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ペガサス競翔  作者: 明日テイア
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二人の訪問者

 ② 二人の訪問者


 火山マンス・ディプドラの左肩から、紫色の朝日が白い威厳を大空に散らしながら静かに昇っていきます。対岸に優しい針葉樹林を配したアルタス湖には、はるか南方から渡ってきた水鳥たちが湖面で翼を休めていました。それをかき分けるように黒い影が降りてきました。薄赤い光を水面に放っています。驚いた鳥たちが逃げました。そしてザブンと水しぶきを立てて着水します。

 それは船でした。

 浮游船ボロナヴィス半永久浮游魔法アエテ・ボロアが開発され、船は空に浮かぶ物となっていました。見た目は水に浮かぶ木造の帆船そのものでしたが、船底に大きくヒョウ柄に似た呪紋が描かれており、内部にある自動的に呪言を唱える魔法装置のおかげで、人の力を借りずとも浮游魔法を半永久的に繰り出すことができたのです。

 その船は国都ベルースからの定期船でした。

 湖の手前に広がるルビオ・ベリー畑には低い木々に小さな紅色の花を散らされて甘い匂いを漂わせ、赤い敷布となっていました。畑の左側には緑の敷布にも見える放牧地がのび、右側にはレンガと木材で造られたラクスの町がありました。人びとが起きだし、活動を始めているのが鐘の音、呼び合う声、馬のいななき、パンを焼く匂いで遠くからでも感じられます。

 それは朝のラクスで見られる美しい光景のひとつでした。

「あ!痛い!なんだよ!エサをあげてるのにお尻をかんだのだれだ!そんなことしたらもうエサあげないぞ!」

 その美しい光景には目もくれず、ガチョウ飼育係のプエルが柵の中で奮戦していました。「ガアガア」とうるさい、ここのガチョウたちは、この十三ヶ歳の小柄な少年を心底バカにしているようでした。

「おはよう。プエル。朝からにぎやかね」

「おう!イニス。あ、痛っ!この!まて!もうゆるさないぞ!」

 柵の前を羊たちをつれたイニスが通っていきます。羊を誘導する魔法がこめられた杖を右手に空のカゴを左手に持ち、左肩から古びたカバンをつるしていました。中には図書館から借りた本と水筒が入っています。羊たちは役に立たない、お飾り程度の小さな翼を背中につけ、メエメエと世間話をしながら丸いお尻をふりふり、イニスの後に続きました。

 いつもの朝のイニスです。

「え?あれ?」

 けれども、いつもと違った物を見てプエルは去っていくイニスたちを目で追いました。羊より背が高く、イニスと同じくらいの高さ、そして一際、翼も大きな動物がイニスにぴったり寄りそってトッコトッコと不器用に脚を動かし歩いています。銀色の体毛に虹色のたてがみと尾をした、その動物はプエルが気になるらしく、ちょっと振り返ってはチロチロと黒い大きな瞳で後ろを見ていました。

「おい!イニス!」

 と、プエルは思わず抱えたガチョウを持ったまま柵を跳び越えてイニスを追いかけました。

「ガア・・・」

 ガチョウが不機嫌そうにつぶやきます。

「なに?プエル」

「おい!・・・そ、そいつ、もしかして・・・」

 イニスに追いついて並んで歩くプエルの反対側に銀色の体が隠れました。イニスの体に隠れられるのは頭だけでしたが、それで彼は安心しているようでした。

「そいつ!あの、おまえがかえした卵の翔馬だろ!」

 歩みを止めずにイニスはプエルを見ました。そうしながらも反対側の手は守るように仔翔馬の首の上に置かれています。

「やめてプエル。リベルタが怖がるわ。やっとお乳が離れられたけど、この子は、まだまだ赤ちゃんなの。最近、やっと羊を怖がらなくなったのよ。でも、まだ人間は怖いの。調教師のお父さんさえ怖がるくらいだから、わたしじゃないとダメなの」

「あ、あ、だけどもう外に出してもいいのかよ?」

「そうよ。今日が初めてのおさんぽよ。いつまでもあんな暗い羊小屋に入れておくのは健康に良くないわ。とっても良いお天気だものね」

「あ、でも。ラボロリスさんはゆるしたのか?伯爵さまは?」

「お父さんも伯爵さまもリベルタの世話を全て、わたしにまかせてくださったの。とってもありがたいことだわ」

「ええ?あのおっかないラボロリスさんがねえ。おれ、いつか騎手になりたいんだけど、あのガンコオヤジがいるから、なんかもうどうしようかなあ、て思うんだよ。ほら、いつも助手の連中をどなってるだろ。騎手だってケンカして何人もやめちゃってるしさ。おれも顔を見るたびに怒られてる。たまんないよ」

「お父さんはマジメなのよ。自分の考えがしっかりしてて、その通りに行動しているの。それにいつもどなったり、ケンカしてるわけじゃないわ。ちゃんとやってる人には何も言わないもの。プエルは、よくガチョウの世話さぼるでしょ。それに午後学校で見かけない時もあるわ。それじゃ、お父さんでなくても怒るわよ。わたしでも、そのガチョウでも」

「ガア」

 プエルの顔は真っ赤です。

「は、話を変えるなよ!今は、その翔馬の話をしてるんだろ!」

「話を変えたのはプエルよ」

「そ、そんなのどうでもいいだろ!」

「じゃあ、まだ何か言いたいことでもあるの?」

「そいつ!翔馬のくせに翔ばないで歩いてさ!おまえの後ろに隠れてさ!おかしいぜ!そんなの!」

「いいの。わたしはこの子のお母さんなんだからあたりまえでしょ」

「お母さんだって?」

「さあ、もうもどったら。ガチョウのエサやり途中でしょ。それとも一緒に放牧地まで行く?そのガチョウを抱いたまま」

「ああ・・・」

 と、プエルは足を止めました。イニスと羊たちは何事も無かったかのように草原に続く坂道へと歩いていきます。やっぱりリベルタはトッコトッコと歩きながらチロチロとプエルを見ています。プエルとガチョウは呆然と見送っていました。

