イウベニス負傷
⑦ イウベニス負傷
ヴェロックスが男爵の浮游船で送り出された翌日からリベルタの調教が本格的に始まりました。
空への洗礼を受けたリベルタは臆病さが無くなり、どんなときも落ちついていて、まったく別の翔馬に変わっていました。
血気さかんなヴェロックスとちがってリベルタはラボロリスとイウベニスの調教を素直に吸収しました。こんなに覚えの早い翔馬を見たことがない、それがふたりの共通した感想でした。ただ、もうひとつ、リベルタには誰よりも速く翔びたいという欲が感じられませんでした。
「おっさん。こいつ、ほんまに今年生まれたばかりの翔馬か?えらい年寄りみたいやぞ」
訓練が終わってリベルタから降りたイウベニスが言いました。
普通の若い翔馬は着陸した後も興奮がおさまらず翼をばたつかせます。ですから助手が走りよって手綱を持ち、調教師がひたいを撫でるなどして落ちつかせてから騎手を下馬させます。けれども、リベルタは着陸したとたんに翼をたたみ、何ごともなかったかのように、すぐに呼吸もおさまりました。助手が持ってきた水おけに口を入れ、ぺちゃぺちゃと飲んでいます。
ラボロリスはリベルタをなで、目を見ながら言いました。
「うんだな。こいつのええとこはそこだ。ベテランの翔馬みてえに落ちつきはらってるだ。だども、そこが逆に悪いとこでもある。このままだらレース中に、はい、みなさん、お先にどうぞどうぞ、と紳士さまみてえに前をゆずっちまうだ」
「こんなタイプは初めてや。どないしたらええんや」
と、イウベニスはあごに手をあてました。
「・・・おめえだらどうするだ?」
と、ラボロリスが遠慮がちに言います。
「そうやから、どないしたらええかわからん言うてるやんか」
「だら、ここのやり方だとわからねえてことだべ。帝都のやり方だとどうするだ?」
「あれ?おっさん、帝都のやり方きらいやったんちゃう?すぐに魔法にたよるから」
「ばかたれ!意地さ悪いこと言わねえで、さっさと言うだ!」
「ははは・・・すまん、すまん・・・そうやけど、ほんまやねん。帝都の調教魔法にも、リベルタに効きそうなもんは思いあたらへん。あ、禁止魔法は別やで。ようするに興奮魔法や。あれを使うと、どんな翔馬でも鬼がとりついたように翔ぶようになる。そうやけど後で翔馬がボロボロになってしまうんや。ま、おれもかけ方わからへんのやけど」
「うーん、どうすればええだ・・・」
その様子をイニスは泡だった毛布を裸足で踏みしめ踏みしめしながら、さびしく見ていました。リベルタが翔べるようになったのはよかったのですが、それは自分のもとから離れていくことでもあったからです。事実、この毛布は羊小屋でリベルタが眠るのに使っていた物でした。
自分の気持ちとは裏腹に洗濯中の毛布からは踏みしめるたびに黒い汚れが沸き立ち、広い水汲み場の排水口へと流れていきます。
この水汲み場は羊小屋と厩舎の間にあって双頭竜の頭の形をしたふたつの蛇口から新鮮な水が絶えず流れ出ていました。
そこへヘルメットをはずしながらイウベニスがやってきました。
「よ!イニス!せいが出るなあ!」
「イウベニスさん」
イウベニスは蛇口の下に頭をつっこみ、ジャバジャバと水をかけました。
「あー!きもちええ!」
バッと頭を上げると黒い髪から水滴が周囲に飛び散りました。イニスにもかかります。
「きゃ!つめたい。もう、イウベニスさんたら!」
「すまんすまん。どや、水もしたたるええ男やろ」
「そうですね。いい男です」
「なに?そのどうでもええような返事、がっかりするなあ」
「じゃあ、いい男じゃないです」
「いや、そうはっきり言われてもヘコむわ」
「もう!どう言えばいいんですか!」
「そうやな。どう言うてもつっこむな。これクセやな。すまんすまん」
と、ふたりは笑いました。
イニスは自分がイウベニスと一緒にいると楽しいことに気づきました。それが恋愛と言うものなのかどうかはわかりません。ただ、イニスの心の中でイウベニスの存在が大きくなってきたことはたしかでした。
毛布を踏むイニスの足元を見ていたイウベニスが、
「あれ!」
と、突然の大きな声を出してイニスの肩がびくりとしました。
「え?びっくりした。なんですか?急に。イウベニスさん」
「あ、ごめん・・・なんでもない」
「なんですか?気になります」
「いや、その、イニスの足の小指が無いように見えて・・・」
「あ、やだ・・・」
