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ペガサス競翔  作者: 明日テイア
5/13

リベルタ飛翔

 ⑤ リベルタ飛翔


「イニス!」

 青空の下、イニスは、つばの広い麦わらぼうしをかぶって石に座り、ひざの上に本を置いて、遠い国の王子の物語を読んでいました。

 悪人が呪いをかけた予言プロフカードにとりつかられてしまった国王が、自分の運命の予言を知ることだけに人生を使いはたして死んでしまいます。けれども、そのおかげでカードの呪いが解け、逆に国王の息子である王子に自分の運命をあやつる力がそなわります。その力を使って悪人をたおすというものでした。

 リベルタと羊たちは、いつものように平和に草を食んでいました。

「イニス!」

 ようやっと物語の世界から心をもどしたイニスはぼうしをおさえて声のする方向を見ました。ソムニが走ってくるのが見えます。

 白いブラウスがまぶしい。

「ソムニ!」

 この時間にソムニが会いにくるなんて、また家庭教師のアジステ先生がカゼの天然呪いにかかられたのでしょうか。けれどもソムニの右手に持っている物を見て、ある大切なことをイニスは思い出しました。

「見て!イニス!わたしの魔法筆マギペナよ!」

 両親と同じ、翔馬の羽根で作った真新しい魔法筆。黄土翔馬アウラの抜け羽根でしょう。ソムニが振るたびに日の光を黄色に散らしています。それは彼女専用の魔法筆でした。とうとう彼女も魔法貴族の仲間入りをしたのです。

「ソムニ、おめでとう!試験に受かったのね!」

「ええ、ありがとう!イニス!でも、まだ仮免許なんだけど!」

 と、フワッと金髪を弾ませてソムニは明るく笑いました。そして右手の魔法筆で空中に呪紋を描くマネをして軽やかにおどります。

「あー!早く!すごい魔法を使いたいわ!だってアジステ先生ったら!カタツムリをナメクジに変える魔法とか、シャックリを止める魔法ぐらいしか教えてくださらないんですもの!カタツムリなんてカラをとればナメクジになるし、鼻をつまんで息を止めればシャックリは止まるわ!」

 ここでイニスはソムニの格好に似合わない物に気づきました。紺のスカートのベルトに麻の細いロープがはさまれていてソムニの動きに合わせてロープが跳ねていたのです。

「そうね。ソムニ。うふふふ・・・」

 でも何となく悪い予感がしたイニスは、そのことにわざとふれないでいました。

「でしょ?イニス。うふふふ・・・」

 ふたりは子犬のようにじゃれて笑いました。けれど、その後でソムニが言った言葉がイニスとリベルタの運命を大きく変えるのです。

「それでね・・・これは内緒よ・・・」

 ソムニはイニスの手をにぎり、水の底から見ているような青い目で、こう言いました。

「あなたを助けてあげるわ。イニス」

「え?なにを?」

「だって!だって!たいへんでしょ?あんな高いところ、毎日登っているのでしょ?カゴを持って。そんなのとっても危険よ。わたしも登って手伝ってあげたいけど、ほら!わたしって高いところがダメなひとでしょ!それにドクシスが見たら『はしたない!』って怒るに決まっているわ」

 彼女はイニスが葉をとりにショウマノキの木に登っていることを言っているのです。

「え、でも、わたし、もう慣れてるし、小さいころから木登り、得意なのよ。男の子もかなわないくらい」

「イニス、落ちてからではおそいのよ。いい?」

 と、言うソムニの目がこわい。

「だから、わたし、アジステ先生の本を、よおく読んで完ぺきにおぼえてきたからだいじょうぶ。安心してね」

 ソムニに『安心してね』と言われるとイニスはいっそう不安になりました。

「・・・ソムニ、何をするの?」

「あれを見て。イニス」

 湖から浮き上がり、国都ベルースをめざして飛び立とうする定期船を指さしました。

「あの船は、なぜ空中に浮かぶのかしら?」

「・・・さあ?」

 あの船が浮游魔法ボロアで浮かんでいることはイニスでも知っています。

「イニス、あれはね」

 とてもやさしくソムニは話しました。

 それは不気味なほどに。

「『ボロア』って魔法で浮かんでいるのよ」

「そ、そうなの・・・」

「でも、あれはね『アエテ・ボロア』一度かけると、とても長い時間、浮かんでしまう魔法なのよ。でも、わたしがおぼえてきたのは『プリムス・ボロア』少しの時間だけ浮かぶ魔法なの。ね、安心でしょ?」

「え?もしかして、ソムニ」

「そうよ。ほら、ちゃんとロープも持ってきたわ」

 悪い予感が当たりました。ソムニは腰のロープを手に取ると、イニスに断りもせず、いきなりイニスの腰回りにロープを巻きはじめました。

「え?え?なにしてるの?ソムニ」

「ね?これをむすんでおけば飛んでいったりしないでしょ?わたしが下で、しっかりにぎっているから、安心してリベルタの食べ物をたくさんとってね」

「じゃあ、わたしに?」

「そう、イニス、あなたにボロアをかけて空中に浮かべるようにしてあげる」

 ソムニの苦手な部分が出てきてしまいました。イニスはことわろうとしますが、いつものように言い負かされてしまうのでしょう。とにかくソムニは、こうと決めたら後には引かないガンコな性格がありました。そしてよけいなおせっかいをするのです。けれども本人は、まったくの善意でやっているのですから、なお始末が悪かったのでした。

「い、いいの・・・ね、ソムニ。だいじょうぶだから、ね」

「ええと、これとこれを一滴ずつなのよ。それとこれが二滴・・・」

 と、イニスにおかまいなく小ビンに入った魔法液マギウモを魔法筆に染みこませています。

「あ、ソムニ、ボロアを人間にかけるのは法律違反だって聞いたことがあるわ」

 小さな息をフウと吐いてソムニは小さな子に言い聞かせるように言いました。

「あのね、イニス。そんなのどこで聞いたのか知らないけど、ここでちょっと空に浮かんで、だれがめいわくするの?わたしたちの他にだれもいないのよ。ロープでしばってるのよ。ボロアをかけてフワッと浮いて、葉っぱをとって、魔法がとけてきたらフワッと地面におりてくるだけなの。ね、だれにもめいわくかけないでしょ?ね?わかった?さ、呪紋を描くわよ」

 と、ソムニは自分の左の手のひらに不器用に呪紋を描き始めました。

「え、と、こう描いて・・・こう描いて・・・できたわ!完ぺき!さ、イニス、ロープを腰にむすんで。そう、じゃ、カゴを持って、そう、そうして背中を向けて、ね、あっちがショウマノキでしょ。いいぐあいに風も木の方にむいてるわ!」

