緑の予言者
⑨ 緑の予言者
収穫の日が来ました。
その日、ラクスの地は赤く染まります。そしてラクスの人びとは幸福に染まりました。
人びとが苦労して育てたルビオ・ベリーは畑いっぱいに赤く広がり、そのひとつひとつも宝石職人がみがきあげたルビーのように太陽に照らされて輝いていました。
この日は領民のほとんどが収穫作業に参加します。
畑で女性たちはルビオ・ベリーの実をていねいに手づみし、腰につけたカゴに入れていきます。そのカゴを男性たちがかついで運び、広場のやぐらにすえられた巨大なたらいにベリーを放りこります。たらいにたまったベリーを子どもたちがはだしで踏みました。遊び半分に交代しながら踏むので子どもたちも楽しげです。すると底の小さな穴から赤い果汁が流れ出し、下に置いてある水瓶に注がれます。水瓶はふたをされ、馬車に乗せられてサイエンの貯蔵庫に運ばれるのです。水瓶の数は何十となりました。
その作業を一日でこなすのです。
伯爵は子どもたちの足の裏に呪紋を描いていました。その足でベリーを踏んで果汁にすると、一日寝かせただけで、領民たちがふだん飲んでいるテーブル酒ができます。食堂で水がわりにただで飲める酒です。けれども、おおぜいの子どもたち、ひとりひとりに描くのでたいへんでした。くすぐったくて転げまわる子、泣き出す子、こわがって近づかない子、それらをなだめすかして伯爵は呪紋を描いていきます。
今年は伯爵のそばで手伝いをしているはずのソムニはいません。彼女は魔法免許認可式のために国都に行っていました。
屋敷ではドクシスが執事、女中たちに指示をして収穫祭の準備をしていました。
けれども、その日だけ働いていない者がいました。それは貯蔵庫のサイエンです。彼は貯蔵庫に水瓶が運ばれてくるあいだ、二階の寝床で、とぐろを巻いた体の上に大きな頭を乗せてグウグウと寝ていました。
「イニス。あっちのベリーは、なんで採らんのや?」
と、イウベニスは湖岸ぞいに実ったベリーを左手でさしました。右腕は首から三角巾でつるしています。彼は片手しか使えないので女性たちと一緒にベリーづみをしていました。
イニスはベリーでいっぱいになったカゴを、カラのカゴと交換してから答えました。
「あのベリーは小さき精霊たちの取り分なんです。小さき精霊たちはベリーの害虫をとってくれるので、そのお礼です」
今日は騎手練習もお休みです。ふだんとちがう仕事、ふだん会わない人たちとする仕事、それはイニスにとって楽しく気分転換になって良かったのでした。
「ふうん、そんでか。さっき、おれ知らんと採ろうとして、こわいおばあちゃんにごっつう怒られたで。歯が無いから『あぎゃあぎゃ!』ってなに言うてんのかわからん。そういうことは先、教えといてよ」
「そうなんですか。ごめんなさい。あはは」
「いや、『あはは』やないがな」
と、ふたりは笑いました。
「見ててや。イニス」
イウベニスがベリーの実をひとつつまんで高く真上にほおりなげると、もどってきたのをうまく口でキャッチしました。
「あ、じょうず!」
イニスが手をたたきます。
イウベニスの顔全体が真ん中に集まって、そしてパアと開きました。
「うーん!うまい!イニスも食べてみ」
「あ、はい」
プニプニとしたベリーの実の感触もここちよく、ひとつつまんで口に入れて奥歯でかみしめると、うすい皮がフツンとやぶれて、あまずっぱい果汁が口いっぱいに広がり、心をトロンと酔わせる香りと味がしました。
思わず、とろける笑顔になってしまいます。
「ああ、やっぱり今年もおいしいですね」
「おれはベリーの実って初めて食べたけど、ベリー酒のとはまたちがった新鮮な味わいがあってうまいもんやね」
「あ、明日になったら新酒が飲めますよ。いつものお酒と違って、この新鮮な味のまんまでとってもおいしいんですよ」
そう聞いたイウベニスはあごを撫でて空を見ました。みょうにモジモジとしています。
「うーん・・・そっかあ。うまそうやなあ・・・けど残念やけど、ちょっと酒は秋までひかえておくわ・・・」
「え?なんでですか?」
「それは、その・・・今おれ『願断ち』しててな。酒を断ってんねや」
「なんですか?それ」
「あれ?知らん?単純に『断ち』とも言うけど・・・」
「知りません」
「ほら、願い事や呪いを防いだりするのに自分の好きな物や、したい事を、その願い事がかなうまで断つって、その、聞いたこと無い?」
「ありません。それって魔法ですか?」
「魔法・・・って言うたら魔法のような、そうでもないような・・・こっちのひとは『断ち』やったりせんのかなあ。まあ、古くさい習慣やもんなあ」
「願い事や呪い・・・イウベニスさんは何の願い事をしてるんですか?」
「それは、その・・・」
「え?呪いを防ぐためですか?」
「ち、ちがう。呪いやなんて・・・あ、おれ、カゴいっぱいになったから新しいのと替えてくるわ」
そう言ってイウベニスが離れると、となりでつみ取りをしている中年女性がイニスの耳元に口を近づけました。
「なあなあ。イニス」
「なんですか?」
「イニスとイウベニスさんはつきあってんだべ?」
「え?ちがいますよ!」
別の女性が言いました。
「だけんど、さっきから見てるとお似合いだと思うだべ。なあ、みんな」
「んだ、んだ」
「まるで新婚ホヤホヤの夫婦に見えるだ」
「んだ、んだ」
「え?え?やめてください!」
「ほうら!イニスがまっかになっただ。ルビオ・ベリーに負けないくらいまっかだぞ」
「あ、おら今、まちがえてイニスをつみそうになっただよ」
「あーっはははは!」
「もう!みなさん!やめてください!」
「おら、むかしのラボロリスとアクテさんを思い出しただよ。翔馬が取りもつ縁ってやつだなあ。ふたりよりも仲良くなるんでねえだか?おたがい騎手なんだからなあ」
「そ、そんなことありませんよ!」
と、そこへイウベニスが帰ってきました。
「なんや?なに笑てんの?」
「イウベニスさん!む、むこうのベリーがぜんぜんつまれてませんよ。ね、むこうに行きましょ」
と、イニスはイウベニスをひっぱっていきました。
「お、おい、ちょっちょい待てえって。イニス」
ふたりの後ろ姿を見て、女性たちは笑い声を大きくしました。
ふたり並んで火山と湖をながめながらベリーをつみました。
しばらくふたりは黙って作業に没頭していました。
いくかのカゴがベリーでいっぱいになり、いくつかの空のカゴと交換されました。
その間にイウベニスは、あることをどう話し出していいものだろうと、考えていました。
