長老サイエン
④ 長老サイエン
夏になりました。
風が変わって南からのかわいた風が蒼い木々をゆらしており、小さくかたいルビオ・ベリーの緑の実が葉のかげから見えかくれしはじめていました。天高くから日の光は、この北の地にも熱気をあたえ、日中、薄着で無くては過ごせなくなっていました。しかし、帝都などに比べれば、まだまだはるかに涼しいラクスは景色の美しさ、静けさとベリー酒のおいしさもあって帝国内外で有名な避暑地でもありました。各地から訪れた多くの貴族や富裕層平民たちが宿泊しており、町には活気がありました。
ラクスの翔馬たちは新しい騎手にも慣れ、各地のレースで成績を上げていました。子育てから解放されたセルタは、さっそく北国王主催レースで二着に入り、同じくアエスタスは西域貴族主催レースで三着、まだ経験の浅いアウラとイグニスは下級レースで着順を上げ、ポイントをかせいでいました。
そのころ、リベルタとヴェロックスは親たちと変わらない大きさに成長していました。翔馬の成長は普通の馬と比べて、とても早いのです。
ヴェロックスは群れに交じって朝の旋回運動に参加できるまで翔べるようになっていました。もうすぐ調教も始まります。
一方、リベルタといえば人間をこわがらなくなってはいましたが、まだ翔馬としての自覚は芽ばえておらず、群にまじってもいませんでした。体も翼も大きなリベルタが羊たちと一緒にゆっくりと草を食み、その上を翔ぶ翔馬の群れを見上げもしない・・・その光景を毎日、イニスは複雑な思いで見ていました。
わたし、最初リベルタは翔べなくてもいい・・・そう思っていたけど・・・翔べない翔馬じゃなくて、翔ばない翔馬を見ているのはつらい・・・だって、それは『怠け者』だから・・・
ラクスでは、呪いにかかった者やケガをした者、幼い者、老いた者以外はみんな、よく働き、よく学びます。それは強制されたものではなく、統治者の伯爵からして働き者でしたから自然、そういう空気になっていました。その中でも、きまじめなイニスのことでしたから、リベルタを『怠け者』と思ってしまうのは仕方のないことでした。
あのままだと、いつか伯爵さまはリベルタを『役に立たない翔馬は殺してしまえ!』とおっしゃるかもしれない・・・でも、おやさしい伯爵さまのこと、そんなことはおっしゃらないと思うけど・・・でも、売ってしまわれるかも・・・追い出してしまわれるかも・・・
そんな、あるはずもないことを堂々めぐりして考えてしまうのでした。
「ええか。イニス。リベルタも、いつか翔べるようになる。それまであせらずに見守ることや」
「はい・・・」
ある日の夕刻。
イニスとイウベニスはラクスの町を歩いていました。にぎやかな表とちがって、そこは行き交う人も少ない裏通り。ふたりの靴音が石畳から生まれて白壁に沈みます。
「お、ホノオバナや」
「え?」
と、イウベニスが見る方向に、イニスが見たことのない赤い大きな花が路肩に咲いていました。
「ほら、タイマツの炎が燃えてるように見えるやろ。あの花。そうやから『ホノオバナ』」
「あ、ほんと。そうですね」
「ひさしぶりに見たな。南国やったら、どこでも咲いてんねやけど。こっちでも咲いてんねや。よう咲いてる?」
「いえ、はじめて見ました」
「ああ、そうやな。このところどこでも気温が上がってるからなあ。それに浮游船があちこちから荷物を運んでくるから、たぶん荷物についとった種がここに落ちて、あたたかいから芽が出て花が咲いたんやろ。これからは、そんな植物や虫がふえるやろなあ。で、イニスは、どこに行くんところなん?」
「サイエンさまのところに羊を届けに行くところです」
イウベニスはイニスに引かれている羊を見ました。一頭だけの羊。つと地面を見つめて歩き、さみしげで、いつもの騒がしさは少しもありません。
「イウベニスさんは帰らなくていいんですか?」
「早よう帰っても下宿屋のおっちゃんが玄関んとこで酒ビンかかえて立っとって『おお、帰りなさったか。騎手どの。さあ、飲まっせ。飲まっせ』て、あがりこんでくるだけやから」
「じゃあ、そのおじさんが待ってるじゃありませんか」
「ええねん。おれでのうでも下宿人が帰ってきたら、あのおっさん『飲まっせ。飲まっせ』やってるんよ」
「そうなんですか。ふふふ・・・」
「そうなんや。あはは・・・」
イウベニスは長細いパンがはみ出した紙袋を持っています。買い物帰りに偶然、イニスに会い、リベルタの相談に乗っていたのでした。
「あの、イウベニスさん。魔法を使って翔ばす事はできないのですか?」