そう言われてイニスは思わず足の指をかくすように背中を向けてしまいました。
「ごめん・・・」
と、イウベニスにあやまれてイニスは逆に自分が恥ずかしくなりました。
「あの・・・無いように見えたんじゃなくて無いんです」
「え?ほんまに無いの?あ・・・もし、よかったらイニス。見せてもろていい?」
「いいですよ」
イニスは縁の石の上に立ってイウベニスに見せました。たしかにイニスの両足の小指は無く、根元が丸まっていました。イウベニスは中腰になってマジマジと見ています。
「これ、生まれつきなんです」
「そうなん?」
と、イウベニスは顔を上げて聞きました。
「そう言っていました。父が。物心ついたころからこうなので自分でも当たり前に思っていましたけど・・・」
「ごめんな。イニス。自分でも変なことばかり好奇心が出てしまうっていうか・・・悪いクセやな。これ・・・」
「そんなことないですよ。だれでも気になったとしてもおかしくないと思いますよ」
「すまんな。イニス。そう言うてくれると助かるわ。子どものころから仕事中でも『あの虫なんやろ?』『あ、翔馬が翔んどる!』って駆け出すから、よう親父に怒られてなあ・・・」
「そうなんですか。うふふ・・・」
「そうなんや。あはは」
と、ふたりは笑いました。
そのふたりをうらめしげに見ている者がいました。
ガチョウ小屋のプエルでした。プエルも自分がイニスを好きなのかわかりません。けれども、イニスとイウベニスが仲良くしているのは見ているだけでなぜだか腹立たしくなってきます。そしてイウベニスに意地悪したくなるのでした。
よおし!なんか、イタズラのネタないかなあ。でも、この前はホントうまくいったなあ。サイエンの姿を見て、イウベニスのヤツ、腰をぬかすくらいおどろいたらしいぞ。ハハ!ザマアミロだ。
と、見わたすとガチョウ小屋の前の道を歩く虫がいました。大きさはプエルのこぶしぐらい、赤と青のまだら色の丸々とした体で小さい三本の先の丸いツノ、短い八本足をノソノソと動かしています。
お!なんだ?あれ?あんな虫、見たことないぞ。なんかカブトムシに似てるけど。なんだかちがうなあ。うふ!いいこと思いついた!あの虫を羊小屋の屋根の上からイウベニスの頭に落としてやれ!そしたらアイツ、今度はチビるぐらいおどろいて、もうこんなとこいやだ!ってラクスから逃げちまうぞ!
プエルは柵を乗りこえて虫のあとをゆっくりと近づきました。相手は鈍くて、とても弱そう、パッと背中をにぎればつかまえられそうです。この年頃の男の子にとって、虫やカエルなどの小動物は単なるおもちゃにしか見えません。つかまえて遊ぶものだと思っています。けれども虫の方では、それは生死の問題でした。当然、必死に抵抗する者もいます。
「キャー!」
悲鳴を聞いて、イウベニスとイニスが振りむきました。プエルが地面にたおれて後ずさりしています。
「どないした!」
「プエル!」
と、ふたりは走りました。近づくとプエルの上に虫がいました。それを見るなりイウベニスはイニスの前に手を出して止めました。
「待てぇ!イニス!近づいたらあかん!」
「え!」
虫はプエルの腹の上で横長に口を開けて「シャー!」と怒りの声を出し、三本のツノを鋭くのばしてプエルの顔に迫っています。八本の足は先ほどの三倍の長さにもなっていました。その足を使ってジャンプし、プエルを襲ったのです。
「『マダラドクムシ』や!南国にしかおらんはずやのに!プエル!動くなよ!そいつは猛毒を持っとる!そうやけどホンマはおとなしいヤツや。こっちがなんもせんかったら、むこうもなんもせん。ええか!動くなよ!」
そう言われてもプエルは、この虫を早く追いはらいたかったのです。目の前に迫ってくる虫の口は巨大に見え、三本のツノは今にも自分を突き刺そうとしています。シャー!という音で、より恐怖感が増し、肌に感じる虫の足がゆっくりと歩くさまは、もうとにかく、この状況から逃れたいとしか思えませんでした。
「あ、あ、やだ!やだ!たすけてぇ!」
「プエル!」
「ええか!動くなよ!待っとれ!」
イニスが見ると、イウベニスが自分の左手に呪紋を描いていました。
「イウベニスさん!お願いです。プエルを助けてください!」
「わかっとる。もうちょっとや。イニス、おれから離れるんや!」
「あ、はい!」
イウベニスが呪紋を描き終えました。
「よし!」
もうがまんできない!