「でもね。ソムニ・・・」

「いい?じゃあ行くわよ!」

 イニスの言い分など聞く耳もありません。

 ソムニは、なかば強引にイニスの背中に左手をあて、

「プリムス・ボロア・レ・アヴィ・ア・トゥム!」

 と、唱えました。

 するとイニスの体が朱色に輝き出しました。

 失敗してほしい・・・とのイニスの願いもむなしく、イニスの体がフワリと浮きました。

「あ、あ、あ・・・」

「やった!浮いたわ!大成功!」 

 地面を探して足が、何かにつかまろうと手がジタバタと動きます。

「あ、いや、こわい・・・」

「だいじょうぶよ!イニス!わたしが、ちゃんとロープを持っているから!そう!そのまま!木の方へ!」

 そよそよとしたさわやかな南風に乗って、うすい朱色に光るイニスの体が斜めに浮き上がっていきます。ピンと張ったロープをたぐり出しながらソムニはショウマノキの方へと歩きました。

「うふふふ!イニス凧!イニス凧!天まであがれ!」

「ソムニ!そ、そんなに高くあげないで!」

「じょうだんよ!天までなんてウソよ!さあ、もうすぐショウマノキよ」

 ショウマノキには太い幹がのびた高い場所に細長いハート型の葉が丸い形に集まって生い茂っていました。その上の方のやわらかい若葉を翔馬は好んで食べます。毎日、それをイニスは木に登ってつんでいました。今、それが自分の目の前にあります。イニスは手をのばして手ごろな葉をむしってカゴに入れました。最初はこわがっていたイニスでしたが、登ってつみとるのと比べて、とても楽だったのでだんだんと楽しくなってきました。

「イニス!どう?」

「ええ!ソムニ!楽につめるわ!」

「そう!よかった!もっともっとたくさんつんでね!まだまだ魔法は切れないから!」

「ええ!もっともっとたくさんね!」

 作業は順調に進んでいるように思えました。できることなら、これを毎日でもやれたら楽だなあ、とイニスが思いはじめた時、それは起こりました。

 ビュオッオ!

「きゃあ!」

 突然の強風。

 それは『ディプドラの息吸い』と呼ばれる、この季節に時おり火山に向かって吹く突発的な西風でした。

 イニスの体が湖に向かって流されました。

「きゃあ!たすけて!」

「ああ!イニス!」

 ソムニはロープをにぎって体をたおし必死にこらえました。

 けれども、引きづられていきます。

 カゴが飛ばされ、葉っぱをまきちらしながら放物線を描いて草原に落ち、麦わらぼうしはふっとんで、あっと言うまにどこかに行ってしまいましたた。

 イニスはロープをにぎって引っぱろうとします。

「ソムニ!飛ばされる!」

「イ、イニス・・・」

 けれども風はおさまりません。

 強い圧力にイニスの体が逆さになりました。

 歯を食いしばり、顔を赤くしてロープをにぎる手に力をこめるソムニ。ずっずっとロープがずれると、その手から血のしずくが飛びました。

 ソムニの体が草の上をズルズルと引きずられます。

「ぐ、ぐ、ぐ・・・だめ・・・イ、ニス・・・」

「ソムニ!ソムニ!」

 プツン!

 ふたりの努力を冷たく切りすてるようにロープが切れました。

 逆さまのままイニスは湖へと飛ばされました。

「きゃああああああ!」

「イニスウウ!」

 転んで草の汁、泥に汚れながらもソムニは追いかけました。

 けれども見る見るイニスの姿が湖上空へと小さくなっていきます。

「ああ!イニス!ああ!イニス!」

 湖に足を入れ、ジャバジャバと水の中を進み、突然の深みに頭まで沈み、おどろいて戻り、むせび泣き、叫びながら、ムダとは思いながらもイニスをつかもうとソムニは手を差しだしました。

「ああああ!イニス!」

 ソムニは、ずぶぬれ、泣きじゃくり、パニックの真ん中にいました。

「イニスウウウ!」

 イニスの体は羽虫の大きさにまで小さくなりました。

 このままであればどこまで飛ばされるのかわからず、魔法がきれるのであれば湖に落ちておぼれるのはまちがいありません。

「イニスウウウウウウウウ!」

 と、その時、ソムニの上を形ある風が飛びました。 

 ブワサアアア!

 その風は銀色でした。

 そして大きな翼を力いっぱいあおぎ、新たな風を下へと作って自分の体を押し上げています。

 水の中からソムニが叫びました。

「ああ!リベルタ!」


 ボロアにかかったイニスが体を浮かせて葉をつんでいた時、リベルタは新しい味の草を見つけて口を動かすのに夢中でした。いつものようにお母さんとお友だちが遊んでいます。そんなふうに思い、遠くの声だけを聞いて目では見てはいませんでした。けれども強い突風の後、ふたりの悲鳴で顔を上げてびっくりしました。イニスが空中に浮いているのです。けれども、それが自分の意志ではないのは二人のあわてようでわかりました。そしてロープが切れ、イニスは風に飛ばされました。

〈お母さんが翔んだ!〉

 いつかの夢が稲光のように思い出されます。

〈なるほど、では、その『お母さん』と呼ばれる者が翔べば、おまえは翔ぶのだな〉

 あの光の翔馬は、そう言いました。

 今、『お母さん』が翔んでいます。

〈う、うそだ!お母さんが翔べるわけがない!お母さんは人間だ!お母さんには翼がない!お母さんが翔ぶわけがない!で・・・でも!お母さんが翔んでいる!〉

 しかもイニスは助けをもとめていました。

 それもリベルタにはわかっていました。

 リベルタの中に思いが入りまじります。

〈そりゃあ、ぼくには翼があるさ!でも今まで翔んだことがないんだ!今、ここで、今さら翔んでも、うまく翔べないに決まっている!そうさ、このまま駆けだしても翔べずに湖に落ちちゃうし、翔べてもすぐに湖に落ちちゃう!それでおぼれちゃうんだ!そうに決まっている!そうに決まってるんだ!だから!だから!いくらお母さんがたいへんでも、お母さんが助けを求めても!ぼくは!ぼくは!見てるしかないんだ!〉

 けれども、そのあきらめの心と正反対に彼の翼はヒクヒクと動き出していました。

 それが大地震か、火山の噴火が、大津波のように、だんだんと大きく強く、あおぎ動きます。

 ファサファサ・・・バサバサ・・・バアサバアサ・・・ブアアサアブアアサア・・・

〈お母さん!〉

「クゥオオオオオン!」

 リベルタが駆けだしました。

 強い追い風にも負けない速さ。

 今までこんな速さで駆けたこともありません。

 脚を上げ、地面をけり、体を前へと押し出します。

 顔をググと前へ出し、たてがみと尾毛を踊らせます。

 鼻から息をフウと吸い、肺に一瞬ため、口の端からシュウと吐きます。

 目は遠くてもイニスを離しません。

 そして翼を大きく羽ばたきます。

 羽根一枚一枚に空気の重さを感じます。

 背中の翼のつけ根がギュギュと痛いけれども気にしません。

 連続する空気の渦が翼の後ろに現れ消えるのが見なくてもわかります。

 地面の感覚が無くなっていきます。

 駆け出す脚は草土をもう踏んではいません。

 すぐ目の前は湖です。

〈お母さん!今、行くよ!〉

 水の中のソムニを飛び越え、彼は空へと翔び出しました。

「ああ!リベルタ!」


 牧草地でソムニがイニスにボロアの魔法をかけていた時、厩舎ではラロボリスがヴェロックスに鞍をつけていました。ヴェロックスの顔をなでているイウベニスは騎手姿で、頭のヘルメットにゴーグルをかけ、脇に騎乗鞭とグローブをはさんでいます。

