01
影は胸ポケットのウェアラブルコンピュータのかすかな振動で目を覚ました。
壁にもたれて座った姿勢のまま、瞬時に頭を覚醒させて、周囲を警戒する。同時に音を立てぬようにコンピュータを立ち上げて画面を確認する。
掌大のウェアラブルコンピュータの画面には、今居る廃ビルの見取り図が、立体画面で表示されている。その中に表示されている光点は、影があちこちに仕掛けたトラップの位置を表していた。
その中の一つ、十四階と十五階の間、階段踊り場に仕掛けたワイヤートラップが発動している、と画面端にメッセージが表示されていた。他に異常は無いという事ことは、恐らく誤作動だ。
だが、敵襲の可能性は常に考えておく。それが影の行動方針だった。
ゆっくりと立ち上がり、腰の鞘からコンバットナイフを抜いて、逆手に構えた。このナイフは、影が今持っている唯一の武装だった。この二日間、影の命はこの二十センチの刃と一蓮托生だった。
周囲を警戒しながら階段へ。訓練された動きで静かに、かつ素早く進む。二階下の踊り場へ辿り着くまでにそう時間はかからなかった。
影は壁から少し身を出して、仕掛けた罠を確認した。確かにワイヤーが千切れているが、本命の罠はその上に仕掛けた赤外線センサーだ。ワイヤーを跨いで遮れば、小型爆薬が爆発して釘と鉄片が辺りにばら撒かれる仕掛けだが、そちらは発動していない。
足元を何かが通り抜けた。はっとして見ると、痩せたドブネズミが這いまわっている。切れたワイヤーをよく見れば、切断面が歪になっている。どうやらワイヤーは、あの鼠達が齧って切断したらしい。
張り詰めていた緊張の糸が少し緩んだ。ほんの小さなアクシデントだった。
もう一度鼠の方を見ると何処から現れたのか、数匹の鼠が一ヵ所に集まって何かを貪っていた。
――何だ?
薄汚れた体の隙間からそれが見えた。"それ"は、白いプラスチック容器だった。印字されている文字までが見えた。『軍用レーション』の字。
背筋が凍った。
――罠に掛かったのは自分の方だ。人の気配。上から、何かが。
「捕まえたっ!」
瞬間、影は振り向いてナイフを構える、コンマ数秒の差でその腕が押さえられ、捻られていた。ナイフが手から零れ落ちる。
左手を取られたが、影は冷静だった。その身体は、何度も繰り返した訓練の動きを正確になぞり、身体ごと大きく腕を回転させた。遠心力で掴まれていた腕を開放する。降って湧いた相手は、何か驚くような声を出した。
影はそのまま倒れ込みながらナイフを拾う。転がって距離を取り、踊り場の壁に身体を当ててすぐに立ち上がった。
「おーおー、やるねえ。ナイフ押さえときゃよかったわ」
体勢を整えながら相手を見る。相手は、女だった。二十前後の若い女だ。ショートカットの赤髪に、鋭い印象の目。犬歯をむき出しにして笑う様子からは、攻撃性を隠そうともしていない。
服装は軍用の装備だが、チェストやポーチは無く軽装。格闘戦に持ち込み捕らえる気で待ち伏せていたのか。
「ナメやがって…」
ただの女ではないことは、その引き締まった身体を見れば一目瞭然だった。ただ鍛えられた肉体ではない、その立ち振る舞いからしても、この女は長期間に渡って訓練と実践を潜り抜けた、プロであることは明白だった。
女も腰からナイフを抜いた。わざわざ格闘戦を狙うのは、影の武装が尽きているのを知っているのだ。
出来ることなら戦闘は避け、逃走するべきだろうが、来た道は女が塞いでいる。階段を下った先は、おそらく女が来た道。仲間の待ち伏せや罠があると見るべきだろう。戦いは、この踊り場で、この死地で、やるしかない。
数瞬の間の後、先に仕掛けたのは女だった。一歩で間合いを詰めて蹴りを放つ。
――大丈夫…『見える』!
影は蹴りを腕でいなして更に詰め寄る。狙いは脇の動脈。すれ違うような動きで横に移動してナイフを抜き払った。
女はそれを滑るような動きで横にかわして、すぐに反撃体勢を取る。
「甘い!」
しかし、影はナイフをかわされた瞬間既に脚を開いて床に伏せていた。女の蹴りは、影の頭上を掠める。
「早っ…」
蹴りを外した女が声を出す。伏せたままの影は反転し、その蹴り足の腿、動脈を狙ってナイフを振り上げる。しかし
カキン!