それは表面張力でこぼれずにいた思いが、先ほどの『断ち』の会話でとうとうあふれてしまったと言う感じでした。
「イニス。すまんな」
「え?」
「ほんまは騎手になんか成りとうなかったんやろ」
「・・・・」
そう言われてイニスの手が止まります。
「イニスは才能あるから覚えも早いし、まじめやから言われたことを、ちゃんとこなしてる。けど、ぜんぜん楽しそうやないもんなあ。さっきみたいな笑い顔、最近ぜんぜん見てなかった・・・おれがこんなになってもて、しかも、おれが無理に騎手にさせてしもうたからなあ・・・悪いことしたなあ。イニス。今からでもええで、騎手やめても。伯爵さんとおっさんには、おれが言うとくから。リベルタには国都から代理騎手を見つけてきて乗ってもらえばなんとかなると思うし」
「そ、そんな・・・」
どう言えばいいのでしょう。
たしかに騎手の練習は楽しくはありません。
けれどもリベルタに知らないひとが乗るのは心の底からイヤでした。
「おれ・・・イニスに騎手になってもらいたかったんは別の理由があんねや」
「え?」
「ずっと前、サイエンさんに会いにいく道でイニスが言うたやろ。『世界は広い。わたし見てみたい』って」
「あ・・・」
『世界を見たい』
その言葉を聞いただけでやるせない思いがイニスの体の奥からあふれでてきました。
しかも、その言葉をイウベニスがおぼえていてくれた・・・
「騎手になってレースに勝ち進んだら、あちこちのレースに招待される。北国だけやなくて帝都も連邦四国も、もしかしたら帝国だけやなくて他の国々にもよばれるかもしれん。世界中で翔馬レースやってるからなあ。広い世界を見られるんやで。リベルタと自分の力だけで・・・おれ、それを叶えてやりたかったんや」
「・・・・」
「まずは今度のレースで優勝する。優勝すれば、おれのかわりの臨時やなんて誰も思わん。正式の騎手になれるんやで。そしたら世界中、遠征に出られるんや」
このラクスから出ることなく人生を終えるはずの自分にとって『広い世界を見てみたい』と言う思いは最悪な『呪い』でしかありません。けれどもイウベニスは、その呪いを解くだけでなく、すばらしい『夢』に変えてくれました。
そして、その夢が自分で叶えられると彼は言っています。
「そうやから・・・その・・・おれの『断ち』の願い事ってそれなんや・・・」
なんだか、もう・・・
イニスは自分がにぎっているベリーの色や形がわからなくなってきました。
なんだか知らないけれど・・・
イウベニスに抱きついてワアワア泣きだしたくなってきました。
なんだかわからないけれど・・・
イニスはイウベニスが愛おしくてしかたがありませんでした。
「イニス・・・」
イウベニスは左手でイニスの肩を、そっと抱きよせました。
「イニス。おれとリベルタと一緒に世界を見に行こう」
イニスは泣きました。
泣きながらひとつイウベニスの胸の中でうなづいていました。
その同じ日の夜、イニスとイウベニスは伯爵屋敷の二階を歩いていました。手には緑に光るフラスコ。そう、ふたりは伯爵夫人に会いに行こうとしていました。けれども、そこにはふたりだけでソムニはいません。
「奥さま。まいりました」
昼間、イニスがイウベニスの胸で泣き終わり、そでで涙をふいて、ふたたびベリーつみをし始めた時、屋敷の女中が声をかけてきました。彼女の手には双頭竜の紋章が描かれた封筒がありまた。「奥さまからおふたりに」と女中が言います。女中が去って開けてみると『今夜、宵の八刻時におふたりそろって部屋に来てください』と書かれていました。
左手で広げた手紙をマジマジと見て、イウベニスが言ました。
「なんやろ?おふたりでって」
「さあ・・・わかりません」
「お嬢さまぬきでってことか・・・あ、お嬢さまは、どっか行ってるんやなかったっけ?なあ、イニス」
けれどもイニスはイウベニスに背を向けてベリーをつんでいます。
「なあ、イニスってば」
「ソムニさまは今、ベルースに行ってらっしゃいます」
「ソムニさま・・・」
振りかえりもせず答えるイニスに、それも何やら形式ばって話すイニスにイウベニスはとまどりました。
「なあ・・・イニス・・・」
「はい?」
やはり背を向けたままです。
「最近・・・お嬢さまとなんかあったの?この前のボロア事件のせいとかで・・・」
と、言いながら手紙を三角巾の中にしまい、イウベニスはイニスの横に並びました。
「な、なんにもありません。わ、わたしは単なるソムニさまの使用人ですから」
なぜか、そう言いながらイニスは顔をそむけます。けれども手だけはいそがしく動いていました。
「使用人・・・ふうん・・・使用人か・・・」
イウベニスはつぶやきながら湖と山と空をながめ、意識もせず、目の前に実っているベリーをつまみ、口に放りこみました。
「すっぱ・・・」
「ほら!ちゃんとイウベニスさんもつんでください!日が暮れちゃいますよ!」
「ほいほい、わかりました。わかりました・・・」
「奥さま。イニスです。イウベニスさんもいらっしゃいます」
けれども厚いカーテンの向こうからは返事がありません。
「奥さま?」
「あれ?どうしたんやろ。奥さま、おらんのかな」
「眠ってらっしゃるのかしら・・・」
「ああ、イニス。イウベニスさん。ごめんなさい。そっちじゃないの。こっちに来てくれますか」
カーテンの迷路には、まだ奥の部屋がありました。むろん、その部屋にはイニスも初めて入ります。
緑色の世界の中、そこに伯爵夫人はいました。
けれども、いつものベッドの上の姿と雰囲気がまったくちがっていました。夫人はゆったりとしたローブを着ており、何か儀式の衣装といった感じがします。それも当然、緑色。そして胸元には銀かプラチナ製らしくキラキラと輝く人魚の姿をしたペンダントがありました。
やはり部屋全体、緑色に浮かぶ厚いカーテンでおおわれていましたが、その中央には見事なラシャが張られた大きなテーブルがありました。緑色のラシャは、まるできれいに刈りこまれた芝生のようです。
伯爵夫人は背もたれの高いイスに座り、テーブルの上に軽く両ひじをついて、ふたりを正面に見て微笑んでいます。その笑みは遊んでいる子供のように楽しげでしたが、どことなくミステリアスにも見えました。
「イニス。イウベニスさん。すみませんね。わざわざお呼びだてして」
「いいえ、そんな、奥さま。わたくし、ご用とあればいつでもまいります」
「そうです。微力ながら、このイウベニスも伯爵夫人のためでしたら、火の中、水の中、火山の火口をも飛びこんで・・・」