「ええだか。イウベニス。ヴェロックスは翔ぶ気マンマンだ。さっきの旋回運動でも、先頭を翔ぼうとあせとっただ。その気持ちを、うまく流してやるだ。な、そいつをこなせば、こいつはええ翔馬になる」

「うん、わかっとる。おっさん。こいつは典型的な牡の若翔馬や。翼のつけ根がウズウズしとるって顔しとる。早よう翔ぼ!早よう行こ!って、おれをさそっとる目えや」

 当初はぶつかりあっていたイウベニスとラボロリスでしたが、最近は言い争うことは少なくなり、おたがいのやり方を尊重しあうようになっていました。それは、なにより翔馬を愛することが共通していたからでした。

 馬具をつける間、ヴェロックスの翼は両側から閉じられ、ふたりの助手に押さえられていました。翔馬の翼は羽ばたく力に比べて、広げようとする力は、そう強くはありません。人間の力でも翔びたたせないようにするのは簡単でした。

 ヴェロックスは、さかんにくちびるを広げ、舌を出して首を振り「クゥルル、クゥルル」と喉を鳴らしています。目はイウベニスをジッと見ていました。

「よし、よし、ええ子や。ヴェロックス。もうすぐに翔ばしたる。な、もうちょっと待てえって。おまえを見にくる人間がおんねや。もうちょっと待って。な?ヴェロックス・・・なあ、おっさん」

「なんだ?」

「その男爵とかゆうヤツに伯爵さま、うちとこの翔馬やる言うたんか?」

「ああ、クラルスの男爵さまはうちの出世頭だ。捨て子だったが『図書館の王子』つう呼ばれるくらい本好きでの、おったまげるぐらいの天才だっただ。そいで情けぶかい伯爵さまが帝立大学にやらせた。そこで作った薬が国王に認められて爵位をいただいただ。貴族になったら翔馬を持つのはステータスシンボルつうもんだべ。んだからな、伯爵さまが、うちの若い翔馬を一頭、お祝いに贈ることにしただよ」

「ははは、おっさんの口からステータスシンボルゆう高尚な言葉が出ると思わんかったな」

「ばかたれ。おらの口はコーショーもテイゾクもどっちも出ホーダイだ」

「ほんで、おっさん。若い翔馬ゆうたら、ヴェロックスとリベルタのどっちやねん?」

「そらおめえ、バンバン翔び回っとる翔馬と、のほほんと羊と一緒に草食っとるだけの翔馬と、おめえはどっちを欲しいだ?ああん?伯爵さまにしても、どっちをやりてえと思うだか?はん、わかりきったことだで」

「と、したらや。もしもリベルタが翔んだら、リベルタをやるゆうこともあるわけや。うわ!すごい風!」

 その風に脇にはさんでいたグローブが飛ばされました。イウベニスが追いかけます。 

「ははは、ディプドラの息に吸われただな・・・うーん、しかし、いやいや・・・イウベニス。おらひっかるもんがあるだ。いや、これはよく言う調教師のカンつうもんかもしれんが・・・もしも・・・もしもリベルタが翔べたら・・・」

「もしも翔べたら?」

「リベルタの方がいくと思うだ」

 イウベニスはグローブをひろいあげ、なにげなく湖を見ました。その上の空中にある物を見て、目をうばわれます。

「おっさん・・・もしも、リベルタが翔んだら、なんやて?」

「リベルタの方がいく。つまりリベルタの方が男爵さまにもらわれる・・・だら、それは、もしも翔べたらの話だて」

「もしも・・・リベルタが翔んだら・・・」

 イウベニスが湖上を指さして叫びました。

「ああ!リベルタや!リベルタが翔んどる!」

「だあら、それはもしもの話だと言っとるだ」

「ちがうて!見てみい!湖!あれ、リベルタや!」

「なんだら、なんだら、なんだら・・・」

 ラボロリスが、あわててヴェロックスの翼の影から顔を出し、湖を見ました。

「ああ!リベルタ!」


 ソムニが自分の手のひらにボロアの呪紋を描いていたころ、伯爵邸の庭では、伯爵にクラルス男爵がつきそいの者を紹介していました。

「彼は『プリタス・ウルテム』。元帝都レース会の騎手です。帝立大学研究員時代に彼と知り合ったのですが、わたしが爵位と所領地を拝領するにあたり、翔馬所有の際に彼の力が発揮されるであろうと思い、礼をつくして招いたのです」

 コツンとブーツを鳴らし、ゆっくりとプリタスは白髪のまじった頭を下げました。

「お初にお目にかかります。元帝都レース会所属騎手、現北国レース会クラルス所属騎手。准爵位、プリタス・ウルテムと申します。この度はマジェスタス・エア・ラクス卿に拝謁できますことを心からうれしく思っております。ラクス、クラルス両家と所領地の発展、そしてマジェスタス卿への親愛の情をこめまして握手の礼をいただければ幸いです」

 やさしさと鋭さの調和がとれた目つきのプリタスを見て、自分と同じくらいの年齢に見えるけど、本当はもうちょっと若いのかな?と伯爵は思いました。

「プリタス・ウルテムどの。帝都でのおうわさはかねがね。うちの騎手が帝都レース会に所属の折り、貴殿とおつきあいさせていただいていたとか」

「ええ、たいへん痛いつきあいでした」

「はははは。『そですりあうは喧騒の種』と言われる帝都とちがい、ここはひとの密らぬ北国辺境の地。ここでそですりあう時は、こうやって握手をする時です」

 ふたりは、おたがいの手をかたくにぎりました。

「たがいなるさちをまじりまし」

 召使いがグラスを盆に乗せてやってきました。そこにはルビーを液体にしたようなベリー酒が注がれていました。伯爵がふたりに手渡すとグラスは日の光に赤い乱反射をしばたたかせました。

「では、クラルスとラクス両地の発展を願って」

 三つのグラスはカチンと涼やかな軽い音を立てました。

 ひと口飲んでプリタスがうなります。

「これは・・・なんとも深みのある芳醇なベリー酒ですな。香りと言い、味と言い、まるで永遠を生きる聖女に出会ったような・・・街で飲んだテーブル酒と同じベリー酒とは思えません」

「十五ヶ年物のベリー酒です。ここをアンビティオス卿が巣立ってから十五ヶ年。その記念・・・と言った大げさなものではありませんが、せっかくの卿のご訪問ですので、ご用意させていただきました」

