収穫祭レース2
⑫ 収穫祭レース2
ドウウウン!
十頭の翔馬がいっせいに駆けだしました。
ドッドッドッと地面をゆさぶる音が斜面の草原に突きささりました。
けれども、それはだんだんと静かになっていきます。
そして翼が空気をはらんで風にする、バサバサという音に変わっていきます。
湖がせまります。
一番に空へと翔びだしたのは、なんとヴェロックスでした。
それに続いてベルースのユベンタス、ヌツリオのスピラティオ、あとは一群となって最後にリベルタが翔びました。
「ふうむ。出おくれただか」
「まあ、予想通りのスタートや」
ラボロリスは、これから必要になる双眼鏡をイウベニスに渡しながら言いました。
「んだが、なしてヴェロックスはあんなに翔ぶだ。ありゃあ、あとでバテるだぞ」
「プリタスに、なんか考えがあるんや」
ヴェロックスはグングンとスピードをあげて湖の上を翔びます。青い湖面に青い翼が映りました。
「よし!男爵さまがよろこぶぜ!いけ!ヴェロックス!」
と、プリタスはかかとをヴェロックスの脇腹に押しつけてスピードを出させました。
けれど、そんなことをしなくても血気盛んなヴェロックスは速く翔びたくてしょうがありません。風を起こす自分の翼が気持ちよくてしかたがないのです。
〈やった!ぼくが先頭だ!〉
最後尾のリベルタは落ちついていました。
自分でもなぜだかわかりませんが落ちついていました。
そしてイニスも父の教えられたとおり、あせらずに自分が今いる位置を守っていました。
十頭の翔馬が湖面をすべるように翔ぶ姿は美しく、それを観ている人びとは動く絵画のように思えました。湖に船の群れ、その空中に浮游船の群れがコースをかこむように浮いており、その上の観客は興奮して手をふっていました。
コースは湖面上をまっすぐ走り、火山の南斜面をめざしています。
いぜんトップはヴェロックス、負けじとユベンタス、スピラティオが続きます。後は一群、そして最後はリベルタでした。
もうすぐ湖の対岸に着きます。
そこは湿地帯でした。あちこちにはえたアシの先につかまって、たくさんの小さい人影が手をふっているのにイニスは気づきました。
「小さき精霊たち!」
こんな昼間に彼らを見たのは初めてでした。けれども、もしかすると気づかないだけで昼間も出てきて翔馬が翔ぶのを、ずっと見ていたのかしれません。そしてリベルタをおぼえていて応援してくれているのかもしれません。
そう思う間に翔馬たちは針葉樹の林に来ました。
ここからは斜めに上昇して火山の南側に向かいます。
「アンビティオス卿。貴公の作戦ですかな?あのヴェロックスの翔び方は?」
と、北国王が楽しげに言いました。
末席にいた男爵が答えます。
「そうです。そう騎手に指示いたしました」
「はっははは!マジェスタス卿だけではありませんでしたな!楽しい趣向をこらしていたのは!」
けれども、男爵は笑いませんでした。
コースは林からゴツゴツとした溶岩の斜面の上に出ました。
上昇角度も大きくなります。
火山マンス・ディプドラの頂上が眼前にせまります。
火山には『双頭の竜』の名の通り、ふたつの頭を持った竜が眠っています。イニスは、その竜も起きてきて火口から首を出してレースを見物するかもしれないと思いました。
ここからは火山をぐるりとまわって折りかえします。
「おお!いた!ヴェロックス!見ろ!おまえの味方だぞ!」
と、プリタスが火山の向こうの荒れ地を指さしました。
そこには狼煙が三本上がっていました。そのそばでたくさんの人びとが手をふり、よろこんでいるのが見えました。それはクラルスの領民でした。
自分たちの翔馬が先頭を翔んでいる・・・
銀翔馬ではなく青いが、まちがいなく、あれはクラルスの翔馬・・・
それが十頭の中で一番速いのだ・・・
その姿を領民に見せたくて男爵はヴェロックスを速く翔ばさせたのでした。
ここで見たことを領民たちは新しい言い伝えにして語りついでいくことでしょう。そして、これが彼らのほこりとなるでしょう。