「うふふふ・・・それは以前にもうかがいました。さあ、ふたりともお座りになって」
「はい」
テーブルをはさんだこちらがわに二脚のイスが並んでいました。ふたりが座ると、よりいっそう意味ありげに微笑んで伯爵夫人が言いました。
「今夜、あなた方おふたりに来てもらった理由はこれです」
と、テーブルをフッと見ます。けれども、そこには緑色のラシャ面と彼女のやわらかそうな手のひらがあるだけで他には何もありません。
「え?」
「なにがですか?」
ふたりのとまどう姿を見て伯爵夫人は、とてもうれしそうです。
「これですよ」
そう言って伯爵夫人はラシャ面の上に手のひらをふせて、サッと横に音もなくスライドさせました。すると、その後に長方形のカードの束が裏向きにふせた状態で扇型に現れました。
「あ!」
予期せぬカードの出現に魔法を見慣れているはずのイウベニスまで驚いています。すると伯爵夫人は楽しそうにクスリと笑って言いました。
「まだ驚くのは早いと思いますよ」
今度は人さし指をゆっくりとカードの端に置いてスーと横に移動させます。すると指にしたがってカードが波のようにうねって裏返りました。
「わあ!」
イニスは口に手をあてて目の前のパフォーマンスを見逃すまいと見入っています。
「これ、予言カードやないですか」
「あら、イウベニスさんはごぞんじのようですわね」
「前のクライアントがやたらと予言が好きな人で、よう連れて行かれたんですよ。ぼくはイヤやったんですけど。帝国第一位の赤の予言者のとこにも行ったことがあります」
「そう、イヤやったんですか?うふふ・・・イニスは初めて?」
「はい、お話に読んだことがあるだけで」
「どんなお話?」
「遠い国の王子さまのお話です。呪われた予言カードにとりつかられてしまった国王が亡くなって、そのかたきを王子さまがとるのです」
『呪い』と言う言葉を聞いて、伯爵夫人の笑顔が少し鈍くなりました。
「これは・・・そう、この二十二枚のカードに関しては呪われてはいません。さ、イニス。カードを手にとって見てごらんなさい。おもしろいですわよ」
「え?よろしいのですか?」
「ええ、かまいませんよ」
と、伯爵夫人はカードをまとめてイニスに渡しました。
「見てください。イウベニスさん。きれいな絵」
「ほんまや。他のとこで見たんと違うて、なんや、かわいらしい感じやな」
カードは一枚一枚、絵が違っており、線は細かいのですが、おおらかな感じの象形的な絵が描かれていました。イニスはカードを左手に持つと右手で一枚ずつテーブルの上に置きました。
「『砂漠の魚』『竜の主である小人』『蛇と鷲』『四人の王』『炎の梯子』・・・」
カードの上方には古代帝国語、下方には現代帝国語でカードの題が書かれていて、それを一枚一枚、イニスが声に出して読んでいきました。題は絵を表していて、例えば『蛇と鷲』なら、地平線まで広がる荒野に脚の長いワシが堂々と立っていて、高く上げたクチバシにヘビをくわえている、という意味深い絵が描かれていました。
「『四人の女王』『隻眼の巫女』『流星に祈る戦士』『冥界の帝王』『願い狼』・・・」
それを伯爵夫人は笑顔で見ています。
イウベニスは、あ、と小さくつぶやいて伯爵夫人に言いました。
「思い出しました。『四色の予言者』の四つの色のこと」
「『小人の僕である竜』『聖霊』『果て無き旅人』『青き星』『外道の苦行者』・・・」
「うふふ・・・イウベニスさん。よくごぞんじね」
「『四色の予言者』は予言をする時、その主な色を身にまとう。最高位は赤い館、赤い部屋、赤い服、赤い髪の西国の『赤の予言者』、第二位は青づくしの東国の『青の予言者』、そんで南国の『黄の予言者』が第三位」
ふたりが話している横でイニスが魅入られたようにカードを繰り出しています。
「『運命の川』『廃墟の城』『ふたつの月』『夢魔』『太陽の力士』・・・」
「そんで第四位は・・・ああ、なんで今まで気がつかんかったんやろ。この部屋の中が緑色なんはそのせいですよね・・・」
「『人魚』『世界の完全』・・・」
「そうです。わたくしは北国の『緑の予言者』です」
ホウと息をついでイニスが顔を上げました。心なしか顔が上気しています。本当にカードにとつりつかれたかのような焦点の合わない目をして伯爵夫人の告白も聞いていないように見えます。
イウベニスが体を乗り出して言いました。
「ぜんぜん知りませんでした。奥さまが、そんな偉い予言者さまやなんて。イニスは知っとった?」
と、横を見るとイニスはプルプルと首を振りました。
伯爵夫人は自分でも聞こえないほどの吐息をついてから言いました。
「わたくし、ずっとサボっておりましたから。こちらに嫁いでから予言の依頼など、ほとんど断っておりますし、この部屋も伯爵さまがわざわざご用意してくださったのですけど今まで数えるほどしか使っておりません。もうわたくしは魔法や予言などとは無縁になってしまったのです。今でも使っている魔法と言えば、ソムニの髪をすいてあげる時にささやかな、でも大切な魔法をとなえるだけ・・・」
一瞬、イニスは伯爵夫人が何か思い出し笑いをしたように思いました。けれどもイウベニスは気づいていない様子です。
「奥さまの故郷は国都ベルースでしたっけ。あっちではバンバン予言しはってたんですか?」
「うふふふ・・・バンバンなんてしておりませんよ。まだ若かったもので学生でしたから学校が終わった夜の数刻時だけ予言をしておりました」
「よっぽど優秀やったんでしょうね。若くして帝国第四位の予言者やなんて」
「ええ、でも、それがイヤでこちらに嫁いできたんです」
イウベニスの口が開いたままになり、しばらくして閉じました。この人にも色々な過去がある。そう考えたのでした。
「それがなんで今夜、長年の封印を解こうと?」
「もうすぐイニスの大事なレースでしょう?」
「ああ、それは心強い。イニスが優勝するんを予言してくれるわけですよね」
「いいえ。そういったのがきらいで予言をするのをやめたのです。予言は完全ではありません。時にははずれることもある。それは予言を伝えた時点で運命が変わって、ちがう未来を選択したせいだとも言えるのですけども。ですから、わたくしはレースや商売などのように誰かが得をして、誰かが損をするような予言はしないと心に決めたのです」
また、ここに呼ばれた理由がわからなくなりました。それをイウベニスは素直に口に出します。
「ほしたら、何の予言をいただけるんですか?」
「イニスと、ある人の運命が今度のレースにかかっているのです。ですから」
「ある人?」
