呪いの真相
⑪ 呪いの真相
レースが終わった、その夜。
「イニス!こっちや!」
ふたつの月が照らす木々の合間、緑のフラスコを高々と上げるイウベニスが見えました。
「イウベニスさん!」
イニスが駆けよります。
「ようやっと抜けだしてこれたな。緊張したやろ?陛下のお相手は」
昼間の騎手服とはちがってイニスは赤いチェックのスカートに襟と袖に細かいレースのフリルのついたブラウスという儀礼用の民族衣装を着ています。
「ええ、でも陛下がお休みになられましたので、一旦お開きになったんです。それで」
ここは伯爵邸の奥庭。
屋敷内では未明の今も、あちらこちらで宴が続いていましたが、この奥庭では、かすかに喧噪の余韻が聞こえるだけで秋の虫たちが闇の舞台で静かな音色を奏でていました。
「えらくゴキゲンやったもんなあ。陛下も。ずっとイニスをつかまえてガハハ笑ってたもんな。陛下に気に入られてよかったと思うけど」
「あの、それで、イウベニスさん、これから奥さまのところに?」
「そうや。イニスも報告に行きたいやろ?あのレースを見られんかったんは奥さまとサイエンさまだけなんやから」
「あ、サイエンさまは見てらっしゃいました。て、いうか臭っていらっしゃいました」
「例の空気穴から舌チロチロね。ふうん。なら、見てないんは奥さまおひとりだけか。これはぜひとも会いに行かんとな」
「はい。そうですね」
「それと・・・もうひとつ、確かめさせてもらいたいことがあるねんや。奥さまに」
「なんですか?」
「まあ、それは後のお楽しみってことで・・・あ、おふたりが来はった」
と、イニスが振り返ると伯爵とソムニの姿がありました。ふたり並んで、こちらに歩いてきます。夜になって少し冷えてきたせいかソムニはドレスの上に白いニットのカーディガンを羽織っていました。
「あ・・・」
イニスはソムニの顔を見て帰りたい気持ちになりました。ソムニの方も視線をキョトキョト落ちつきがありません。
「伯爵。お疲れのところ、お呼びだてしてすいません」
と、イウベニスが頭を下げると伯爵は笑顔で手を振って言いました。
「いやいや、イウベニスくん。ぼくたちもそろそろニベウに会いに行こうと思っていたところなんだよ。ねえ、ソムニ」
「ええ・・・そ、それより!イウベニスさん!」
ソムニは顔を上気させてイウベニスに食ってかかりました。
「は、はい!」
「先ほどは何ですの?パーティーの席上で、ずっとお父さまとわたくしにつきまとって質問ばかり!それも母のことを根ほり葉ほりと!なにやら母が悪いことでもした犯人でもあるかのように!」
「す、すいません!お嬢さま。別にそんなつもりは・・・」
「お客さまの手前、わたくしも笑顔で答えておりましたけれど、内心は叫び出したいくらいでしたわ!今のように!」
「まあまあ、ソムニ。これからニベウのところに行くのだから、そんな眉間にしわを作った怒り顔なんて彼女に見せられないよ。さ、気を取り直して。ね?」
そう伯爵に言われてソムニはプイと顔をそむけてしまいました。その背中を見て伯爵はフフと笑い、イウベニスに言いました。
「さあ、イウベニスくん。行くとしようじゃないか」
「あ、待ってください。あとひとり」
「うん?」
それは誰だい?と伯爵が聞きこうとする前に、ひとりの男性の影が近づくのが見えました。
パルボ?と伯爵は思いましたが、
「ああ、みなさん。お待ちかねでごぜえましたか、これはまあ、あいすみませんこってす。すみませんこってす」
それは頭を下げ下げやってきたラボロリスでした。
「お父さん!」
一番驚いたのはイニスでした。
「どうしたの?」
と、父親の腕に手をそえます。
「奥さまにな。ちょっとごあいさつをな・・・」
「今まで、そんなことしたことないじゃない!どうして急に!」
そう言われてラボロリスは申し訳なさそうに頭をかいています。
「そ、そりゃ、そうなんだども、イウベニスが無理に頼むもんだでなあ・・・」
「え?」
と、イニスはイウベニスを見ました。するとイウベニスはひとつうなづいて答えました。
「そうや。ラボロリスのおっさんも関係者やからなあ・・・」
