プロローグ
新連載。不定期。
“ねこま”を優先しますので遅くなります。
よろしくお願いしやす。
ジメジメした湿気や、行く手を遮る数多のゴツゴツした岩肌の壁や天井。
光も届くか届かないかの暗い洞窟がただひたすら続く中を全力で走り抜ける。
時折後ろを振り返りながら、時折岩に足をとられてこけそうになりながらも、悲しい哉、後ろから追いかけてくる化け物に捕まらないために俺は出口を目指し、必死に走るしかなかった。
こんな面倒なことになっている訳が、この洞窟に特別なお宝があるという情報を得たことが発端である。
けれどもアテは外れ、今こうして狭くて臭いところで得体の知れない化け物と鬼ごっこに興じているわけだけど。
お宝だなんて、なんてファンタジー感に溢れた響きだろう。
そう胸を躍らせていた記憶も懐かしくないくらいに鮮明だった。
何が悲しくてクマの巣にちょっかいかけなきゃならんかったのか…………今更悔いても仕方ないとはいえ。
ジャラリジャラリと全身で唯一武装を施した左手を重く振り、しきりに毒付いては目を凝らしてやっと希望の光――――出口が俺の目に飛び込んできた。
やった…………これで俺は自由にっ。
暗かった…………狭かった…………臭かった…………泣きそうになった。
俺は嬉しさで勢いそのままに、滝の裏側に位置していた洞窟の中から外まで、足を踏み切って一気に飛び出した。
飛び出した先は、地平線まで続く緑豊かな自然の宝庫、大森林と、雲の白が飾られた青々とした空。
そして滝壺と地面が遥か下にある空中だった。
すっかりそれを忘れていた俺は体勢を保つことができずに、宙に浮く体は1秒ともたずに重力に従って落下し始める。
けれどそんなことは些細なことは気にしない。
あいつがいれば空なんてただの庭でしかないのだ。
まだ体が宙に浮いているといえる段階で、俺は空に向かって名前を叫んだ。
「アカネ!」
その時、全長いくつあるのか。
少なくとも山を余裕で一巻きできるほど長く、巨大な体躯をもった白い龍が、空から凄まじい速度をもって出現した。
神々しく、遠くからであればよく目を凝らしても見つけられないくらい光を反射する鱗と毛に覆われた白い龍。
龍はすぐに落下している最中の俺の側につき、そして手が届く距離まで近づいたところで、俺はすかさずその大きな鱗に手を伸ばして身体を引き寄せ、巨龍の背に乗った。
しばらく慣性に慣れるまでしがみついていると、そう時間は経たない内に態勢を整えることはできた。
いつもやっていることだ。
なんのことはない。
「うし。はぁ…………」
これでひと安心…………あとは振り落とされないよう気を付ければいいだけだ、が、そうは問屋は卸すつもりはないらしい。
突然、後ろから怒り狂ったような唸り声が聞こえたかと思うと、振り切ったはずの化け物が、なんとまだ洞窟の前を通りすぎていなかった龍の体に飛び付いて追いかけてきたのだ。
鋭利な爪が龍の鱗の隙間に刺し込まれ、しがみついて俺をギロリと睨みつけた。
なんつーやつ。
こっち見んな。
“ちょっとちょっとっ!重いってっ!ハトっ、あいつなんとかして~!”