自分じゃないのか?とイウベニスは思いました。『イニスとふたりで』と呼ばれたのは、そう言う意味なんだろう、と勝手に思っていたのです。
「ある人って誰ですか?」
「アクテ・コンコルディア。イニスのお母さまです」
イウベニスとイニスは二人して何も言えずに伯爵夫人を見つめました。
「イニス」
伯爵夫人がイニスを見つめかえします。
「はい・・・」
「いつか・・・あなたに話さなくてはいけないと思っておりました。あなたのお母さまのことを」
「・・・・」
「イニスは不思議に思っていませんでしたか?イニスがリベルタに乗って翔んだ、あの日まで、あなたのお父さまや伯爵さま、ラクスのだれもあなたのお母さまのお話をしませんでしたことを。寒いラクスでも翔馬が良く育つようにと尽力を注いでくださった、言わばラクスの恩人とも呼べる人のことを」
なんとなく、そう言うものだと思っていましたが、あらためて言われてみれば確かに不思議です。すなおにイニスはうなづきました。
「それはね。イニス。あなたのお母さまが、ここを去るとき、自分の名前に呪いをかけたからです」
「どんな呪いですか?」
「朝霧が湖を覆いつくすように『思い出』を薄れさせてしまうのです。彼女の名前を呼ぶたびに人々の心から、ゆっくりと『思い出』を隠してしまう呪いです」
「なぜ・・・母は、そんな呪いを?」
「それは別のもっと古い、もっと恐ろしい呪いを封じるためです」
いつの間にか伯爵夫人の笑顔が消えていました。
「イニス。あなたにお母様のお話を聞かせて上げる時が来たようです」
ただならぬ雰囲気にイニスもイウベニスも何も言えないでいます。さすがに『緑の予言者』と証されただけあって自分の語り場を自然と作り出していました。
「あなたのお母さま『アクテ・コンコルディア』は帝国連邦西国よりもさらに西の海で『海の人』として生まれました」
暗闇の中からイニスの想像が浮き上がり、厚いカーテンをつきぬけて、どこまでも青い西の海へと飛び出しました。
「わたしたち『陸の人』と違って『海の人』は脚の部分に大きなヒレを持つ半人半魚の姿をしていました。その姿から『人魚』とも呼ばれ、海の底に秘密の都を作り、彼女たち一族だけで平和に暮らしていました。
『彼女たち』と呼んだのは海の人に男性はいないからです。海の人は成熟すると自然ひとりで卵を生みます。そこから産まれるのは女の子だけ。海の人は女性が女性を産む、これを永年くりかえしてきたのです。
ある日、一族の長『サリス』は娘が生んだ卵がふ化したのを見て驚きました。
カラを割って出てきたのは二人のかわいい女の子。おばあさまのサリスさんは二人を『アクテ』『ソロル』と名付けました。双子なのもめずらかったのですがアクテさんには海の人にあってはならない物がありました。そのせいで顔だちがそっくりなこの双子をまちがえる者は一族にはいませんでした。なぜならソロルさんはヒレを持つ『人魚』の姿でしたが、アクテさんはヒレのかわりに脚のある陸の人の姿をしていたからでした。
ヒレのないアクテさんは海の人の中では泳ぐのが遅かったので『海馬』に乗って水中を移動しました。海馬は陸の馬とそっくりな形をしていましたが、四本の脚が四枚の大きなヒレになっていました。海の人と海馬は特別な声で会話する事ができました。偶然でしょうか。時々、海上を翔ぶ翔馬も同じ言葉で話し合っているのをアクテさんは聞いていました。
彼女たちの母親『ヴァリス』は卵を生んだ後、泡となって消えていました。それは人魚の最大の罪を犯した罰の呪いでした。ある嵐の夜、ヴァリスさんは浮游船から落ちたひとりの男性を助けたのです。そして彼を海岸まで送りとどけた時、その間に罪が生まれました。
そう、アクテさんは父親の血を受け継いでいました。ソロルさんは母親の血を。しかも彼女は母親の呪いまでも受け継いでいて体の部分が少しずつ泡になっていました。母親ほど進行は急激ではありませんが、それでもいつかは体全身が消えてしまう。
ふたりが十七ヶ歳になった時、ソロルさんの右腕は完全に消え、今度は左腕が親指から消え始めていました。不幸な境遇でもソロルさんは明るく笑顔を絶やしません。でも、そんな妹さんをアクテさんは見ていられませんでした。
アクテさんは海の人の魔法を懸命に調べました。けれども、この呪いを解く魔法はありませんでした。
ある夜、アクテさんはおばあさまが止めるのも聞かず、旅に出ました。
なぜ、彼女は海の都を離れたのでしょうか?
願いをかなえる、または呪いを防ぐ、封じると言った方法のひとつに『断ち』というものがあります。
イニスはご存じ?え?イウベニスさんは酒断ちをしているの?ああ、イニスの優勝を願っているのね。うふふ・・・
そう。そうやって自分の好きなもの、例えば、お酒や甘いものや賭け事などをいっさい断って願いをかなえたり呪いを防いだりするのです。そこで彼女は『愛する者と別れる』と言う『断ち』を行ったのでした。それは『断ち』の中でも最も効果のある、そして最もつらいものでした。
けれど、それでもソロルさんの呪いを完全に封じることはできません。呪いの進行を遅らせる事しかできないのはアクテさんにもわかっていました。だから、いくつもの『断ち』を重ねるしかない事も。
彼女は海馬に乗って東を目指しました。日七つも泳げば陸に着きます。もしかすると海の人が知らない陸の魔法でソロルさんの呪いを解く方法がわかるかもしれません。この旅には、そう言う意味も込められていました。
陸に着いた彼女は、長年つれそった海馬と別れ、故郷である西海とも別れ、海から持ってきた道具も他人に渡し、ひとり、陸の奥へと旅しました。
その旅の間、翔馬の言葉が解り、海馬を乗りこなす術、陸の人には無い素晴らしい運動能力を備えた彼女は自然、翔馬騎手になりました。
そうしてアクテさんは何かに成功すれば、ためわらずに捨て、何かを所有すれば、進んで渡し、誰かと知りあえば、別れも告げずに次の土地へと旅をする。そうやって『断ち』を重ねてきたのです。
『断ち』を重ねながらもアクテさんは妹さんの呪いを解く魔法を探しました。帝国内の名だたる魔法使いに出会い、たくさんの魔法書を調べました。けれども、どうしても見つかりません。それどころか皮肉な事に逆に呪いをかける魔法を身につけてしまったのです。それは『断ち』を助けるためでした・・・そう知っていたなら、わたしもお教えしなかったのですけども・・・
そうです。
人々の思い出を奪う呪いを考え出したのは、このわたしです」
この部屋に来て何度目の驚きでしょう?