「ッ!?」
肉を裂く感触ではなく、金属音が響く。
伸びた蹴り足はナイフが届くより速く曲げられ、ブーツの底で刃を止めていた。
「ざ~んねん!」
影が退く間も無く、踏み抜いた脚にナイフを押さえられる。今度は身体を捻る前に、女の拳が影の鳩尾に入った。影は、口から胃液を吐き出しながら転げ悶える。そのまま腕を後ろに取られて組み伏せられた。
「志柚。もう終わったのかしら」
姿は見えないが、声が聴こえた。また、女の声だ。もう一人仲間が居たらしい。
「まあね、阿依。コイツがターゲットでいいんだろ?」
「顔を見てみましょう」
「了解」
黒い影のフードが剥ぎ取られ、顔を掴まれて上げさせられた。
フードをはぎ取られ、ぐったりした少年の顔と、タブレットコンピュータを操作する、もう一人の女の目が合った。
一方は十代初め頃の少年。銀色の髪は泥と埃で薄汚れ、まだ幼さの残るその顔には疲労と敵意の色が濃く映っている。荒廃した地を歩く者の顔だ。
もう一方はセミロングの黒髪の女。年頃は赤髪の女と同じ程。顔には勝利の喜びは無く、ただ状況を分析する冷静な印象だ。
「三日前の研究所カメラの映像と一致したわ。この子がターゲットね」
「ま、こんな所に他に誰が居るとは思えないけどな」
少年を押さえつけたまま、外套を剥ぐ。黒いコートの内側が銀色に反射する。
「大戦中の熱光学遮断外套か…十年前の型落ち品だけど、衛星じゃ見つからない訳だ」
「さて坊や、ちょっとお時間いいかしら。大切なお話があるの」
あれから何時間経ったのか…何日か、もしかしたら数分しか経っていないのか、少年の混濁した意識では、よくわからない。
黒髪の女、阿依は転がっている廃材に腰掛けて、先程から少年の持っていたウェアラブルコンピュータを操作している。中を調べているのだろう。
もう一人の女、志柚はと言えば、
「おらっ!このっ!さっさと…吐けっての!」
手足を拘束され、横たわる少年に執拗に暴行を加えていた。
主に腹、時には顔を、何度も繰り返し蹴る。
胃は既に空なのか吐瀉物は無く、ただ反射的に胃液を吐き出す。時には血が混じっていた。
顔は汚泥と体液に塗れ、全身には打撲の痕。痛みは相当なものだろう。
そこまでされていても、少年は力無く横たわるだけで、口を開こうとはしない。
「ダメね。このコンピュータには何の情報も無いわ」
「だから言ってんだろ。こうやって身体に聞いた方が早いって」
「そうね……改めて聞きましょう。三日前、『ポリス』の軍研究所に侵入したのは、あなたで間違いないわね?」
阿依が少年に向きなおり、問いかける。少年は答えない。
「私達はポリス管理庁から依頼された…まあ便利屋って所かしらね。正規に捜索部隊が編成されるまでの先行捜索と斥侯が仕事だけど、ターゲット自体を奪還できれば報酬は三倍。桁が一つ上がるのよ」
志柚と阿依は、うすら寒い微笑を絶やさず言った。
「聞きたいことは二つ。あなたが何者であるのか。研究所から奪った『スターダスト』は今何処にあるのか。それだけよ」
横たわった姿勢のまま、顔だけを阿依へ向けて、少年が口を開いた。
ダメージを受け、疲弊した体から声は出なかったが、言いたいことは口の形から分かった。
『くそくらえ』
「そう…残念」
二人の顔から、作り笑いが消えた。
「志柚」
「はいよ」
少年の右腕を掴んで、持ち上げる。脚で肩の付け根を押さえるとそのまま上へ引っ張り上げた。
ボキリと嫌な音が響き、肩が強引に外された。少年は声も出せずにただ苦しそうにのた打ち回る。
「もう一回でもナメた態度取ったら左も行く。その次は折る」
土産とばかりにもう一度、少年の腹を蹴り上げた。
志柚と阿依が、その兆候を捕えるよりかなり早く、少年は『それ』に気付いていた。
恐らくは、脅威。それを二人に伝えるべきか、少年はしばし迷ったが、決断した。
「なぁ……あんたらさ、気付いてる?」
「あ?」
少年は、腕の痛みを脳の隅へ追いやって声を出す。その声に、志柚がイラついた様子で反応した。
「何が?」
くだらない挑発なら顔面を蹴り上げるぞ、という勢いで志柚が返す。
――これでいい。今の所は少しでも利用価値があると思わせておきたい。自分の命とやるべきことの為に。
「車だ。ここから二十五キロメートル地点、軍用車両三台、北側大通りから時速八十キロメートルで接近中……あんたらの『お友達』?」
「な…?」
志柚は何を言っているのか判断しかねる、というように顔を歪めた。しかし阿依は、彼女よりも速く言葉の意味を理解し、タブレットコンピュータを操作する。
「ポリスの監視衛星が十時間前からこの一帯を監視中よ。最新の画像を今ロードしている…」
阿依の言葉尻がかすれる。志柚は阿依の元へ歩み寄り、コンピュータの画面を覗き込んだ。
その反応から察して、少年は自分の五感が正しいと確信を得る。
――ここから「どうなる」かは、相手次第だ。
「…ポリスからの増援ってことは?」志柚が声のトーンを落として言う。