「よし、ヴェロックス。休んでいいぞ。あとは終盤まで温存だ」
と、折り返してクラルスの人びとが見えなくなるとヴェロックスを下げさせました。ヴェロックスも、ここまで全力で翔んできて疲れが出てきていました。すっぱいにおいの汗をかきはじめ、息も荒く「クルルクルル」と口の中でつぶやいています。
ユベンタス、スピラティオが前に出ました。
折り返して、ここからは下りです。今度はななめに下降します。上昇する時に翼をはばたかせたのとは逆に翼を広げ、滑空しながら風切りばねで調節しておりていきます。翼を休めるチャンスですが、ユベンタスとスピラティオは少し翼をしぼませて速度を増しました。
双眼鏡をのぞきながらイウベニスが言いました。
「思うた通りや。おっさん。ヴェロックスは下がったで」
「ほう、なるほどな。クラルス人に見せつけるのが目的だっただな」
男爵もひとつ目的をはたしてうなづいていました。
「しかし、これだけじゃない。たのんだぞ。プリタス」
翔馬たちは溶岩群から針葉樹林、そしてまた湖へと帰ってきました。
「ここからは左よ。リベルタ」
翔馬の群れは横に広がって、自然と『ブーメラン形』に並んだ編隊になっていました。誰かが翔んだすぐあとは空気の渦が巻いて翔びにくいものです。『ブーメラン形』に広がった方が楽に翔べるのです。リベルタはその一番左端につきました。
湖に着くとコースは左にそれて滝へと向かいます。
サーペンの滝に近づくにつれてドウドウと腹に響くような音が聞こえてきました。
「おっさん。もうここからは見えん。ゴールに移動するで」
「ああ、わかっとるだ。さあ、急ぐだ。ああ、すまこってす。失礼します。失礼します」
と、ふたりは人ごみをかきわけ移動しました。
やがて地の果てのように水が落ちこむ滝が近づいてきました。
「さあ、リベルタ!もうすぐ滝よ!」
そのイニスのかけ声に「クルゥ!」とリベルタが答えます。
先頭から順番に翔馬たちが滝へと落ちます。
すぐにリベルタの番が来ました。
「リベルタ!行って!」
と、イニスは前に体をたおして急降下の姿勢をとりました。
リベルタは翼をすぼめて、前足をまげ、頭をまっすぐに落とし、恐怖を後ろに投げ捨てて落ちました。イニスは両足でググッとリベルタの胴のはさんで離されまいとこらえます。リベルタの脚の向こうは止まっている水の壁でした。それは一瞬でしたが落ちる水と同じ速さになっていました。その間にイニスの目に一瞬、橋が見え、その上から見下ろす群衆が見え、サイエンの貯蔵庫が見え、その二階の小さな通気口から先の割れた舌がチロチロと出ているのが見えました。それが見えるとしたらおそるべき動体視力です。イニスにはやはり天性のものがありました。けれども、当の本人は夢中でそんなふうに思えるひまなどありません。
「リベルタ!」
今度は手綱を引きました。
リベルタの翼がババッと大きな音を立てて大きく開きます。グンと落ちる速度が落ち、滝つぼ間近の水面ギリギリで方向を変え、ビシャッビシャッとリベルタの脚が水を蹴り、進む方向が川と水平になりました。そしてイニスはすぐに左に手綱を切り、左のあぶみを踏みこんで体重移動をしました。リベルタがかたむき、左に曲がります。
コルベルの川は曲がりくねっていて右側は街の石壁、左側は自然石と常緑樹に囲まれた、せまい回廊です。
その間をイニスは左、右、左、右、右とラボロリスに教わったとおりに手綱を切り、体重移動をくりかえしました。せまい川の上をリベルタは難なく、すりぬけていきます。何頭かの翔馬をぬいたような気がしましたが、かまっているひまはありません。
回廊をぬけて開けた場所に来ると川の右が低い家屋、左が牧草地帯となっていました。そして川は右にゆるりとしたカーブを描いていました。
レースコースは水を離れて直線、牧草地帯へと入ります。緑の草原が続くコース上に、まっすぐ天へと昇るロープがありました。