ふたりは緑色に浮かび上がる伯爵夫人を見つめたままです。
「この地にアクテさんが来た本当の理由はわたしに会いに来たのです。すでに、あの人は他の予言者にも会われていました。妹さんの事情を聞いたわたしは知っている限りの魔法を彼女に教えました。アクテさんとわたしは彼女が知っている海の人の魔法と、わたしの魔法を融合させて新しい魔法の研究をしました。そうして、その間に彼女は素朴で純真な青年と恋をし、彼の子どもを身ごもったのです」
『運命』・・・その言葉がイニスの脳裏に現れます。
「そして彼女は、この旅で最大の『断ち』をしなければいけませんでした。血を分けた子どもと別れる、と言う『断ち』・・・でも、それこそ一番効果のある『断ち』でもあったのです」
今までイニスは気づかなかったのですが、いつも『運命』はイニスのすぐ後ろにいたようです。
「だからこそ思い出を無くす呪いが必要でした・・・この呪いは陸の人は誰も知らない、まったく新しい魔法です。だからラクスの人々に疑われることなく呪いをかけることができたのです。この呪いもまた新たな『断ち』として・・・」
今、『運命』はイニスの肩を痛いほど強くつかんでいました。
「なるほどなあ・・・」
イウベニスはフウと感嘆の声をもらしてから言いました。
「思い出を無くす呪いで『断ち』か・・・アクテさんはスゴい人や。おれなんかの『酒断ち』なんてのとはスケールも発想もケタ違いやな・・・そうやけど、なんでラクスの人らみんな今になって急にアクテさんのこと思い出したんですか?イニスがリベルタで初めて翔んだ時からやと思いますけど」
「そう・・・それはわたしも予期していない出来事でした・・・」
「なんや予言者さまらしいないお言葉ですね。あ、こりゃ失礼なこと言うてすみません」
「いいえ。でも、本当にそうなのですから」
「あ、そうか。かけた本人も予期してなかったんでしょうね。たぶん。初めてかける魔法やから。ラクスの人たちがイニスの騎乗するんを見て呪いが解けるやなんて思うてなかったんやないでしょうか?あのイニスの姿はアクテさんが騎乗するんとそっくりやった。あの突風の日、それを町の人々のほとんどが見た。そんでみんなの隠されてた思い出がよみがえった。たぶん、そんな感じやったんでしょうね」
「その通りです。さすがにイウベニスさん、とってもすばらしい洞察ですね」
「いやあ、そんなことないですよ。あはは・・・」
そうやって二人の会話をイニスは窓越しにでも見るような思いで眺めていました。
『アクテ』と言う名の自分の母親の物語・・・伯爵夫人が語るそのお話は図書館で借りる物語本とまったく同じように思えました。そして今、目の前で話しているイウベニスと伯爵夫人の会話も、その物語の続きのような、そんな感じ。
『物語』は感動を与えてくれる楽しいもの・・・けれども、それはいつも一方的で、こちらからは何の働きかけもできません。語られるままに納得するしかないのです。疑問を持っても自分の中に閉じこめるしかありません。
それは今もそうでした。
やり場のない疑問が次から次へと生まれ、そしてイニスの心を中心にしてグルグルと回りました。
その妹って、わたしの叔母さんよね?
叔母さんを助けるためって言っても実の娘を捨てられるものなの?
娘より叔母さんの方が大事なの?
呪いを解くために『断ち』を重ねている?
それっていつまですればいいの?
こんな遠くまで来て、叔母さんと会ってもいなくて、どうやって『断ち』の効果がわかるの?
もしかして叔母さんの呪いってもう解けてるんじゃないの?
いいえ、それより呪いが進行していて、もうとっくに叔母さんは・・・
そんなふうに考えるわたしって悪い子?
「そうではありませんよ。イニス」
自分の心を見透かされたような伯爵夫人の言葉にイニスは戸惑いました。
やさしい眼差しで伯爵夫人が続けます。
「アクテさんが各地の予言者に会ったのは妹さんを含めて旅で別れた人々の様子を知るためでもあったのです。当時、わたしが遠隔視した妹さんの呪いは進行が遅くはなっていましたが完全に止まっているわけではありませんでした」
テーブルのカードを手元に寄せながら伯爵夫人が言いました。
「おそらく・・・今もどこかの予言者に妹さんの様子を視てもらっているのではないでしょうか。そして置いてきたわが子が成長した姿も・・・」
そう言われてイニスは思わず目を伏せました。ひざの上に握られた自分の両手を見つめます。
「イニス・・・」
それは暗闇に染みとおるような声でした。
「このカードを使って遠隔視ができるのですよ。視てみましょうか?」
目を伏せたままイニスは首をプルプルと振りました。横に座るイウベニスが、なんともさびしげな目でイニスを見つめています。
「そうでしょうね・・・こわいでしょうね。そんなふうに急に言われても」
こわい?