何かおだやかなではない空気を感じたのでしょう。
「どういうことかね?イウベニスくん・・・」
伯爵の笑顔が消えました。
「はい、実は伯爵・・・」
イウベニスの目つきが鋭くなります。
「伯爵夫人の呪いの謎が解けたんです」
「呪いの謎だって?」
伯爵の眉毛がピクンと上がります。
「失礼だが、魔法医たちもお手上げだった、あの呪いの謎を・・・きみが解いたと言うのかい?」
「はい。ぼくの推理がまちがえてなかったらの話ですが・・・」
伯爵夫人の居所へと続くカーテンの回廊。
その優しい夜の空間を五人が歩いています。
緑色に光るフラスコを手にした伯爵と愛する父親の腕を頼もしげにつかんだソムニ、その後ろに何かブツブツとつぶやき、自分の考えにひたっているイウベニス、物めずらしげに辺りを見ているラボロリス、そして一番最後に複雑な心境で皆の背中を見ているイニスが続きました。
奥さまの呪いの謎・・・
呪いの謎が解けたってことは、奥さまの呪いも解けるってことかしら・・・
呪いが解けて、奥さまが外にお出になられる・・・
ソムニ・・・いえ、ソムニさまと伯爵さまと、ご一緒に望まれるところ自由に、いつでも、どこへでも・・・
だとしたら、こんなうれしいことはないわ・・・
「まあ!みなさん、おそろいで!今日はどのような楽しい内緒をお持ちになったのかしら?」
予言用のテーブルの向こうから伯爵夫人が快活に五人を迎えました。
「昼間のレースの結果をご報告にいらっしゃったのね!まあまあ、イニス!あなたの愛翔馬はお元気?イウベニスさん!右手の方はもうよろしいの?まあ!ラボロリス!ほんとうにお久しぶりね!」
夫人の言葉は、まるで五人がそろって来ることをあらかじめ知っていたかのようです。こちらの反応など気にしないでひとりでしゃべっています。イニスは奇妙なほどに明るい夫人の態度に言いようのない違和感を感じました。何か特別なことが起きる、そんな気がします。
「ニベウ。今日の具合は良さそうだね」
と、伯爵が言うと、その言葉を言い終わらないうちに夫人が答えました。
「ええ、ええ、すこぶる快調よ。こんなすばらしい日にベッドなんかにいてはいられないわ」
伯爵がエスコートして、ふたつあるイスにイニスとソムニが座りました。男性三人は各々思い思いにイスのそばや壁際に立っています。
「お母さま。どうなさったの?」
「なにをですか?」
娘の質問にも明るく質問で返します。
「なにをって・・・」
思わずソムニの言葉も薄れてしまいました。
「伯爵夫人」
イウベニスが笑顔で、けれども騎手らしい威厳を持った表情で言いました。
「いえ、緑の予言者猊下。猊下より賜りました予言により導かれましたレースの結果をご報告にまいりました」
と、イウベニスは姿勢正しく頭を下げました。
「あら!うふふふ・・・」
それを見た伯爵夫人は口に手を当てて、うれしそうに笑いました。
「わたくし、なんの予言もしてませんことよ。ただ、予言カードを広げただけ。イニスに予言なさったのは、あなたでしょう?イウベニスさん。それも極上の予言を」
「え?あ、そう・・・そうでした。すいません」
思わぬ夫人の切り返しにイウベニスの威厳もくずれます。
「いやあ、さすがに奥さまには勝てませんね」
「あなたたち、レースの報告は口実で、本当は別の用件で来たのでしょう?ちがいますか?イウベニスさん」
「はあ、まあ・・・そうです」
「さあさ、ではレースの結果は後のお楽しみにして、さっそく内緒の本題に入ってちょうだいな。イウベニスさん」
それを聞いてイニスは、内緒の本題なんてできるのかな、と思いました。もうすでに、何もかも奥さまはお見通し、という感じでしたから。
「え、えーと・・・」
と、イウベニスも同じように思っているらしく口ごもっています。
「ニベウ」
そこで助け船を出したのは、やはり伯爵でした。
「イウベニスくんはね。長年のぼくたちの心がかりを晴らしてくれると言うんだよ」
「心がかり?そのようなものが、長年のわたくしたちにあったのかしら?マジュ」
ふたりきりの時だけの呼び名を聞いて、さすがに伯爵の顔からも笑みが消えました。
「ニベウ。失礼な・・・」