イウベニスは、歩調にあわせてゆれている羊の小さな翼をぼんやりと見て言いました。
「もう魔法はかかってるで」
「え?それってどういう・・・」
「翔馬の姿、形は普通の馬に翼をつけただけに見えるな。でも、別の生き物ってことは、きみもわかるやろ」
「はい。わかります。ぜんぜんちがいます」
「馬はお母ちゃんから生まれてくるけど、翔馬は卵やし、成長も早いし、牡の馬は子育てなんかせえへん。翔馬の夫婦はきづなが強い。体色もカラフルで、馬にくらべて翔馬はハデや。翔馬の寿命なんて馬の二倍から三倍あるもんな。人間と同じくらい生きる。そうやけどな」
「はい?」
「ほんまは同じ生き物やねん」
「え?」
「なあ、ここの羊って、まだ翼が残ってんねやんな」
そう言われてイニスはつれている羊の翼を見ました。小さくて何かキノコの仲間のようです。
「他のところの羊は翼はないんですか?」
「うん、ないなあ。おれの故郷の南国には羊はおらんのやけど、帝都の周辺や遠征で行った東国、西国には羊はおった。けど翼は無かった。たぶん、ここの羊は原種に近いねんな」
「原種?あ、さっき、イウベニスさん。『翼が残っている』って言ってましたね。じゃあ、昔はどこの羊も翼があったんですか?」
「ああ、あったんや。それだけやない。普通の馬も犬も猫も全部の動物に翼があったんや。人間にも」
「人間にも!」
「そうや。今は翔馬にしか翼は残ってへん。あ、鳥やコウモリにも翼はあるけど、あれは背中の翼が無くなってから、今度は前足が翼になったんや」
「へえ!」
「なんで翔馬しか翼が残ってないのか、まだ今わからんけど。これだけは言える。翔馬は魔法で翔べるんや。人間の知恵や知識からできた『科学魔法』とはちがう。言うなれば『天然魔法』や」
「魔法・・・」
「魔法でなかったらおかしいねん。翔馬に翼はあるけど、その翼を動かす筋肉はまったくないんやから」
「え!ほんとうですか!」
「ほんまや。脚や首、しっぽを動かす筋肉はある。それって普通の馬とおんなじや。あの翼は、その羊とおんなじ単なる飾りで実際は翔ぶどころかパタとも動かせんはずなんや」
「じゃ、魔法で?」
「そうや。翔馬は天然魔法で翼を動かして翔ぶ。ただ、空を翔びたいという念だけで翔ぶんや」
「じゃ!じゃ!イウベニスさん!リベルタも翔びたいと思えば翔べるんですね!」
「翔べる。けど・・・」
「けど・・・翔びたいと思わせるのがたいへんなのですね・・・」
「うーん、あんがい簡単なきっかけで、そうなるかもしれん。そうやから、あせらずリベルタを見守ってやるんや」
「はい、わかりました」
「うん。イニスは素直でええな」
『イニスは素直でいい』・・・そんな言葉を、こんなふたりっきりの状況で言われるとイニスは恥ずかしくて逃げ出したくなります。でも、もっと言ってほしいとも思いますし、そんな自分がよくわからなくなります。だから、イニスは別の話題をさがしました。
「あの、イウベニスさん」
「うん?」
「初めて会った時に言ってたじゃないですか」
「おれが?なんて?」
「あの・・・リベルタが伝説の天馬の転生身だって・・・あれ、どういう意味ですか?」
イウベニスが『きみに会いにきた』とも言ったことはイニスは言えませんでした。
イウベニスは夕日を見つめて言いました。
「うーん・・・なんや、ちょっと恥ずかしいこと口走ってしもうたなあ」
「そうなんですか・・・じゃ、いいです・・・」
「あ、ええねん。ええねん。『伝説の天馬』言うんは最初の天馬のトラビティオのことやねん。五百ヶ年くらい前の翔馬やねんけど、むっちゃ速かったらしい。レヴュー戦から全戦全勝、上級レースを総なめにした。それから姿形が、めっちゃ美しかったらしい。当時の男だけやなく女性たちも虜になった。翔馬が人間のアイドルになったんやで。信じられんやろ。で、トラビティオは文句無しの天馬第一号になったんや。それからイニス、昔から賢者や勇者は死んでも何度も転生して世界を救うって伝説、きみ聞いたことあるやろ?」
「あ、はい。この前、読んだ本も、そんな内容でした」
「翔馬にも転生伝説があるって信じられてて、トラビティオの死後、その転生身やて言う翔馬が、あちこちから出てきた。まあ、ほとんどがインチキやと思うんやけど、そこから天馬が四頭も出てるしな。まんざらって気ぃもせん。そうやけど、どの翔馬もトラビティオのレベルでは無かった。トラビティオの美しさ、速さは完璧やったからな。それはみんな思てるらしくて、今でも、うちとこの翔馬が真のトラビティオの転生身やて看板あげてる貴族が多いねや」