 伯爵はグラスを掲げて男爵を見ました。透明な赤の中にゆっくりと頭を垂れる男爵がいました。

「マジェスタス卿のお心づかいに感謝いたします」

「十五ヶ年・・・」

 プリタスがつぶやくように言います。

「とすれば、あの、例の大ヘビが住まうと言う貯蔵庫で十五ヶ年、熟成させた物ですか。これは・・・」

 それを聞いて伯爵は楽しそうに笑顔を見せました。

「そうです。これは『賢蛇サイエン』が幾千幾万その魔法のウロコでなでて醸した瓶の中の傑作。自慢になってしまうようですが、市場でもめったに出回らない。価値もつけようがない。ここでしか味わうことができない。まさにラクスの宝と呼べる物です」

「それはすばらしい・・・」

 と、プリタスは、すでにもう酔ってしまったかのようで、心ここにあらずと言った感じでチビリチビリと味わっています。

「プリタス殿。お気に召したのでしたら、もっと持ってこさせますが」

「あ、はい。ありがとうございます・・・」

 満足そうに彼を見たあと、伯爵は男爵に向き直りました。

「アンビティオス卿。クラルスの発展と言えば、今はどのように?」

「はい。わたしたちがクラルスに赴いた折りには、わずかな草があるだけの荒れ地に石で作った粗末な家屋に住まう民が貧しい生活を送っておりました。けれども彼らは、わたしたちを温かく迎えてくれ、わたしを領主として認めてくれました。そして犬面草の農園作りに領民が一団となって精を出し、半ヶ年たった今、ようやく形がつくようになりました。このプリタスも、ひたいに汗して、よく働いてくれたのですよ。マジェスタス卿」

「そうなのですか?プリタスどの」

「ええ、よい経験になりました。荒れ地の石を取りのぞき、井戸を掘り、種をまき、水をまく。そして苦労の末、犬面草の花が咲き広がるさまを見た時の達成感たるや、あのまま帝都にいたのであれば一生、味わうことがないでしょうな。働いたと言えば、マジェスタス卿。領主のアンビティオス卿自らも民に混じって、その手を汚していたのです。だから彼らもアンビティオス卿を信じてついてきてくれたのです」

「そうですか・・・それはうれしい知らせだ・・・」

 クイッとベリー酒を飲み干すと、伯爵はふたりに言いました。

「アンビティオス卿。プリタスどの。この熟成酒もテーブル酒も、元は同じルビオ・ベリーの木からとれたベリーの実です。しかし幾千幾万の苦労が、その味の差を生む。ラクスが老熟した酒なら、クラルスは若い酒。これから、どのような味に醸されるか、たいへん楽しみですな」

 そう言われ、ふたりはニコリと笑って答えました。

「はい。マジェスタス卿」

 タイミングを計ってドクシスがゆっくりと近づき、伯爵の後ろから声をかけました。

「伯爵さま。ヴェロックスの用意が整いましてございます」

「うん・・・さあ、アンビティオス卿。プリタスどの。うちのかわいい翔馬を見てやってください」

 伯爵は空になった三つのグラスを召使いにあずけると手を広げ、ふたりを案内しました。後にひかえてドクシスが歩きます。

 プリタスが歩きながら言いました。

「マジェスタス卿。ひとつ、ぶしつけな質問が。先ほどのすばらしいベリー酒に酔ってしまったせいとおゆるしください」

「なんです?」

「今年、生まれた二頭の翔馬のうち、一頭は伝説の天馬の転生身と言うのは、まことでしょうか?」

「はははは、プリタスどの。帝都のうわさと言うのは湖面にわきたつ霧のようなもの。白く広がり、ひとの目を見えなくするが、そのうち晴れるものです。仮に、うちの翔馬が伝説の天馬の転生身だとしても、それはいくつものレースを勝ち抜き、天馬カエラウスの座についた時に、ようやくそう言われるものではありませんか?」

「なるほど、そうですな」

「それに、リベルタ・・・そう、あなたが言われる転生身はリベルタと言うのですが、うちの羊係の少女のおかげで、ふ化し、成長しました。けれども、やはり人間に育った翔馬、いまだに翔ぼうとはしないのです」

「話に聞くと、その翔馬は銀色の体毛と言うことですが」

 と、聞いたのは男爵でした。

「そうです」

「それならばぜひ・・・」

 と、そこへ突風がふき、庭の草花がはげしくざわつきました。

「これはすごい」

 プリタスが手で顔をおおい、目を閉じます。

 思わず男爵が一言、

「ディプドラの息吸い」

 と、つぶやきました。

 それを聞いて伯爵がほほえみました。

「ほう、アンビティオス卿。よくおぼえておられる」

「ええ、おぼえておりますとも、まだ、わたしが少年だったころ、図書館からの帰り道、借りたばかりの『マルティス年代記』がほつれて、ディプドラの息に吸われてしまったのです。飛ばされたページを集めてたのですが、どうしても一ページ見つからない。その時に一緒にさがしてくださったのが嫁いでこられたばかりの奥さまでした」

「・・・・」

 足を止め、伯爵は何か心にかかるものがあるかのように湖に目を向けました。

「マジェスタス卿?どうなされました?」

 と、男爵が聞きます。

「いえ、なんでも・・・うん?」

 その時、はるかかなたに思いもしないものを伯爵は見ました。

「あれは・・・まさか・・・」

 ふたりも伯爵の視線の先を見ます。

「ああ!あれは!」

 ドクシスも見ました。

「な、なんと!」

 伯爵が声を上げます。

「ああ!リベルタ!」


 イニスは、木の葉のように風に舞っていました。いえ、一緒に飛ばされたショウマノキの葉はボロアの魔法などかかってはいませんので、とっくに湖に落ちていました。飛んでいるのは自分だけ。ソムニ、羊たち、そしてリベルタの姿は、どんどん小さくなっていきます。伯爵邸も街も畑も滝も塔橋も小さくなっていきます。けれども、それをジッと見ていることもできません。とにかく体がクルクルと回って、自分の思うとおりにできませんでした。

 けれども、なぜか『自由になれた』と言う、すがすがしさも出てきたのも確かでした。

 言いようのない空気の気持ちにでもなれた感じもあります。

 イニスの心にも思いの風が吹き流れます。


 このまま、わたしは死ぬのかしら・・・

 長いような短いような人生・・・

 ずっとラクスにいて、羊のせわをして、何かベリー酒の仕事をして、だれかと結婚して、子どもを生んで、子どものせわをして、としをとって、そして死んでいくのかと思っていた・・・

 それがこんな死に方をするなんて・・・

 ああ、ラクス・・・

 あんなに小さなまち・・・

 あれがわたしのまち・・・

 それなのに世界はこんなに広い!


