしめる。


 ――それでもいい。愛するユリの仇が取れるならば。


(ここで刺し違えてでも、マヌエルを倒す……!)


 なかば自分の意思を失い、レナードの瞳から光が失われる。


 聖遺物に宿った『憎』のエネルギーに、体も心も支配されていくようだった。


 レナードの豹変した様子を目に入れ、イヴァンが必死に制止の声を上げる。


「レナード、よすんだ! 君の聖遺物まで『憎』のエネルギーに取り込まれたら、この世界の創造エネルギーのバランスが崩れてしまう……! そんなことにでもなったら……」


 ――この世界が崩壊して、ユリが命を賭けて『聖血』の力を使わなければならなくなるんだぞ……!


 そのイヴァンの叫び声を聞いて、レナードは、闇に吞み込まれてようとしていた意識をはっと取り戻す。


(そうだ……、怒りと憎しみに任せて我を失っちゃいけねぇ……!)


 自分が本当に守らなければならないものはなんだ。


 ――ユリと、そしてこの世界の平和だっただろう、レナード!


 レナードは自分自身に喝を入れると、冷静さを取り戻すように、ふう、と短く息を吐きだした。


 途端、黒々と染まっていた聖短剣の刀身が、元の輝かんばかりの銀色に戻ってゆく。


 レナードは、落ち着いた頭で状況を整理する。


(どうしたら……どうしたらユリを助けられる? なんとかして、ユリを覆っている『憎』のエネルギーを取り除ければいいんだが……)


 そのためには、彼女の胸に埋まっている『聖釘』を抜く必要があるだろう。


 けれど、自分に彼女の身体に負担なく抜くことができるのだろうか。


 聖釘の現持ち主であるマヌエルが抜くことが一番安全なのではないだろうか。


(そうだとすると、マヌエルをなんとか説得するしかねぇよな……!)


 そうこうしている間にも、ユリの生命力が失われていく。


 手遅れにでもなったら、後悔してもしきれない……!


 レナードのその思考を読んだかのように、イヴァンがマヌエルを説得する。


「マヌエルッ……! おまえの気持ちはよくわかった! けれど、僕は間違っていたんだ。僕が独裁的に統治するネクロポリスは決して皆が幸せになるものではない、奴隷たちを虐げていては駄目なんだ! 奴隷たちの人権を尊重し、なるべくみんなが納得して暮らせる生活こそ、真に平和な都市なんだ……!」


「イヴァン……」


 イヴァンの言葉に、レナードは胸を打たれる。


 イヴァンは変わってくれた。


 はじめはおたがいの意見を譲れずに、都市の人びとを巻き込むほどの争いを起こしてしまったけれど、おたがいの意見を本気でぶつけあって、間違っているところは歩み寄って、こうして和解会合まで漕ぎつけることができたんだ。


 だから――。


(こんなところで、すべてを台無しにするわけにはいかねぇ! 俺たちは、都市の人びとの希望を背負ってんだ……!)


 レナードとイヴァンは目配せしあって、イヴァンが先に口を開く。


「マヌエル、だからどうか『聖釘』を鎮めてくれ! こんなことをしても犠牲者が出るだけだ! おまえのしていることは間違っている!」


 いままでその場で黙って立ち尽くしていたマヌエルが、ぐっと拳を握った。


「――間違えてなどおりません! 私はイヴァン様の治める都市こそ理想郷なのだと信じていままであなたに仕えてきたのです! 卑しい奴隷たちの台頭など許さない、ネクロポリスは、イヴァン様や私のように選ばれた人間が導いてこそ正しい姿なのです!」


 ――許さない、もうなにもかも! 私の邪魔をする者はすべてを排除してやる!


 マヌエルが、そう口を動かしてかっと両目を見開いた途端、ユリの胸に埋まっていた聖釘から黒い気が一気に立ち昇った。


「あ、あああああ……っ!」


「ユリッ……!」


 痛々しく苦しげに背をのけぞらせるユリを、レナードは必死で抱きしめる。


 そのとき――。


「レナードッ! 大変だ……!」


 サトクリフの鋭い声が響いて、レナードはそちらを振り返った。


(あれはっ……!)


『創世の巫女様が傷つけられた、もうお終いだ……!』


『イヴァンとレナードが和解など言いださなければ、こんなことには』


『やはり神官どもなど信用ならなかったんだ……! 融合魔法で神官どもを皆殺しにしていれば、今ごろは俺たち奴隷の天下だったのに!』


『イヴァンとレナードさえいなければ、魔法使いの同僚たちが融合魔法の犠牲になることはなかったのに!』


『レナード、許さない……!』


『奴隷どもに忖度したイヴァン様を、許さない!』


 場内で事態を騒然と見守っていた神官や魔法使い、奴隷たちから、聖釘の『憎』のエネルギーに充てられたのか、それぞれが心の内に抱いていた負の感情があふれ出していた。


 人びと自身は気づいていないけれども、聖遺物を授かっている自分やイヴァン、そして魔族という人外の感覚を持つサトクリフやギルフォードには、人びとから立ち昇る黒い気を目視することができたのだ。


(みんなが『憎』のエネルギーに支配されていく……! このままじゃ、世界の創造エネルギーのバランスが崩れちまうっ……!)


 レナードが、焦燥から頬に一筋の冷や汗を伝わせたその瞬間だった。


 足元を揺るがすほどの揺れが、場内を襲ったのだ。


「わああっ……!」


「きゃああっ!」


 突如襲いかかった大地震に、人びとが悲鳴を上げて右往左往する。


 ――ちくしょうっ、もう手遅れなのか……!


 レナードは奥歯を噛みしめると、強い揺れに耐えながら、ユリだけは守ろうと必死に彼女の体をかき抱いた。


 世界の崩壊――……。


 それが、いよいよレナードたちを、襲おうとしていた……。




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