伯爵夫人
③ 伯爵夫人
イニスは小さいころから気の利く『良い子』でした。けれども『良い子』と言うのは物事を自分ひとりで納得しておさめてしまう悪いくせがあります。
イニスは自分に母親がいないことをお父さんに聞いたことがありませんでした。小さいころはそれがあたりまえだと思っていました。お父さんは家では無口でしたし、お母さんの話をしたことなど一度もありませんでした。お父さんの思い出の品らしい騎乗鞭が壁に飾られているだけの殺風景な家の中にはお母さんを思わせる物は他にひとつもありませんでした。
けれども、成長するにつれて他の子どもにはお母さんがいて自分にはいないと気づきました。墓参りはしないので死んだのではないらしいことぐらいしかわかりません。
奇妙なほどに近所の人たちも、お父さんの仕事仲間も、伯爵家、その屋敷の人々も、お母さんのことを知っているだろうに誰もイニスに話そうとしませんでした。それでも自分から聞けば教えてくれたのかもしれませんが、それも苦手なイニスでした。
そこで物語好きのイニスは、幻のお母さんを想像して遊びました・・・異国の女王が生んだ子供が盗まれて、ここまで流れてきた・・・・旅の女曲芸師とお父さんが恋に落ち、激怒した親方に別れさせられて赤ん坊はお父さんが育てることになった・・・実はソムニと双子、でも伯爵家を継ぐのはひとりだけ、後から生まれた方を翔馬調教師にあずけた・・・どれもたわいない夢物語にすぎません。
現実にはお母さんは現れそうにありませんでした。だとしたら母親に捨てられた(事実はちがうのかもしれませんけども)自分が母親になればいい・・・イニスが、そう思うようになったのは自然な流れと見ていいのでしょう。
夜の暗い屋敷の中、ソムニがひとり歩いていました。照明魔法が入ったフラスコが緑色のほのかな光をぼんやりと壁やカーテンに放っています。ぶ厚いカーテンが縦横に広い室内にかけられ、まるで迷路のような状態になっています。たしかに今は夜ですが、これでは真昼でも、この中は真っ暗なのでしょう。この迷路で迷って進めなくなるのは人ではなく『日の光』でした。
最後のカーテンを開けるとソムニの行く先に大きなベッドが見えました。そこが迷路のゴール。そこには痩せた女性がいました。
「お母さま」
彼女は伯爵夫人の『ニベウ・ラクス』、ソムニのお母さんです。とうぜんソムニとそっくりな顔立ちをしています。金髪に青い目・・・けれど、この闇の中では全て同じ緑色に見えました。しかも健康的に日にやけているソムニとちがって伯爵夫人は白く、いや緑白く、幽霊のように生気がありません。けれども彼女は娘の顔を見ると、読みかけの本を閉じ、最大限の健気な笑顔を見せました。
「ソムニ」
ソムニはフラスコをベッドサイドテーブルに置くとベッドに座りました。
「お母さま。今夜は、おかげんよさそうね」
「ええ。すこし気分がよくなったので、あなたのセーターを編もうと思います。今から編み始めないと冬に着られないかもしれませんからね。あとで丈を計らせてちょうだい。知らないうちに大きくなるからね。ソムニは」
「うれしい。でも、よくこんな暗いところで編み物ができますわね。お母さま。それに読書まで。わたしには暗くて、よく字が見えませんわ」
「もう十三ヶ年も、ここにいますもの。暗い方がよく見えるくらいですよ。さあ、今日も髪をすいてあげましょうね」
伯爵夫人はサイドテーブルに置いてあるブラシと翔馬の羽根で作られた魔法筆を手に取ると、慣れた手つきでブラシの裏面に呪紋を描き、
「アウラム・イ・ン」
と、呪言を唱えました。
すると自然にブラシの毛がバッと逆立ちました。
「さ、ソムニ。むこうを向いて」
伯爵夫人がソムニの髪をブラシでくしけずりました。
「だいぶのびましたね。まだ去年のように切らないのですか?」
「今年は切りません。お父さまは笑って気に入ってくれましたけど、ドクシスが『貴族女性が髪を短く切るなど、はしたない!』って怒るんですもの」