「変なの・・・人間のくせに翔馬のお母さんだってさ」

「ガア・・・」


 放牧地に着くと、もうひとつの美しい光景がありました。

 ほとんど先ほどと同じでしたが、そこには美しいだけではなく躍動の姿が加わっていました。大きく翼を広げ、その辺りにある全ての空気をはらんで下に落とし羽ばたいています。湖面に波紋が連続して道になっていました。それを作る翼は全部で八枚。八枚の翼は湖を滑り、町を越え、ベリー畑を過ぎ、放牧地を翔びました。そしてまた湖へと戻ります。その翼の群れはラクス家所有の四頭の翔馬たちでした。

 その四頭の中で群れの長らしく、常に先頭を翔んでいるのは『セルタ』です。セルタはリベルタの母親で十五ヶ歳。体毛、羽毛は濃い紅色ですが風切り羽根だけは淡く、たてがみ、尾は白くて緑色の目は東国の宝玉を思わせました。

 少し彼女に遅れて従うように翔ぶのは『アエスタス』。彼はリベルタの父親で十三ヶ歳。漆黒の体毛と羽毛、灰色のたてがみ、尾と風切り羽根、そして青い目。年下らしく姉さん女房を立てているようです。

 その後ろに『アウラ』、五ヶ歳のリベルタのお姉さん。赤い目に黄土色の体毛と羽毛、たてがみと尾の色は薄い黄色で、色や姿は母親と似てはいませんが気の強さはセルタそっくりです。

 彼女と並んで『イグニス』。五ヶ歳でアウラの夫。体全体が褐色ですが風切り羽根だけは白く、金色の目。去年、ラクスに来たばかりでアウラとは新婚の夫婦でした。

 それは彼らの毎朝の旋回運動でした。

 これに厩舎で母親を待つリベルタの双子の兄『ヴェロックス(無事、母親の元で、ふ化した卵の子。リベルタより二日前に生まれています。濃い青の体毛と羽毛、水色のたてがみと尾、風切り羽根。青い目)』を入れて、ラクスには六頭の翔馬がいることになります。

 イニスは羊を放牧地に放つとリベルタの首の下をなでてやりました。リベルタはイニスの口をなめなめ気持ちよさそうに目を細めています。

「えらいわよ。リベルタ。ここまで来れたじゃない」

 まず羊小屋から出すまでが大変でした。それに日ふたつかかったのです。けれども、外がどういうものかわかってくると、イニスについて行けば安心だと思ったらしく、リベルタの冒険は一気に進みました。

「ほら見て、リベルタ。きれいでしょ。あれが湖。水がたくさんたまったものよ。ここから西に何百里と行ったところに『海』って言うのがあって、湖より、もっと水がたまってるらしいけど。わたし見たことないの。あの向こうは山よ。たくさんの石や土が盛り上がったものよ。ここから東に何百里と行ったところに『山脈』って言うのがあって、山より、もっと石や土が盛り上がってるらしいけど、わたし見たことない。あっちにあるのは町。家がたくさん集まったものよ。南に何百里と行ったところに『都』って言うのがあって、町より家が集まったところがあるけど、それもわたし見たことないの・・・」

 ここラクスの土地を離れたことなどイニスは一度もなかったのです。

 並んで風景を見ているふたりの上を四頭の翔馬が翔び過ぎます。どうやら自分たちと同じ姿の者が目に入って観察しにきたようです。旋回運動は続けてはいますが四頭の視線はリベルタに吸いついたままでした。

 リベルタもジっと立ったまま一群を目で追っていました。山から吹きおろしの風が湖を渡って草原をザワザワと波立たせ、たてがみと尾をキラキラと虹色に流し、そして翼をサワサワとなびかせました。けれども、その翼は自ら風を起こそうとはしませんでした。

 同じ敷地内に住むセルタたちとリベルタでしたが、お互いの姿を見るのは初めてでした。リベルタはセルタを母親とは認識していませんでしたし、わが息子ヴェロックスを育てることしか頭に無いセルタにとっても捨てた卵がどうなったかなど気にもかけてはいませんでした。だから「なに?あのよそ者」と彼女たちも見ているだけでしたし、リベルタの翼も動きませんでした(そのころ、厩舎のヴェロックスは母親のマネをして、さかんに翼をバタバタさせていました)。

 人間に育てられたリベルタに『自分は翔馬だ』と言う自覚ができてはいませんでした。

「あれは翔馬よ。あなたと同じ翔馬。リベルタ。あなたも、ああやって翔べるのよ。わかる?」

 けれども、その翔馬を目で追うのも幼子らしくあきてしまったリベルタは大きな黒い瞳を牧草の間に咲く黄色い花、そして飛び交う蝶へと移しました。

 やがて翔馬の群れも放牧地から離れ、運動の後の朝食につくためにショウマノキ林の方に行ってしまいました。『ショウマノキ』と言うのは、その葉、花、実を翔馬が常食にしている木です。翔馬たちは器用に木の上に立ち、翼でバランスをとりながら、葉をムシャムシャと食べています。セルタとアエスタスは体内の保存袋に葉を貯めていました。厩舎に帰って吐きだした葉を息子に食べさせるためでした。