その太いロープは牧草地の人々が集まる中央、巨大な岩に結ばれていました。竜が二つの首をもたげているように見える『双頭竜の岩』。人差し指と中指を立てた形にも似ています。むかし、ここに住む双頭竜が火山に隠れる時、自分を思い出してほしい、と置いていったと伝わる岩です。
岩の、ふたつの首の根本に結ばれたロープは上空、低い雲の高さまで伸び、そこに浮いている一隻の浮游船で終わっていました。低い、と言っても地上の人々、誰もが見上げる高さです。
「リベルタ。ここから上昇よ!」
ロープに着いた翔馬から順番にロープを中心にして、らせん状に上昇していきます。
何かの偶然でせいでしょうか。双頭の岩からは牧草地一帯で一番上等の上昇気流が巻きました。あたかも古の竜が高々と吐いた咆哮の息だけが、いつもまでもこの場所に残っているかのようでした。
大きく広げた翼を帆にして下からの風にふくらませ、前足をグッと前に押し上げ、少し左に傾けさせた体勢で翔馬たちがクルリクルリと回転し、音もなく上昇気流のらせん階段を登ります。
空を翔ぶ者にとって最も気持ちの良いのは上昇気流に乗った時です。それは文字通り『気分上々』と言う感じで背中に乗っている人間にも伝わってくるほどでした。翔馬たちは「クゥオオルルルン!」と歓喜の声を上げ、自分の体が風の力でグイグイと持ち上げられることに酔いました。
まさに『風になる』とは、このこと。
リベルタは自分のななめ前に三色の風を見ました。ユベンタスの山吹色、スピラティオの深緑、ベスティアの紫です。ふりかえると、すぐななめ後に青い風が目の端にありました。
ふと目を落とします。
それはヴェロックスの青でした。
〈銀の同志!ぼくたち、あの滝をこえたんだよ!すごいね!〉
と、うれしそうなヴェロックスの声。
〈青の同志!そうです!すごいです!〉
同じくリベルタが喜々として答えます。
〈それに!ああ!青の同志!この感じ!なんてステキな上昇気流なんだろう!〉
ヴェロックスと翔べるのが楽しくなってきました。リベルタは最初にふたりで翔んだ時の感動が帰ってくるのを感じました。ヴェロックスも楽しそうです。
人混みの中からイウベニスとラボロリスが見上げていました。けれども遠すぎて翔馬たちが、空の青いキャンパスを上に移動するだけのただの点にしか見えません。
「おっさん!イニスは何番手に昇ってきた?」
「わからねえだ!ええいクソ!こんなに人が多くちゃあ、まともに双眼鏡なんぞ見てられねえだ!」
「しゃあない!とりあえずゴール行こ!」
貴賓席では北国王が遠望魔法で増強された双眼鏡をのぞいていました。
「おお!なんとも美しい光景ではないか!マジェスタス卿!列をなした翔馬たちが優雅に上昇する姿は!それも我がユベンタスを先頭にしているところがまたなんともすばらしい!」
双眼鏡から目を離し、伯爵が言います。
「陛下。以前、東国におもむいた折りに見ましたが、かの地の竜は胴がヘビのように長く、空をうねるように飛びます。あれはまるで、その竜が天昇しているように見えます」
「なるほど。それではさしずめ我がユベンタスは『竜の頭』、その後を翔ぶのは『竜の胴』、マジェスタス卿のリベルタは『竜の尾』ですかな!わははは!」
「陛下。この後、その竜の体がひっくりかえるほどの展開が起こりますぞ」
「はっはっは!それは楽しみだ!」
やがて翔馬たちのスパイラルはロープの頂上の浮游船に到着します。
浮游船には審判員が待機していました。審判員の数は十人。各々、担当の翔馬が昇ってくるのを待っていました。翔馬が浮游船の位置より高く昇った事を確認し、持っている紋章旗を上げて知らせるのです。旗が上がらなければゴールへの降下はできません。
「リベルタ!ここが一番、上よ!」
リベルタが浮游船を越えて、はるかな高みへと到着しました。先行する翔馬たちは自分の旗が上がるのを確かめて翼をすぼめ、降下の体勢、順次、体を沈めており、今は四番手のリベルタが頂上へと来ていました。