プエルが右手で虫を払おうとした瞬間、三本のツノはプエルの腕のやわらかい皮膚に突き刺さりました。
「ギャッ!」
「アベオ・イレ・イイ・イトゥム!」
その同じタイミングでイウベニスが左手を前に出して呪言を唱えました。瞬間、プエルの視界から虫が消えました。いえ、消えたのではありません。ものすごい速さで虫はイウベニスに向かって飛んでいました。虫はイウベニスの左手の呪紋に吸われます。シャー!と言う声を一瞬残して、虫は呪紋の中に消えてしまいました。彼が唱えた『アベオ』とは本来、翔馬についた寄生虫などを吸収して消し去る魔法なのです。
けれども消えない物がありました。それは虫が吐きだした毒液。毒液はプエルに突き刺したツノから彼の体内に注入されようとした瞬間に呪紋に吸われ、ツノから吐き出された時は空中にありました。
間一髪、プエルは助かりました。けれども毒液は空中を飛びイウベニスを襲いました。
「う!」
反射的に右手で顔を防ぎました。そでまくりしていた右腕に毒液がかかります。ジュウと白い煙が上がって見る見るうちにイウベニスの腕が紫色に腫れあがりました。
「イウベニスさん!」
「ぐっ!だ、だいじょうぶや!すぐに水で洗ろうたらいける!」
イウベニスは水汲み場に走りました。心配そうにイニスが寄りそいます。助かったプエルは地面にへたりこんだままでした。
「お父さん!イウベニスさんがたいへんなの!お父さん!」
厩舎に向かってイニスが大声を上げると、
「なんだら!どうしただ!」
ラボロリスが走ってきました。
流れる水に右腕をかけましたが、腫れはおさまるどころか、どんどんと大きくなっていきます。イウベニスの額に油汗が粒となって現れ、顔は苦痛にゆがみました。
「ぐっ!」
ラボロリスの驚きようは普通ではありませんでした。
「こ、こおりゃいけねえだ!おい!医者だ!だれか医者を早くつれてくるだ!」
と、助手にどなりました。それは翔馬のことなど考えてはいない声の大きさでした。
「イウベニス!しっかりするだ!死ぬでねえだぞ!」
「おっさん・・・だいじょうぶや。直接、体内に入ったわけやないから。死んだりはせん。右手だけや。水かけて毒は洗い流した。自分で医者のとこに行ける。それよりプエルはいけるか?あいつマダラドクムシに刺された。イニス。すまん。見てきてくれ」
「はい!わかりました!」
イニスがプエルのもとに走ります。
「プエル!だいじょうぶ?」
虫に刺されたプエルでしたが、なんともないらしく、ボウと座りこんでいました。刺された腕が腫れあがっているわけでもありません。
「あ、うん・・・だいじょうぶ・・・」
「そう、よかった!」
と、イニスは走りもどってイウベニスの肩をささえます。反対側はラボロリスがささえました。
「イウベニスさん!プエルはだいじょうぶです!」
「そうか。毒は入らんかったんやな。よかった。けど、念のために医者にみせて・・・」
「わかりました!あとでプエルもお医者さまのところにつれていきます!」
「た、たのむで・・・」
と、そこまで言って、イウベニスは立ったまま気を失いました。
「イウベニスさん!」
「しっかりするだ!」
ラボロリスとイニス、そして助手たちに担がれてイウベニスは屋敷への道に去っていきました。
ひとり残ったプエルは地面に再び倒れこみました。見上げた青空がにじんできます。
彼は泣いていました。自分が、なさけなくて、なさけなくてしょうがありませんでした。
「ぐ、ぐふ、ぐふぐふうううう・・・」
すぐにイウベニスは入院し治療がおこなわれました。イウベニスの命に別状はありませんでしたが、ラクスの医師は総合魔法医で南国の虫毒に対処してはいません。南国の医師と通信魔法で連絡をとり、解毒薬を瞬間移動魔法で送ってもらいました。これで、いずれ右腕も回復します。けれども、それには月ふたつはかかると言うことでした。
次の日、意識が回復したイウベニスの病室にイニスがいました。白い壁に囲まれた清潔そのものの個室。イウベニスは右腕に包帯をまき、ベッドに横になっていました。意識はハッキリしていましたが毒のせいで全身に力が入らないのです。イニスはベッドの横のイスに座っています。
「マダラドクムシは南国からの荷物にまぎれこんでたんやろ。たぶん他におらんと思うけど、みんな見つけたら手ぇ出したらあかん。そう伯爵さんには言うといてくれ」
「それは昨日、すぐにみんなに知らせました」
「お、さすがやな。それはよかった。まあ、あの虫は寒さには弱いから、こっちの冬は越せんやろ。あ、イニス、プエルはどやった?」
と、イウベニスに聞かれ、少し怒った表情のイニスが答えました。
「プエルも昨日、お医者さまにみてもらいました。やっぱりだいじょうぶでした。でも、あんなプエル、どうなったって知ったことじゃないと思います」
「ん?どないしたんや?」
「あの後、プエルが白状したんです。あの虫をつかまえて羊小屋の上からイウベニスさんの頭の上に落とそうと思ったんだって。イウベニスさんにイタズラしようとしたんです」
「ん、ははは、そうやったんや」
「『なんで、そんなことするの!』って怒ったら、わたしの顔をジイと見て『そんなの自分でもわからないよ!イニスのバカ!』って泣きながら帰っちゃいました。もう!ほんとにプエルって、わけがわかんない!」
「はははは」
と、イウベニスが笑います。
まだ怒った顔でイニスは言いました。
「なんで笑うんですか?プエルはイウベニスさんに悪いことしようとしたんですよ。なんで怒らないんですか?」
「あ、ごめんごめん・・・そうやけどかわいいなあと思うて。こんなこと言うたら少年に悪いかもしれんけど、ははは・・・プエルはイニスのこと好きやねんや」
「え?」
思ってもいないことを言われて、まんまる目でイニスは口をポカリと開けてしまいました。