「そうなんですか・・・だから、伯爵さまはイヤな顔をされたんだ・・・え?じゃあ、なんで、うちのリベルタが、その翔馬の転生身だってイウベニスさんは思うのですか?」
「すべての条件が合うてるからや」
「条件?」
イウベニスの心地よい話しぶりにイニスは彼の横顔を見つめたままです。
「帝都レース会記録には、トラビティオのことをこう書いてある。『体毛、羽毛は銀色。たてがみと尾は光があたると虹色に輝く。北方辺境の地に生まれ、火山と湖のほとりで育つ。母翔馬は二個の卵を産み、一個を捨てる。その卵を人間の少女が、ふ化させ、育てる』。な、そっくりやろ?」
イニスは答えられませんでした。自分を観察して記録されたようで。
「このラクスに、そんな翔馬が生まれたって聞いた時、おれはピピンときた。これはホンモノや、て。他のひとらは、ええように話を作ったニセモノや、て言うんやけどな。おれは絶対ちがうと思たんや。そうやから、ここに来た。伝説の翔馬の転生身と、その育ての母に会いに来たんや」
会いに来た・・・それがとても恥ずかしかったのです。羊を彼に渡して走って家に帰りたいくらい。でも、イニスは思春期の娘ではありましたが、与えられた仕事は確実にこなすプロでもありました。とにかく気持ちを落ちつかせるために、いつものように呼吸をゆっくり吸って吐いてから言葉を出しました。
「・・・でも、イウベニスさん。なんでも知ってるんですね。帝都の騎手さんって皆さん、そうなんですか?」
「おれぐらいやろな。おれは知りたがりやから。翔馬って生き物をもっと知りたいと思てるだけや」
「じゃ、イウベニスさん。サイエンさまに会われるといいと思いますよ。あの方は、とても物知りな方ですから」
「へえ。そんなひとがおるんや。そのひと、長老?」
「長老って、すごく長生きしてるひとのことですか?」
「え?そうやけど」
「じゃあ、そうです。サイエンさまは長老です」
「おお、やっぱり、どこにでも長老っておんねんなあ。話し聞いてみたいなあ」
「じゃあ、これから一緒に行きませんか。サイエンさまもおよろこびになると思いますよ」
「そうやな。じゃまやなかったら行かせてもらおかな」
「じゃまなんかじゃないですよ」
イニスはイウベニスに聞いてみたいことがあったのを思い出しました。
「イウベニスさんは遠征であちこちに行ってるんですよね?帝国内は全国、行きました?」
「まあ、東西南北の主要四国は行ったで」
「すごい!なにかお話、聞かせてください!」
「え?お話?」
「なんでもいいんです!見たことや聞いたこと!なんでも!」
「そうやなあ。そう急に言われても・・・」
「あ、ごめんなさい。ご、ご迷惑ならいいんです・・・」
「いや、迷惑てゆうか、ちょっとびっくりしただけ・・・あ、これはどうやろ。西国に行った時、海の上を翔ぶレースに出たんや。そらきれいな海やったで。青いというか緑ぽい海で、水が透明で底まで見えるくらいや。ふと下を見たら人魚の群れが泳いどってな、おれらに合わせて向こうも泳いでた。翔馬と同じスピードやからかなり早い。それやのにあっちは遊んどってな、バシャバシャ飛び跳ねて、そのたんびにケラケラ笑いながら手をふるねんや。おもろかったで」
「すごい!わたし海を見たことないんです!どんな感じですか?やっぱり湖より広いんですよね?」
「それはまあな。湖は陸で囲んでるん見えるけど、海は向こう岸が見えん。どんなに翔んでも見えん。いつまでたっても水、水、水、水だけ。それが海や」
「すごい!じゃあ、あれですか!海って」
「海って?」
「やっぱりしょっぱいんですか?」
イウベニスはクスリと笑って答えました。
「うん、しょっぱいで」
「そうなんだあ・・・やっぱりしょっぱいんだあ・・・いいなあ・・・わたしも見てみたいなあ・・・海・・・」
ひとりほほ笑んで歩くイニスをイウベニスは横から見ていました。
その目には想像する海が見えているのでしょうか。
その海は自分が思い出す海とどんなにちがうのでしょうか。
そんなふうに思いながらイウベニスは前を見ました。
「イニスは、ここから出たことないんやったっけ?」
「そうです。ラクスから出たことありません」
「そうなんや・・・」
「イウベニスさん」
「ん?」
「世界って広いんですか?」
「うん、世界は広いで」
「そうですか・・・やっぱり世界は広いんですか・・・わたし見てみたいな・・・」
「イニス・・・」
『世界は広い』その言葉をイニスは奥歯で噛みしめました。
そうするとなんだかしょっぱい味がしました。
もしかして海もこんな味なのだろうか?
