新しい朝
⑬ 新しい朝
曙に染まった火山マンス・ディプドラの右肩から赤い光の矢を四方に放ちながら紅顔の朝日がゆるゆると昇ってきました。火口の真上には星々の長子、青き星が主人の道行きを案内しているかのようです。火山の足下では、たゆたうさざ波に湖面を輝かせてアルタス湖がまどろんでいました。
そこに形を持った疾風が一群となって湖面を走り、湖を目覚めさせました。その風には何十もの色が、山吹色、深緑色、紫、紺、藍、桃、栗、金、青、銀、紅、漆黒、黄土、褐色と鮮やかに重なり、きらめき、波打っていました。
それは翔馬たちの朝の旋回運動でした。けれども、いつもの運動とは違って、レースに参加した翔馬たちも一緒なので十数頭もの大群となっていました。
「まあ!あんなにたくさんの翔馬を見たのは初めてかもしれないわ。ほんとにきれい!まるで西国の螺鈿細工のようね。ソムニ。そう思わないこと?」
「ええ、お母さま。お母さまが大事になさっているお化粧道具入れの模様のことでしょう?」
「そう、そうよ。うふふふ・・・ねえ、イニス、あなたのかわいいリベルタはどれ?」
「銀色の、あ、今、先頭になったのが、そうです。奥さま」
「まあ!あれが!虹色のたてがみが日の光になびいて、なんて美しい翔馬なのでしょう!」
キラキラと目を輝かせて伯爵夫人が笑っています。屋敷の庭で伯爵夫人を中にしてイニスとソムニがよりそっている姿は、まるで歳の近い三姉妹のようでした。
美しい金髪に新雪のような白い肌、そして伯爵夫人は薄紅色のローブを着ていました。緑色の光を離れれば別の色になるとは思わず、それはだれもを驚かせました。長い年月、閉ざされた場所にいたはずなのに意外にも足取りは、しっかりしていて車イスは不要なようでした。
「イウベニスくん」
三人の後ろ姿を複雑な気持ちで見ていた伯爵が隣のイウベニスに言いました。
「きみには感謝しなければいけないね。妻の呪いをウソだと見破ったのはきみだけだ。わたしたちは誰も気づかなかった」
その隣でラボロリスが神妙にうなづいています。
「いや、まったく、イウベニスのおかげだべ」
「それは違います。ぼくが気づけたのは、ぼくがラクスの人間やないからです。ラクスの人たちはアクテさんの名前の呪いにかかっとって、アクテさんの事を忘れていた。だから、その呪いに対抗する『断ち』にも気づけなかった。それだけです。それに奥さまも、こうなる事を覚悟してはったと思います」
「覚悟?と言うと?」
「イニスの騎乗姿を見てラクスの人々にアクテさんの思い出が帰ってきている、としたらレースでイニスが勝てば完全に呪いが解ける、と思われはったんです。で、実際にそうなった。せやからレース前にイニスと自分にアクテさんの話を話してくれた。そうやろ?ラボロリスさん。あんたはアクテさんに一番親しい人や。せやから思い出も呪いも一番深い。せやから思い出が帰ってくるのも一番遅かったはずや」
そう言われてラボロリスは、ずずと鼻をすすりました。
「ああ、伯爵さま。イウベニス。なさけねえ話、先ほどやっと奥さまの部屋で思い出しましただ。アクテがいなくなる日、赤ん坊のイニスを抱いて、あいつが泣いとりました。『なして泣いてるだ?』と、あたしが訊くと『ごめんなさい』とあやまりました。『なしてあやまるだ?』そしたらあいつイニスをあたしにあずけて『これよ』と見せた手のひらに恐ろしい鬼の顔のような呪紋がありましただ。『あれは心を鬼にする』と言うような意味もあったんでしょうなあ・・・」
「イウベニスくん」
伯爵がひとつ小さなせきをして訊きました。
「この呪いを解いた原因は何だと思うね?」
「それは・・・」
イウベニスが美しい風景と仲のよい三人の女性をながめて言いました。
「『希望』やと思います」
「『希望』・・・」
「『希望』は呪いの真逆みたいなもんやと思います。よくなる、よくなろう、よくなりたい、よくなってほしい、そんな気持ちが呪いを打ち負かしたんです。アクテさんがいなくなった悲しみが呪いを育てたように、リベルタに乗ったイニスが希望を育てたんです」
「ああ、だからだね。ラボロリス」
「ええ、伯爵さま」
納得しあっている二人を見てイウベニスが訊きました。
「何がですか?」
「実はイニスが翔ぶ前に一瞬、少しだけ彼女の思い出が帰ってきたんだよ。ぼくたちふたりに」
「え?いつですか?」
「イニスが卵からリベルタをかえしたのを見たときだよ」
「ああ!そうやったんですか!なるほどなあ!その時に『希望』が生まれたんですね!」
と、うれしそうにうなづいているイウベニスをイニスはチラリと見て、三人で何を話しているのかしら、と思いましたが、伯爵夫人に腕を引き寄せられて視線をもどしました。
「イニス!あなたの騎乗姿を早く見たいわ。それはそれはアクテにそっくりなんでしょうね。あの呪いを解いてしまうくらいなんですもの」
「奥さま。本当にありがとうございます」
「なにが?」
「わたしのために『断ち』をなさってくださったのですよね?わたしのお母さんの思い出をおひとりで守って、いつかわたしにお話してくださるために」
「それもあるけど、それだけではないわ」
「え?」
伯爵夫人はイニスとソムニの顔を交互に見て言いました。