 無邪気に蝶を追っているリベルタを眺めながらイニスは小さいため息をつきました。

「リベルタ。あなた、いつか本当に翔べるようになるのかしら・・・」

 けれども、イニスは内心安心もしていました。

 ここにリベルタを連れていくように言ったのはラボロリスです。いつかはリベルタもセルタたちの仲間に入れなくてはいけません。けれども警戒心の強い子持ちの翔馬の群れと気の弱いリベルタのこと、急に会わせればどちらかがパニックを起こすかもしれません。だから、まず遠くからのお見合いを思いついたのでした。この初めの一歩が成功したのか失敗したのかわかりません。けれども、いつかリベルタが翔んで群れの中に入ると言うことは、それはイニスとの別れを意味します。同じ敷地内にいても、それは事実上の別れなのでした。

 だから、いつまでも、翔ばないでほしい・・・そうすれば伯爵さまも、お父さんも、わたしからリベルタをとりあげようとはなさらないと思うわ・・・だって、ケガをしたり、歳をとって翔べなくなった翔馬だって大切になさっていたのだもの・・・でも、それってリベルタにとってはいいことじゃない・・・

 だからイニスはため息をつくのでした。

「イニス!」

 熱い風が背中に吹きつけたかのような快活な声。すぐにイニスはふりかえりました。けれども、ふりかえる前からイニスにはそれがだれだかわかっていました。

「ソムニ!」

 ソムニが坂を駆け上がってきます。赤いシルクのワンピース、ちょっと太めの革のベルト、スエードのボレロ風のチョッキ、編み上げのロングブーツ、そしてセミロングの金髪、それらが笑顔の彼女の歩調に合わせて踊っています。

「おはよう!イニス!」

 ソムニが追いついてイニスの肩を抱きました。ハアハア息を切らして、ひたいに汗かいて、それでも、それが楽しくてしかたがないって顔の笑みをしています。

「おはよう。ソムニ。どうしたの?今、家庭教師の時間じゃないの?」

「アジステ先生が『天然呪いナツラ・マディ』にかかられたの」

「え?だいじょうぶ?お悪いの?」

 帝国において『呪いマディ』には人が人を呪う『人為呪いアルチ・マディ』と、そうではない『天然呪いナツラ・マディ』があります。『天然呪い』は他の国で『病気』と呼ばれているものと、ほぼ同じものです。

「ええ。クシャミが出て、鼻水が出て、セキが出て、少し熱があるみたい」

「それってカゼ?」

「そうよ。カゼよ。カゼも天然呪いにちがいないでしょ?二、三日寝てらしたら、お治りになるって」

「なんだか天然呪いって聞くと、もっとひどいものと思ってしまうわね」

「お母さまみたいに?」

 悪いことを言ってしまいました。イニスはスッと口を閉ざします。ソムニも一瞬、真顔になりましたが、何かに気づいて、かん高い声を上げました。

「きゃー!」

 びっくりしたイニスが見ますと、ソムニはリベルタを見つけて両手を口にあてて、目を大きくしていました。

「かわいい!あれ、あの時の赤ちゃんでしょ?わたし最初、大きい羊がいるのかと思ったわ!リベルタ!そう、リベルタね!」

 リベルタはイニスのそばに見知らぬ人間がいるのを見て戸惑っていました。イニスのそばに行けば安心です。けれども、そこには怖い人間がいるのです。さあ、どうしましょう?

 だからリベルタは少しはなれたところでオロオロと首を振って、ふたりの様子を見ていました。

「リベルタ。ほらおぼえてる?卵から生まれた時、わたし、いたでしょ?」

 ソムニが手を差し出します。

「ソムニ。急に近づくと怖がるから」

「そうなの?ね、怖くないから、ね」

 ソムニがゆっくりと近づます。それにつれてリベルタもゆっくりと後ずさります。

「あーん!逃げないで!ね?じゃ、これあげるから」

 と、ソムニはポケットからガサガサと紙袋を出して、中から金色に光る物をつまみ出しました。その一粒がイニスの一日分の食事代にもなる南国の高価なフルーツ菓子です。

「おいしいわよ。さ、これあげるから。ね」

 イニスはソムニが大好きです。同い年の同性は近所にはソムニしかいませんし、屈託の無い陽気さが好きでしたし、性格はちがうけれども気が合いましたし、イニスにあげるためにフルーツ菓子を持ってきてくれるようなやさしさもあります。幼いときからの友だちです。学校に行っていないソムニにとってもイニスは大切な存在なのでした。だから、ふたりっきりの時は『ソムニさま』とは呼ばずに『ソムニ』と呼ぶのです。

 だけど・・・今のソムニは大きらい!今日、ソムニが来てくれてうれしいのはほんとう。でも、わたしのリベルタをほっといて!ソムニは、なんでも持ってるじゃない!すてきなお父さまに、お母さま。大きなお屋敷に召し使いが何人もいて、きれいな着物にアクセサリー・・・だけど、わたしにはなんにもないのよ!リベルタしかいないの!リベルタをとらないで!

 イニスの思いが体からはじかれてコマのように回ります。そうしているうちにとうとうリベルタが逃げだしてしまいました。

「あ、待って!」

 ソムニが追いかけます。

 そうよ!リベルタ!逃げるのよ!