でも、でも、なんだか楽しい・・・
イニスはイウベニスと、ずっと話していたい、と思いました。自分の知らないこと、気づいていなかったことを教えてくれるひとはイニスにとって大切なひとでしたから。
ふと見るとガラス玉飛ばしをしていた男の子たちが手を止めて、こちらを見ながらヒソヒソと話し合っています。その中にプエルもいました。プエルはくちびるをかみしめて、こちらをにらんでいました。
イニスは前を向いてフウと息をはきました。
・・・あーあ、男の子たちに見つかってしまったわ。あの子たちが何を話しているのかわかってる。若い男性とふたりで歩いているってだけで、つきあってる、できてる、とかバカバカしいことを言ってるにきまってるんだから。あーあ、明日の午後学校、行くのいやだな・・・
「イニス!」
ふりかえるとプエルが怒った顔で立っていました。それを見てイニスは少しひるみました。
「な、なに?プエル」
「サイエンさまのところに行くのかよ!」
「そうよ」
「そいつもか?」
「失礼よ。プエル。このひとは騎手のイウベニスさんよ」
「よう。少年。元気に遊んどるな」
「知ってら!騎手だなんて知ってら!だって毎日、厩舎の前を通ってガチョウの世話に行ってんだかんな!」
「えらいなあ。少年。働き者や」
「へん!六ヶ歳から、ずっとやってんだかんな!途中でいやになってやめたことなんて一度もないんだからな!」
「それは立派やな」
「どうだ!すごいだろ!」
「うん。すごい」
プエルは何を言ってるのかしら・・・でも、イウベニスさんが来てから最近は、ちゃんとガチョウの世話をするようになったような気がするけど・・・今日のプエル、なんかへん・・・
と、いきなりプエルは何も言わずイニスを道の端までひっぱりました。つられて羊がメエと小さく鳴きます。
イウベニスは口の中で、「おいおい若いのう。少年・・・」と、つぶやきました。
「なによ?プエル」
「イニス。サイエンさまにあいつを会わせるんだな?」
「そうよ。サイエンさま、物知りだから、お話しを聞きに行くの」
「じゃあさ、あいつにサイエンさまがどんなか話したか?」
「え?どんなかって?」
「話してないならいいんだ。いいか。イニス。サイエンさまがどんなか、ぜったい、あいつに話すなよ!ぜったいだぞ!」
イニスにはプエルが言ってることがさっぱりわかりません。
サイエンさまがどんなかってどういうことだろう・・・
けれども、この年ごろによくあることでしたが、男の子にわかる重要なことが女の子には道の小石のように気づかないことがあります。この時もそうでした。けれども実際は、その逆の方が何倍も多いのですが。
「ぜったいだぞ!」
と、言いすてると、プエルはイウベニスをにらんで「ヘヘ」と笑い、仲間のところへ走っていきました。
「もう、なんなのかしら。プエルは」
「まあ、あのくらいの男の子には、いろいろ複雑な思いがあるんや。おれにもおぼえがある。うん」
プエルに、そんなに複雑な思いなんてあるとは思えないけど、ハア・・・とにかく男の子ってメンドクサイ・・・とイニスは思いました。
ドウドウドウ・・・
町の東はずれに来ると、その音でいっぱいになってきました。
「なんや?あの音」
建物が突然無くなりました。空間をへだてた向こうには緑の木々があります。そして手前には手すり。近づいて手をかけると真下に輝くしぶきを無数に発散する激流がありました。
「川や!」
「イウベニスさん」
顔を上げ、イニスが指さす方を見ると、さらなるラクスの美しい光景がありました。それに心をうばわれた者は単純な言葉しか思い浮かびません。
「滝や!」
夕焼けに赤く染まった一条の滝がありました。長い体を持つ生き物が、その身を下へと垂らすように最初、ゆるやかだった水がねじれ、裂き、割れて、散り、しぶいて滝つぼへ、ドウドウと轟音となって死に、滝は、さらなる川という名の生き物に生まれ直していました。
「『サーペンの滝』です。その下は『コルベルの川』」
滝の前には石造りの重厚な橋がかかっていました。滝つぼから吹き上げるかすみと、そこから生まれる虹とで、おぼろげに見え、まるで橋の幽霊かと思えるくらいでした。この滝と橋の美しいコントラストを夢に見れば、何か潜在意識の表れかと思うことでしょう。
「これは・・・」
そこでイウベニスの言葉がとぎれてしまいました。口をポカッと開けて、滝を見入っています。いえ、滝に魅入らているようでした。
滝は湖から流れ落ちていました。滝の向こうに広い水面が見えています。けれども、その静けさはこちらの激しさを何も知らないふうでした。
滝の左側、ふたりが立っている側は石とレンガと木と漆喰の町。左側は緑色が目に痛いほど美しい常緑樹の林となっていました。そして、そこには一軒だけの石組みの建物がありました。
それは古い要塞か山城に見えます。雨の流れた跡と黒っぽいコケ、そのよごれが永い年月を感じさせます。建物と橋は同時に造られたらしく同じ石材でした。橋は、その建物に行くためだけに造られたのだとわかります。
「さあ、イウベニスさん。行きましょう。サイエンさまがお待ちです」
「う、うん・・・」
ふたりと一頭は橋を渡りました。橋はしっとりとぬれ、涼しく、暑気を忘れさせてくれます。よほど古くから馬車が通ったのでしょう。二条のわだちが深く石をけずり、橋の歴史を感じさせます。
橋から見る滝は、先ほどより近づいたぶんだけ迫力を増し、視野に人工物が無くなり、イウベニスには滝が現実感を持って、そこに居座っている感じがしました。
橋を渡ると、すぐ間近に両開きの扉がありました。そのまま馬車も通れる大きな木の扉。イニスは羊のロープを持ったまま、扉の持ち手を手前に引きました。
思わずイウベニスが手を伸ばします。
「あ、手伝おか?」
「あ、いつもひとりですから」
と、難なく扉はギギギと眠そうな音を出して開きました。
中は暗く湿気があり、一種のカビが出す独特な苦い臭いが漂ってきます。それをかいだイウベニスは嫌な予感がして足を止めました。羊を引いてイニスが入ります。
「あ、じゃ、イウベニスさん。扉をしめてください。逃げますから」
「あ、うん・・・」
逃げる?なにが?羊が?中のものが?もしかして、おれが?