「多少の失礼はおゆるしくださいませ!伯爵さま!こんな特別のステキな夜にきびしいお顔は似合いませんことよ。ええ!ええ!ホントのホントは存じておりますとも!長年のわたくしたちの心がかりと言えば、ひとつしかございませんわ!このわたくしの!」
と、ここで伯爵夫人は芝居じみた両手の上げようで自分の姿を披露して言いました。
「呪いのことでしょう?昼も夜も、黒と緑色とだけで形づけられた世界で闇の住人と化したわたくしの、この忌まわしくも愛おしい呪いのことでしょう?」
そこにいる全員を見渡して伯爵夫人は続けました。
「帝国有数の魔法医たちも頭をかかえる、この最強にして最凶の呪いを、イウベニスさん、あなた、いかがなされるとおっしゃるのかしら?」
そう言われて覚悟ができたのでしょうか。真剣な表情に戻ったイウベニスが、まっすぐに夫人を見返して言いました。
「その呪いの謎を解いてみせます。伯爵夫人」
「まあ・・・」
ホウ・・・と、ひとつ吐息をついて伯爵夫人は言いました。
「なんとも熱いお言葉・・・かのゲリドゥス北原の永久凍土をも溶かすかのように・・・そう、信じてよろしいのですね?イウベニスさん?」
「ええ、伯爵夫人。わたしにおまかせください」
そうして主役の座をゆずるかのように伯爵夫人は無言の笑顔で着席しました。
一瞬。ほんの一瞬、何から話そうか、とイウベニスは迷いました。でも、その一瞬にイニスと目が合い、イニスの茶色い瞳にある意志の強さと優しさと、自分への信頼のないまぜになったのを見て、イウベニスは体が浮き上がるような安心感を得ました。
「さて、みなさん」
イウベニスは姿勢を正し、部屋を見渡して言いました。
「本日、お集まりいただきましたみなさんは関係者。そう、伯爵夫人の呪いに何かしらの関係を持つ人たちです。と言っても一番重要な人物が欠けていますが・・・
まずは、この呪い、一体どのような呪いなのか。正確に描写してみたいと思います。そこから矛盾点を見つけて考察していきましょう。
ええと・・・
『日光や月光、ロウソクの光が少しでも体にあたると体調をくずして寝こんでしまう原因不明の強力な天然呪い』
・・・たしか、そう言った呪いだったように聞いておりますが、その通りでしょうか?伯爵」
と、聞かれて伯爵はうなづきました。
「ああ、その通りだとも・・・」
「ありがとうございます。伯爵。そこで、みなさんにお聞きしたいのは・・・そう言った類の呪いを聞いたことはありますか?伯爵夫人の呪いの他に?」
「イウベニス・・・ちと、おめえ、失礼でねえか?伯爵さまと奥さまに」
そう、イウベニスの横で小声で言ったのはラボロリスでした。
「まあ、おっさん。気持ちはわかるけど、たのむから最後まで聞いてくれや」
と、肩をグッと握られてラボロリスの口は閉ざされました。
「みなさん。他に聞いたことがないのでしょう?いかがですか?」
と、イウベニスがひとりひとりの顔を見ると、おのおの首を振りました。いえ、正確には振っていないものがひとりいます。それは最後に顔を見た伯爵夫人でした。けれどもイウベニスは、それには触れずに話を続けます。
「これに似た呪いはあるにはあります。ある人は小麦や卵などを食べると体調を悪くする。また、ある人は猫がそばに来るとそうなる。ある種類の金属をさわっただけでなる人もいれば、杉花粉を吸って、くしゃみや鼻水に苦しむ人もいる・・・他の人にとって何ともないものが、その人にとっては毒になる。そう、いわゆる『アレルギー』と呼ばれる天然呪いです。
普通の人々にとってはありがたい日の光が夫人にとって毒。これもアレルギーだと言えるのかもしれません。それも他に類のない世にもまれなアレルギー・・・けれども、わたしはちがうと思うのです。
なぜなら、おおよそのアレルギーは生まれつきのもの。幼いころからなるものです。まれに大人になってからなる人もいますが、やはり、その天然呪いの因子は体の中にあって、それがたまたま子供の時に芽生えなかっただけ。だから体を調べればアレルギーの因子を見つけることはできる。呪いの原因がわかるわけです。
伯爵夫人の場合はどうでしょうか?