「ふふふ・・・ドクシスはあいかわらずですね」
月に四回は伯爵夫人は娘の髪をすきました。幼いころからソムニは、そうされるのが好きでした。ソムニが物心ついたころから彼女は、この厚いカーテンに閉ざされた暗い部屋にいたのです。
ほんの少しの太陽や月の光が体に当たっただけで体調が悪いと寝込んでしまうのです。今、彼女に近づけられるのは、この薄暗い照明魔法の緑の光だけでした。
ブラシに描かれた呪紋を見ながら伯爵夫人が言いました。
「そう言えばソムニはまだでしたか?」
「なんですの?あ、魔法ね。まだまだ勉強中です。アジステ先生が夏には仮免許がとれるでしょうと、おっしゃっていたわ。あー、早く自分の魔法筆が欲しいわ」
「そうね。この髪すきの魔法も自分でかけられるようにならないとね。いつまでも、わたしがすいてあげられるわけではありませんからね」
「・・・・」
そんな言葉を母から聞くのはソムニは好きではありません。だから話題を変えました。
「お母さま。先日、新しい騎手の方が来ました」
「へえ、今度のひとはどんなひと?」
「南国人で十八ヶ歳ですって」
「おやまあ、なんとお若い。そんなに若いひとが、なぜここにいらしゃったのでしょうね」
「さあ、本人に聞いたことはないんですけど、うわさでは帝都で暴力事件を起こしたらしいですわ」
「まあ、こわい」
「なんでも、公衆浴場で他の騎手の方をなぐったそうです」
「ま、乱暴ね。なぜ、伯爵さまは、そんなひとをやとったのでしょうか」
「でも・・・お母さま」
「どうしました?」
「わたし、その騎手の方とお話ししましたけど、そんな感じがしませんでした」
「どんな感じ?」
「ちょっとおっちょこちょいで、いいかげんで、不作法なひとでしたけど・・・」
「なに?」
「なんだかやさしいところもあってリベルタが湖に落ちそうになったのを魔法で助けたのですのよ。だから、その暴力をふるったというのも何かわけがあるのではないかしら」
「そう、やさしいところもあるのね。わかりました。だから伯爵さまは彼をやとったのです。その暴力事件も何か事情があるのでしょう。ここでは彼もそんなことはしないでしょうね。安心しました」
ひとり納得している様子の母をソムニはまじまじと見ました。
「お母さま」
「なに?」
「お母さまは物わかりがとっても早いのね」
「ソムニ。この部屋の中ではね。ウジウジ考えるのはとってもつらいことなのです。だから、どんなこともすぐ『ああ、そんなものですね』と思うようにしているのです」
「クスクス・・・」
「どうしたの?急に笑い出して」
「実は、お母さまに内緒にしていたことがあるのです」
「なんです?」
と、そこに若い男性と少女の声が聞こえてきました。
「うわ!まっくらや!こっちの廊下、明かりがなんもない!イニス!ちょっとどこ行った?イニス!」
「静かにしてください!イウベニスさん。奥さまには内緒なんですから!」
その声を聞いて驚いた伯爵夫人でしたが、ふりかえったソムニと顔をあわせて笑いました。
「奥さま!」
「ああ、イニス!よく来てくれましたね!」
イニスを見るなり、すぐに伯爵夫人は彼女を抱きよせました。
「しばらく見ないうちに、すっかり娘さんになりましたね。イニス」
「奥さま。おかげんはよろしいのでしょうか?今日はソムニさまに呼ばれてまいりましたが、わたしなぞに会われましては、お体にさしさわりがあるのではと心配で」
「イニス。そんなことはありませんよ。逆にイニスの笑顔を見られるほうが体にいいのです。もっとたくさん来てくださいね」
「奥さま。うれしく思います」
「イニスのかわいい仔翔馬は元気?」
「はい。奥様。リベルタは元気です。やっと羊と一緒に放牧地まで行けるようになりました。あ、でも、この前、湖に落ちそうになって」
「それで、そちらの方に助けていただいたのですね?」