たしかに今の、この複雑な感情を一言で表すとしたら『こわい』としか言いようがないような気がしました。
しばしの時が流れ、その間、伯爵夫人がシャッフルするカードの音だけがシュシュと鳴りました。
「イニス・・・わが子を好きで置いて出ていく母親などいませんよ。あなたにはラボロリスがいました。そして伯爵さまを始めとしてラクスの地のわたくしたちがいました。アクテさんは安心・・・とまでは言わないにしても、あなたが無事に成長する、とわかって出ていかれたのです」
「・・・・」
すべてを裏に端をそろえて、きれいに積まれているカードをスッと片手で示して伯爵夫人は言いました。
「どうします?イニス。このカードで、あなたのお母様の今の姿を視てみましょうか?」
けれどもイニスは無言の拒否です。また、言いようのない重い空気が降りてきて三人を包みました。
その時、
「は!伯爵夫人!」
と、頓狂な声を上げたのはイウベニスでした。おどろいた顔の二人が彼を見ます。イウベニスは身振り手振りも大きく、この場の雰囲気を変えようと懸命の様子でした。
「やっぱり今度のレースの予言をいただけませんか?なんて言うか、その、けっきょく、予言やなんて言うんは勝負や損得の時にこそ欲しいものやないですか。それが魔法の能力も資格も持ってない、そのせいで明日もわからんで悩んでる庶民の願いやと思うんです。そんで、その願いを叶えてあげるんが『持てる者』の責任なんやと思うんです。いかがですか?夫人」
それを聞いて、またニコリと夫人の笑顔が戻りました。
「そうですね。その通りです。さすがはイウベニスさん。では、イニス。今度のレースを視てみましょうね」
今のイニスにとって、レースのことなどもうどうでもいいような気がしました。でも、同じ『予言』にしても先ほどのものより数百倍はマシな気がします。そうしてイニスは反射的にうなずいていました。
「では、イニス。このカードの中から三枚、あなたに選んでいただきましょうね。ええ、裏にして、そこから直感的に。その三枚のカードの暗示から今度のレースを視てみましょうね・・・それでは、イニス・・・」
伯爵夫人は積まれていたカードをバラバラにくずして回転させるように混ぜると、ゆっくりと両手をテーブルの下に戻しました。
「あなたも混ぜてくれますか?わたしと同じように。思いを込めて。時計回りに好きな数だけ」
「はい・・・」
伯爵夫人が触っていたばかりなのに、なぜかヒンヤリとするカードをイニスは慣れない手つきで混ぜました。
「いち・・・にい・・・さん・・・」
手の下でカサカサとささめいているカードの動きに合わせてイニスは口の中で小さく数えました。
「しい・・・ご・・・ろく・・・」
そこでイニスは手を止めました。『六』と言う数字はリベルタが生まれて月六つが経った、と言う意味です。
「はい。ありがとう。イニス」
伯爵夫人はバラバラになったカードの上に両手をかざしました。手のひらを下にして、少し間をあけて、そうしてふたりから全てのカードが見えなくなってしまいました。と、その一瞬後、伯爵夫人が手を引くとカードは、きれいに端をそろえて、ひとつの山にそろっていました。
「ふうむ。さすがですね」
みごとな手際にイウベニスは腕を組んで感心していましたが、ただイニスはカードを見つめているだけです。
「さあ、イニス・・・」
と、伯爵夫人は手を横に滑らせてカードを広げました。
「このカードの中から三枚、選んでくれますか?一枚ずつ順番に。手をかざして、そう、何かしら手のひらにエネルギーを感じるものを。直感的に。ええ、感じたカードを指さすだけでいいのですよ。そう、そうです。では、まず一枚」
イニスの右手がカードの上で、しばらく左右に行きすぎて一枚の上で止まりました。
「これです。奥さま」
と、イニスが指さす一枚を伯爵夫人が表に返しました。
「はい。まず一枚目」
カードの絵をよく見ようとイニスが目を近づけました。そこに描かれていたのは、丸みを帯びた赤い大地の上、東雲色に開け始めた空に大きくひとつ輝く青い星でした。当然、その時は全て緑色に見えましたが、後で明るいところでイニスが見直した時は、そういう色合いだったのです。
「あ、『青き星』・・・」
「なんや。さいさき良さそうなんが出ましたね」
「ええ、そうです。この『青き星』は『明けの青明星』。すべての始まりの星。イウベニスさんの言うとおり、吉兆を表しています」
カードの絵を見ながら、イニスは以前、サイエンが話してくれた物語を思い出していました。
『青き星』から神さまを乗せた天馬が降りてきて、赤い荒れ地に森と海と川を作り、この星を誰もが住みやすい豊かな大地に変えたこと。それから『青き星』から翼のある動物たちの祖先を呼び寄せたこと。一瞬の間に、それを自分が直に見た風景のようにまざまざと思い出していました。
「さ、イニス。次のカードを・・・」
「あ、はい・・・」
迷ったすえにイニスが選んだのは粗末な荷物を背負い、つえをついた老人が地平線まで続く一本の道を歩いている絵のカードでした。
「『果て無き旅人』・・・」
ゆっくりとイニスが読み上げます。
「ありゃりゃ。これは『終わりのない旅』って意味ですか?なんか、さっきのと違って暗い感じのカードですね」
「暗い?そうかもしれませんね。たしかに、この旅人に『目的地』とよばれるものはありません。『旅』そのものが彼の『目的』なのですから」
そうなのかも・・・
と、イニスは思いました。
『世界を見たい』と思う自分の気持ちは『旅そのものが目的』というのと似ているような気がする・・・
「イニス。最後のカードを選んでください・・・そして三枚のカードから今度のレースを視てみましょうね」
「はい。わかりました・・・」
二枚のカードを見て、イニスの気持ちが少し変わりました。
『青き星』と『果て無き旅人』は、なんとなく今の自分を表しているようでイニスの興味をそそります。
それじゃあ、次のカードが未来の自分を表しているのかな?