 たしかに、うれしそうにリベルタがソムニの手からお菓子をもらったりしたら、イニスは嫉妬で爆発しそうでした。けれども、リベルタは逃げました。逃げてくれました。そんな良くない状態でホッとしている自分にイニスは気づきました。

 だれか人が寝ていたりしたら、わからず踏んづけてしまいそうな深い牧草の中をリベルタは駆けました。

「うぐ!」

 だれかを踏んづけてリベルタは驚きました。

「キュイ!」

「きゃっ!」

「うわっ!なんや!」

 今度は後を追っていたソムニが転んでしまいました。

「なんや、もう。ひとが気持ちよう寝とるのに、ハラ踏まれたと思たら、今度は蹴られて、えらい災難・・・あれ?」

 と、黒目をしばたかせ、無精にのばした黒毛の頭を掻きながら起き上がったのは、ヒョロッと背の高い、よく日に焼けた青年でした。いくつもの渦が巻いた見たことのない模様の服を来て、聞きなれないなまりの言葉を話す姿は南国の人間と思われました。

「んーんー」

「だいじょうぶやのん?きみ」

 と、草むらに突っ伏しているソムニを助け起こそうと手を出します。

「あ!あ!リベルタ!待って!」

 その横をイニスが走り出します。けれどもよっぽど驚いたのでしょう、子どもとは言ってもやっぱり翔馬、翔べはしませんがリベルタは翼を羽ばたかせ、脚を駆け、その短い間に牧草地の斜面を走りに走って、はるか遠くに行ってしまいました。

「キュイー!」

「あのままじゃ湖に!待って!リベルタ!」

 リベルタの前方にはアルタスの黒き水が静かに口を開けていました。晩春、日の光は暖かいのですが、まだまだ水は冷たく、そのまま飛び込めばデリケートな子翔馬の体にかなりのダメージがあるにちがいありません。しかも『アルタス(深い)』の名の通り、湖に入ればいきなりの深みになっているのです。

「キュイー!キュー!」

「リベルタ!まって!」

「あかん!」

 イニスの肩を長い指がグイッとつかみました。

「あの翔馬、めっちゃパニックとる。追いかけてもムダや。と、それより逆効果や」

「だけど!あの子、あのままじゃ湖に飛びこんじゃう!」

「まあ、まかせてくれや」

 と、青年は腰にぶら下げた、長細い革の入れ物から棒のような物を出しました。青く透明な、ねじれた幾何学模様細工で鋭い先が二つに割れています。群青クリスタルでできているらしく日光にキラキラと青い星を散じていました。伯爵の持つ翔馬の羽ペンタイプとはちがいましたが、それはまぎれもなく魔法筆マギペナでした。

「きみ。左手出して」

「はい?」

 思わずイニスが手を出します。青年は手際よくペン入れと一緒にさげていた、いつかの小ビンのフタを開けて中の液体をペン先に染みこませました。

「こいつを一滴と、これとこれと二滴、あと、これも一滴」

 はやる気持ちでイニスが見ると「キュイキュイ」と鳴くリベルタの疾走は水のゴール間近でした。

「早く!お願いします!もうすぐ湖に飛びこんじゃう!」

「待ってえや。順番があんねん」

 青年はイニスの手首をつかんで言いました。

「もっとグッと開いて」

 言われた通り、イニスが手のひらを広げます。

「よし。動くなや」

「あ!」

 彼の魔法筆がイニスの手の上でシュシュと軽やかに踊りました。イニスの手には描かれている感覚がありませんでしたが古代の象形文字と東国の表意文字を合わせたような神秘的な紋様が赤く浮かび上がってきました。それはまちがいなく呪紋ノータ。そしてとてもめずらしい種類の呪紋でした。

「よし!できた!ええか?きみ」

「はい」

 と、青年は手首をにぎったまま、イニスの背中に回り、魔法筆を指にはさんだ右手を優しく小さな肩に置いて耳元に口を近づけました。

「あの翔馬に呪紋を向けて」

 南国のハーブの香りがイニスの鼻をくすぐります。

 イニスは少しドキリとしました。

 その間にもリベルタは湖へと走ります。

「あの翔馬、リベルタやったけ?」

「リベルタです」

「リベルタを愛してんねな?きみ」

「愛してます!お母さんですから!」

「お母さんか・・・ええなあ。よし!そしたら、リベルタを愛してる、信頼してるって強よう心に思うねんや。ええか?」

「もう思ってます!」

「あは!よっしゃ!いくで!」

「はい!」

 イニスは左腕をまっすぐのばし、右手を胸の前でギュッとにぎり、手のひらを遠くのリベルタに向け、強く目をつぶり、念じました。


 ごめんね!リベルタ!ごめん!

 お母さんが悪かったわ。

 怖い思いをさせちゃって!

 まだ放牧地に来るには早かったのよ。

 ごめん!ごめんね!

 そっちに行っちゃあぶないの!

 だから止まって!リベルタ!止まって!

 愛してるわ!リベルタ!


 青年の呪言ヴォクスの声がイニスの背中に弦楽器のように響きます。

「フィード・エ・レ!」

 あと数歩で湖・・・と、リベルタの勢いが無くなり、その脚は水際で止まりました。そしてあどけない顔をこちらに向けます。もう鳴いてはいません。うるんでいますが落ちついた黒い目、そしてもっとよく聞こうと並べて立てた両耳をこちらに向けています。あとでイニスも知るのですが、それは『フィード』と言う魔法で言葉の通じない動物などに自分の思いを伝えるものでした。

 手のひらが熱い。

 イニスが見ると呪紋の部分だけが赤く光っています。それが熱いのです。けれども、すぐに熱さとともに呪紋も消えてしまい、あとには何もない小さくきれいな白い手だけが残りました。たしかに、その熱さは消えました。けれどもイニスの胸に別の熱さが強く増していました。そして、それが粒となって両目からこぼれ落ちました。

「リベルタ!」

 イニスは青年の胸の中から飛び出し、リベルタの元へと草原を走りました。

 リベルタは何事もなかったかのようにトコトコとイニスの方に歩いてきます。

 青年は腰に手をあて、左足を少し前に出し、満足そうに立っていました。

 羊たちは人間たちがやっていることに興味無く、草をムシャムシャ食べています。

 ソムニは服の汚れをはらい落としながら青年に近づきました。

「ところで・・・あなたはどなた?」

「おれ?通りすがりの、いや、通りすがられて踏まれて蹴られた、ただの南国人や。そっちはラクス伯爵のお嬢さまやろ。さっき、あの子と話しとったな」

「むっ!」

 なぜかソムニは『お嬢さま』と呼ばれるのがきらいです。しかもイニスとふたりっきりの話を聞かれてしまいました。それもなぜかソムニにとって着替えをのぞかれるぐらい恥ずかしいことなのでした。