時どき、イニスは言葉がたりへんなあ、とイウベニスは思いながら扉をしめました。またギギギと扉は眠りにもどります。閉まりきってしまう間に慣れた手つきでイニスは火起し器で火花を出し、ロウソクに火をつけました。
扉を完全にしめきると外の光とともに滝の音も消えてしまいました。それは魔法でもかかっているのかと思うくらいのまったくの静けさでした。ふわりとした湿気と温度。部屋の中は広く、ロウソクの光は奥の闇までは届きません。光に照らされて闇の中に何か水瓶らしい物が並んでいるのがわかります。その大きさは、ひとが入れるほど大きく、数もたくさんあるようでした。
スウと息を吸い、イニスは闇に向かって声を上げました。
「サイエンさま!羊をお届けにあがりました!」
イウベニスの中に疑問の渦が巻き上がります。
なんや?このおかしな状況は?ここに住んでるらしいサイエンってどんなヤツや?それもこんなとこにひとりで?それから羊をどうする気や?
ロウソクを持ち、羊をつれて闇の中へと歩いていくイニスに恐怖は感じられません。羊はさみしげに「メエ」と鳴きました。その後からイウベニスが続きます。
「サイエンさま!」
部屋の中央を通路にして左右に水瓶が三段に重ねられて並んでいました。水瓶は布でおおうようにキッチリとフタがされ、横には双頭の竜のレリーフがありました。そして年月日が書いてあります。どうやら奥に行くほど古いようでした。
「サイエンさま!羊です!」
「イニス。この水瓶、なんや?」
と言おうとした時、イウベニスは背後に冷たい風を感じました。扉が閉まっているはずなのに風が後頭部にだけ当たります。なんや?と振りかえろうとして目の端にチロチロと見えたりかくれたりする物を見ました。それは先が割れていて細長く、ロウソクの光にテラテラと赤く光っていました。
イウベニスは言い知れぬ恐怖を背中から浴びて身動きができなくなりました。手足がふるえ、息が荒くなり、口の中がかわき、息を飲みます。
「ゴクッ・・・」
「あら、おかしいわ。サイエンさま。眠っていらっしゃるのかしら?」
ゆっくりとイウベニスは振りかえりました。思わず、息ともつかない声がもれます。
「ふ、ふわあ・・・」
まず、目がありました。水晶玉ほどの大きなふたつの目。たてに細長い瞳が鈍く光っています。その下に閉じられた口は横に大きく、そこからチロチロと先の割れた舌が出たり入ったりしていました。太い胴回りは、その横の水瓶よりもあるでしょうか。うろこにおおわれた長い体は曲がりくねって闇の中までのび、先がわかりません。そして、その体には足はありませんでした。
「へ、へ、へ・・・」
イウベニスは、それを見つめたまま、笑っているように「へ、へ、へ・・・」だけを言い、手だけでフラフラとイニスをさがしました。
「あ、サイエンさま」
と前に出て、それに平気で近よるイニスを信じられない思いでイウベニスは見ました。
「ヘビやあ!」
イウベニスが部屋の奥へと走りました。紙袋は投げ出され、長パンが水瓶に当たってポキリとおれました。
「イウベニスさん?」
イニスは闇の中でイウベニスが、さけび、ころび、あわてている音を聞きました。
「イウベニスさん!どうしたんですか?」
めずらしいものを見るように大蛇は首をかしげ、口を開けずに喉を鳴らして太い声を出しました。
「イニス嬢や。あのさわがしい男の赤ん坊はなんだい?」
「サイエンさま。あのひとは新しい騎手のイウベニスさんです」
「ふうむ、なるほど。どうりで、あの赤ん坊から翔馬のにおいがするわけだ。しかもさかんに翔んだ翔馬が二頭。牡と牝が一頭ずつだな」
「あ、そうです。すごい。さすがサイエンさまですね。イウベニスさん、さっきアウラとイグニスに乗って調教してました」
「しかし、イニス嬢やに言われるまで騎手とは気づかなかった。わたしも歳をとったものだよ」
「サイエンさま。羊を」
「ふうむ、もう月ひとつたったんだね。早いものだ。羊は、そのへんに放しておいてくれるかい。あとでいただくとしよう」
「はい。わかりました」
「メエ・・・」
イニスと大蛇が親しげに会話しているのを見て、イウベニスは水瓶のかげから声をかけました。
「イニス・・・」
「イウベニスさん。どうしたんですか?」
「え・・・と、そのヘビ・・・だいじょうぶなん?」
「え?ヘビ?・・・あ、そっか」
と、イニスはやっと合点がいったふうで口に手を当てて楽しそうに笑い出しました。
「うふふ、うふふふふ」
「なにを笑っているんだい?イニス嬢や」