「あの年ごろの男の子は、ああやねんや。好きな女の子の気をひこうとしたいんやけど、何したらわからんから、から回りする。そんで変なことしてしまう。おれも経験あるわ。近所の子でリボンのかわいい女の子がおったんやけど、バク転したら気ぃひけるかなと思うて、いや、理由はないねや。ただ、そう思うたんや。めっちゃ練習して女の子の前でバク転したら足がすべって頭から地面に落ちて、首の骨、痛めてしもうてなあ。今でも雨の日とか痛むねん。当然、その女の子にはフラレたけどな。プエルもそうやねん。イニス、ちょっとはプエルがイニスのこと好きな気持ちわかってやってくれ。な?」
イニスはうつむき、くちびるをかみしめて思いました。
わかるわけがない・・・
だってイウベニスさんはプエルをうらんでいいのに・・・
プエルを助けて・・・
かわりに毒を受けて・・・
プエルの心配して・・・
悪いことをしたプエルをかばって・・・
プエルがわたしのこと好きな気持ちをわかってくれって言う・・・
そんなのわかるわけがない・・・
だって、だって・・・
「・・・イウベニスさんだって、わかってないじゃないですか」
「え?」
今まで抑えていたものがジワリと沸きあがってくるのをイニスは自分の中で止められないでいました。
「とっても心配したんですよ。昨日、ぜんぜん眠れなかったですよ。ほんとはここでずっと看病したかったんですけど、お父さんに家に連れて帰らされて。何をしていてもイウベニスさんが死んじゃうんじゃないかと心配で心配で・・・今日だってお仕事してても何やってるかわからなくて、でも、急がなきゃって走ってきたのに・・・さっきイウベニスさんが目を覚まして元気そうなのを見て、泣き出しそうになったのもこらえたのに・・・それなのにイウベニスさんは、プエルのことばかり言って・・・わたしの気持ちわかってない。イウベニスさんだって、ぜんぜんわかってないじゃないですか」
ひざの上に握られたこぶしに涙がポツポツと落ちました。
「・・・そうか。すまんかった。心配かけたな。ごめん。イニス」
しばらくイニスは、そうやって泣いていました。
そんなイニスをイウベニスはなぐさめてやりたい、抱いてあげたい、手をにぎってあげたい、と思うのですが体が動きません。そうすると言葉も出てこなくなりました。けれども、やがて不思議とイウベニスの中に別の決心が生まれてきました。
「イニス・・・おれの話を聞いてくれるか?」
「・・・はい?」
イウベニスは窓の向こうに写る街並みに削られた湖の破片を眺めながら、ゆっくりと話し始めました。
「・・・おれの故郷は南国辺境の『コルム』ってドイナカの村や。一年中温暖なところで冬でも泳げるくらいやった。『コルム』は古代帝国語で『角』って意味なんやけど、たくさんの角みたいな山が地面からニョキニョキって生えてとってな、ひとつひとつの山にぞれぞれ一種類の木が植わってて、こっちの山は赤い花の木、こっちの花は紫、あっちのは黄色ってぐあいに年中きれいに咲いとった」
初めて聞くイウベニスの故郷の話にイニスの想像は小さな部屋が天井から開いて見知らぬ風景へと飛び出しました。
「その山の間を縫うように川がいくつも分かれたり元につながったりしててな、深い川底が見えるくらい澄んだ豊かな水がゆうゆうと流れとった。村にはほとんど道が無かったから村人の移動手段と言えば船、あ、浮游船と違うで、普通の水に浮かぶ船や。みんな器用に櫂をあやつって学校行ったり、買い物行ったり、友だちの家に遊びに行ったりしてた。
そこでおれらの家族は漁師しとったんや。竹で組んだ・・・あ、ここには竹なんてないな。『竹』ってわかる?イニス」
「ええ・・・中が空洞になっている木ですよね」
「うん。まあ、そんな感じ。その竹を組んだイカダで川の魚を捕って暮らしとったんや。おれは五人兄弟の末っ子で、じいちゃんも親父もアニキらも漁師で、おれもふつうに小さい時から漁の手伝いやっとた。うちは決して裕福では無かったけど貧乏でも無かった。なんでかって言うと『キヌアユ』って都会に持って行ったら高う売れる魚がよう捕れたんや。なんとなく、おれも家族みんなと一緒に一生、漁師をやっていくんやって普通に思とった。ガキの時はな。けど、ある日、偶然起こった出来事でおれの運命が変わったんや」
そこでイウベニスは「コホン」とひとつ咳をして、ぎこちなく左手をサイドテーブルの水差しにのばしました。
「あ、わたしが」
と、イニスが水を飲ませてあげます。
「あ、すまんな。イニス・・・」
水を一口飲むとイウベニスはフウと一息ついて続きを語り始めました。
「ある日、家族みんな、川のそばで網の修理をしとったら、ひとつ上のアニキが南の空を指さした。みんなが見ると一頭の翔馬が山の間をすり抜けて、こちらに降りてくる。とうぜん背中には騎手が乗っとった。えらいめずらしいことや。
いや、この辺でも翔馬は見ることはある。けど、それは練習しとるらしい翔馬の群が上空を翔んでいくだけで降りてくるってことは無かったんや。
全身翡翠色の翔馬がクルクルと輪を描きながら川の向こう岸に降りてくる。みんな、手を止めて見とれてると岸に降り立った翔馬が緑色に光る翼を大きく伸びを一度してから折りたたんだ。
なんや?だれや?どこの翔馬や?なにしに来たんや?さあ知らん・・・
家族のみんながささやきあった。
そのころのおれは好奇心のかたまりみたいなガキやったし、単純な作業にイヤ気がさしとったから『おれ見てくる!』言うて、親父が止めるんも聞かずにイカダに飛び乗った。
イカダ言うても数本の竹を横に組んだだけの簡単なもんや。自分専用のを自分で作る。たくさんの竹を組めば安定するけど、スピードが出えへん。少ない竹やと速いけど、ちょっとバランスを崩しただけで水に落ちてしまう。そうやから体の軽いおれら子どもは組む竹を、なるたけ少のうするんを競い合ってた。大抵の子どもは三本が限界。おれのは二本。もうイカダと言えん本数やな。
おれはせまい幅のイカダの上に立って長い櫂でバランスとりながらスイースイーと水面をすべるように川を渡った。