『原因不明の強力な呪い』
そのように帝国有数の魔法医たちは口をそろえていたそうですが、とすれば、ひとつの疑問が浮かんできます・・・原因がわからない、と言うのはアレルギーなどの呪いの因子も伯爵夫人の体から見つかってはいない、と言える・・・では、どうして、この呪いを『天然呪い』だ、と断定できるのだろうか、と・・・」
イウベニスが言うのと同時にラボロリスが彼の腕を強くつかみました。けれども約束の沈黙は守られています。
「お母さまが誰かに恨まれて呪いをかけられるなんてありはしないわ!」
そう言って立ち上がったのはソムニでした。
「お母さまは身も心もお美しいお方!誰からも愛されておりますわ!」
「ソムニ」
伯爵が娘の肩に手をかけます。
「きみが、そう考えたがるのはわかるけど、ちょっと短絡的かもしれないよ」
「でも、お父さま!『天然呪い』ではないとしたら『人為呪い』。そのように考えてるのはイウベニスさん!わたくしじゃありませんことよ!短絡的なのは!」
「まあ、座って、ソムニ。もう少しイウベニスくんの話を聞いてみようじゃないか。もっと深い話を聞けるかもしれない」
「でも!」
「反論するなら、彼の意見を全て聞いてからにすればいい。それまで自分の考えをまとめておくんだ。わかったかい?ソムニ」
クッと唇をかんで、ソムニが答えます。
「・・・わかりました。お父さま」
なんだかソムニさま・・・まるで卵を抱いた母翔馬みたい・・・なにかあったのかしら?・・・でも奥さまの呪いのことだから、そうなってもしかたがないのかもしれないけど・・・
先日の、罰が終わった日の夜、この隣の寝室で伯爵と伯爵夫人、そしてソムニが話していた事をイニスは知りません。
けれどもイウベニスは事前に伯爵とソムニから事情を聞いていて知っていました。だから弁解もせず、伯爵にまかせてソムニの心の叫びを聞いていたのです。
ソムニがトスンと座り、ツイと緑の空間を見上げるのを見届けてからイウベニスが続けました。
「『天然呪い』ではないとしたら『人為呪い』・・・この考え方は帝国科学魔法を信奉する人々にとって常識。それはお嬢さまだけに限ったことではありません。あ、お嬢さま。気にさわったらすんません・・・
では『人為呪い』だとしたら誰がかけた呪いでしょうか?