「俺の仕事ですか…………?」
メンドくさい。
なんで自分でやらないんだ、と思ったが、こいつに今、身をよじられてしまうと俺も吹き飛ばされてしまうことは確実だろう。
なるほど。こいつなりの気遣いというわけだ。ならそれに応えざるを得ない。
俺は腰に下げた剣を抜き、鱗から鱗へ手を滑らせて、慎重に化け物に近づいていった。
化け物のほうは自重のせいで振り落とされないよう必死にしがみついているだけだ。
ならあいつの手を一度払ってやるだけでいい。
そのデカさが仇になったか。
食い意地張ってないでもう諦めてくれませんかねっ。
ジリジリと、ゆっくりと、けれどもうすぐ距離まで化け物に近づくことができた。
よしっ。
後は熊の今にも外れそうな爪にトドメを刺せばいい。
「アカネ、もうちょっと我慢しろよ。今終わるっ?!」
刹那、あれほど気をつけていたのに、気づくと俺は化け物と共に空中に投げ出されてしまっていた。
ああ、やっぱり浮遊感というやつは適度な気持ち良さとスリルがあってたまらない。
けれどこういうのはたまにするのが楽しいのであって、そう立て続けに何度も落とされると身がもたないだろう、なのにお前は。
「おいっ、アカネぇぇぇぇっ?!」
“ごめーん”
謝って済むなら白龍なんざいらんわぁっ!いやこの言い分はよくわからんけどもっ!
結局アカネが操縦ミスをおかしていたらしい。
集中力を切らして崖に激突し、その拍子に俺たちは振り落とされてしまったのだ。
俺はそのまま、走馬灯見ちゃうのかなって心配になりながら、真っ逆さまに木々の葉や枝の向こうに消えていくアカネを見送った。
***
走馬灯は見慣れている。
俺はなんとか体勢を立て直しながら、密集する木々に突っ込んでいきはしたが、辛うじて地面に鉄槌を下す着地を決め、無傷で生還することはできたのだった。
常人なら脚が粉々になって、下手をすればその状態で息をしているだろうというところを全くの無事に。
いや、実はあの高さは確かに俺にとっては許容範囲内だった。
こうして森の中を歩くことがメンドくさくてアカネを呼んだだけで、歩くのは好きだし、でも帰る時にまた迷子になるのも面倒だっただけなのだ。
迷いの森と名高いこの地域は、空でも飛べなければ抜けるのも至難の業だろうというところを、あんのデカブツ…………手間かけさせやがって。
辺りを確認してみると、そのデカブツは別の離れた場所まで飛ばされてしまったらしい。
わかりやすいあのボディは一切の気配すらない。
…………今すぐにお仕置きしておきたかったのに。
仕方あるまい。
アカネに迎えに来てもらって、もうこの樹海を退散するとしよう。
「アカネー?」
“おー無事かー?”
「まぁ、なんとか。今どこだ?俺のこと見えるか?」
“見えな~い。緑ばっか”
そりゃそうだ。
注釈――――こうして俺たちが話をできる理由は、なんか意識が繋がっているかららしいのだけれど、詳しいことは、よくわからない。
契約というものの付録らしい。
まとめておきたいが、今はこの面倒な事態をなんとかしよう。
“広いとこ見っけ。私が見えるかー?”
俺は見上げて、枝の隙間からアカネを捜した。
すると長過ぎるアカネの体がチラッと少しだけ見えた。
「ああ、見えた。どっちだ?」
“こっちー”
枝が邪魔でよく見えないが、アカネの頭を眺めてみると彼女曰く、頭は広いところに向けられているらしい。
「わかった。じゃあ、そこで待ってろ」
“はいはいー”
そう言って、アカネはあっさり待ち合わせ場所まで飛び去ってしまった。
おい待て、あいつが俺のいる場所を見当つけて木をなぎ倒してでも見つけてもらった方が楽だったんじゃないだろうか?