「あ、はい。こちら、イウベニス・スペセイさんです」
イウベニスは、いつもの感じとちがって、いかにも紳士らしくコツンとブーツを鳴らすと姿勢をピッと正して深く一礼しました。
「お初にお目にかかります。元帝都レース会所属騎手、現北国レース会ラクス所属騎手、准爵位、イウベニス・スペセイと申します。この度は、ソムニさまにお招きいただき、伯爵夫人に拝謁できますことを心からうれしく思っております。伯爵夫人におかれましては、お体がお悪いとのこと、我が身と同じく悲しみと慈しみの念であふれております。今後の完治の念と親愛の情をこめまして握手の礼をいただければ幸いです」
「まあ、ごていねいなごあいさつ、ありがとうございます。北方辺境伯爵マジェスタス・エア・ラクスが妻、ニベウ・ラクスと申します。ベッドの上から失礼とは思いますが、わたくしからもイウベニスさまの握手の礼をいただきたくぞんじます」
ふたりは紳士と淑女らしい、やさしい握手の礼をしました。
「たがいなるさちをまじりまし」
それは『お互いの幸福を交えあいましょう』という意味の帝国貴族のあいさつです。
イニスとソムニは目を丸くして、その様子を見ていました。
「まあ、イウベニスさん」
「なんでしょう?ソムニさま」
「そのようなていねいなごあいさつもおできになりますのね。わたしたちとお会いした時とぜんぜんちがいますけど」
ソムニがそう言うと、イウベニスの表情がくずれました。
「そやけど疲れんねん。五つ分時が限度。伯爵さまに会うた時も、これやったんやけど、すぐに見すかされて『あはは、もっと楽にしたらいいよ』って言われたんや」
これを聞いて三人は大いに笑いました。
「まあ、楽しい。こんな内緒なら、いつでも歓迎ですよ」
楽しげなようすの母を見て、ソムニは他のふたりとうなづきあって言いました。
「お母さま」
「なに?」
「内緒のお楽しみは、まだまだこれからですのよ。今日はベッドから出てもだいじょうぶ?」
「ええ、なんだか元気が出てきたわ」
「よかった。では、イニス。車いすを用意してくださいな」
「はい」
「それから、イウベニスさん。お力をお貸しいただけますか?」
「はい!よろこんで!微力ながら、このイウベニス!伯爵夫人のためでしたら!火の中!水の中!火山の火口をも飛びこんでみせましょう!」
「火山に飛びこまなくてもよろしゅうございますから、お母さまを車いすに移動するのを、お手伝いくださいませ」
「うん。わかってるって。せっかく見栄切ってんのにつれないなあ」
「ふふふ・・・」
伯爵夫人のためなのか、いつの間にか屋敷中の明かりが消えていました。あちらこちらに女中が持つ緑色のフラスコがフワフワと光っています。伯爵夫人を乗せた車いすは屋敷を出て、ベリー畑の坂道を降り、湖へと向かいました。めずらしくふたつの月が両方とも沈んだ真っ暗な夜、星々は嬉々として静かにさざめいていました。
「あ、わかりましたよ。この季節、湖の光の儀式ですね」
「さすが、お母さま。おわかりになったのね。うふふ・・・」
ソムニの車いすを押す手がうれしい。こうやって自分で母を外に連れ出すのは何年ぶりでしょうか。思わず横を歩くイニスとニンマリしてしまいます。うれしくてうれしくて駆け出したいくらいでした。
「ああ、やっと来たね。気分はどうだい。ニベウ」
「伯爵さま。今日は、だいぶよろしいのです」
「それはよかった」
「奥さま。ドクシスもここにひかえております」
「まあ、ごくろうさまです。ドクシス」
湖の岸には伯爵とドクシスが待っていました。いえ、彼らだけではなく、街の明かりも消された暗闇の中、静かにラクスの人びとが湖を見つめていました。そこにはラクス人以外の観光客らしいひとも大勢いました。けれども、だれも物音ひとつ立てていません。みんな静かに何か待っているようでした。
「なあ、イニス・・・」
「なんですか?」
「なにがあんねや。おれ、なんも聞いてないで。伯爵夫人、迎えに行くってだけで」