浮游船を通りすぎ、担当審判員が双頭竜と大蛇のラクス紋章旗を上げるのを見て、あぶみを踏みしめ、手綱を握りひき、腰を浮かして、体をグイッと上げます。その合図でリベルタが空中に一瞬、停止しました。その、ほんの一瞬のできごとにすぎないのにイニスには時が止まったかのように思えました。
すべての音が消えます。
真下に広がる緑の草原、左下方にカビのようなレンガの街、自分を中心に廻る地平線、その先以上続く道、そして青が流れ落ちてきそうな大空。
また円形劇場に帰ってきました。
そんな思いがイニスの体を突きぬけます。
ボロアの魔法で飛ばされた時とは違って、空からの景色を見渡す余裕など今のイニスにはありません。けれども、あの時にはリベルタに騎乗しているという、その安心がありませんでした。だから一瞬でも今は十分に『世界』を感じることができました。
その一瞬に、イニスの体は無重力となり、彼女は宇宙の一部、この星と同格になりました。むろん知識の幼いイニス自身に、このようなはっきりとした自覚はありません。けれども『世界』が、この『星』のことなら、今また彼女自身も『世界』だったのです。
『感じる』
そのこと自体が『世界』を表していると言っても良いでしょう。
『世界』を『感じる』ことで『世界』が『存在』するのですから。
腰を上げた状態でイニスは上半身を前にかたむけ、リベルタのたてがみに手綱ごと胸を押しつけました。靴の下であぶみがギュッとうなります。
「リベルタ・・・」
「クゥ・・・」
「さあ!行って!」
「クゥルル!」
高らかな一声とともにリベルタの翼がすぼまります。鋭く翼角を前に突きだし、風切り羽根をたたみ、雨覆いだけで流れる空気を包みこみました。
ゴーグル越しに見えるイニスの視界は空の青が上方へと移り、草原の緑へと変わりました。ほとんど真っ逆さまと思えるほどの降下角度。実際は四十五度強。けれども落ちる者には、それ以上に見えます。
急降下の悲鳴がピュウピュウとイニスの鼓膜に刺さり、人と翔馬の体のすきまに入った高速の空気がリベルタからイニスを引き離そうとやっきになりました。けれども、イニスの方も手綱をひねるように握り、ひじとひざで翼の付け根を両側から押さえ、内ももでリベルタの胴体を強くはさみこんでいました。人翔馬一体の降下体勢です。
イニスが必死の思いで奥歯を噛みしめていると、なんとも言えない苦い味がしました。
前方の草原の中、小さく細かった橋塔がだんだんと成長し、ゴツゴツと石の表面を見せはじめました。その領境になっている橋の石塔の左側から回って右に九十度ターンしないといけません。
「やるじゃねえか。おじょうちゃん」
前を行くイニスの背中にプリタスがつぶやきます。
「けどな、おれも子守にあきたんでな。先に行かせてもらうぜ」
プリタスが騎乗鞭でヴェロックスの胴腹を猛烈に打ちつけました。
「さあて!ヴェロックス!もっと前に行くぜ!」
「クルオオオン!」
一声鳴いたヴェロックスがさらに翼を小さくし、降下速度を上げ、リベルタをぬきました。そして前を翔ぶ二頭をも軽々と抜き去ります。もう、すぐに橋塔です。
「おお!なんと!」
北国王が驚きの声を上げました。
「ヴェロックスが追い込んだ!しかし、なんとも無謀な!あの降下速度は安全限界を越えとる!あれでは塔を回りきれずに地面に激突するぞ!一体どうするのだ?アンビティオス卿!」
興奮する北国王と貴族たちとは対照的な男爵の態度。ゆっくりと双眼鏡を下ろし、北国王に笑顔を見せました。
「陛下。ご心配なく。騎乗しているのはベテランの元帝都騎手。彼は北国辺境のわたしたちも知らないような奇抜な騎乗法をも心得ております」
先頭のユベンタスは騎手と翔馬が一体となった降下体勢のまま、体を右に傾け、塔を中心にした、きれいなカーブを描いて難なく塔をターンしました。
「おー、まさにクソおもしろくもねえ教科書的なターンじゃねえか」
その後に続くのがプリタスのヴェロックスです。けれどもヴェロックスの速度は尋常ではありません。