伯爵夫人が身も心もお美しいとはいえ、誰にでも愛されているとは限りません。美しいゆえに妬まれる、と言ったこともあり得ますし、ここに嫁がれる以前、夫人は『緑の予言者』として活躍なさっていらっしゃいました。夫人から悪い予言をもらった者が逆恨みしたのかもしれません。また、愛されるがゆえに呪いを受ける、と言った事もあるかもしれないのです」
とイウベニスが言った時、伯爵が小さな咳をひとつしました。そしてイウベニスが続けます。
「しかし、みなさん。わざわざ、このような呪いをかけるのですから、その動機と言うのは、そんなありふれたものではない、恐るべきものなのでしょう。そして、その動機を持った人物は高度な魔法を使う・・・いったい、それは誰なのでしょうか?」
「わかりましたわ!」
興奮したソムニが手をあげます。
「犯人はアンビティオス卿ですわ!かの男爵が呪いをかけたのです。図書館での逢い引きを、お母さまがお父さまに伝えたのをうらんで。『ふたりの秘密の関係を裏切られたから』と言うのが動機ですわ。それに男爵はラクス始まって以来の天才児!そして図書館の王子と呼ばれるほどの読書家!呪いの方法を図書館の本から見つけだして彼になりにアレンジしたに決まっています。だから魔法医たちにもわからない高度な呪いになったのですわ!」
「ソムニ。ソムニ。まあ、待って」
多少の苦笑いで伯爵がソムニをなだめます。
「ここに彼はいないじゃないか」
「え?ここに彼が?お父さま」
「そう、ここに彼はいない。イウベニスくんは呪いの関係者に集まってもらったと言っている。ソムニの推理通りなら彼もここに呼ばれているはずだろう?今ごろ彼は客室で休んでいると思うよ」
「でも、お父さま。イウベニスさんは『一番重要な人物が欠けている』ともおっしゃっていたわ。それが彼、アンビティオス卿ではありませんこと?」
「ああ~と、それはちゃいます。あ、え~と、それは違います」
イウベニスの様子が少し変です。なんだかモゴモゴと口の中でセリフを確かめている、といった感じです。
もしかしてイウベニスさん、この前『五つ分時が限度』て言っていたのが来たのかしら・・・よくわからないけど、がんばって!イウベニスさん!
イニスの思いが届いたのでしょうか?イウベニスはネクタイを締め直して姿勢を正すと、また元のように語りはじめました。
「たしかにソムニお嬢さまの推理には素晴らしいものがあります。しかし残念ながら『一番重要な人物』とは男爵ではありません。そして彼は呪いをかけた犯人ではないのです」
「どうして、そう断言できますの?」
間髪入れないソムニの質問です。
「もし、彼が犯人なら呪いをかける相手がちがうはずです」
「それはどなた?」
「伯爵です。もし、お嬢さまの言う『秘密の関係』が若いころの男爵と伯爵夫人、おふたりにあったのだとしたら、その一番の傷害は誰でもありません。伯爵です。伯爵に高度な呪いをかけ、誰にも気づかれずに亡き者にする。そして、ふたりは結ばれる・・・と、まるでよくできた恋愛犯罪物のようですが・・・」
そこで伯爵は口に軽く手をそえてクスリと笑いました。対照的に伯爵夫人は表情ひとつ変えません。ソムニは少し怒ったような顔でイウベニスを見つめています。
「が・・・しかし現実には男爵と伯爵夫人の間には『秘密の関係』と言うのものは存在しませんでした。当時、嫁いできたばかりの若く美しい伯爵夫人が領内どこへ行くにも目立たないわけがなく、しかも男爵は評判の天才少年、ふたりの逢瀬は万人の知るところでした。もしかして、そこに『初恋』と呼ばれるものがあったかもしれません。少なくとも図書館係の無垢な少年には。けれども、いつの世も『初恋』は甘く切なく、儚く淡雪のように消えゆくもの・・・例に漏れず彼の帝都留学を機に、この『初恋』も終わりを迎えたのです」
「もしかして、イウベニスさん。それで終わり?アンビティオス卿、彼ではないと?」
「はい。そうです。お嬢さま。彼、男爵ではありません」
そう言われてもソムニは不服そうです。
「それでは、どなたですの?」
「それは・・・」
そこでゴクリと息を飲んでイウベニスは後を続けました。
「『アクテ・コンコルディア』さんです・・・」
え?
今・・・
イウベニスさん・・・
なんて言ったの?
だれの名前を呼んだの?