「アクテとわたくしは短い間でしたけど、とても仲の良いお友だちでしたのよ。ちょうどあなたたちのように・・・」
「わたしたちのような・・・」
「そうよ。秘密を共有しあう仲よ」
あ、と言ってソムニが口に手をあてましたが、続けて伯爵夫人が言いました。
「アクテとわたくしはとても気が合いました。同じ歳でしたし、形が違えど、どちらも魔法を携える者。アクテは海の魔法の上達者、翔馬騎手で、空が彼女の活躍の場所。わたくしは帝国魔法の従事者、緑の予言者で、あの暗い緑の部屋が、わたくしの仕事場。そういう同じところ、違うところがお互い良い刺激となっていたのです」
伯爵夫人は、ひとつうなづいて続けました。
「若いころから孤独な予言者だったわたくしにとってアクテは唯一の親しいお友だちだったのです」
ああ、奥さま・・・
泣いていらっしゃる・・・
笑っていらっしゃるけど・・・
涙が・・・
「ですから、あの偶然に生まれた呪いを、あの忌まわしい呪いを、わたくしが止めるのも聞かずに彼女が使ったとわかった時、わたくしはとっさに光を断ちました。あの時、わたくしができる最大効力を持つ『断ち』は『光断ち』しか思いつかなった。わたくしは忘れたくはなかったのです。短くとも楽しかったアクテとの思い出を忘れたくはなかったのです。
初めて出会ったとき、ほっそりした長い両手で抱き寄せられて『あなたに会いに来た』と言われたこと。
朝方まで新しい魔法について、ふたりで熱く語り合ったこと。
素朴な調教師助手に恋をしたと顔を赤らめて相談されたこと。
黒髪のショートヘアを指ですきながら分厚い本に没頭している横顔。
小麦色の笑った顔に右側だけにできるえくぼ。
翔馬に乗ったアクテに手を振ると、どんなに遠くても、すぐに振りかえしてくれた・・・
そんな何気ないひとつひとつのことを忘れたくはなかったのです」
そして、ひとしずく涙を流して、
「ごめんなさいね。ソムニ。わたくしのわがままであなたや伯爵さま、イニス、そしてみんなに悲しい思いさせてしまって・・・ゆるしてね・・・」
と伯爵夫人が言うと、ソムニも泣きながら答えました。
「いいえ、お母さま。わたくしもイニスがそうなったなら同じことをいたしますわ。年いくつでも、何十ヶ年でも、光どころか飲むのも食べるのも断ちます」
「まあ、やめて。ソムニ。そんなことしたら、あなた死んでしまうわ。呪いを断つどころか命を断つことになってしまうわ」
と伯爵夫人が言うと三人は泣きながら笑いました。
ソムニ・・・
イニスが見ると、涙をぬぐいながらソムニが笑い返してきました。そしてやさしく手をにぎります。
もうそれだけで十分ふたりはわかりあえたのでした。
せやけど、気になることがある・・・
イウベニスがイニスの背中を見ながら思いました。
イニスの足指のことや・・・
あれはもしかして呪いの遺伝・・・
そのこともあってアクテさんは・・・
それはおそらく伯爵夫人も気づいてて・・・
これからどうなるかわからんけどイニスから目をはなさんようにせんと・・・
「けれど、お母さま」
ソムニが伯爵夫人の腕を握って言いました。
「イニスのお母さまの呪いって叔母さまの呪いの断ちなのでしょう?その呪いを解いてしまったら、叔母さまの呪いの断ちにならないのでは?」
「さすが、ソムニ。よくお気づきね。でも大丈夫。わたくしもそれを心配してカードで遠隔視してみました。そうしたら叔母さまの呪いは進行してはいませんでした。他のアクテの断ちが効いているのでしょうし、もしかしたら・・・」
伯爵夫人は、まっすぐイニスを見て、
「これまでのイニスの希望あふれる行動が叔母さまの呪いを解いたのかもしれません。いいえ、解いたと、わたくしは信じています」
そしてイニスの足下に目を落として、
「それはイニス、今の無事な姿のあなたを見ていてもわかります」
と、言いました。
「え?それはどういう・・・」
イニスが質問しかけたとき、
「あなたに渡すものがあります」
夫人はポケットから、ある物を取り出してイニスに手渡しました。
「あ、人魚・・・」
それは微笑み、手を振る人魚のペンダントでした。
「やっと、それをあなたに渡せたわ・・・それは唯一、アクテがあなたにって残していった物よ。赤ん坊だったあなたはアクテの呪いにかかってはいません。だから小さな小さな思い出でしょうけど、覚えておいてほしかったのでしょうね」
じっとペンダントを見つめた後、イニスは顔を上げて言いました。
「奥さま。わたし、母の声を聞きました」
「え?どこで?」
「レース中です。ゴール前でリベルタが遅れそうになった時、母の声が聞こえて、そして、わたしを助けてくれたんです」
それを聞いて伯爵夫人は安心したように、ほっと吐息をついて言いました。
「ええ、そうでしょうね。イニス。アクテ、いえ、あなたのお母さまは、ずっとあなたのことを見ていらっしゃったのよ。今も、そしてこれからも・・・」
「奥さま・・・」
イニスはペンダントを握りしめて訊きました。
「わたし、母に会えるでしょうか?」
「ええ、会えるわ。きっと・・・あなたもアクテも翔馬騎手。あなたが翔ぶ先に必ずアクテはいます。だって・・・」
伯爵夫人は広く大きい青空を見渡して言いました。
「空はひとつしかないのだから・・・」