「シッ!静かに!もうすぐ始まりますよ」
イウベニスはイニスが指さす方向を見ました。
湖の対岸から小さな光の粒が、ひとつふたつと飛び上がってきました。暗闇の空間をふわふわと舞っています。それがだんだんと数を増してきました。
「ホタル?」
南国人の彼が一番最初に連想したのは、この季節に南国で見られる白く淡い明滅光を放つ虫でした。けれども、その光は明滅してはいません。そして白だけではなく赤や黄、緑、青と色あざやかでした。
「あれは『小さき精霊』です」
「精霊やて?」
と、次の瞬間、ワッと無数の光の群れが湖の上にわき上がりました。思わず見物の人びとの声が「オオ!」と上がります。
「うわ!すごい光や!」
ひとつひとつの光は、まっすぐ飛んだり、旋回したり、制止したり、かと思えば急降下、急上昇と、せわしなく飛び回っていました。それが何千、何万と飛んでいます。全体に見れば光る大きな生物が湖を飲みほそうとしているかのようでした。湖も照り返しでギラギラと輝いています。
イウベニスは周りの人びとの顔を見ました。その謎の光に照らされた顔は、どれも幸せそうでした。南国の夏に花火が上がった時の人びとの顔に似ています。光が彼女の体を痛めつけると聞いているのに伯爵夫人も笑顔で光を見ていました。
「イニス」
イウベニスはイニスのそでを引っぱりました。
「もう、イウベニスさん。なんですか?」
「あれ、なんや?教えて」
「だから、あれは小さき精霊です」
「それはさっき聞いた。で、それって何やのん?」
「湖の向こうの湿地に住んでいる小人です」
「小人かあ!で、あれ、小人が何してんのん?」
「あれは、お見合いの儀式です」
「お見合いかあ!で、なんで光んのん?」
「照明魔法が入った光り壺を持って、結婚の相手を探しているんです」
「あ、さっきの緑色のフラスコと同じ光か。だから伯爵夫人もだいじょうぶやねんな。で、なんで小人が空、飛べんのん?」
「もう!よく見てください!ほら!」
「ん・・・」
近くに来たものをよく見ると、うすい先のとがった羽根をパタパタとさせていました。その背中には光の粒を持った人間にそっくりな小さなシルエットが乗っています。その羽根の持ち主とは・・・
「あ!コウモリや!」
「キイ!」
「うわ!」
イウベニスにぶつかりそうになったコウモリが急旋回して飛び去りました。イウベニスは思わず尻もちをつきました。
「ゴッツコワイおっさん顔したコウモリやった」
それを見て周りの人びとは楽しく笑いました。
「おほほほ・・・」
「楽しいかい。ニベウ」
「はい。伯爵さま」
伯爵が妻の肩にやさしく手を置きました。
「やっと元気になってくれたね。ぼくもうれしいよ」
「ええ、あの、新しいお薬のおかげです。とてもすばらしいお薬でございますね」
「うん・・・でも、あれはね、ごく微量にしか作れないものでね。あれしかもらえなかったんだ」
「そうですか。でも、こんなに楽しい夜がすごせたのですから、ぜいたくを言ってはいけませんわね。そんな貴重な物を持ってきてくださった、その男爵さまに感謝の意をお伝えくださいませ」
「うん。そうするよ。夏になったら、彼は、ここに来るから・・・ソムニ」
「はい?お父さま」
伯爵はソムニのフワとした髪を手にとって微笑みました。
「ソムニ。美しい髪だね。ニベウにすいてもらったのかい?」
「ええ、お母さまが美髪魔法をこめてくださったブラシで」
「そう・・・きれいな金色の髪だね」
湖からの光があたっているとはいえ、ソムニの髪が金色だとわかるほどではありません。それに気づいたソムニは、おかしなことを言うお父さま・・・と思いました。
「ええか!おっさん!適度な調教魔法は翔馬にとってもええし、人間も楽できるんや!」
「なんだと!楽に調教するつうたらなんだ!そんなに楽してえだらやめるがええだ!このばかたれが!」