え?アカネさん…………待って。
…………もういませんね。テレパシー的なものは距離の制限があるらしいからあいつ今絶対気づかねぇ。
メンドいなぁ…………。
幸いとも言うべきか、アカネが示した方向には、まるで示しあわせたように道がのびている。
仕方ない。
とっとと出ますか、この森を。
***
なるべく早く着きますように。
俺はある懸念がよぎり、駆け足で森を抜けることにした。
それにしても災難だ。
あの熊さん、あいつさえいなければこんなメンドくさいことにならなくて済んだのによかったのに。
次会ったら確実に容赦しないと断言する。
安心するといい。見つかるかは運次第だし、痛いのは一瞬だし。
首洗って待っているといい。
そんなことを暇つぶしに思案しつつ、俺がまっすぐに道草食わずに駆抜けている、そのときだった。
突然、側面に生い茂る木々の中からガサガサという音が走ったのである。
急いでいたから無視を決め込むことにしたのだが、どうもあちらは、そうさせてくれるつもりはないようだった。
次に後ろから風を切るような音が聞こえると、その音はそう待つこともなく俺に追いつき、シュッと鋭利なものが突き出される。
しかして、俺はとりあえず、その音に合わせて頭を下げ、まずは後ろからきた爪の一閃を避けた。
続けざまにやってきた脚を狙った斬撃も、後ろ宙返りでかわしてやり過ごす。
2匹そんな俺の動きに不意をつかれ互いに激突し、もつれるように抱き合って盛大に転がっていった。
ゴロゴロバタンキューというオノマトペすら聞こえてきそうである。
そして俺はというと、その無様な2匹とは違い華麗なる着地を決め、なんとなく優越感に浸るに至るのだったぜ。
ふっ。
ふふふっ。
アカネがいなくてよかった。
男の至福の時に対してあの乙女は些か口が悪い。
果たして、トカゲのような姿かたちをしたそいつらは、見ればわかる通り普通のトカゲよりもデカイ。
俺よりデカいのか。
まぁまぁ見慣れたものだ。
彼らは俗に言う、魔物とは違った、純粋な生物として生きているそうな。
とはいえ、そんなデカさもこのようにマヌケなことになってしまえば威圧感もなにもあったもんじゃない。
ただただ、哀れに思えるだけなのだが、ほんのちょっぴり可哀想にも、愛嬌があるようにも思える。
それとは裏腹に俺の身のこなしは流石とも言うべきか。
ほんのちょっぴり自分が格好良く思えてしまうのだよ。
トカゲとは違うのだよっ、トカゲとはぁっ!
醜態をさらしてしまったトカゲどもは重なり合い、1匹の下敷きになったやつが上に乗ってるやつを押し退け立ち上がるとギャースカ喚いて互いのヘマを責めぎ合い始めた。
俺はそんなトカゲの生態をアゴに手をそえて観察する。
このトカゲ自体はいつも見かけるけど、こんなことをしてるやつらを見るのは初めてだったし、コミカルでアカネにいい土産話を聴かせてやれるのではないかと思ったので。
こいつら…………言葉を持っているというのか?
羞恥心の表れと言えよう。珍しい。
これは学会に発表すべきだ。
何かの賞もんだよ。金一封だよっ。
トカゲは見られていることにようやく気づき、そして自分たちを陥れた憎き肉にやっと向き直うと鋭い爪を俺に突きつけてきたご様子ですが。
俺としては、やつらのコミカルなやり取りをもう少し見ていたかったのだが、その気なら是非もない。
吝かじゃない、挑むところだと言わせてもらおう。
君たち格の違いというものを見せてあげる。
助けてって言ったってもう遅いんだからねっ。
覚悟。
俺は腰のナマクラに右手を回す。
待ってろ、ギッタンギッタンにしてやんよ。
…………が、あるはずの感触が手に届かない。
おや?背中に回り込んでしまったか?
いや、ないなぁ…………。
手がまるで空を掴むばかりだ
ポカンとして腰に目を向けてみると、あんまり信じたくはなかったけど、ナマクラ呼ばわりしていても武器として重宝していた剣の姿がそっくりそのまま姿が見えなかった。
つまり鞘ごと、ってわけなんだけれど。
おや?おやおや?
え?
…………そういえば、アカネに振り落とされたとき、抜いたあと持って落ちた記憶がない。
ついでに木に突っ込んだとき腰になにか引っ掛かった感触があったのは、そういうことか…………っ。
途端にトカゲは、そんなことお構い無しに爪を立てて先制攻撃を放ってきた。
くっ!容赦なしか…………これでは分が悪いぞ。
たまにしかない見せ場が…………圧倒的勝利が地味になってしまうっ!