「まあ、普通の乗り方じゃあ、この速度で回りきれねえよなあ・・・だったら、こんなのはどうだ!」
プリタスが体を上げました。そして手綱を持ったまま立ち上がります。その手綱の長さは通常の二倍はあるでしょうか。あぶみで立ったまま、手綱を強く引き、軽く折りまげた足腰でうまくバランスをとります。すると塔の手前の絶好のタイミングでヴェロックスが急減速しました。
「あー!」
ようやくゴール地点に着いたイウベニスが双眼鏡に目をつけたまま大きな声を上げました。
「どうしただ?イウベニス!」
「あのターンをやる気や!プリタス!あいつ!ムチャしよって!」
プリタスは自分の体自身をエアブレーキにしたのです。
「おりゃあ!」
プリタスが右に大きく体重をかけるとヴェロックスの体がほとんど横倒しになりました。プリタスの頭の先には塔の石壁、ヘルメットにぶつかるのではないかと思えるくらいのスレスレの近さです。最小半径のターン。ゴーッと轟音を上げて岩壁が後へと流れます。
「よし!ヴェロックス!」
カーブを曲がり終えたヴェロックスが姿勢を戻します。プリタスは鞍に座り、すばやく手綱をたぐりよせ、短く持ち直しました。
「良い仕事だったぜ!さあ最後の仕上げだ!」
「クゥオルン!」
「おお!やりよった!」
突然の思わぬ展開に北国王の鼻息が荒くなりました。
「まさか翔馬の上に立ってカーブを曲がるとは!あれは!あれは何という騎乗法かね?アンビティオス卿!」
「陛下。あれは昔、『西国の人喰い人魚』と呼ばれた女性騎手が考え出しました騎乗法で『人魚ターン』と呼ばれるものです」
「『人魚ターン』!ううむ!海の無い北国で人魚の騎乗法とは!はっはっは!おもしろいものを観せてもらった!」
「『人魚ターン』?あれをアクテが考えたって言うだか?」
ラボロリスも双眼鏡をのぞきながら喚声に負けない大声を上げました。
「そうや!あんたの奥さんでイニスのお母さん!あのアクテさんや!」
「あんな危険なターンを考え出すような女じゃねえだぞ。アクテは」
「おっさんが知っとるアクテさんは、そう言うのをみんなやめた後のアクテさんや。帝都におった時は、そらスゴかった、らしい。話に聞いただけやけど。ところでおっさん『手綱を長くしたらあかん』というレース規定は無いやろ」
「ああ、手綱の長さは自由だ」
「そうや。長くしたところで利点がないと思われとったからや。とうぜん不利な体勢やろと思われる『立って騎乗したらあかん』という規定も無い。それをアクテさんは逆手にとって、あのターンを考え出したんや」
「あのアクテが・・・」
「他にもアクテさんは危険な騎乗法を考え出した。みんな常識ぱずれの奇抜なもんばっかりやった。で、アクテさんひとりやっとるだけやったら問題はないやろけど、負けず嫌いの騎手どもや。女性のアクテさんに負けるかって、男性騎手のどいつもこいつもがマネをした。そんでケガ人続出で大問題になったんや。それからアクテさんは『男つぶしのアクテ』ってありがたないふたつ名までもろたんや」
「うーん、アクテのやつ、そんな騒動があったから、こっちへ逃げ出してきたんだべなあ・・・」
「まあ、それだけやないけど・・・あ!リベルタや!」
橋塔を回ったのは、ユベンタス、ヴェロックス、スピラティオ、ベスティア、リベルタの順。翔馬たちは橋塔を回り終えるとラストスパート、力いっぱい羽ばたきました。
ゴールまでの一直線はこの五頭にしぼられました。
ここからはラクスの街の上を翔びます。
ゴールは伯爵邸前に建てられた二本柱の間です。
街の通り、庭、テラス、バルコニー、屋上、屋根の上まで埋めつくした観衆のどよめきはイニスの体がふるえるほどでした。
「リベルタ!もう少しよ!がんばって!」
イウベニスがさけびます。
「来たで!おっさん!リベルタは五番手や!」
ラボロリスがこぶしを振ります。
「よし!イニス!行くだ!」
「イニス!がんばれ!世界への一歩はもう少しや!」