 はるかな先に地平線が見えました。初めて見る地平線です。まっすぐではなくゆるやかな曲線を描いています。空の青さは一色ではありませんでした。上空は濃いのですが、下にいくほど薄くなり地平線でスッパリ切れていました。ズウと緑の林がつながった大地。けれども、ところどころ草原があり、そこには大蛇のようにくねった川がありました。それを捕らえようと街道が目のあらい網のように覆っています。

 道には歩く馬や人々が粒となって見えました。そして小さな村、点々と建っている家、古い城、石の塔、ダニのように羊の群れ、音もなく飛ぶ浮游船、それらがあちらこちらに散らばまれていて蜃気楼のような大きな町が地平線の向こうに形を作っていました。

 火山が目の前に見えました。こげ茶色の火口をポカリと開けて空のイニスに驚き顔を見せています。その肩ごしに石だらけの荒原が広がっていました。そして、その先にもゆるやかな曲線の地平線がありました。地平線は大きく一周していました。

 世界は巨大な円形劇場だったのです。


 ああ、世界はこんなに広い・・・

 

 厩舎の前で、手にグローブをはめながらイウベニスが叫びました。

「リベルタの前を飛んどるのはイニスや!」

「なんだら!なんでイニスが飛んどるだ!」

「体が朱色に光っとる!ボロアや!だれかにボロアの魔法をかけられたんや!ほんでイニスを助けようとリベルタが翔んだんや!」

「ああ!しかし!リベルタ!ありゃあ、もうダメだぞ!」

 リベルタの高度が極端に落ちています。羽ばたきも不規則でフラフラと体が左右にゆれ、顔を上げて不安そうに口をパクパクさせています。今にも湖面に着きそうで、それが嫌なのでしょう。四本の脚をバタバタと動かしていました。

「あ、あかん!やっぱり初めて翔んだからバテバテや!こうしとられん!おっさん!おれも行くで!」

「だども!この追い風!ヴェロックスは初めてだ!うまく翔び上がれねえだぞ!」

「リベルタは翔んだ!この風に負けんくらい羽ばたけばいける!」

「ぐっ!んだ!やってやれねえことはねえ!行け!」

 と、ラボロリスの腕に足をかけ、イウベニスがヴェロックスに騎乗しました。

「おっさん!そのロープくれ!」

 イウベニスが指さす先に輪にまとめたロープが壁に掛けてありました。

「これだか?なにするだ?」

「説明するヒマない!とにかくくれ!」

「あ、ああ、ほれ!」

 ラボロリスは差し出されたイウベニスの手にロープを渡しました。イウベニスはロープの輪を斜めに肩にかけると手綱を握って叫びました。

「よっしゃ!行くで!」

 助手たちが離れると、ヴェロックスは大きく羽ばたきはじめた。

「ヴェロックス!もっと羽ばたけ!」

「クゥオオン!」

 厩舎の前は翔馬たちが滑走できるほどの広場があります。けれども、それはリベルタが滑走した牧草地よりもかなり短く、追い風の時には十分な長さではありませんでした。

 イウベニスは手綱を引き、ヴェロックスを後ろ二本足で立たせました。

「な!なにするだ!イウベニス!」

「よっしゃ!行け!」

「クゥオオオン!」

 前へもどる勢いで翼の羽ばたきが強くなりました。

 ヴェロックスは駆けだしました。

「もっと速う!」

 イウベニスが鞭を振るいます。

 バビュッ!

 その音で興奮したヴェロックスの速度が増しました。

「翔べ!ヴェロックス!」

 広場の前のルビオ・ベリーの木に足をガサガサと当てながらもヴェロックスは翔び上がりました。

「クゥオオオオオン!」

 追い風に負けずヴェロックスは羽ばたきを繰り返し、上昇しました。すぐに足下はベリー畑から湖面へと景色が変わります。

「よし!ええで!ヴェロックス!このままイニスを追うんや!・・・ん?」

 自分が翔び上がるまでとは違う状況にイウベニスは気づきました。

「リベルタがおらん!」

 そうです。イニスを追いかけていたリベルタがいなくなっています。反射的にイウベニスは下方を見ました。するとリベルタが翔んでいたはずの湖面に幾重もの波の輪ができていました。

「しもた!リベルタ!湖に落ちたんや!」

 グッと目を閉じるイウベニス、

「すまん!リベルタ!」

 目を開けて前方を見ると、はるか前を飛ぶイニスにイウベニスは焦点を合わせました。まるでレースで前を翔ぶライバルをねらうように。そして体を沈めて疾翔体形をとりました。

「イニス!おれ絶対きみを助けたる!」


 ああ、世界はこんなに広い・・・


 そのうちに浮游魔法が切れて自分は水面か地面にたたきつけられるのでしょう。

 その衝撃で痛みもなく自分は死ぬのでしょう。

 イニスは静かに目を閉じ、両手を胸に組んで死を覚悟しました。くるくる回って風に遊ばれていますが、気持ちは棺の中にいるつもりでした。こんな状況なのに奇妙に心は落ちついていたのです。


 最後に、こんなすばらしい光景を見られてよかった・・・ありがとうございます。神さま・・・さようならソムニ・・・あなたの魔法でこんなになっちゃったけれど、あなたをうらんでなんかいないわ。今でも大好きよ・・・お父さん、体をたいせつにね。左手が痛んだら戸棚のシップをはってね・・・伯爵さま、奥さま、今まで親切にしていただいてありがとうございました。ご恩は忘れません・・・イウベニスさん、とても楽しいお話ありがとう・・・ラクスのみなさん、さようなら・・・リベルタ、早く翔べるようになってね。あなたの幸せをいのっているわ・・・


「イニス!」

 あろうことか、この孤独な空で自分を呼ぶ声がします。目を開けると、こちらへと飛んでくる青い物が見えました。その上に乗った者が声を上げています。

「イニス!大丈夫か!」

「イウベニスさん!」

 イニスは忘れていました。自分を助けにくるとしたら彼しかいないことを。この空は最近、彼と彼が騎乗する翔馬たちの庭みたいなものなのだと。そこを自分が飛べば彼が気づいて追ってきてもおかしくはないことを。

 ヴェロックスの青い翼がたのもしく大きく力強い羽ばたきでもって、こちらにまっすぐ翔んできます。イウベニスが体を上げ、右手を出しました。それこそが神の手と重なった救いの手でした。

「イニス!手を!」

 ゴーグル越しからでも彼の真剣な目が見えます。

「イウベニスさん!」

 その手を求めてイニスも手を出しました。けれども体が回って思うようにいきません。もどかしく手を変え、首を回し、体をのばしますが、風にもてあそばれて近づいたり遠のいたりをくりかえし、イウベニスとの距離が縮まりません。