「まあ、南国の方ですのね。そのきたない言葉。まともに帝国標準語もしゃべれないなんて、やっぱり南国人はイナカモノですのね」

「イナカモノやてえ?なんや、北国のこっちの方がよっぽどイナカやないか。けど、きみら、なまってへんな。なんで?」

「代々、ラクスでは教育が行き届いておりまして学校で標準語を教えておりますの。ま、わたくしは家庭教師がついておりますので学校には通っておりませんけど」

「そうやろな。家庭教師やろな。やっぱり。お嬢さまって言うたら、たいがいそうなるやろな」

「むかっ!」

「あの!」

 と、そこへリベルタを連れたイニスが帰ってきました。リベルタは落ち着いているどころか二人を怖がることもなくなっています。

 イニスは青年に礼をしました。

「ありがとうございます。リベルタを助けていただいて。あの、あれ魔法ですよね。魔法貴族の方ですか?」

 たしかに、あれは帝国魔法貴族が主に使う科学魔法です。それを器用に使いこなす彼は一体だれなのでしょう。

「こんな変な格好のヒトが貴族なわけないわ。髪もバサバサで編み込んでもいないし。どうせ、もぐりの魔法使いでしょう」

 と、ソムニが口をはさみます。

 すると青年は少し口をとがらせて言いました。

「変な格好や言うな!おれは貴族ちゃう。翔馬調教魔法の認可もらっとるだけや。おれ、翔馬騎手やからな」

「え?」


「もう少しで、この木は大丈夫だよ」

 伯爵の左手が一本のルビオ・ベリーの木に触れていました。その触れた部分にだけ、おぼろげに黄色の光がもれています。

「よし。終わった。これで、この木は秋には良いベリーをつけてくれるだろう。次はどれ?」

「伯爵さま。こっちの木ですだ。芽吹きが遅かった上に、えろう花が少くのうて」

「ああ、この木だね。待ってて。新しい呪紋を描くから」

 伯爵が農民たちとルビオ・ベリー畑で忙しく働いています。白いワイシャツを腕まくりして、額の汗をぬぐいました。その姿はとても楽しそうに見えます。

 ルビオ・ベリーはラクスの特産品です。火山灰の土壌と、湖の湿気を程よく吸った火山からの吹き下ろしの風がルビオ・ベリーを育てる環境には最適でした。そして、このルビオ・ベリーで造られるベリー酒は絶品で、ラクス産ベリー酒と言えば帝国内だけでなく遠国でも有名でした。帝国内どこの宴席に呼ばれても、ほとんどのテーブルの上に伯爵家の紋章である双頭の竜を大蛇が囲ったラベルのベリー酒が置いてある、と言っても過言ではありませんでした。

 このベリー酒のおかげでラクス領の財政は豊かでした。そして全領民にベリー酒に関わりのある仕事が何かしらあり、みんな衣食住には不自由しませんでした。

 魔法貴族の領主は指導力と魔法力で、無魔法平民の領民は労働力で、お互いに助け合いながらラクスの発展に貢献しました。両者の関係は常に良好だったのです。

「伯爵さま!」

「ああ、やっと来たようだね」

 屋敷から走ってくるドクシスの姿を見て伯爵は笑みを見せました。

「どなたがいらっしゃるので?」

 かたわらの農民が聞きます。

「新しい騎手を雇ったんだけどね。昨日の船で来るはずだったんだよ。だけど遅れたらしくて、どうやらさっきの船で来たようだね」

「へへへ、今度の騎手は日いくつ、もちますべえかな。伯爵さま」

「そうだよね。ラボロリスと仲良くしてくれるといいんだけどね」

 けれどもドクシスは妙に急いでいます。

「は、伯爵さま・・・はあはあ・・・お、お客さまでございます・・・ふうふう・・・」

 それを見た伯爵に疑問が浮かんできました。

 この老人が息を切らしてまで自分を呼びにくる客とはだれなのだろう?

 例の南国出身の帝都レース会若手騎手ではないような気がする。

「だれだって?」

「し、失礼しました・・・こちらを・・・」

 と、出された名刺は真新しい紙に右肩が上がる北国風文字の印刷で、


   帝国連邦北国辺境男爵クラルス領主

     アンビティオス・バロ・クラルス


 と、書かれていました。

「クラルス?」

 クラルスとは火山を隔ててラクスと反対側に位置する土地のことです。湖の恩恵で豊かなラクスとはちがって、荒れ地にゴツゴツとした溶岩が広がり、開発も遅れていて作物も育たず、細々と草々がはえているだけ、綿羊で生計を立てている寒村がひとつあるだけの不毛の地でした。

 伯爵は名刺から目を上げて考えました。

 あそこは北国王直轄地のはずなのだが、そこの領主だと言う男爵が自分を訪ねてきた・・・いったいどういうことなのだろう?