ここにいる全員、その名前を聞いて表情を変えない者はいませんでした。
伯爵の笑みが消え、ラボロリスは目を見開き、ソムニの眉間にシワがよります。伯爵夫人はうつむいて緑の髪の中に顔を隠してしまいました。
イニスは口をポカンと開けてイウベニスを見つめています。
「あの・・・イウベニスさん・・・」
「なんでしょう?お嬢さま」
とがらせた唇、眉間にシワ、まつげが長い目を細めて、いかにも『怪訝』と言った顔でソムニが訊きました。
「あなた、今、その、『アクテ・コンコルディアさん』っておっしゃいました?」
「そうですよ。お嬢さま」
「イウベニスさん、あなた、ご存じですの?アクテさんというお方はイニスのお母さまですのよ」
「ええ、存じております」
「はあ・・・」
と、ソムニは深い吐息をついてから言いました。
「何もご存じではないようですわね。イウベニスさん。お母さまとアクテさんは何も関係はありませんのよ。お母さまがラクスに嫁がれた時には、もうアクテさんはここを離れておりましたのよ」
「それはありえないのです。お嬢さま」
「あら?なぜ?」
「お忘れですか?イニスはお嬢さまより四つ月だけ遅く産まれています。アクテさんはイニスを産んでからラクスを離れた。だとしたら夫人が嫁がれた時には、まだ彼女はラクスにいたのです」
「え?」
と、ソムニは母親の顔を見ました。伯爵夫人は娘の顔を見返すこともなくテーブルの予言カードを片手でシャッフルしています。見るからに『手持ち無沙汰』という感じでした。
「そうかもしれんがな。イウベニス」
と、後ろからラボロリスが言いました。
「たしかに奥さまが嫁いで来られた後、アクテが来た。そんで奥さまがソムニさまを、アクテがイニスを産んでから、そんでアイツは消えちまった。たしかに、それはまちがいねえ。そうでございましょう?伯爵さま」
「うん。そうだね」
「ありがとうごぜえやす」
軽く伯爵に会釈をしてラボロリスは話を続けました。
「伯爵さまに念を押させてもろうたのは、あれよ。まるで呪われたかのように最近までアイツのこと思い出せんようになったからよ。けんど、ソムニさまの言うのは全部まちがってるわけでもねえだぞ。イウベニス。アイツと奥さまの間に『秘密の関係』だなんてモンは無かった。騎手と雇い主つう関係だけだ。ましてやアイツが奥さまに、こっただムゴい呪いをかけるすべがねえし、そんなことする理由がねえ」
「おっさ・・・あ、いや、ラボロリスさん」
「なんだ。イウベニス。名前で呼ぶなんぞ」
「ええから・・・ラボロリスさん。ここに来る前のアクテさんのこと、知ってますか?」
「ここに来る前の?ああ、知ってるだ。アイツは帝都の騎手だっただ。それも名うてのな。なして、そんなこと訊くだ?イウベニス。おらがまだ思い出せねえと」
「では、その前は?」
「その前?」
「帝都で騎手になる前です」
「なに?なんだと?」
「アクテさんは『人魚』だったんです」
一瞬、ラボロリスは酸欠の魚のように口をパクパクとさせました。
「は?なにを言い出すかと思えば人魚!は!そらあアイツの騎手時代のあだ名でねえか!アイツが置いてった騎乗鞭にも彫られてらあな!『西海の人喰い人魚』それがアイツの紋章!だらアイツもそう呼ばれたのよ!そう教えてくれたのは、おめえイウベニスでねえか!」
「ちゃうで、おっさん。おれは教えてない」
「おめえから聞いたぞ。おら、たしかに・・・」
「アクテさんは騎手になる前は西海の人魚だったんや。ほんまの」
「ほんまのって・・・なにを、おめえ・・・アイツにゃヒレなんぞ・・・」
「アクテさんの父親は人間や。陸の人。せやからアクテさんの下半身はヒレやのうて脚があるんや」
「そ、そっただ、おとぎ話みたいなもん・・・」