…………もう別にいいけど。
俺は頭を右に振ってトカゲの爪をかわし、そのまま運動を殺さず身体でクルリと円を描き、片足をあげ、足裏を見せびらかして、その隙だらけの腹に一発をぶち込んだ。
後ろ回し蹴り。
もろに蹴りを食らってくれたトカゲは勢いよく向かって右側の深緑の奥へ消えていった。
…………もうちょっと頑張れたでしょうに。
少しも間をおくことなく、思いの外、見事な追撃で向かってきたもう1匹は両腕を大きく広げ、カカシのような姿勢のままの俺に向かって、ダイブしてきた。
嫌だ…………それは少女にされると嬉しいのであって、お前みたいな爬虫類にされても全然これっぽっちも嬉しくないハグっ!
俺はギリギリまで攻撃を引き付けて、揚げたままの足を、そのまま地面に降ろすことなく――――否、降ろして彼のガラ空きの背中に叩き落とし、踏み潰した。
ガラ空きとは言ったが飛び込んでくる速度は流石は野生生物といったところか。
常人なら目で追えるトカゲではないだろうが、しかし相手が悪かったな。
踏み潰されたトカゲはひとたまりもなく、ピクピクっとクェ…………と呻き、そのまま動かなくなった。
ふっ。
「おとなしく小気味のいい漫才を続けておけばよかったものを…………そんなんだから雑魚の域を越えられないんだよ」
ニヤリ。
この充実感はなんだろう。久しく忘れていた気がする。
アカネがいると決め台詞も満足にできないからな。
ここで一度くらいバシッと決めておいた方がいいだろう。
蹴り飛ばした一匹の生存が確認できないが、まぁどうせもう襲ってはこないだろうから、とりあえず先を急ぐことにしよう。
踏み潰したやつも、たぶん生きてるけど。
アカネはのんびりしてるやつなので、別に急ぐ必要もないのだが、小言を言われたくないので俺は再び駆け始めることにした。
***
しばらくはこんな風に、四方八方から襲われながらも返り討ちにするサイクルが続いた。
キリがないので無視していったところもあるが、そんなこんなで、俺はアカネが待っているであろう広いところへと辿り着くことができたのだった。
ヘトヘトである。
精神的に。
そして事前に察していた懸念は案の定と言うべきか。
「結構長かったぞ…………アカネ」
果たしてアカネは、広いとこの中央に鎮座するデカイ岩の上に、独りちょこんと、座って待っていた。
しかしそこには山を一巻きもできそうなほど長く、大木のような太さを持つ巨大な白龍などいない。
そこにいるのは見るも愛らしい可憐な少女だ。
12才くらい。
白い髪は光を受け入れず、白く、長く。
年を感じさせない上品という感じの仕草。
白いワンピースを着て、裸足で。
さて、ここからが一悶着だ。
「ずいぶん早かったな、ハト」
「どこがだ…………適当にも程があるわ」
「結構な近場だと思ったんだがなぁ。人間の脚は短すぎるぞ」
「胴体の割にはダックスフントみたいな脚の生き物に言われたくない」
いや、それでもデカイのはデカイんだが。
「とにかくお前は俺に詫びいれるべきと違うか?」
「知らんな。ところでハト。おまえ、値段の割には斬れない斬れないとナマクラ呼ばわりしていた棒きれを携えておらんじゃないか。さすがに愛想をつかして捨ててしまったのか?」
「…………ああ、お前のせいでな」
こいつ…………面倒に思って話を逸らしやがったな。
「おやおや、身に覚えのないことで責められる筋合いはないぞ」
「とぼけんな。お前があんなときに崖にぶつかりさえしなかったらあいつを手放すこともなかったんだよ」
短い付き合いだったが、ここ最近は共に修羅場をくぐった盟友だったというのに。
この可愛い子のお陰で…………。
「なんとまぁ。その責任は私の責任だが、手にしっかり握っておれば落とすこともなかったものを勝手に落としたのは紛れもないハトだろう?」
え、急に俺が悪いの?