「ドクシス。この訪問予定ってあったけ?」

「ございません」

 やっと落ちついたドクシスが、もっともらしくうなずきます。

「こんな名前の男爵、知らないよ」

「お名前はご存じありませんでしょうな」

「ん?どういうこと?」

「お会いになればおのずと知れましょう」

「なんだい?ドクシス。もったいぶって」

「もう、こちらのお仕事はよろしいのでしょうか?」

 伯爵が目で農民たちに聞きました。

 彼らがうなずくのを見て、

「うん、まあ、一通りは終わったから」

 と伯爵が言うと、老執事は背筋をスッと正しました。

「それでは、お客さまがお待ちです。伯爵さま。お早く」

「うん・・・」

 釈然としない伯爵でしたが、からみつく木々を彫刻した客間の重厚な扉を開け、西国の不死鳥を裁縫した絨毯の上に立っている男爵を見て、一瞬で納得しました。北国貴族の平服を着ていますが、その銀髪は短く、貴族の印である編み髪が満足にできてはいません。そして、そのコハク色の目には友愛の笑みがありました。

 伯爵は、その青年が誰であるか一目でわかりました。

 そして体の中から感動がわきあがってくるのを感じました。

「パルボ!」

「伯爵さま」

 頭を下げようとした青年を伯爵はガッシリと抱きしめました。

「ああ!パルボ!顔を見せてくるかい。立派になったなあ。これが、図書館にこもって本ばかり読んでいた、やせっぽちの少年とは思えないよ。そう!もう十五ヶ年!きみが帝立大に進学してから十五ヶ年になるんだね!しかし!きみ!魔法医マギア・メデシになるんじゃなかったのかい?爵位を拝領したなんて聞いていないよ」

「昨日、北国王陛下より拝領したのです。そして、すぐに伯爵さまにお知らせしなければと思い、その足で定期船に乗りました。伯爵さま。ごぶさたしておりました。伯爵さまにはお変わりなく。いえ、おいとまいただきました時より若々しさが増されたように思われます」

「ははは、おせじを言えるようになったとは、これまた成長したね。この白い髪は帝都で流行している白毛カツラじゃないんだよ」

 後からやってきたドクシスが自慢げに言いました。

「ほら、わたくしが申しあげた通りでございましょう?伯爵さまは一目でおわかりになると」

「そうですね。びっくりしました」

 と、笑う男爵とドクシスの顔を伯爵は交互に見ました。

「なんだね?」

「お恥ずかしながら、このドクシス、最初わからなかったのでございます。こちらの麗しい若男爵さまが、あの『パルボ・アシピオ』だとは」

「ああ、そうか。ぼくはパルボから、たくさん手紙をもらっているからね。中に入っていた魔法画マギア・イマゴも見ているし」

「おお、そうでございました。わたくしとあろうものが」

「ところで伯爵さま」

「なんだい?パルボ」

「奥さまのごかげんは・・・」

 そう男爵に聞かれて伯爵の顔に少し影がかかりました。

「うん・・・ニベウか。元気にしているよ・・・いや・・・パルボには正直に言うよ。ニベウの容体は十三ヶ年前からひとつも良くなっていないんだ。昼間の光だけではなく月の光も避けなくてはいけない。ろうそくさえも。今じゃ彼女の緑色照明魔法だけが唯一の明かりさ。手紙にも書いたけど、帝国内の名だたる魔法医マギア・メデシたちに診察してもらった。でも、みんな口をそろえたように『これは原因不明の強力な呪いで治療の方法が全くわからない』と逃げ出してしまうんだよ」

「伯爵さま。わたしはラクス家、そしてラクスの地の人びとには大恩があります。その恩を、わたしは何も返してはいないのです」

「その気持ちだけうれしくいただくよ」

「ですから、わたしは奥さまにかけられた呪いを解こうと・・・」

 男爵の言葉を伯爵は両手でさえぎりました。

「パルボ!いや!アンビティオス・バロ・クラルス卿。きみは忘れてはいないかい?『赤龍帝』の有名なお言葉を」

「『朕は民の臣である(わたしは国民のけらいである)』・・・ですか?」

「北国王陛下にクラルスの地を拝領したいと、きみが進言したのだね」

「そうです」

「やはりそうか。それでは、きみはクラルスの民に仕える人間にならなけばいけないよ。まず最初に領民全員が幸せになることを考えるんだ」

 男爵は悲しげな眼差しで伯爵を見つめています。

「きみが、あの土地でやろうとしていることは、だいたいわかる。犬面草の栽培、加工だろう」

「そうです」

「きみが魔法医になったのなら、すぐにでも、きみをニベウに会わせて診察してもらいたいさ。だが、きみは所領地を持つ男爵になったんだ。じゃ、きみが一番にするべきことはなんだい?」

「所領地に行き、領民に会うことです」

「わかっているじゃないか」

「はい。ですから今、連れの者に馬を手配してもらっています」

 そのすばやい行動に伯爵は少し驚きました。

 そして伯爵が少年だったころを思い出していました。

 先代領主である彼の父が存命中、町の噴水広場に手カゴに入れられた赤ん坊が捨てられていました。そのカゴの編み方、くるまわれていた毛布の柄、そして銀髪、コハクの目、まちがいなくクラルス人の赤ん坊でした。

 ラクスの人びとは赤ん坊の母親をさがしましたが結局見つからず、激怒した父は無期限のクラルス人の領内立ち入りを禁止し、すでに入境していたクラルス人も全て追い出しました。やり過ぎとの意見もありましたが、再発が無いようにと考えてのことでした。

 けれども、その反面『パルボ』と名付けられた赤ん坊は子供のいない老教師に引き取られ、不自由なく育てられました。

 ラクスでは六ヶ歳になると何か簡単な仕事を与えられます。午前中、その仕事をし、そして午後は無料の学校に行くのです。パルボは図書館の整理係になりました。それが彼の才能を開花させました。彼は天才でした。十ヶ歳で全ての書物を読破し、学ぶべき物は無くなり、やがて亡くなった老教師のかわりに教壇に立ち、年上の子供たちの勉強まで見てやったりしていました。

 そして父の死後、ラクスの新領主となった彼が奨学金を出し、十四ヶ歳のパルボを帝立大学に留学させたのでした(クラルス人の立ち入りも解禁しました)。

 パルボの希望で帝立大学では魔法医学を専攻し、卒業後も学内の研究施設に残り、数々の研究成果を上げました。そのひとつが『犬面草』の魔法エキス抽出法の発見でした。犬の顔をした花を咲かせるだけの役に立たない雑草と思われていたものが、難度の呪いに効果があり、呪われていない者には滋養強壮になることがわかったのです。ただ、一滴のエキスを抽出するのに一万本の犬面草が必要でした・・・