向こう岸を見ると翔馬が川の水を飲んでた。
岸に近づくにつれて初めて間近で見る翔馬の姿が、これはもう奇跡としか思えんぐらいきれいな物やという事がわかってきた。
生きた芸術作品なような、宝石が翔馬の形をしているような、まぶしいくらいに緑に光って、おれはもう魅入られて、ほれぼれとして翔馬を見とれとった。
騎手さんは翔馬の横に立って、こっちをおもしろそうに見とる。白髪の短い髪に白い無精ひげ、ペンで書いたようなシワが顔の両側にいっぱいで大ベテランって感じやった。そんでグローブを持った手を腰に当ててな。胸張って。こんな感じ。あ、いたた・・・」
「もう!イウベニスさんたら!」
「すまん、すまん・・・岸に着いたんはええけど、なんか気恥ずかしい感じがして、おれはただ突っ立っとるだけ、ジッと翔馬を見とるだけやった。そしたら騎手さんが笑顔で近づいてきた。
『やあ、なかなかすばらしい乗り物に乗っているね』
おれは答えられんと騎手さんを見とるだけやった。
『バランス感覚がいいんだね。そんなせまい幅に立って』
子ども好きな感じはするひとやった。
『きみは漁師の子どもかい?さすがに水に慣れている感じだね』
そんな帝国標準語なんて、おれは聞いた事が無かったしな。
『どうしたんだい?怖くはないよ』
騎手さんは近づきながら右手を出した。そうや、握手の儀や。けど、そんなシャレた習慣なんか知らんおれはビビってもうてた。思わず一歩あとずさった。
『ああ、これは友だちになろうって言う・・・』
『みぎのはね!おかしい!』
『え?』
おれが急に翔馬を指さして叫んだから騎手さんびっくりしてしもた。
『あれ!みぎのはね!おかしい!』
言われて騎手さん、振り返って翔馬を見た。そんで、もう一度おれを見る。
さすがにベテランの騎手さんやな。おれの言いたいことをすぐにわかってくれた。
『もしかして、きみ・・・「あの翔馬の右の翼の様子がおかしい」って言いたいのかい?』
『そう!』
騎手さん、もうすっかり笑みが消えて、おれをジッと見つめてた。穴のあくほどな。その時、向こう岸から、おれを呼ぶ声がした。親父の声や。『こっちへ帰ってこい』って言うてる。おれは行こうとした。
『あ、待ってくれるかい。君の言うとおりなんだよ。あの翔馬は右の翼が魔法の巡りは悪くてね。この地で養生をしていたんだよ。ここは空気と水がいいだろう?おかげでだいぶ良くなってきてね。今日は調整のために少し遠出をしようと・・・どうして・・・』
騎手さんが質問しとる姿はどことなく、おれの目の奥から何かを見つけようとしとるようやった。
『どうして、この翔馬が右の翼を悪くしてるってわかったんだい?もう見た目もわからないくらいに回復していると思えるのに。ほら、ちゃんとここまで翔んできてもいるのにだよ』
『わからん!けど!わかった!』
『どうしてわかったのかわからないのかい?』
『うん!』
『そうか・・・たんなる偶然か・・・』
ちょっと残念そうな騎手さん。
『けど!』
『けど・・・なんだい?』
『リゴと同じやったから!』
『リゴ?』
『おれの「トビウソ」や!』
次の質問をしようと騎手さんが口を動かしたと同時に、おれは右の人差し指を口にくわえて指笛を吹いた。あ、おれ、うまいんやで、指笛。今度、腕が治ったら鳴らしたるから。
『ピューイ!』
澄んだ音が川の上に広がった。何が起こるんやろ、と騎手さん期待したように川を見渡した。けど川の様子に変化が無い。そうやから騎手さん、おれの顔を見て『何を・・・』と言いかけた。
その時、『ゾブン!』と水のはねる音がした。
騎手さんがそっちを見る。そこに水面ギリギリ上をクルクルと飛び回る黒い小さな動物がおった。おれの愛すべき相棒や。そいつは『ピイー!』と甲高い声を上げて水面を滑るように、おれの肩に飛び乗った。
『こ、この動物は・・・まさか原種・・・』
黒く丸い目の間は離れてて、平たい頭、小さい鼻、大きな口の端はニッと上がって、まあ、その顔はイタズラ小僧のようや。黒い毛は濡れとるけども中はフカフカ、短い足、長い胴に長い尻尾。見た目はイタチに似ていて水中を自在に泳ぐ・・・そう聞いたら『カワウソ』やろと思うのは仕方がない。え?イニスも湖で見たことがある?ふうん、そうなんや。ここらへんにもおるんやなあ。『カワウソ』。
けど、おれの相棒はそうやない。『トビウソ』。なんで『トビ』かと言うたら相棒の背中には羽根があって空中を飛ぶ事ができたからや」
と、イウベニスは動く方の手で羽ばたくマネをしました。
「そうや。ここの羊と同じ、原種に近い仲間や。けど、ここの羊よりも羽根の精度は良い。実際に飛べる。けど、やっぱり『翼』と呼ぶより『羽根』やな。翔馬みたいに大空を自由にってわけにはいかん。けど、川の上を旋回するくらいはできたんや。
おれらコルムの漁師はトビウソを訓練させて漁をしてた。コルムの魚は頭が良うて普通に網にかかってくれん。そうやから空中からトビウソに先回りさせて魚を網に追い込んでた。
生まれたてのリゴを親父に渡されて以来、おれは相棒の面倒を見とった。一緒に何回も漁に出た。おれとリゴは一心同体みたいなもんや。リゴがどこかに遊びに行っとっても、おれの指笛ひとつでさっきみたいにピュウと飛んでくる。
そうやからリゴの体の調子は、おれが一番ようわかっとった。
リゴの羽根が魔法で動く事も、なんとなくやけど理解しとった。リゴの羽根の調子が悪うて飛ぶ事ができん時は、まずは休ませる。そんで魔法の流れをよくする薬草や食べ物を与える。とにかくリラックスさせるんが大切なんや。飛べるようになっても漁に出せるほど本調子になっているかどうかは、ちょっと飛び方を観察すればわかった。
そうや。あの翔馬と同じや。
初めて間近で見た翔馬やったけど、魔法で翼が動いとるのはトビウソと同じや。
そうやから、おれの『あれ!みぎのはね!おかしい!』やったんや。
騎手さん、しきりに感心しながら翔馬に乗って帰った。
そしたら、その後、どうなったと思う?