「うふふふ・・・わたし今、気づいたんです。もうわたしっておっちょこちょい」
「なにを気づいたのだね?」
「さっきプエルが言ってたんです。イウベニスさんに『サイエンさまがどんなか言うな』って。そうですよね。サイエンさま、ヘビだったんですよね。ヘビを苦手なひともいますものね。プエルはイウベニスさんをおどろかそうとイタズラをしたんです。わたし、サイエンさまがヘビだって、すっかり忘れてました。うふふふふふ」
「ははは、そういえば、わたしもイニス嬢やが人間だと、今、思い出したよ。人間を苦手なヘビもいるのに」
「え?そうなんですか?意外にサイエンさまも、わたしに似て、おっちょこちょいですね」
いや、それはきみだけやから・・・と、イウベニスは思いました。
老齢の賢蛇と若き騎手は早速うちとけ、冗談を言えるようになっていました。
「握手の礼は遠慮させてもらうよ。しかし誤解しないでもらいたい。きみを敬遠しているわけではないのだ。見ての通り、わたしには手が無いからね」
のサイエンの言葉にイウベニスが、
「ああ、よかった。けど誤解せんといてくださいね。おれも敬遠しているわけやないんですけどサイエンさんが近づいたら体が勝手に逃げようとするんです」
と、言うと三人は楽しく笑いました。
イニスとイウベニスは木桶を逆さにして座りました。とぐろを巻いたサイエンは鎌首をもたげて、ふたりと話をしました。
水瓶の中身は、すべて熟成中のベリー酒でした。ここはラクスのベリー酒貯蔵庫。ここの主であるサイエンは熟成を助ける天然魔法を持っており、体を水瓶にこすりつけて味の良いベリー酒を造っていました。
「あ、そうやから、ラクス紋章のデザインって大蛇が双頭竜を囲んでる絵なんですか」
と、イウベニスが言うと大蛇は大きな頭でうなづきました。
サイエンは月に一度、羊を一頭、丸のみにします。イニスの羊は、この食事のためだけに飼われていました。月の初めの日にイニスがつれてきます。そしてイニスが帰った後、羊を食べるのです。それを聞いて、イウベニスが「なんや羊がかわいそうやな」と言うと、イニスは、まっすぐな目をして言いました。
「かわいそうなんかじゃありません。これは羊たちにとって一生に一度の、とっても大切なお役目なんです。だから、わたしは心をこめて羊たちの世話をしています。そして、ここに来る時、ちゃんときれいにブラシをかけてあげて、目を見て言い聞かせてから来るのです。みんな納得して、ここに来てくれます。この子だって。ね?そうでしょ?」
と、羊をなでます。
羊は目を細めて、イニスの問いに答えるように小さく「メエ」と鳴きました。
『そしたらなんで逃げるから扉しめろって言うたんや』とイウベニスは聞こうとしましたが、やめました。これまでにイニスは、ここに何十頭と羊をつれてきたのです。そこには相当深い思いがあるはず。さきほど話したイニスの言葉は真実でしょうが、そう思いたいと言うのもあるのでしょう。
「まあ、おれも羊、食べるしな。南国おった時は豚、よう食べた。丸のみはせえへんけどな。もしかしたら月ひとつに一頭以上は食べとるかもしれん。ひとのこと、あ、ちごた、ヘビのことは言えんわな」
「はははは・・・この男の赤ん坊はおもしろいな」
サイエンはマブタを上下から出して目を細め、口を閉じたままで喉から笑い声を出しました。笑うヘビなど見たことのないイウベニスは、とてもヘンな気分でした。
「失礼ですけど、サイエンさん。おれの名前はイウベニス言います。男の赤ん坊やないんです」
「ふうむ、これは失礼した。しかし、わたしにとって人間は、みんな赤ん坊でね。つい、そう呼んでしまうのだよ。おまえさんの名はおぼえたよ。イウベニス坊や」
「赤ん坊の次は『坊や』って」
「サイエンさまは七百ヶ歳なんです。そうですよね。サイエンさま」
と、イニスが自分のことのように自慢げに言いました。
「な!七百ヶ歳!帝国の歴史より長いやないですか!」
「ふうむ。七百は越えていると思うが、実際、ほんとうの年齢は、よくおぼえていないのだよ。だが、この年齢から見れば、みんな赤ん坊に見えてもおかしくはないだろう?」
「ま、そう言われてみれば」
「だから、ふふふ。伯爵さまもドクシスさんもサイエンさまには坊やなんですよね」
「そうだとも。マジェスタス坊やが、ほんとうの坊やだった時、湖に落ちておぼれそうになったのもおぼえているし、ドクシス坊やが、夢遊の天然呪いにかかって行方不明になったのも、つい数日前のようだよ。あの時は領民総出でさがしまわった。結局、湖の向こうの湿地にうずくまっているのを、わたしが見つけたのだよ」