「もっと手を伸ばすんや!」

「ダメ!とどかない!」

 もうそこにその手はあるのに文字通り、手が届かないのです。

「よし!まかせろ!」

 イウベニスは肩にかけたロープをはずし、すばやくロープの端を鞍に結びつけると両手をヴェロックスの肩に置いて両足をグッと上げました。

「イウベニスさん!なにを!」

 うまくバランスをとりながら鞍の上に立ったイウベニスはイニスを見つめタイミングを計っているようです。

「行くで!イニス!」

 なんとイウベニスが飛び出しました。まるで猿が枝から枝へ木々を飛び移るように両手を前に出してヴェロックスの背中から空中へとジャンプしたのです。

「イウベニスさん!」

 思いもしないイウベニスの行動にイニスが驚きました。

 空中のイウベニスが叫びます。

「プリムス・ボロア・レ・アヴィ・ア・トゥム!」

 そして彼の体が朱色に輝き出しました。落ちもせず手を前に出したまま空中に浮かび、まっすぐイニスの方へと進んできます。左手には鞍へとつながったロープがありました。

 そうです。彼の体にも浮游魔法がかかっていました。空を翔ぶ翔馬から騎手が落ちてしまった緊急時に発動するように騎手服に魔法が込められていたのです。

「もう少しや!イニス!」

 イウベニスが手を差し出します。

 イニスも手をのばしました。

「イウベニスさん!」

 のばされた彼の、そして神の救いの手がイニスの目の前にあります。

 今にも触れそうなふたつの手。ふたりの体には浮游魔法。イウベニスの手にはヴェロックスへと続くロープ。ヴェロックスは思うままに大空を翔べる。

 助かった・・・イニスは思いました。

 でも、ふと別の思いもします。

 安心するにはまだ早い・・・

 そう、まだ早かったのです。

 イニスの輝きが消えはじめました。朱色の光が体から無くなっていきます。なんというタイミングの悪さ。イニスの体に重さがもどってきたのです。

「あ!あかん!ボロアが切れる!」

「え?え?そんな!」

「イニス!手を!」

「イウベニスさん!」

 彼の指先だけが触れた瞬間、イニスは完全に重力の虜となり、この星が彼女を引っ張りました。

「きゃああ!」

「イニス!」

 イウベニスの手が落ちるイニスを追います。けれども体は空中に浮いたまま、むなしく空をつかみました。

「イニスウウウ!」

「きゃあー!」

 湖面へと落ちていくイニスをイウベニスは見下ろすしかありません。

「助けて!リベルタ!」

 落ちていくイニスはとっさに自分でも思いがけない相手に助けを求めていました。この時点で彼女は、その相手が自分を助けに来ているとは気づいていないはずなのですが、でも、それも『翔んでほしい』との願いが変化したものかもしれません。

「助けて!リベルタ!」

 ゴウゴウと下から上への風がイニスの体をすり抜けます。一度は死を覚悟したイニスでした。なのに彼が現れた。自分を助けに飛んできてくれた。彼の声を聞いてしまった。彼の指に触れてしまった。彼の目を見てしまった、だからなのでしょうか。今のイニスは『生きたい』と思っていました。

「助けて!リベルタ!」

 彼の懸命の救助もあと一歩でおよびませんでした。だとしたら次にイニスが、この名前を呼ぶのは必然なのでしょう。

「ああ!リベルタ!」


 リベルタ・・・・リベルタ・・・・リベルタ・・・・リベルタ・・・・


 波の輪が消えて静かな日常に戻っていた湖面に、その声が響き渡りました。するとどうでしょう。今度はひとつ大きな泡がボコンと浮かびあがり湖面で割れました。

 ボコン・・・ボコン・・・ボコン・・・

 次から次へと泡が浮かび上がっては消えます。

 ボコボコボコボコ・・・

 最後に泡よりも大きな物が浮かび現れました。

 ガッバア!

 それは力強く水面を跳ねて、銀色に光る翼で大きくしぶきを巻きちらすと空中へと飛び上がりました。

「クゥオオオン!」


 もう少しで湖面と思った瞬間、

 ブワサアアア!

「きゃあ!」

 イニスは水ではなく、堅い弾力がある物体の上に落ちました。幸いにもイニスと、その物体に損傷はありませんでした。

 目を開けると、その物体は塗れてはいますが銀色のやわらかい毛でおおわれており、目の前には水玉を虹色にキラキラとかがやかせた長い毛がありました。ふり落とされまいとイニスは、その毛をしっかりとつかみます。横には大きな翼が力強く羽ばたき、まぶしいくらいに光を乱反射させていました。

 イニスを背中に乗せた物体はギュンギュンと水面から離れていきます。

 そして翔馬特有のいななきをイニスは体で聞きました。

「クゥオオオオオン!」

「ああ!リベルタ!」

 上昇するリベルタの背に乗ったイニスは、まさに幸せの絶頂にいました。彼女はリベルタの首を抱きしめ、たてがみに顔をうずめました。真夏とはいえ、この高さまで上がると気温が下がり、風が体温をうばいます。けれども、すでに乾きはじめたリベルタの背中はとても暖かく感じました。

「あなた!翔べたのね!よかった!ほんとによかった!」

 今のリベルタは鞍もあぶみも手綱もない、いわゆる裸馬でしたが、自然にイニスは翔馬に乗る理想の形になっていました。太ももで胴をはさみ、前にかがんで翔馬のたてがみに胸をつけ、両ひじを翼のつけ根に置いて、人間と翔馬とのすき間をなるべくあけないようにしました。そうすると重心が安定して空気の流れも乱れなくなり、翔馬が翔びやすくなるのです。

「クゥルルル・・・」

 目の前の虹色の輝きがにじんできました。うれしくてイニスは泣いていました。「クゥルル」と喉を鳴らすリベルタの心地よい声が、やさしく自分をなぐさめてくれました。

「イニス!」

 その声に顔を上げ、上を見ました。

 それはヴェロックスに乗ったイウベニスでした。

「イウベニスさん!」

 ヴェロックスが下降し、リベルタと並びました。

「イニス!だいじょうぶか?」

 なみだをぬぐってイニスは笑顔をむけました。

「ほら!見てください!リベルタが翔べたんですよ!これで伯爵さまも安心なさるわ。リベルタをどうかしたりなさらないわ。よかった!ほんとによかった!」

 自分が助かったことより先にリベルタの心配を口にするイニスを見て、ほっとしたイウベニスは笑ってしまいました。

「あはははは!よかったなあ!イニス!よかったなあ!リベルタ!」

「ありがとうございます!イウベニスさんとヴェロックスのおかげです!ありがとうございます!ね、リベルタ!」

「クゥオオオオン!」

 リベルタにつられてヴェロックスもいななきます。

「クォオオオオン!」

「あはははは!」

「うふふふふ!」

「あ!見てみ!イニス!」

「え?」

 と、イウベニスが指さす方をイニスが見ました。

「あ!」

 それはたくさんのラクスの人たちでした。

 この上空での救出劇に気づいた街の人々が通りや港、広場に出てきて、助かったイニスに声援を送っています。

「みなさん!ありがとう!」

 イニスも手を振って答えます。

 それにしても・・・と、イウベニスはリベルタを見て思いました。イニスを乗せたリベルタは何事もなかったかのように安定して翔んでいます。

 それにしてもリベルタが湖に落ちた時はキモつぶしたわ・・・さすが愛の力はすごいなあ。『お母さん』やもんなあ・・・で、結局おれ何しにきたんやろ・・・あ、リベルタが翔べるようになったってことはつまり・・・男爵にもらわれるのは・・・