と、イニスは思いました。
じゃあ、がんばって選ばなきゃ・・・
そんな気持ちからカードのエネルギーを感じようとする手のひらの念の込め方が強まったようでした。イニスの右手がカードの上を左右にさまよっています。先ほどの二回とちがって、とても時間をかけていました。イニスの顔は真剣で、目も瞬きを忘れたようです。彼女の右手は何度も何度も行きすぎました。
「えらい時間かかってるんやね。今度は」
ニコリと笑ってイウベニスが言いました。
「え、あ、ごめんなさい。なんとなく・・・」
「ええよ。ええよ。自分の未来のことやもん。慎重に選んだらええ。ね、奥さま」
「そうですよ。イニス。急ぐことはありませんよ」
「はい・・・すみません・・・」
そうやって、しばらく右手を左右に動かしていたイニスでしたが、ふいと手を引っ込め、顔を上げて伯爵夫人を見ました。
「どうかしましたか?イニス」
「すみません。奥さま・・・その・・・何も感じないんです」
やさしく伯爵夫人が言いました。
「イニス。そんなに気負うことはありませんよ」
「そうやで。パッパッと手かざしてから、これや!って感じで選んだらええねん。もっと気楽にして。な」
「いいえ。違うんです。この中のカードからは何も感じないってことなんです」
「そうやからイニス。もっと気楽になって・・・」
「わたしが感じているカードは、この中には無いのです」
「え?どういうことなん?」
「もしかして・・・イニス・・・」
イニスの言おうとしていることが伯爵夫人にもわかったようです。
「これら以外のカードのことを言っているのですか?」
「そうです。奥さま。奥さまのポケットの中にあるカードのことです」
伯爵夫人が緑色の目を大きく見開きました。そして思わず、右のポケットに手をあてます。ゆっくりとイニスがうなずきました。イウベニスは驚きの表情で二人を交互に見ています。しばらくの後、ふっと息をもらして伯爵夫人は静かに口を開きました。
「『予言カード』を使った予言は二十二枚のカードで行うのが一般的です。けれども実際には二十三枚目のカードが存在するのです」
そう言いながらポケットのカードを取り出してテーブルの上に置きました。それはまだ裏向きにふせられています。
「この一枚が使われない理由はひとつ。このカードは呪われているからです。いえ、正確にはカードに書かれた表題が呪われているのです」
「そうやけど、そんな呪われたカードがあるやなんてぜんぜん知りませんでした。今まで色んな予言者さんのところに行きましたけど初めてです」
「一般の予言者が使うカードは二十二枚で、このカードは最初から入っていません。このカードに込められた呪いに対抗する魔法力が弱いからです。けれども『四色の予言者』は、このカードを持って予言を行います。このカードを予言に使わないとしても二十三枚そろっていることでカードの効力が強まるからです」
イウベニスが腕をくんでカードをにらみました。
「うーん・・・呪いのカードかあ・・・」
イウベニスが振り向いて言いました。
「イニス。ほんまに、このカードから感じるものがあったん?」
カードを見つめたままイニスが深くうなずきました。
「うーん・・・イニスが選んだんやから、しゃあないか・・・」
「イニス。イウベニスさん」
伯爵夫人がカードを手にかけて言いました。
「はい・・・」
「今から、このカードをめくります。けれども決してカードに書かれた表題を口にしてはいけませんよ」
「え?その、もし!もし口にしてしもたら、どんな呪いにかかってしまうんですか?」
「わかりません。わたしも初めて裏返すのですから」
「え?初めてなんですか?」
「ええ、初めてです」
「うわあ・・・なんやすごい展開になってきましたね!めっちゃ鳥肌立ってきた!」
「いいですか。裏返しますよ」
イニスはうなずきましたが、イウベニスが手を振って言いました。
「ちょ!ちょっと待ってください!その、まだ心がまえが・・・深呼吸を・・・はあ、ふう、はあ、ふう・・・よし!はい!どうぞ!裏返してください!どうぞ!」
ゆっくりと伯爵夫人がカードをめくりました。
「あ・・・」
三人が見つめるカードにあったのは一頭の翔馬でした。
そこに描かれた翔馬は神々しい光を放ち、まっ白な翼を優雅に広げ、前脚を体に引きつけて、下方に陸や海の見えない、はるかな大空を翔んでいました。ほのかに上方が暗く、いくつか星も瞬いて、よっぽどの高度だと思えます。翼だけではなく、たてがみ、尾毛といった体毛も全て白。緑の光が当たっていてもわかるほどの白さでした。黒いのは瞳だけで、その目が力を持ってイニスを見つめていて、今にもこちらに翔んできそうでした。
そして、その下に書かれた表題は・・・
イニスは心の中で、その名を呼びました。
『ペガサス』・・・
「イニス。なんでや?」
屋敷からの帰り道。伯爵夫人に渡された緑色に光るフラスコを手にしたイウベニスとイニスのふたりが月からの照りにテラテラと返す石畳の上を歩いています。うすい夜霧が肌に心地良く、夜歩きするには最適に思えました。
ルビオ・ベリーの収穫が終わり、作業が一段落した街はふだんの夜の落ちつきを取りもどしていました。昼間、懸命に働いた人々はもうみんな自宅で休んでいるのでしょう。無人の広場には、たらいを乗せたやぐらが残されていて立ち往生の巨人のようでした。街中、ベリーのあまずっぱい香りに満ちて、なんだかベリー酒の中を歩いているような錯覚をするくらいでした。
「なんで奥さまの予言をことわったんや?」
『青き星』『果て無き旅人』そして夫人のポケットから出てきた『ペガサス』のカード・・・さて、その三枚のカードから導かれる予言を『緑の予言者』が述べられるという時に、イニスが立ち上がって、こう言ったのでした。
「やっぱり奥さま。わたし失礼します。やっぱり・・・その・・・こわいんです・・・」
「ほんまはこわかったんとちゃうやろ?」
「・・・・」
実のところ、ことわった理由は「こわかった」というのではありません。ただ一言では言いあらわせないような、なんとはなくもどかしい、もっともっと複雑な理由・・・それを考えていたイニスは、ただ無言で歩いていたのです。
「まあ、ええか・・・なんや。伯爵夫人もわかってはるような感じやったし・・・」
予言者の予言を受けずに急に退席する、と言う失礼な行為をしたイニスを伯爵夫人は驚きもせず、すなおに帰しました。それどころか、その表情には笑みまであったのです。
「緑の予言者さまやもんなあ。あらかじめイニスがそうすると知ってはったかもしれん・・・」
「なんて、わたしってわがままなんでしょう・・・」
「え?」
イニスはフラスコの光を見つめながら言いました。
「奥さまは、あんなひどい呪いにかかられて、ほとんど、あの部屋からお出になることができないと言うのに・・・わたしったら『世界を見たい』だなんて・・・それを今夜、奥さまにお会いするまで忘れていたのです。わたしってなんて薄情な・・・」