うっ、それもそうだ。一理ある。
ダメだな、俺は自分のことを棚にあげてまず他人から非難しようだなんて。人間としてより、男として恥ずべき行為だ。そうだ、そんなんだから俺はこんなヘマをやらかしたのかもしれない。反省反省。うんうん、悪かったよ。すべては俺の握力がなかったせいということだろう。
全面的に批を————。
「いや違うだろ。我慢しろって言ったのに言ってるそばから崖に激突してんじゃねぇって言ってんだ」
危うくアカネの言葉に惑わされる…………惑わされてないよ。一杯食わされたフリをしてやるのが大人。お子様のアカネに付き合ってやってるだけだ。
俺大人。偉い。
「ふんっ。器までチビと見える」
「ああっ?!」
…………最終的に攻撃力のある言葉を食らった。
この方アカネに口喧嘩で勝ったことがない。
もう目すら見てくれないし。この話は打ち切られてしまったようだ。
ツーンとするな。横顔が可愛いから。
そんなトカゲ宜しくの責任のなすりつけ合いもほどほどに、突然俺たちを囲んでいる森の一方から、バキバキバキっと木々が折れる音が鳴り響いた。
その方向へ振り向くと、その音を鳴らしていたのは。
「ブォーーーーッ!!!!」
「…………」
果たして、八つ当たり気味の熊さんの再登場である。
こんなところまで、余程の執念をたぎらせていたらしい。
この口論の最元凶たる大きな熊さんが、呼んでもいないのに、ここまで現れた。
「招かざる客か。随分と好かれておるな、ハト」
いや。
「ここであったが百年目。そっちから来てくれるとは、手間が省けたぜ」
メンドくさかったから、放っといて町に戻ろうと思ってたのに。
「やせ我慢はよせ」
「ちげーよ。とにかくケリつけようか」
俺は腰に右手を回した。
「ハト。おまえ、いつどこでそんな見えない剣を拾ってきたというんだ?それとも今流行りのるーちんわーくというやつか?」
!
「がーん」
「いやがーんて」
ていうかルーティンワーク。いつそんな横文字を覚えていたか知らないが、俺は相変わらず文字通りの丸腰。
急な習慣の変化は頭が追いつかないものだろう。
「こんなことなら、メンドくさくても探してくりゃよかった…………」
「るーちんわーく」
「はい、かわいいかわいい」
気に入ったんですか、ルーティンワーク?かわいい。
どうしよう。
熊さんのことを散々見下して色々言っといて、得物がないので今日はパス、とは言えない…………ていうか熊に言うことではないけど。
でも、なんかで斬りたいし。素手でとか、真っ二つにできないし。
引き裂くにしてもちょっと無理があるし。怖いし。
「ハト…………今恐ろしいことを考えてはいないか?」
「考えてない」
「そうか…………では四の五の考えてばっかおるな。おまえにはその左手があろう?」
「…………これか」
これは意図的に意識から省いていたものだ。
あまり多用したいものじゃない。
「迷っている場合か?契約の都合上、私はおまえに手を貸してやるわけにはいかんのでな」
「ブォーーーーッ!」
とうとう、しびれを切らした熊がノッシノッシと大きな足を踏み鳴らし、こちらに最速で向かってきた。
重そうだ…………。
「わかってる。でもたまにそれ無視してない、お前?」
「何のことやら。私は昔から約束を守ることにかけては他の追随を許すまい」
「そっか。何千年前の話か知らないけど」
「ぶっころすぞ」
「え…………っ?」
ちょっと可愛い声で物騒な言葉が聴こえた気がするんだが。
なんて言ってる間にも、熊はズンズン近づいてくる。
たくっ、仕方ないっ。