北国王が席を立ちます。
「はっはは!やはり!ゴールはわがユベンタスのものですな!」
伯爵が息を飲みます。
「陛下、まだまだわかりません。わたしはイニスを信じております」
ソムニが祈ります。
「イニス!がんばって!勝って!おねがい!」
男爵が手すりをにぎります。
「プリタス!クラルスに勝利をくれ!」
たくさんの思いが、このレースにこめられていました。
ゴール直線での順は、やはりユベンタス、ヴェロックス、スピラティオ、ベスティア、リベルタ。けれども各々その差は首ひとつから一馬身ほどでなかなか縮まりません。けれどもヴェロックスが先頭のユベンタスにジリジリと迫っていました。
「おら!ヴェロックス!ふんばれ!」
プリタスは思いました。
男爵とふたりで訪れた時のクラルスは、まさに不毛の荒れ地で地獄に堕ちたと思った・・・
このゴールへの空の道は再生への道だ・・・
プリタスはふるえてはいましたが、それは恐怖や絶望ではなく武者震いでした。
「絶対!」
それは誰も知らない彼の口癖でした。
「地獄の底から舞い戻ってやる!」
いつも口の中で繰り返していました。
「どんなことをしても!」
もしかすると、これも一種の呪言なのかもしれません。
「こりゃどうだ!ヴェロックスが上がってきただぞ!」
「プリタスの執念やな!人魚ターンといい、最初の飛び出しといい、これはただで勝とうと思うてないで!とにかくド派手に自分の力を見せつける気や!」
「そしたら最後にまた何か出すって言うだか!」
「そうかもしれんし!そうでないかもしれん!」
「なんだら!どっちだら!」
「いや!おれにもわからんのや!」
「そうだ。プリタス。そのまま・・・そのまま・・・」
打ちのめされた人間が、たったひとつのチャンスをたぐりよせて成功へと立ち上がる・・・
男爵は、その姿をプリタスに見て、それを生で観察したい、と思っていました。
それが彼のためにも、自分のためにも、クラルスの人々のためにも、そして帝国国民全体のためにもなるのです。
けれども、ひとつだけ気がかりなことがありました。
あせりによって彼が昔の失敗を繰り返しはしまいか、と言うことでした。
流れる虹色のたてがみ、ピンと立った銀色の耳と耳の間の向こうに二本の柱のゴールが見えます。
「さあ!リベルタ!いい?」
と、イニスは父に言われたとおり騎乗鞭を振りました。
ビシッ!
それはリベルタにスパートの合図を送る鞭の音、
「どうしたの?リベルタ!」
そのはずなのにリベルタの速度が上がりません。
はばたきの様子は先ほどまでと大差ないように見えました。
他の騎手は翔馬にバシバシと鞭を打ちつけています。
大きく羽ばたく翔馬たち。
その激しい勢いの羽ばたきは屋根の上の人たちをたおしました。
熱狂する観衆が声を張りあげています。
それは地響きかと思えるほどでした。
おおおおおおお!
イニスは何度も鞭をふりました。
ビシッ!ビシッ!
リベルタが少し遅れてきました。
「リベルタ!しっかり!」
けれど他の騎手たちのように鞭をリベルタの体に打ちつける気など、どうしてもイニスには起こりません。当然、リベルタがイニスの子ども同然だから、と言えましたが、それは翔馬を愛するラボロリスとイウベニス、ふたりの先生の方針でもありました。
ビシッ!ビシッ!ビシッ!
だんだんとリベルタの体が馬群から離されていきます。
「ああ、あかん!リベルタが遅れてきた!」
イウベニスが左こぶしを上げました。
「ちゃんとイニスは鞭をふっとるのに。こりゃあ、だいぶリベルタのやつバテてきとるだか?」
「バテてんのは、どの翔馬も同じやと思う。もしかすると、うまいこと鞭のスパート合図が伝わっとらんかもしれん」
「そっただことねえはずだが・・・ああ!もしかして、こっただ大事も大事なとこで、あいつの悪いクセが!」
「うー・・・そうかもしれん」
そこから先は、ふたり同時にしぼりだすような声を出しました。
「『お先にどうぞ』・・・」