うーん、そっちかあ・・・とイウベニスは思いました。同じ体験をしても人によって何を感じるか、まったくちがう・・・あらためてイウベニスは人の心の複雑さを知りました。
「奥さまとサイエンさまは、とても似てらっしゃる境遇です。外に出られません。でも、サイエンさまはお年寄りの大ヘビ。みずからのぞんであの貯蔵庫に入っておられます。そうしないと生きられないのです。でも奥さまはちがいます。まだまだお若い人間の女性なのです・・・お日さまの下で、お歩きになられたいでしょう。伯爵さま、ソムニさまと、どこかへお出かけになられたいでしょう・・・それなのに、わたしのことを・・・わたしのお母さんのことを気にかけてくださって・・・サイエンさまだけでなく奥さままで・・・」
そう言ってイニスはだまってしまいました。
そうしてふたりは歩いていましたが、何か思いついたようにイウベニスが指をピッと立てて言いました。
「あれ?・・・え?ちょっと待って。イニス。サイエンさまがアクテさんのこと話してたってこと?」
「ええ、お母さんが騎手だったと。乗っている翔馬と親しげに会話してた、とおっしゃってました。お母さんは翔馬の言葉がわかるらしいのです」
「それって、いつ話したん?」
「えっ?・・・」
一瞬、イニスは言葉を見つけられなくて石畳の目の中に、それを探しました。
「・・・ソムニさまの罰が終わられた日です」
「あ、あの日かあ・・・あ、サイエンさま、呪いのこととか何か言っとった?」
「呪いですか?」
「呪いを解く方法とか、かからないようにする方法とか」
「ヘビの自分には翔馬や人間の呪いはわからないっておっしゃってました」
「あ、そうなんや・・・他には?」
「翔馬や人間の呪いはヘビにはかからないって」
「え?そうなん?」
「そうらしいですよ」
イニスがそう言うとイウベニスは闇を見つめて考えこみはじめました。
「サイエンさまと伯爵夫人は似た境遇・・・サイエンさまも夫人もアクテさんの話を・・・人間の呪いはヘビにはかからない・・・アクテさんが名前にかけた呪い・・・呪いを防ぐ断ちのための呪い・・・陸のひとは知らない呪い・・・そうか!わかった!」
急にイウベニスが飛び上がって叫びました。緑のフラスコがフワンとゆれます。
「な、なにがわかったんですか?」
おどろいたイニスがたずねました。
「いや、こっちの話。それはともかく!」
イウベニスは立ち止まり、イニスの小さな肩にフラスコを持った手を置いて言いました。
「イニス!夫人のかわりに、おれが予言したる!『青き星』!『果て無き旅人』!そんでイニスが夫人のポケットに感じた最後のカード、『ペ』・・・なんとか言うカード!あぶないあぶない呪われるとこやった・・・そうや!『天馬』や!あれはまさに『天馬』やった!三枚のカードから読める予言は!」
肩に感じるイウベニスの手の感触は力強いけれどもやさしいものでした。
「今度のレースに優勝してイニスはリベルタと一緒に旅立つ。そんで世界中を旅するんや。そして最後には究極の高みへと翔びあがる!あはは!ヘタな予言でごめんな!ドシロウトやから!」
「でも・・・」
と、目をふせるイニスに、今度は静かな口調でイウベニスが言いました。
「奥さまのことは心配ないで・・・」
「え?」
と、目を上げると緑の光にキラキラと光る瞳が、そこにありました。
「今度のレースでイニスが優勝すると奥さまの呪いが解ける・・・」
「え?そうなんですか?」
「おれの考えが正しかったら・・・たぶんな・・・いや!」
ブルブルと頭をふるわせた後、イウベニスが顔を近づけて言いました。
「絶対!正しい!ええか?イニス!とにかく自分のために優勝するんや!そうすれば結果的に奥さまのためにも、伯爵さまやソムニお嬢さまやラボロリスのおっさんやラクスの人らのためにもなる!それからイニスのお母さんにもためにも!そういう気持ちを奥さまは教えたかったんやで!」
なんだかイニスの体の中に電流のようなものが駆けあがってくるのを感じました。ゾワゾワと足の先から上がって脚を伝い、ジリジリジリと体をのぼって、腕へと、頭へと走り、五本の指がしびれました。心臓が速いテンポのステップダンスを踊っているようです。顔の皮膚がマヒして、舌にはピリピリと鉄の味がしました。耳にはゴウンゴウンと音が、髪の毛がバリバリ逆立ち、今にも目から炎が出そうです。
「イウベニスさん!」
そんな声が出せるのか、と今度はイウベニスが驚きました。
「わたし!やります!レースで勝ちます!リベルタと一緒に世界を見に行きます!」
「そうや!それでこそ!おれのイニスや!」
と、イウベニスがイニスを抱きしめました。片腕にもかかわらず、それはイニスの体が持ち上がるほどの力でした。
「イウベニスさん・・・苦しい・・・」
「ごめん・・・イニス。そうやけど、もうちょっとこのままでいさせてくれ・・・おれ、うれしいんや・・・めちゃめちゃめちゃめちゃうれしいんや・・・」
「・・・・」
それはイニスも同じ思いでした。ただ、あまりこういったことに慣れていないイニスはイウベニスの首に両手を巻くだけのことしかできません。けれどもイウベニスのあたかさにつつまれてイニスが感じたのは、これが『幸せ』というのかしら、ということでした。
そうやって夜露が、ふたりの体をしとしとと濡らしていました。
その夜、伯爵夫人は夢を見ました。
いつものようにまだ若く、色の世界にいました。青く高い空、緑に広がる草原、黒い壁の都市、赤い光の浮游船、そして鮮やかに咲きほこる花々・・・
けれども、その前には誰もいません。銀髪の少年の姿も見えません。
ふと視線を降ろすと白い両手には焦げ茶色の本がありました。
夢の中だからでしょうか。分厚い大きな本なのに不思議と重さを感じません。自分の白い両手は、それを胸に押しつけて、とても大事そうに持っています。
「ニベウ・・・」
と呼ぶ声に振りかえると、そこに立っていたのは若い女性でした。ありがたいことに緑色の姿ではありません。
黒いショートヘアに黒い瞳、きれいな小麦色に焼けた肌、黄色いノースリーブのワンピースが、とても似合っていて、胸元には人魚のペンダントが銀色に光っています。
「ニベウ」
と、彼女は白い歯を見せて笑いました。
この本を彼女に渡すのだ、と思い出します。本を渡そうとすると、突風が吹いて今度は本ではなく、その黒髪の女性がバラバラになって飛んでいってしまいました。そのひとつひとつが呪紋が書かれた呪符のようです。飛び散る呪符をつかまえようと本が落ちるのもかまわず白い両手が空中を高く踊りました。
「ニベウ・・・わたしを忘れて・・・」
すずやかな声をだけを残して女性は空へと去ってしまいました。
「待って!」
と、手をのばすと空からキラキラとひとつ、銀色に輝きながら降ってくるものがあります。
「あ!」
必死につかんで見てみると、それは微笑み、手を振る人魚のペンダントでした。
グッと握って、目を閉じ、
「忘れない・・・忘れない・・・忘れない・・・」
と、いつまでもいつまでもつぶやいていました。