俺はまず、利き足踏み切って一気に熊の懐へ潜り込み、素早くそこへ左手を――――、
「!」
けれどもそれは遮られた。
熊が身体をひねって腕を振り回したのを、予想外にもそれに対応できなかったのだ。
正式に対峙したのは今回が初めて。
そして熊の力量を見誤っていた。
たった一捻りで遠く吹き飛ばされてしまった俺にはグズグズしている暇なんてなく、いつの間にか側に寄ってきた熊の攻撃を素早く避ける。
気休めだが、一度距離をとり、そして俺は熊を中心に駆け回った。
つまり円を描くように。
熊がこの動きについてこれなくなったところで、背中に回り込んで跳び蹴り、一撃を食らわせた。
まるで効果がない。やっぱり生身じゃキツいか…………足痛。
今度は熊が振り向き様に腕をブン回してきた。
単純だが、まだ空中に浮いて、地面に着地寸前だった俺はろくに防御もとれずそれを食らい、飛ばされ、アカネが座っている岩の根元で思いっきり頭を打ち付けてしまった。
すごい膂力だ。刃物一つなくてこれとか。
まずった…………。
落ちた目線を秒で上げると、熊がさらに追い討ちをかけようと迫っているのが見えてしまった。
「もうやだ…………」
「見ておれんな」
と、アカネの呆れた呟きが聞こえたかと思うと、俺の真横を白い轍が高速で横切り、熊を突き飛ばすととぐろを巻いてそのまま閉じ込めてしまった。
アカネめ。また余計な真似を。
「準備しろ。トドメは私の仕事じゃないからな」
言われなくても――――。
「どけ(ロリばあちゃん)」
「…………」
すごい目で睨んできますね。まさか聞こえたわけじゃあるまいし。
俺は左手に触れた。
この腕がどうしようもなく重い。
アカネがとぐろを解き始めた。
同時に俺は駆け出し、左手を振りかぶって――――その姿が見えたとき、その鳩尾にブチ込む。
バキバキバキッ!
エグい音がしたと思うと、熊は断末魔をあげることもなく、絶命した。
重い遺体は左腕で軽々と持ち上がる。
八つ当たり気味に遠くへ投げ捨て、しばらくしていなかった不甲斐なさが俺を傷心させた。
「…………」
「ハト」
いつの間にか少女の姿に戻っていたアカネは、申し訳なさそうに声をかけてきた。
しかし、さすがと言えるようで、それは凛として、それでいて優しい。
頼りになる。
「気にすんなよ。腕使えと言われなかったら俺はもっと手こずってた」
「別に使わずとも、やれと言われれば私がやっていたのにな」
「そういうのいらないから」
「まさか本当に使うとは思わなかった。その腕のことになると、すぐねがてぃぶになるからのー、お前は」
「…………お前そういう…………わざとか」
「わざと?」
「へっ、俺は大人だからな。たとえキレても少女の頭を叩いたりしないんだ」
「叩けるものなら叩いてみよ。しかしながら、お前のようなチビが私の頭を叩くだと?寝言は寝て言うがよい」
今は少女の姿なんだけど、その言葉の意味、結構本気だからツッコめないんだよな。
じゃあ撫でてやる。
どうだ思い知ったか。
照れやがってこのチビめ。
「今更のツッコミだけど、アカネ。使えもしないのに無闇にカタカナを使おうとするな。ネガティヴ」
「ほうっておけっ。意味がわかっていれば別に使ってもよかろうっ。ねがてぃぶっ」
このやろう。髪くしゃくしゃにしてやる。
「…………もっと優しくしろ」
「はいはい」
子供か。
俺は改めて、自分で葬ったあの熊に目をやった。
なんのことはない、ただの死骸だ。
ただのな…………。
「帰るか」
「ねがてぃぶ!」
「もう…………わかったから」
そういうところが子供っぽいって言いたいんだが。