色とりどりに羽ばたく翔馬たちの翼を後ろから眺めながらリベルタは思っていました。
お母さん・・・
ぼく、イッショウケンメイやったよ・・・
お母さん・・・
これだけやればほめてくれるよね・・・
もういいでしょ・・・
ねえ、お母さん・・・
「リベルタ!スピードを上げて!」
気持ちだけがザワザワと前に残り、体は他の翔馬たちに間隔をあけられていきます。
ここでスピードを上げなければイニスのそれは遠くなります。
「がんばって!リベルタ!」
『世界を見に行く』
その言葉が遠くなります。
「ああ・・・わたし・・・」
うすらいで別の言葉に見えてきます。
『羊係にもどる』
「イヤ・・・」
『世界を見に行く』
『羊係にもどる』
そのふたつの言葉がイニスの目の前に交互に浮かんでは消え、浮かんでは消えました。
「わたしイヤだ・・・」
けれども、そのままだと確実にイニスは『羊係にもどる(そして、そのまま歳をとって死ぬ・・・)』のです。
ここしかない・・・そう思いました。
ここを逃すと、全てが逃げます。
「わたし世界を見たい・・・」
だとしたら・・・
自分も知らない魔法が・・・
「わたしイウベニスさんと世界が見たい・・・」
あきらめなければ・・・
自分も知らない魔法が・・・
「わたしリベルタと世界が見たい・・・」
心の魔法が・・・
「わたし勝ちたい・・・」
その時、イニスはとっさの願い事を口にしました。
「お願い・・・」
でも、それは神に、ではありませんでした。
「お母さん・・・」
母でした。
「お母さん!お願い!」
それは自分でも一瞬前まで思いもかけなかった願い相手でした。
「お母さん!お願い!リベルタにスパート合図が伝わらないの!」
すると耳元に不思議な声がしました。
『声を・・・』
水中で聞くようなくぐもった声。
「え?」
『声を出しなさい・・・』
けれど安心感のある女性の声。
「なに?」
『そして聞くの・・・』
歓声と羽ばたき音と鞭打つ音の騒々しさの中でもよく聞き取れます。
「わたし出してるわ!それに聞いてる!」
『ちがうの・・・』
ほんとうに遠くから聞こえてくる。そんな感じがします。
「え?」
『その声じゃない・・・』
心をつぶされそうな強い否定。
「声って?」
『もうひとつの声・・・』
一瞬、大ヘビのイメージが行き過ぎました。
「どの声?」
『この声よ・・・』
急に、のどが熱くなりました。そして両耳も。
しめつけられて息苦しい。
それを押し返そうと息の固まりを声とともに、今の自分の思いとともに吐きだしました。
〈リベルタ!〉
リベルタは背中の方から翔馬の言葉が聞こえたのでびっくりしました。
〈え?お母さん?〉
〈ええ!わたしよ!〉
〈お母さん!〉
〈リベルタ!あなたは誰よりも速いわ!そう!〉
スウと一息吸って、そして言うべき言葉を思い出しました。
〈あなたは『最後の導き者』なの!〉
〈え!〉
お母さんが『聖なる翔馬』の転生身!
そんな言葉がすばやく信じられます。
〈最初にゴールに着くのはあなたよ!〉
〈うん!お母さん!〉
〈さあ!行きなさい!〉
〈うん!〉
リベルタの翼が大きく躍動しました。
バサッ!バサッ!
その加速はすばらしく、二回の羽ばたきでトップにおどりでました。
群衆が「うおお!」と叫びます。
「ああ!ありがとう!お母さん!」
「く、くそ!人食い人魚め!いや、その娘・・・負けてたまるか。おれは・・・また帝都に帰るんだ・・・」
プリタスは慣れた動作で、すばやく左手のグローブを歯で取りました。
その手のひらには嘆き顔のような呪紋が描かれています。
それは加速魔法の呪紋。
もちろん禁止魔法でした。
もうすぐゴールの二本柱がせまっています。
早く魔法をかけないと間にあわいません。
あとは左手をヴェロックスにあてて呪言を唱えればいいだけ。
けれど・・・
その手が動きません。
ほんの少し下におろせばいいだけなのに・・・
「くっ・・・」
そのままヴェロックスはゴールしました。
うおおおおおおおお!