しばらくたって一隻の浮游船が、おれの家の前に着水した。貴族が所有しとるような立派な船や。
びっくりしとる家族のところに、この前の騎手さんが貴族の正装をしてやってきた。その人の名前は『カリタス・バロ・オブラティウス』。男爵位をもろてるくらい偉い帝都騎手さんやったんや。
騎手さんは親父に貴族らしく丁重に礼を述べて、おれを弟子にくれるように言うた。
細いイカダを乗りこなすバランス感覚と、あの翔馬の翼の魔法の流れが良くないことを一目で見抜いた事が気に入ったらしい。
親父はおれに、騎手になりたいかって聞いた。おれは即座に、なりたいって言うた。あのきれいな、かっこいい翔馬に乗れる、と言うんもあった。けど、それよりも、あの翔馬の神秘性にあこがれたんや。翔馬の飛翔の謎を知りたいって思うたんや。
親父はひとつうなづいて騎手さんに向かって言うた。
『うちの息子をどうぞひとつよろしくお願いします。そして、どうぞ厳しく指導してやってください。それで息子が不平や不満を言いましたら、どうぞ、たたき帰してくれてけっこうです』
家長である親父の判断は家族の判断や。おふくろもアニキらも反対はできん。
騎手さんは、今日はごあいさつだけで後日あらためてって言うところを、親父は、息子の気が変わらんようにとすぐにでも、と言うた。
急な家族との別れや。
家族と離れるんもそうやったけどリゴと別れるんは悲しかった。けど、リゴはペットやない。連れて行くことはできん。リゴは、おれら家族の生計を成り立たせてる歴とした稼ぎ手やからな。おれはリゴをひとつ上のアニキにあずけて浮游船に乗った。
今でもよう覚えてる。
初めて見た上空からの故郷の風景。川岸に並んで家族みんなが手を振っとった。アニキに抱かれたリゴがおれを追いかけようと『ピュイピュイ』鳴いて、しきりに羽根をパタパタさせとった。川の流れはあいかわらずゆるやかやった。コルムの山々が故郷を裏切ろうとするおれを突き刺そうとしているようやった。
そんで、おれはオブラティウス先生の最後の弟子になった。
そんで今、こうして翔馬騎手になってラクスにおる。
今、こうしてイニスと話してる。
そう、それはまったくの偶然や。
先生がおれの家の前の川に降りてこんかったら、おれは一生、コルムでトビウソ漁をしとったやろな。
そう、これは偶然や。
けど、それをひとはこう呼ぶ時もあるんや。
『運命』と」
イウベニスはイニスの目をまっすぐ見て言いました。
「これも『運命』やと思う」
「え?」
「おれはこんな体になってしもうた。しばらくしたら体は動くようになるやろうけど腕があかん。月ふたつの間は騎手はできん。そうやけど収穫祭レースは月ひとつ後にせまっとる。だれか別の騎手をリベルタに乗せなあかん」
「・・・はい」
「イニスが乗ってくれるか」
「・・・はい?」
他のひとなら彼がそう言うであろうと想像できる、その言葉。
でもイニスには思ってもいない言葉でした。
その言葉がグルグルと頭を回ります。
「わたしが?」
「そうや」
生まれた時から観てきた収穫祭レースに自分が出場する?