「伯爵さま。男爵さまの歓迎会のご用意は広間にいたしましょうか?または多人数を考えまして裏庭がよろしいかと」

 と、ドクシスが丁重に言いました。

「ドクシス。その必要は無いよ・・・」

 伯爵はコハクの瞳を見て、

「失礼ながら、アンビティオス卿。今すぐにでもクラルスに向かうおつもりですね」

 と、貴族同士で話す時のように背筋を正して言いました。

「マジェスタス卿。その通りでございます。かの地には日々の暮らしにあえぐ民が、わたしを待っております」

 堂々と話す男爵の中に『パルボ』と呼ばれていた少年の姿は消えていました。

「アンビティオス卿。所領地の立ち上げ時には何かと入り用でしょう。資金なり、物資なり、人材なり、喜んで提供させていただきます」

「お心づかいありがとうございます。ではひとつだけ・・・」

「ひとつだけとは遠慮深い。それは何でしょうか?」

「若い翔馬を一頭おゆずりいただけないでしょうか?」

 思いもかけない言葉に驚いた伯爵でしたが、次の瞬間、高らかに笑いました。


 自分を騎手だ、と言う青年は『イウベニス・スペセイ』と名乗りました。

「いやね、朝早ように定期船が着いてもて、伯爵んとこ行くんは、まだ早いなあ。腹減ったなあ。まず朝メシやて食堂入ったら、もうびっくり!やっぱりベリー酒の名産地だけあるな。水のかわりにベリー酒がテーブルに置いてあるんやもんな!しかもタダ!何杯飲んでもタダ!やったあ!思うて、飲んで飲んでして、すこぶるええ気持ちに酔っぱらって、ハッと気づいたら、ここに寝とって『あれ?なんでこんなとこに寝てんのやろ』って思てると、なんや女の子の声がして、良好の翔びしとる翔馬が上、翔んで、お日様ポカポカで、気持ちええ風がサアと、かいだことない花のええ匂いがして、ええとこ来たなあ、ここって意外にパラダイス?と思てたら、ハラ踏まれてハラ蹴られて、えらい災難。でもまあ、ちょうどよかった。そんなに時間たってないようやし、伯爵の家、案内してくれる?お嬢さま」

「それって昨日ですわ」

 間髪入れないソムニの答えにイウベニスの目が点になります。

「え?」

「お父さまから昨日、新しい騎手が来るように聞いておりましたのよ・・・」

「またまた冗談・・・」

 けれども真顔のふたりを見たイウベニスは、

「え?ほんま?昨日て・・・そやけど、あれ?おかしいな。なんやろ、このたっぷり睡眠をとったような充足感・・・ほしたらもしかして・・・おれって酔っぱらって丸一日ここで寝てたってこと?」

 と、辺りを歩き回って、ひとり言のようにしゃべりました。

 酔っぱらって次の日の朝まで野原で寝てしまうなんて、おかしいなひと・・・

 と、イニスとソムニは思わずクスクスと笑ってしまいました。

「ふふふ・・そうなりますわね」

 するとイウベニスはボサボサの黒髪をバリバリとかいて叫びました。

「あー!やってもーたあ!やっとクライアントついたと思たのにー!怒ってる?伯爵、怒ってる?そら怒ってるわなあ!案内して!早よう案内して!お嬢さま!」

「わかりました!わかりました!その前に、お嬢さまはやめてくれません?わたしはソムニ。ソムニと呼んでくださいませ!」

「ああ!ソムニさま!お願いします!」

「そして、この子はイニス」

「ああ!イニスさま!」

「あ、あの、わたしには、その、『さま』は、いりません・・・」

「さあ、イウベニスさん。お父さまのところまで案内してさしあげるわ。今ならベリー畑で働いていらっしゃるころよ」

「あ、ちょっと待って。ちょっとだけ・・・ええかな?イニス・・・」

 先ほどまでのくだけた感じから、急にまじめな顔になったイウベニスがイニスとリベルタを交互に見て言いました。

「はい?」

「ほんまは、おれ、きみに会いにきたんや。それと、その翔馬に。伝説の天馬の転生身に」

「え?・・・」

「さあ!行こ!すぐ!行こ!こっち?」

 と、走りだすイウベニスをソムニがつかまえます。

「ちがいます!そっちは林!ベリー畑はあそこに見えてますでしょ。あなた、ほんとに騎手なの?そんな方向音痴で?信じられないわ!まったくいいかげんってないわ!」

「いいかげん言うな!おおらかなんよ!おれは!」

 ぎゃあぎゃあ言い争いながらふたりは行ってしまいました。あとに残ったイニスはリベルタの首をなでながらイウベニスの最後の言葉を考えていました。

「天馬・・・あのひと、天馬って言ってたわよね?リベルタ」

 けれどもリベルタはイニスの口を長い舌でペロペロなめているだけでした。

「・・・わたしに会いに来たってどういうこと?」

 リベルタのたてがみが虹色に輝いて風に流れました。

 目をとじてイニスは深く一息、スウと吸い、ハアと吐きました。そして目を開けると、カゴを手に持って歩き出しました。

「さ!リベルタ!待っててね。ショウマノキの葉っぱ、たっくさん!つんできてあげる!」


 男爵がラクスの町を歩いています。

 石畳の通りは活気ある市場で、露店には帝国のあらゆる場所から運ばれた食料品や日用品、衣料品が並んでいました。人通りをかきわけて、少し季節遅れのコートと帽子を目深にかぶった男爵が一軒の食堂に入りました。