「楽するんの何が悪いんや。翔馬は、えらい手間がかかる生き物や。それを効率ようしようとしとるだけやないか」
「は!コウリツ!帝都のもんはすぐそれだ!コウリツ、コウリツとぶちかまして人間も翔馬も魔法機械みたいにしてえんだら!」
イウベニスが騎手としてやとわれて以来、ラボロリスとはぶつかってばかりでした。魔法を取り入れて調教する帝都式のやり方と、人間と翔馬のコミュニケーションだけで根気よく調教するラクスのやり方とが、まるでちがっていたのです。
「どうしたの?イニス」
「あ、伯爵さま。お父さんとイウベニスさんがまた」
「へえ。でも、なんだか仲良くやってるように見えるけど」
そこは屋敷の裏庭と厩舎がある広場との境。午後学校を終えたイニスが、夕食のしたくまでの間にリベルタに会いに行こうとしていた夕刻のことでした。
「おっさん!あんた頭、鉄骨か?翔馬も人間も、ほんまはちがう生きもんや。いっつも一緒やったらストレスがたまってもうて気がどうかなってしまうやろが!ほれを効率よう的確に調教して、あとは自由に楽させたほうがええやろ言うとるんや!翔馬も人間も!」
「う・・・と、とにかく!まずは新入りは新入りらしく、ここのやり方を素直に学べばええだ!その後で、自分のやり方を提案する!それが物の道理でねえだか?ああん?」
「あんな!おっさん!おれ、ここに来て月ひとつになるんや。ここのやり方ぐらい、もうわかっとるわ!」
「ばかたれ!昔から翔馬調教は『そうじ年ひとつ、ブラシ年二つ、手綱年三つ』つうぐらいきびしいもんだ。それが月ひとつでわかるか!」
「それが!おっさん!効率悪いゆうとるんや!」
と、イウベニスとラボロリスが言い争っている姿を見てイニスはフッとため息をもらしました。
「ああやって、この月ひとつの間、ずっとここで言い合ってるんです。あれじゃ、イウベニスさんもすぐやめちゃうんじゃないかと心配で」
「だけどイニス、ここってところがいいんじゃないかい?」
腕を組んだ伯爵がにこやかに言います。
「え?」
「ふたりとも厩舎じゃ、あんな大声、絶対出さないよ。わざわざ、ここまで降りてきて言い合っているんだ。ふたりとも申し合わせたように」
「どうしてですか?」
「翔馬はデリケートな生き物だからね。厩舎で親しい人間が大声出しているのを聞くだけでおびえてしまうんだよ。それが原因で単純な天然呪いを呼び込んでしまうのもいるくらいだからね」
「あ、だから」
「そう、ふたりともそれをよくわかっているんだよ。翔馬を愛しているから」
「翔馬を愛しているから・・・」
「そう、だからイウベニスくんは、すぐにはやめないと思うよ」
「伯爵さま」
「なに?」
「天馬ってごぞんじですか?」
「え?天馬のことかい?」
「・・・そうだと思います」
競争翔馬には九つの階級があり、レースの成績で昇級します。最初、風馬から始まり、雲馬、嵐馬、虹馬、雷馬、星馬、月馬、日馬、最後に天馬となるのです。
「うちのセルタは虹馬、アエスタスは嵐馬、アウラとイグニスは雲馬だよ。天馬は今まで五頭しか出てないはずだね。帝国翔馬レース五百ヶ年の歴史の中でね。だから百ヶ年に一頭しか出てこない。それが天馬なんだ。でも、それがどうかしたのかい?」
「あの・・・初めてあった時、イウベニスさん、わたしに会いに来たんだって言ってました」
「ああ、帝都とかで話題になってるらしいよ。翔馬の卵をふ化させた女の子がいるって、それで興味を持ったんじゃないかなあ」
自分が帝都で話題になっている・・・それを聞いただけでイニスは顔が熱くなってくるのを感じました。
「それと・・・リベルタを伝説の天馬の転生身だって・・・」
それを聞いて急に伯爵の表情がくもりました。
「ふうん・・・そう・・・彼がそんなことをね・・・じゃあ、イニス。わたしはドクシスを待たせているから」
「あ、はい」
伯爵を見送るイニスは出しゃばったことを言ってしまって伯爵を怒らせたのではないか、と後悔しました