そんなことありえない。
「え?わたし騎手じゃないですよ」
「騎手登録はすぐできる」
「わたし女ですよ」
「帝都やったら女性騎手は普通や」
「わたしまだ十四ヶ歳です」
「おれがデヴューしたんも十四や」
「わたし翔馬になんか乗れません」
「この前、乗ってたやんか」
「あれはリベルタがわたしを助けようと」
「鞍も手綱も無しであそこまで乗りこなすのはなかなかできん。天性のもんがある」
「お父さんが『騎乗年三つ』って言ってましたよ」
「おれもコーチして、もっと効率ようする」
だんだんとイニスの声が大きくなってきました。
「伯爵さまもお父さんも『ダメ』って言うに決まってます!」
けれどもイウベニスの声は落ちついています。
「訊いてみんとわからんやろ」
「訊かなくてもわかります!」
「いや、そんなことはないと思うな。なんとなく、ふたりはきみが騎手になることを予想してる感じがする」
「そんな感じ、わたしはしません!」
その時、ノックの音がしました。
「どうぞ」
と、イウベニスの返事に入ってきたのは、その伯爵とラボロリスでした。
「失礼」
「伯爵さま!お父さん!」
と、イニスは立ち上がって、おじぎをしました。知らず知らずに大きな声を出してしまっていたイニスがしぼんでしまいます。
伯爵はベッドのそばまで来て、ふたりを見ながら笑顔で言いました。
「イウベニスくん。元気そうだね。ふたりともなかなか興味深い話をしているようだし」
ラボロリスが頭をかきかき言いました。
「イニス。おめえの声、廊下中ひびいてただぞ」
「え?いやだ・・・」
はずかしくてイニスはベッドの下に隠れてしまいたいくらいでした。
それに比べてイウベニスは落ちついています。
「あ、すいません。勝手なこと言うてんの聞かれてましたか」
伯爵はイニスの肩に手を置いて言いました。
「イウベニスくんの言うとおり、ぼくはイニスが、いつか騎手になると思っていたよ。ね?ラボロリス」
「はあ、まあ、あたしも残念ながら」
「え?え?」
次々と驚くことが続いてイニスは、もうなにがなんだかわからなくなってきた。
「『天性』とイウベニスくんは言っていたけど、なかなか鋭いね。感心したよ」
「うんだなす。さすがはイウベニス、と、伯爵さまとふたりでうなずいてただよ」
「あ!さすが伯爵さんや!やっぱり伝説の翔馬の言い伝えの通りにしようという思惑やったんですね!」
と、イウベニスは自分の体よりも大切なものに出会ったように喜びました。
「ははは。それはきみの思いちがいだよ。たしかに『最初の天馬、トラビティオは育ての母親の少女が騎手となった』と書いてあるらしいが、それは単なる偶然。ぼくが言う『天性』と言うのはイニスの母親の事だよ」
「母親?」
もっともおどろく言葉が出てきてイニスの頭はまっ白になりました。
「イニスの母親は騎手だったんだよ」
「え?それ、ほんまですか?」
驚いたイウベニスがイニスを見ます。そこにまばたきもできずに立ちつくすイニスがいました。
わたしのお母さんが騎手?
自分の体がバラバラになってしまった感覚でした。まるで絵あわせパズルをばらまいたように。でも、その中に今までとちがう新しいピースができていました。『翔馬騎手』と『お母さん』というピース。それをつなぎ合わせて自分の体を作り直さないといけません。
そんなのひとりでできるわけがない・・・
と、イニスは思いました。
「アクテ・・・」
そうつぶやいたのはイウベニスでした。
「え?なんだって!」
「なして、おめえ、その名を!」
伯爵とラボロリスが同時に驚きの声を発しました。
「え?どないしたんです?」
さらにおどろいたイウベニスがふたりを交互に見ています。
「いつ、どこで、その名を聞いたんだ?と聞いてるだよ。イウベニス」
「あ、えと・・・この前、イニスがリベルタと翔んだ日、翔んでるぼくらを見て街の人らがコールしてたんを思い出したんです」
「そうか・・・あの日・・・」
と、あごに手を当てて伯爵が考えています。傍らのラボロリスは主人の思索のジャマをしないように、その横顔を見ていました。
「え、えと・・・ちょっとええでしょうか?伯爵」
「なにかね?」
「もしかして、その『アクテ』さんって、あの『アクテ・コンコルディア』さんですか?」
「そう、そうだ・・・そうだったね・・・『アクテ・コンコルディア』・・・彼女は、そういう名前だったね。ラボロリス」
「はあ、伯爵さま。そんな名前でしただ・・・」
イニスの家は街のはずれにあり、伯爵邸敷地の真下にありました。前の道をベリー畑ぞいに歩くとすぐに厩舎に行きつきます。木とレンガでできた質素な造りで、玄関を入ったところが居間、奥に台所、右はラボロリスの寝室、左はイニスの寝室と今は馬具置き場となっている部屋と、そう大きくはない家でした。居間は殺風景で生活必需品以外の物は置いてはいません(調教師に贈られるトロフィーや賞状などは厩舎の事務所にあります)。その中で特別な記念品のように壁に飾ってある騎乗鞭がありました。
病院から帰ったラボロリスは壁から騎乗鞭を手にとると、なつかしい思い出を見ているように鞭をながめました。イニスは帰ったばかりの時のまま、お父さんを見ています。
「これはおめえの母親の騎乗鞭だ」
イニスが生まれる前からそこにある騎乗鞭。ずっと昔からあるので、イニスにはもう壁の一部としか見えていませんでした。けれども、それはラボロリスにとって過去へのドアのカギなのでした。