 庭の一同もイニスが助かって仲良く二頭が翔ぶ姿を見て安心していました。

 ドクシスが口を開きます。

「ふう・・・一時はどうなるかと思いましたが、どうやらイニスは無事のようでございますな。これも皇帝陛下聖魔法の賜物・・・しかし、いったい、なぜこのようなゆゆしき事態になってしまったのか。わたくし、さっそく調べてまいります」

 と、足早に立ち去りました。

 伯爵はリベルタに騎乗したイニスを見ていて、ふと口に出てしまった言葉がありました。

「アクテ・・・」

 春の雪が溶けるように伯爵の心を思いが流れ出てきました。

 それが何かの・・・いえ、だれかの名前・・・それも大切なひとの・・・イニスに関係のある・・・どうして口に出てしまったのか・・・と、言うより、どうして今まで忘れてしまっていたのか・・・どうして今、思い出したのか・・・

 と、伯爵が考えていると男爵が声をかけました。

「マジェスタス卿。ここからながめても美しい銀翔馬とわかります。あれが例の?」

 ふうと息を吐いて伯爵が答えました。

「そうです」

「無事、翔べるようになったわけですね。おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「それでは、失礼ながら、あの翔馬をおゆずりいただくことはできますか?」

「それはできません」

 その言葉におどろいて男爵とプリタスは一瞬、目を合わせました。

 男爵が言いました。

「マジェスタス卿。わたしたちが、あの翔馬を所有したいと申したのは虚栄心からではありません。あの翔馬、銀色にかがやく、あの翔馬は将来、クラルスの希望となるのです」

 こぶしをにぎって男爵は力説しました。

「クラルス人には心から信じる言い伝えがあります。古来、クラルスの地に降りたった牡の銀翔馬と、そこに住んでいた雌の銀浪がむすばれ、生まれたのが銀髪のクラルス人だと。貧しい生活の中でクラルス人は、この銀髪と言い伝えだけをほこりにして生きてきました。わたしがクラルスを治めることができるようになったのは、マジェスタス卿をはじめラクスの人びとのご援助であることはまちがいありませんが、この聖なる銀翔馬と銀浪の導きであると彼らは信じております。ですから、わたしが銀翔馬リベルタを所有することは彼らの心をひとつにして貧しさから抜けだせる希望となるのです」

 ジッと見つめて男爵の話を聞いていた伯爵がゆっくりと口を開きました。

「なるほど、クラルス人にとってリベルタは言い伝えの銀翔馬とかぶさって見え、心をひとつにするのに効果的でしょう。しかし、リベルタはおゆずりできません」

 プリタスが割って入ります。

「ご無礼を承知で申し上げます。ご自分の持ち翔馬なら快くゆずられると、マジェスタス卿はおっしゃったそうですが、それはまちがいでしたでしょうか?」

「いいえ。まちがいではありません」

「それでは、なぜリベルタはおゆずりいただけないと?やはりマジェスタス卿も、リベルタが伝説の翔馬の転生身と信じておられ、翔べないならまだしも、今、翔べるのを見て、ゆずるのを惜しくなられたのではありませんか?」

「失礼しました。どうやら誤解を招くような発言をしたようです。翔べる、翔べないにかかわらず、または伝説の翔馬の転生身であっても、なくても、アンビティオス卿がお望みであるなら、快くおゆずりしたでしょう。リベルタが、わたしの持ち翔馬であったならの場合ですが」

 また、ふたりが目を合わせます。そしてプリタスが聞きました。

「マジェスタス卿・・・それはどういった意味でしょうか?」

「あのリベルタは、今、その背中に乗っている少女、イニスの持ち翔馬なのです」

 ふたりの言葉がとだえます。

「リベルタの母翔馬が二個の卵を産み、一個をすてた時、イニスは『卵を自分にゆずってほしい』と言いました。そして、わたしは彼女に卵をゆずり、卵から生まれた翔馬を彼女の持ち翔馬になるよう手続きをしたのです」

 伯爵は上着の内ポケットから、ていねいに三つ折りされた紙を出し男爵に渡しました。

「リベルタの登録証です」

 男爵が広げると、厚い紙にリベルタと母翔馬、父翔馬の名が書かれていました。そして所有者の欄には『イニス・アテルナ』の名がありました。

「・・・・」

 ふたりの言葉が消えました。

「アンビティオス卿。プリタスどの。彼女からリベルタをうばうことは、おふたりのご希望ではないでしょう。いくら金を積まれても彼女はリベルタを手放さないでしょうし。ほら、リベルタと一緒に翔ぶ、もう一頭をごらんなさい。あれはリベルタの兄弟のヴェロックスです。あの青翔馬をアンビティオス卿におゆずりしましょう」

 登録証をたたみ、伯爵に返すと、しぶしぶ男爵とプリタスは頭を下げました。

「ありがとうございます・・・」

「あの青翔馬も、なかなか良い翔馬ですよ。しかし、こんなことを申し上げるのは騎手であるプリタスどのに失礼ですが、翔馬は所有するだけでは力にはなりません。翔馬は翔び競いあう運命を持っています。彼らは健気です。レースで勝ち、天馬カエラウスにまで階級を上げたとしても彼らには見返りはありません。所有者、調教師、騎手には賞金、名誉、称賛と大きな見返りがありますが、彼らには何もないのです。それなのにだれよりも速く翔ぼうとする。そのレースに挑む姿に人びとは胸をうたれ、彼らのように自分たちもがんばろうと思うのです。その時、翔馬は人びとの力になるのです。見てください。あの二頭を」

 三人が湖へと視線を移すと、銀色の翔馬と青い翔馬が湖上を翔んでいました。たがいに前へ、前へと競いあい、楽しんで翔んでいます。その美しい光景が全ての答えでした。

「この秋に、わたしが主催するルビオ・ベリー収穫祭レースを、ここラクスにて開きます。わたしは、それにリベルタを出すつもりです。アンビティオス卿もヴェロックスを出していただきたい。そうすればクラルスの人びともレースを楽しめるではありませんか。ヴェロックスが活躍する姿は彼らの力になるとは思いませんか?アンビティオス卿」

「まさにマジェスタス卿のおっしゃる通りです」

 最高の笑顔で伯爵は手を出しました。

「それではアンビティオス卿、プリタスどの。了承握手の儀をいただけますかな」

「つつしんで」

「同じく」

 三人は、かたい握手をかわしました。

「ちかしきこころむつまじく」


 アクテ!アクテ!アクテ!・・・

 街の人たちがコールしています。それは最初、小さなものだったのですが、いつの間にか大合唱になっていました。まるで街のひとたち全員が順々に思い出していったようでした。