今まで以上に鳴りひびく歓声。
一着でゴールしたのはリベルタでした。
二着はヴェロックス。
三着はユベンタス。
リベルタの勝利の飛翔を人びとが見上げ、手をふり、抱きあい、飛び上がり、紙吹雪をまき、喜びました。そして地元の騎手と翔馬の勝利に酔いました。
するとどうでしょう。まるで間欠泉のように、ある名前のコールが噴き上がってきました。
アクテ!アクテ!アクテ・・・・
驚いたイウベニスが周りを見渡します。
「おっさん!みんなアクテさんの名前、呼んどる!」
「いや!イウベニス!よく聞くだ!」
「アクテ!アクテ!」の声がだんだんと「イニス!イニス!」と変わってきました。
そしてとうとう、
イニス!イニス!イニス・・・
それとともに、
リベルタ!リベルタ!リベルタ・・・
のコールが重なりました。
イニスが手をふって答えます。
「ありがとう!みなさん!ありがとう!」
そしてリベルタの首に抱きつき、虹色のたてがみに顔をうずめました。
もうすでに、のどと両耳の熱さが消えています。
あの声は、もうイニスには出せません。
そして、もう聞こえませんでした。
けれども素直にイニスはリベルタに言いました。
「ありがとう・・・リベルタ・・・愛してるわ」
と、言うとリベルタは「クルル」と鳴きました。
それは「ぼくもだよ」と言っているようにイニスには聞こえました。
〈銀の同志!銀の同志!〉
〈ああ!青の同志!〉
リベルタに近づいてきたヴェロックスが並んで一緒に翔びました。
負けはしましたがヴェロックスの声は喜々としていました。
〈すばらしいレースでした!銀の同志!ぼく感動しました!〉
〈ぼくもです!青の同志!あなたと最後まで翔べてうれしい!〉
〈また一緒に翔びましょう!そして『最後の導き者』に選ばれるまでがんばりましょう!〉
〈はい!がんばりましょう!〉
なんだか、とっても気持ちがいい・・・
リベルタはあきらめないで最後まで翔んでよかった、と思いました。
『最後の導き者』に選ばれる・・・
そんなダイソレタことも良いけども・・・
こんなにレースが楽しかったなんて・・・
それもお母さんと一緒に翔べるなんて・・・
それだけを知ることができてリベルタはとても幸せだ、と思いました。
イウベニスとラボロリスは抱きあいました。
「おっさん!やったで!イニス!やったで!リベルタ!やったで!」
「ああ!ああ!やった!やっただ!あいつ!どえれえことやっただ!」
そこにたまたま居合わせたのは不幸な少年でした。
「あ!プエル!やったで!イニス!」
「うん、うん、すごいよ。イニス。すごい・・・」
「なんや。泣いとんのか。あははは!笑え!めでたいんやから!笑え!」
と、イウベニスは両手でプエルをくすぐりました。
「あはははは!や、やめてくだい!イウベニスさん!あ、あれ?手・・・」
「あ、ほんまや!なんともない!なおった!やった!なおった!」
「よかった・・・あの、イウベニスさん。どうもすいませんでした!おれのせいで手を・・・」
と、プエルは頭を下げました。
「ええって!もうすんだことやし!それよか、もっと笑え!」
「あ、あはははは!やめ、やめ、やめてください!」
伯爵邸では北国王が高笑いをしていました。
「はっはっはっは!まったくマジェスタス卿には、いっぱいくわされましたな!わがユベンタスはとんだ引き立て役にされてしまった!はっはっはっは!」
「いえ、わたしが最初から申しておりましたとおりになっただけのことです」
と、伯爵は満足そうに目を細めました。
感激に涙を流しているソムニにドクシスが近づいて言いました。
「ソムニさま」
「・・・ドクシス」
「イニスと仲直りする、いいきっかけができましたな」
「・・・え?知っていたの?」
「ええ、実は・・・」
ドクシスは片目をつぶって少年のように笑いました。
「このラクスに起こっておりますことは、わたくしはなんでも存じておりますので」
男爵は空からもどってきたプリタスを出迎えました。
下馬したプリタスはヴェロックスのほほをなで、労をねぎらいました。
「ごくろうさま。プリタス」
「すまんな。男爵。負けちまった」
「いや、上できだよ。上級翔馬をやぶっての二着ならヴェロックスは昇級するんだろ?しかも相手は王の持ち翔馬だ」
「ああ、まあね」
「そうなればクラルスの名を世に知らせられる。それもひとつの成功さ。それに・・・その左手を使わなかったのは正解だった」
今はグローブをしている左手をプリタスは思わず後ろにかくしてしまいました。
「あ・・・知っていたのか?」
「ああ、それを使っていたら、たとえバレずに一着になっていたとしても、あんたをクビにするつもりだったんだ」
「ふ・・・ふふふふ」
「は・・・はははは」
ひとつ吹っきれたように、ふたりは笑いました。
「ところで、わたしはソムニ嬢と結婚することにしたよ」
「な!」
プリタスの驚きの声にヴェロックスが「クオン!」といななきました。
「おいおい!それも『我が復讐による帝国民幸福計画』のひとつかい?」
「そう。彼女のドレス姿を見ていてね。そう思った。わたしと結婚すれば彼女も幸福感を得られる。そう直感した」
「はっはっは!だから、おれはあんたみたいな天才肌の人間が大好きなんだ!」