「へえ、すごいですねえ。サイエンさんが湖を泳いでドクシス坊やをさがしてるところ想像しただけで迫力ありますね」
「え?サイエンさま。ここから出て行かれたのですか?ちがいますよね?」
この仕事を与えられた時からイニスはサイエンと、この暗闇の中でしか会ったことが無かったのです。
「いやいや。わたしはここから一歩でも出たら死んでしまうのだよ。足も無いのに一歩とはおかしいがね。ははは。この大きな体は、ちょっとした温度変化が命とりなんだよ。この中の温度は年中、安定しているからね。それにわたしは目が悪い。おまえさんたちふたりもおぼろげにしか見えないのだよ。外に出たら、あちこちぶつかってたいへんだ。手も足も出ない。ははは」
と、サイエンは舌をチロと出して言いました。
「そのかわり、この自慢の舌は味こそ感じないが、においを感じることにすぐれているのだよ。イニスも知っているとおり、ここの二階がわたしの寝床になっていて、空気を入れる小さな穴がいくつか開いている。そこから、この舌をチョロチョロと出すと、外のにおいを感じて、遠くのできごとまでわかるのだよ。その時は火山からの吹きおろしの風に乗ってきたドクシス坊やのにおいを感じたのだよ。しかし、最近は舌を出していなかったからなあ。イウベニス坊やのにおいは知らなかったよ」
「そうやったら、おれのにおい、ようおぼえておいてくださいね。けど、さっき、市場でニンニクの塩漬け、ぎょうさん味見したからなあ。相当くさいと思いますよ」
「まあ、いやだ。イウベニスさんたら!」
「ふうむ。たしかに相当くさい」
「まあ、サイエンさまも!」
と、また三人は笑いました。
「それで、イウベニス坊や。わたしに何か聞きたいことがあるのではなかったかね」
「あ、そうや・・・そしたら、ひとつ聞かせてください」
と、イウベニスはまじめな顔になってサイエンに言いました。
「リベルタは伝説の天馬の転生身やて信じてええんですか?」
思いもせず、リベルタの話題が出てきたので、驚いたイニスは目を丸くしてイウベニスを見ました。けれどもイウベニスはキッとサイエンを見つめたままでした。
「ふうむ・・・」
と、サイエンは目を細めました。それは先ほどの笑っている時とはちがう細め方でした。
「どちらだね?」
「え?」
どちら?と言うのは予想しない言葉でした。イウベニスの思考が一瞬止まります。
「どちらって・・・」
「伝説の天馬とは、どちらの天馬のことを言っているのだね」
「え?二頭いるんですか?」
「そうだよ」
「あ、え、どちらと言われても、伝説の天馬って、最初の天馬(カエラウス『トラビティオ』のことやないんですか?もう一頭、おるんですか?」
「ああ、いるな」
「おお!こらすごい!もう一頭!さすがサイエンさん!七百ヶ歳はダテやないですね!」
イウベニスは興奮して、こぶしをにぎりました。イニスも、思わずエプロンの上で両手をにぎります。
「そ!それは何ですか?」
「『ペガサス』だよ」
「『ペガサス』・・・」
そう同時に言ったとたんにふたりが固まってしまいました。一瞬の間、人形にでもなってしまったかのように目も見開かれて動かなくなりました。そしてゆっくりと互いの目を見ます。興奮がしぼんで桶に座ったイウベニスが頭をかきながら言いました。
「ええと・・・それって何ですか?翔馬の名前ですか?階級の名前?それとも所有してる貴族の名前?」
「『ペガサス』は『ペガサス』だよ。それ以上でも、それ以下でも無い」
それを聞いたイウベニスの目が、ひ弱にキョトキョトとさまよいます。
「へえ・・・そうなんですか・・・じゃあ、おれ、失礼しようかなあ。サイエンさんの食事のジャマしたら悪いし。なんせ月に一度ですからね。イニスは?」
「あ、わたしも行きます。では、サイエンさま。失礼します」
ふたりは、そそくさと立ち上がって帰りじたくをしはじめました。イウベニスは紙袋をかかえ、イニスは羊に別れの口づけをします。
「じゃあ、行くわね・・・」
「メエ・・・」
「さようなら・・・サイエンさま・・・」
「ああ、さようなら・・・」
いきなり態度が冷え、足早に立ち去るふたりをサイエンは疑問にも思わずに目を細めて見送りました。
「ふうむ・・・さすがに七百ヶ年たっても『ペガサス』が自分の名にかけた呪いは絶大だな・・・この名を口にした人間は誰でもああなる。そしてすぐに忘れてしまうのだ。その名を聞いたことさえ永遠に・・・ふうむ、なんと恐ろしい呪いだろう・・・」