「え?なんで?なんで、みんな、わたしを見て『アクテ』って呼ぶの?」

「さあ、なんでやろ?」

 そう疑問に思ったふたりでしたが、着陸して、ふたりの姿が見えなくなると自然とコールも消えたのでした。


 ドクシスに湖から助け上げられた、ずぶぬれの少女は泣いていました。自分の浅はかな行動で大切な親友をなくすところだったという罪の意識で泣き、イニスが助かったことの安堵とで、さらに泣いていたのです。

 厩舎広場に着陸したリベルタからイニスが降り立ったとたん、ソムニが抱きつき、号泣しました。時どき「ごめんね」「ごめんね」と言うのですが、むせいでいて何と言っているのかわかりません。自分より大きいソムニを母親のように背中をやさしくなでながら、イニスはささやきました。

「いいのよ。ね。ソムニ。なんともなかったんだから。それより、ね。リベルタが翔んだのよ。すごいでしょ?ソムニのおかげよ。ね?さ、早くお屋敷に帰って、ぬれた服を着がえなきゃ。ね?天然呪いにかかるわ」

 客を招いて伯爵がやってきました。スッとドクシスが近づき、耳元に報告します。自分の娘の過ちとわかった時の伯爵の表情は、ふだん見たことのないほど真剣なものになりました。ドクシスが「お手柔らかに」と小さく言いました。

 伯爵は客に「少し時間をいただけますか?」と言うと、ソムニを呼びました。

「ソムニ」

 伯爵の前に立ったソムニは幼い子どものようでした。見つめる父親の目をまともに見られません。イニス、イウベニス、ラボロリス、そして助手たちは息をつけずに見ていました。

「ソムニ。魔法筆をかしなさい」

 と、伯爵が言うと、ソムニはケースに入った魔法筆を渡しました。

「これは、当分あずかっておくから。ソムニ、イニスにボロアの魔法をかけたのはソムニだね?」

 ソムニが泣きながらうなずきます。

「ボロアの魔法は、どこで知ったの?」

「・・・ア、アジステ、せ、先生の、ほ、ほん・・・」

「アジステ先生の本を盗み見したの?」

 コクリとうなずくソムニ。

「ソムニはボロアの魔法は非常に危険で、ひとにかけてはいけないと法律で決まっているのを知っていたのかい?」

 またコクリとうなずきました。

「ボロアをかけると罪になると知っていて、イニスにかけたんだね?」

 次にうなずいた時、バチッ!とするどい音がして彼女は横にふっとんでいました。

「ソムニさま!」

 と、イニスがソムニを受け止めます。ソムニは頬を押さえて、また泣き声を上げました。

 伯爵は手のひらが痛む右手を後ろに組んで、ゆっくりと言いました。

「ソムニ。すぐに帰って服を着がえたら、そのまま部屋にもどって今日は食事ぬきでいなさい。そして明日から月ひとつの間、図書館に行き、朝から夕まで帝国律法三十巻の書き写しをしなさい。その間は三度の食事以外は何も食べてはいけない。わかったかい?ソムニ」

 泣きながらソムニがうなずきました。

「イニス。悪いけど罰の月ひとつの間、ソムニには会えないよ。いいね?」

 ソムニを抱いたままイニスが訴えます。 

「伯爵さま!ソムニさまは、わたしがショウマノキの葉を楽にとれるようにとボロアをかけてくださったのです。わたしのためにしてくださったのです。ディプドラの息吸いが吹かなければ、あのようなことはおこらなかったのです。おゆるしください!伯爵さま!おゆるしを!」

「イニス。ソムニがきみの命を危険にさらした事をあやまるよ。でも、ソムニは自分のためにしてくれたことだ、とイニスは言いたいのだね。しかし、それは問題ではないのだよ。ソムニは罪を犯した。だからソムニは罰を受けなければいけないのだよ」

「でも、きびしすぎます!」

「きびしくはないよ。あ、イウベニスくん」

「え、はい」

「帝都では、ボロアを無断で他人にかけた場合、どんな罰を受けるかね?」

「ええと、帝都法やと、ひとにボロアをかけただけやと禁固二十ヶ年。相手がケガしたり死にかけたら流刑。死んだら死刑です」

「ね?ぜんぜんきびしくないだろう?」

 イニスは黙りこんでしまいました。

「そうやけど一言、ええですか?」

 と、イウベニスが前へ出ると、ラボロリスがそでをひいて「ばかたれ、よけいなこと言うでねえだ」と小さく言いました。けれども、それを無視してイウベニスは言いました。

「たしかにソムニさんはやったらあかんことをやった。罰はうけるべきやと思います。そうやけど、こないみんな見てる前でビンタしたりせんでもええんとちゃいますか?あとで呼んで罰を言うたらええんちゃいますか?ちょっと残酷なんとちゃいますか?」

「それはね。イウベニスくん」

 ふだんあまり見ない統治者として顔が伯爵に現れました。

「彼女は罪を認めている。罰を覚悟している。それならば、すぐに罰を与えなければいけない。それこそが彼女を救うのだよ。時間があけばあくほど逆に、その罪によって彼女は思いつめて精神的にも肉体的にも自分自身を痛めつけてしまう。その方こそが残酷だと思わないかい?」

「う・・・」

 イウベニスには言い返す言葉が見つかりません。

「罪を認めた者には罰を与える。それがぼくの仕事。幸い、ここ十何ヶ年も罰らしい罰を与えたことはないけどね。とても重要な、責任ある仕事なんだ。だから、するどく、すばやく、しっかりと努めなくてはいけない。いずれ、この仕事を継ぐソムニのためにもね」

「そ、そうですか。わかりました。けど、あとひとつ」

「なにかね?」

 ラボロリスがイウベニスの背中に「ええかげんにするだ。ばかたれが」とつぶやきました。

「せめて翔馬のおらんところでやってください。さっきのビンタでリベルタとヴェロックスがビビってます」

 一同が見ると、二頭はぴったり体をよりそって横目でこっちを見ていました。翼がプルプルとふるえています。

「ああ、これは悪かった。うっかりしていたよ。さ、ドクシス、ソムニを屋敷へ。ラボロリス、イウベニスくん、リベルタとヴェロックスをケアしてあげてくれたまえ。そしてアンビティオス卿、プリタスどの。おまたせしました。どうぞ、こちらへ。イニス、客人にごあいさつを」

 女中が持ってきたタオルをドクシスがソムニの肩にかけました。ようやく泣きやんだソムニは、もう一度イニスの耳元に「ごめんね」と言ったあと、ドクシスにつきそわれてトボトボと帰っていきました。

 イニスはリベルタが翔んだ喜びとソムニの悲しみとに体がふたつに引き裂かれそうな気持ちがしました。


 その日の内に、あらかじめ国都から招かれていた北国レース会理事の立ち会いでヴェロックスの登録証の書きかえが行なわれました。そして準備が整いしだい二、三日中にもヴェロックスは浮游船でクラルスに運ばれます。それまでの間、アンビティオス卿とプリタスはラクスに滞在することになりました。

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