「おめえの母親はな、ホウロウドリみてえな女だった。自由そのものの女よ。苦難を探して旅してた。今でこそ女の騎手だらめずらしくねえだが、あのころは女の騎手はアクテひとりだった。騎手になるのは才能だ。だがレースに勝つのは才能じゃねえ努力よ。あいつは男ばかりの中にいて上級レースを勝ちまくってた。そりゃ、よっぽど苦労したと思うだ」
家で、こんなにしゃべるお父さんをイニスは見たことはありません。しかも、お母さんのことを語るなどなおさらでした。
「アクテは帝都じゃあ名の知れた騎手になった。だが、それをスッパリやめちまったのよ。それでここに来て何かの呪いにかかったかのように働いた。はは・・・なんでいきなりと思うだろうが、びっくりしたのはおらたちの方よ。ひとづてに聞いたらしい。北の辺境で寒さが苦手な翔馬を飼育するのに苦労しているって。それであいつは来たんだと。あいつは魔法認可を持っていたからよ。夜も眠らんで研究して翔馬を寒さに強くする魔法や、これまた寒さに弱いショウマノキを枯れさせねえ魔法も開発した・・・ああ、おらダメだ・・・」
いつも大きな体をシャキシャキと動かして働くお父さんはここにはいません。イニスの目の間にいるのは一人の小さなひとでした。
「あいつがいなくなっちまったことを思い出しちまって、なんだか頭がわやわやになっちまう・・・あいつはホウロウドリみてえな女だ。性分なんだ。やめられないんだ。あいつもそう言ってた。泣いてあやまって、そう言った。だけんども、おらはそれを全部わかってて、おらの嫁になってくれとたのんだんだ。おめえを生んだあと、あいつは何の話を聞いたんかだか、おらにはわからん。だけんどある日、フッといなくなってた。あいつは人並みの幸せに生きるのができん女よ。次の苦難を探しにいったんだ。おめえと、この鞭と何もかもを置いてな・・・そしたら・・・そしたらな・・・頭がわやわやになって・・・あいつのこと思いだせんようになってきてな・・・年が来るにつれて、とうとう顔も忘れちまったのよ・・・ああ、なんておら情けねえヤツだべ。忘れっちまった。忘れっちまった。忘れっちまったのに・・・だのになんでこんなに涙みてえなもんが出てくるだ?・・・」
人間の弱さを見せることに恥じることもなく、お父さんは泣きました。それは十何ヶ年分の涙なのでしょう。にごった目にあふれ、顔のしわをつたい、白いひげがまじるあごを流れ、荒れた手に落ち、騎乗鞭に染みこみました。
しばらく泣いたあと、そでで涙をぬぐい、あらためてラボロリスはイニスを見ました。
「イニス。やっぱりおめえはあいつの娘だ。翔馬騎手アクテ・コンコルディアの娘だ。おめえの体にも騎手の血が流れてるだよ。リベルタに初めて乗ったおめえを見て不思議なくれえに、おら、アクテのこと思い出した。伯爵さまもおらと同じことおっしゃてただよ・・・さあ、こいつはおめえのもんだ。受けとれ」
ラボロリスが騎乗鞭を前に出します。
けれども、イニスは何も言わず立ったまま手を出しません。
「さあ、受けとれ」
ラボロリスが一歩前に出るとイニスが一歩さがります。
「なんだ?どうしただ?さ、受けとれ」
イニスが首をふります。
ラボロリスのみけんにできたシワが「納得いかない」と言っています。
「ん?なにが気にいらねえだ?あ?」
やはりイニスは首をふります。目はラボロリスの足元を見ています。
「おめえ・・・こんな幸運な、名誉なことはねえんだぞ。世の中にゃあ騎手になりたくてもなれねえヤツがごまんといるんだ。それなのにおめえはいやだって言うだか」
イニスは下をむいたままです。
「伯爵さまのご恩にそむくだか?」
あ、と顔を上げたイニスの目もぬれていました。
それを見て、おだやかな表情にもどったラボロリスがやさしく語りかけます。
「伯爵さまはおめえのたのみを聞きいれてセルタの卵をくださって、生まれたリベルタをおめえの所有にまでしてくださったんだ。伯爵さまはおめえの努力をみとめてくださったんだ。おお、なんとありがたいことだべ。それをおめえ、ただでリベルタをもらう気だか?ああ?おめえ、いつからそんな恩知らずになっただ?しかも、リベルタの騎手にまでさせてくださるって言うだに、レース出て、ご恩返しをしようと、どうしておめえは思わねえだ?ああ?」
イニスは首をふりました。けれども、今度は別の意味でふっていました。
「イニス。イヤだら『今度の収穫祭レースだけでも出てくれ』と伯爵さまもおっしゃたでねえか。ああ?だれも『優勝しろ』ってまでは言ってねえ。地元レースに地元の翔馬、騎手が出てねえなんてなあ盛りあがらねえものはねえ。な?わかるべ?今度のレースに出るだけでいいんだ。な?そしたらイウベニスも治る。その間の臨時だ。おまえは。終わったらまた羊係にもどってええんだぞ」
『臨時』
『羊係にもどっていい』
その言葉がイニスの体を固まらせます。
「さあ、ご恩返しのチャンスだぞ」
と、差し出された騎乗鞭をイニスは自動的に受けとりました。
鞭は、お父さんの涙でぬれていました。イニスの片うでより少し長い、細くしなやかな鞭。何の木材でできているのでしょう、手の感触がなめらかでした。先端には台形の革製のパッチ、グリップに巻かれた革は使いこまれていて、球形をしたトップには奇妙な動物の紋章がきざまれていました。海を知らないイニスは見たことがありませんが、イウベニスから話だけは聞いていた上半身が女性で下半身が魚。それは西海に住む海のひと『人魚』の紋章でした。