その夜、羊小屋の奥でリベルタは夢を見ました。
リベルタはワラの上に毛布を敷いて寝ていました。この毛布はイニスが使っていたもので彼が安心するだろう、と敷いてくれたのです。
たいていの陸の馬は立って眠りますが、翔馬はうずくまり、翼で体をおおって眠ります。鳥と同じような眠り方です。リベルタも翼の下に鼻をつっこみ、毛布からのイニスのにおいをかぎながら静かな寝息をたてていました。
ふと気づくと自分にあたる光があります。日光とは性質が違って一点から広がりを持った、白く、あたたかい光でした。まだ目を開けてもいないのに、なぜか、それを感じることができました。顔を上げて光の先を見ます。けれども、まぶしくて光以外何も見えませんでした。
そこから声がしました。
〈『最後の導き者』よ〉
水に沈みこんでいくような重い声。当然、リベルタにとって初めて聞く声でした。
〈『最後の導き者』よ。立つのだ〉
どうやら、それは人間が話す言葉などではないようです。人間の言葉はほとんどよくわかりませんが、その光からの言葉の意味は水を飲むように自然と体に染みました。
〈ぼくを『最後の導き者』と呼ぶのはだれですか〉
リベルタは立ち上がり、その声に答えました。その声と同じ言語で話せる自分をリベルタは不思議に思いました。
〈わたしはおまえだ〉
光の中から歩いてくる翔馬がいました。最初、光の輝きのせいで、全身まっ白な翔馬かと思えましたが、近づくにつれて光が薄れ、体の色がわかるようになってきました。
たしかに、その言葉どおり、体毛、羽毛は銀色で、たてがみ、尾は虹色でした。けれども、まだ若いリベルタは鏡に映った自分の姿を自分だと思ったことがないので、その者も自分だと思えませんでした。
〈あなたが何を言っているのかわかりません。あなたはだれですか〉
〈わたしがだれであるか、今は問題ではない。それより重要な問題がある。それは『なぜ、おまえは翔ばないのか』ということだ〉
その翔馬の姿形はリベルタそっくりでしたが、ちがう部分もありました。翼の先がピンと上がり、頭をググと上げ、胸をはり、自信を持って踏み出す歩き方が格好よく、とても立派でした。どこから風が吹いてくるのでしょう。たてがみと尾がサラサラと流れて透明色の赤、青、黄、紫・・・と美しく変化しています。そしてリベルタをジッと見すえる黒い瞳が、その翔馬の威厳を表していて、気後れしたリベルタは、とても目を合わせてなどいられませんでした。
〈答えよ。なぜ、おまえは翔ばないのか〉
一方的な質問でした。
〈なぜって・・・じゃあ、なぜ、ぼくは翔ばなきゃいけないんですか〉
リベルタの中に無意味な反抗心が燃えました。
〈ぼくが翔ぶ必要なんて、どこにあるんですか。なんだか毎日、イッショウケンメイ翔んでるひとたちを見ますけど、あんなのぜんぜんうらやましいなんて思わないんです。逆にムダなことして、ごくろうさんって感じですよ。ぼくは、お母さんと羊たちといっしょに草原に行って、草を食べて、羊小屋で寝て、それで満足なんです。そりゃあ、ショウマノキの葉っぱや実は、ぼくの大好物だけど高いところにあって食べられないですよ。だけど、それだってお母さんが木に登ってつんできてくれるし、それに、お母さんも空を翔べませんよ。お母さんが翔ばないのに、なぜ、ぼくが翔ばなきゃいけないんですか?〉
リベルタの言葉を、その翔馬はジッと動かずに聞いていました。そして全てを聞くと、ゆっくりと口を開きました。
〈なるほど、では、その『お母さん』と呼ばれる者が翔べば、おまえは翔ぶのだな?〉
〈翔んでもいいですよ。でも、お母さんは翔びませんね。お母さんには翼がありませんから〉
初めから終わりまで、その翔馬はリベルタの体全体から答えを得ようとジッと見ていました。そして、全てがわかった、と言うふうに「クゥルル」と喉を鳴らすと体を反転して光の中へ歩いていきました。
〈あ、待ってください!あなたはだれですか!〉
その翔馬がいなくなると光は闇の中に消えて、あとには元の静かな羊小屋が残りました。
あくる朝、リベルタは、その夢のことなどすっかり忘れて、いつものようにイニスと放牧地に行き、羊たちにまじって草の上を歩き、イニスにつんできてもらったショウマノキの葉を食べて、のんきに過ごしました。
イニスの心配などリベルタは思いもせず、その翼は、まだ風を起こしませんでした。