 食堂のテラスに並べられているテーブルのひとつにチーズをつまみにベリー酒を飲んでいる中年の男性がいました。細身の体を背もたれにあずけ、長い脚を組んでテーブルを横に座っています。茶色い目に、短い茶髪には白いものがチラホラと見えています。男爵は、その男性を見つけると横のイスに座りました。

「待たせた」

 先ほどの伯爵に見せた表情とは明らかにちがう男爵の一見冷ややかに思える顔、

「男爵さま、帽子とコートはそこにかけなよ」

 そして、そんなことは十分承知していると言った態度の男性の言い方、

「いや、このままでいい。この髪を見られると、わたしだとわかる人間もいる」

「それもいいじゃないか。あんたはラクスの英雄だろう?パレードだ、宴会だって大歓迎してくれるぞ」

 ふたりは友人と言うよりも『パートナー』と言った感じです。

「自分には、そんな時間はないんだ。ここの人間につかまったら一週間は酒を飲ませられる。まあ、世話になった人たちにだまっていくのは悪い気もするがな」

「そういうものかな・・・まあ一杯」

 男性はテーブルにふせてあったグラスを男爵の前に置いてベリー酒をそそぎ、男爵は給仕に『ワカサギのなます』を注文しました。

「ここの名物なんだ。ベリー酒に良くあう」

「へえ、おれは酸っぱいのは苦手なんだがね・・・」

 乾杯の後、給仕が置いた酢漬けの魚を口に入れたとたん男性は鼻にシワをよせベリー酒で口を洗い流しました。

 それを見て男爵は微笑んで言いました。

「ふふ・・・やっぱりだめかい」

 男性は給仕に何かをたのみました。給仕が持ってきたのは小さなつぼに入ったハチミツでした。それを男性が酢漬けにたっぷりかけます。そして一口食べて満足したのかパクパク食べはじめました。それを男爵がおもしろそうに見ています。

 ナプキンで口をふきながら男性が言いました。

「そう言えば、さっき、この店で面白い話を聞いたよ」

「なんだい?」

「昨日の朝、南国なまりの若い男が、この店でベリー酒を飲み過ぎて大騒ぎしたらしい。そいつは自分が帝都レース会の花形騎手で悠々自適だったんだが、伯爵に高額の契約金を積まれて渋々やってきたんだと言ったそうだ。しかし、店の人間は、酔っぱらいの空言と聞き流したんだと。たぶん、そのビッグマウスは、おれのよく知っているヤツにまちがいないね」

「だれだい?」

「イウベニス・スペセイさ」

「イウベニス・・・ああ、たしか、きみをなぐった騎手だな。ん?彼は追放されたんじゃなかったのか?」

「そう、何の因果か、おれと同じく北国に流れてきたようだな」

「ははは、くされ縁ってやつだな。それで馬はどうなった?」

「ああ、すぐに二頭、見つかったよ。なかなか良い馬だ。空は翔ばないけどな」

「ははは・・・では、準備を整えて行くか。さて、ここから南にくだると川がある。コルベル川だ。そこが領境になっていて塔橋を渡ると、右がべルース、左がクラルスへ行く道だ。今から出ると、クラルスには明日の昼頃には着くだろう。途中で野宿になるけどいいかい?」

「ああ、楽しみだ。野宿なんて帝都じゃ、なかなか味わえない体験だからな。それで男爵さま、翔馬はどうなった?」

「伯爵は、自分の持ち翔馬の一頭くらいなら快くゆずろう、と言ってくれたよ。だけど、まだ子どもだから引き渡しは夏になると言われた」

「上々だ。さっき、ここの上を翔馬が翔んでいるのを見た。風をふくんだ良好の翔びをしている。四頭とも良い翔馬だ。特に先頭を翔んでいた牝の紅翔馬が羽根のキレがいい。帝都レース会でも、あんなのはざらにはいないな。うん。あの子どもなら期待できるだろう。しかも、あの伝説の天馬の転生身だと言うんだからな」

「それが手に入れば上々だな」

「ああ、上々だ。ところで『図書館の君』には会えたかい」

 男爵の表情が微妙に暗くなります。

「・・・・」

「・・・悪いことを聞いたようだな。すまん」

「あやまらなくてもいい。最初から会えると思っていなかったからな。だけど彼女のために一本置いてきた」

「ああ、犬面草のエキスね。けど、あれだけじゃ足りないだろう?図書館の君の呪いを解くには」

「ああ、ぜんぜん足りない、はずだ。でも、それも計画のうちさ」

「計画って言うか、あれしかできなかったんだろ。今の状況じゃ」

「そう言ってもいい」

「何が『そう言ってもいい』だ・・・じゃあ行くか。男爵さま。あんたの故郷へ」

「わたしの故郷はここだ。しかし、それはここがゆるさない。クラルスこそが、わたしの故郷なんだろうな。やはり・・・さあ、行こう」

 立ち上がりながら男爵はポケットから、にぶく光る白金貨を一枚出してテーブルに置きました。それは帝国を統一した先帝『赤龍帝』の横顔が刻まれたプラチナのコイン。帝国では金貨よりも貴重とされ、むろん相当の価値があります。それを見た男性は驚いて言いました。

「おい、男爵さま。そりゃあ多すぎるぜ。せいぜい銅貨三枚だ、それだけあったら、なますが町分買えるぜ」

「いや、いいんだ。これも『我が復讐による帝国民幸福計画』のひとつだから」

「ふふふ・・・『復讐』と『幸福』てのが合わさったところがミスマッチでおもしろいな。だから、おれはあんたみたいな天才肌の連中が大好きなんだ。そんな突拍子もないことを思いつくあんたと一緒にいられて野宿までできるなんて最高に愉快だぜ」

「『なます』に『ハチミツ』ほどじゃないけどな」

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