「そんな連絡は来ていない。あと十二時間はかかるはず」
「ってことは」
志柚が再び、少年に向き直る。その目の色は遊びの拷問を加えるつもりではない。彼女は既に右腿のホルスターに手を掛けていた。
「お前の…『お友達』か?」
「それなら親切に教えるかよ?あいつらは『亡霊』だよ」
少年が『亡霊』の名を口に出した瞬間、二人の表情が固まった。
「今度は…ハッタリか?」
「いいえ、画像から認識できる兵装を見る限り、可能性は高い…『亡霊中隊』手練の傭兵部隊が…ここに向かっているわ」
「その…様子じゃ、あんたら俺が何者かも、盗んだ物が何なのかも、知らされずに来たんだろ」
楽な姿勢を探してもぞもぞと身体を動かしながら少年が言い、口内に溜まった血を吐き出した。
「あれを欲しがっているのは俺やポリスだけじゃあないってこと、とか」
言い終わるかの所で、志柚の蹴りが腹にめり込んだ。血反吐を吐きながら、少年の体が宙に浮いた。
「全部吐けッ!知ってることを全て!」
「やめなさい志柚。今は脱出が先よ」
「このクソガキは、どうする」
既に志柚はホルスターのハンドガンを抜いていた。
「片付けておく?」
「まだ情報を引き出してないわ」
逸る志柚を、阿依が制止する。少年には、まだ情報源としての価値がある。だがしかし、この状況で荷物を抱えて逃げ切る余裕は無いだろう。二者択一の狭間に逡巡する二人だったが、
「連れ…て…けよ」
少年の、うめき声にしか聞こえないような声が、その迷いを払った。
――ここからが正念場。チャンスを使い切れなければ終わるだけだ。
「手伝ってやる…よ……俺が居れば、あんたらは逃げられる」
少年の言葉を、気の短い志柚であっても軽口とは受け止めなかった。静かに銃口を、少年の頭に向けて問い返す。
「その根拠は?」
「あんたらより早く車両を察知した俺の五感神経だ。今も敵の動きは八割方把握している。衛星よりもお手軽で、撤退には欲しい能力だと思わないか」
「お前…エスパーか?」
「違う…強化人間だ」
また一瞬の沈黙。阿依の静かな声がそれを破る。
「…あなたはこのまま放置されれば亡霊に捕まる。そうすれば情報は向こうに行き、私達の報酬はパー。…あなたを殺せば私達も報酬は無いが向こうにも情報は行かない。しかし私達に狙いが向けば、二人だけで逃げ切れるかは運次第になる。…でも、あなたを「使って」の三人ならば、強化神経の五感で逃げ切る公算が上がる…というところかしら?」
「このガキが亡霊とつるんでいる可能性は?開放した途端にヤツらを呼び込む可能性は」
「その気なら車両の存在は言わないでしょうね。そもそもポリスへの襲撃時点から彼は単独行動だった…罠だとしても、私達をかけるメリットは無い」
この二人を、場数を踏んだプロだと見た少年の判断は概ね正しかった。わざわざ説明するまでもなく、この僅かの時間で三人は状況の理解を共有することができた。
今この瞬間の、この場の三人は、協力し合わなければ三人共に厄介なことに陥る。
ただし、少年の生殺与奪の決定権は志柚と阿依二人の側にある。
――やれることはやった。後はあの二人が決めることだ。
その二人が決断するのにそう時間はかからなかった。志柚がナイフで拘束バンドを外して少年を自由にする。
「いいだろう。この際お前の正体は置いておく。この死地から脱出するまで、お前の能力を使わせてもらう。代わりに、アタシらはお前に戦闘力を提供する。…それでいいな?」
「十分だ…了解した」
少年はよろよろと立ち上がり、コンクリートの柱に寄りかかる。
「手伝いは…要らなさそうだな」
寄りかかっていた柱へ、先程外された肩を激しく打ちつける。痛みに顔を歪ませながらも、肩が入ったことを確かめると、少年は再び座り込んでしまった。
「おいおい、本当に使えるのか?このガキ」
「問題…ない。俺のナイフと、銃をくれ」
「ナイフはいいが、銃なんてあったのか?」
「バックパックにある…安心しろ、弾は無い」
阿依が少年のバックパックを開けると、確かに大型のハンドガンが一丁あった。
「もう調べてあるわ。仕掛けは何もないし、確かに弾も入っていない」
「四五口径か?弾薬は分けられねえぞ」
「奴らから拾う。細かいことはいいからよこせ」
「よこしてください、だろクソガキ」
阿依から受け取ったハンドガンを渡そうとした時、志柚が何かに気づいた。
「このコルト…まさか」
「何だよ」
「…何でもねえ」
ホルスターごとハンドガンを渡し、少年が受け取る。
「ほらよクソガキ。言っておくが、アタシにソイツを向けたら殺すからな」
「クソガキ、じゃない。名前はルウだ」
「ルウね。アタシらの自己紹介は要らないな」
握手の代わりに、志柚はルウの腕を掴んで立ち上がらせる。
「さあこれ以上ぐずぐず出来ないわ。不要な物は置いてすぐ移動するわよ」
「その前に…もう一つ」
「まだ何かあるのか?」
「飯は無いか?チョコレートがあるとありがたいんだが」
「そんなものは無い」
志柚と阿依が言い、三人が同時に舌打ちをした。