「人魚は陸の人間と恋をすると呪われる。泡になって消えてしまう呪いや。そのせいでアクテさんのお母さんは泡になってしもた。その前に産んでた卵から双子の赤ちゃんが生まれた。姉のアクテさんには脚が、妹さんにはヒレがあった。そんで体も少しづつ消えていった。お母さんの遺伝は呪いごと妹さんにだけ受け継げられた。そこでアクテさんはひとり陸に旅立ったんや」
「だれが信じる・・・」
「陸に上がったアクテさんは帝国で名だたる数々の魔法使いに出会った。海では見つからんかった妹さんの呪いを解く方法を教えてもらうためや。けど、なかなか、その方法は見つからん。そうしてアクテさんは帝国中を旅した」
「つうだ・・・」
「ラクスに来たのも『緑の予言者』に出会うためやったんです。そうですよね?奥さま」
「ええ、その通りです」
「呪いを解く方法が見つかりましたか?」
「いいえ・・・その呪いは、とても古く強力なもので、とてもとてもわたくしなどには・・・」
「そりゃあそうだべ。わざわざ奥さまのお手をわずらわせるようなもんでねえべ。なあ」
なんだか、お父さん、とても変。ぜんぜん言ってることがわからないわ。まるで何かをかくしていて必死でごまかしてるって感じ・・・
「人魚の呪いで、はあ、体が泡に消えてくなんてもん、この世にそんなもんあるわけねえ」
「お父さん」
「おう!イニス。もう夜もおそい。これ以上は伯爵さまや奥さまにご迷惑だ。さ、おらたちは帰らせてもらうだぞ」
「お父さん」
「なにぐずぐずしてるだ!さっさとおいとまいただくだぞ!」
「お父さん!」
「な、なんだ?イニス、そたっだおっかない顔して・・・」
「お父さん!いったい何をかくしてるの?」
「ああ?お、おら何もかくしてなんていねえだぞ・・・」
「でも!」
「待ってや。イニス。ちがうんや」
おだやかにイウベニスが制しました。
「かくしてるんやない・・・思い出したんや、全部。やっと一番最後に」
「ぐっ・・・」
と言ってラボロリスは下を向いてしまいました。にぎられた両のこぶしがふるえています。
「そうやろ?ラボロリスさん」
「さあ!行くだぞ!イニス!」
「お父さん!」
無理やりイニスの手首を握り、ラボロリスが立ち去ろうとしました。
「お待ちなさい!ラボロリス!」
思わずラボロリスの足が止まる強い一声。その声の主は伯爵夫人でした。部屋にいる全員の視線が彼女に集まります。
「ラボロリス・・・あなたにはつらい思い出でしょうが・・・イニスには知る権利があります」
「そら・・・そうでしょうが・・・奥さま・・・」
「そして、すでにイニスは知っています」
「え?」
「正確には一部ですが・・・以前、イニスとイウベニスさん、ふたりにお話したのです。先ほどイウベニスが語られたアクテさんの物語を・・・」
「そうなのか?イニス」
ラボロリスの問いにイニスがうなづきます。それを見たラボロリスは悲しそうに目をしょぼつかせました。
「イウベニスさん」
同じ口調で伯爵夫人はイウベニスに言いました。
「どうぞ、続きを」
「あ、はい・・・」
奥さまは覚悟を決めてはる・・・
そう、イウベニスは気づきながらも口を開きました。
「え・・・と、どこまで話しましたっけ・・・そうそう、アクテさんが妹さんの呪いを解く方法を探すために奥さまに会いに来た、とここまで話しましたっけ・・・
そう、そのためにアクテさんは、ここ北国辺境のラクスまで来ました。でも、それだけでは無かったのです。旅の目的は・・・
それは『断ち』でした。愛する家族と別れ、住み慣れた海から離れ、手に入れた富や名誉も捨て、次々と『断ち』を繰り返す。そうやって妹さんの呪いの進行を遅らせていたのです。
そんな中、緑の予言者である奥さまと出会い、アクテさんの海の魔法と奥さまの陸の魔法のコラボレーションて言うか、思い出を消し去る呪いができた。それは偶然よりも必然と言ってよいのではないでしょうか」
「な・・・そ、そんで、そんでなのか?ええ?イウベニス。わしらがアクテのこと、今まで忘れとったのは・・・」
「ふうむ・・・なるほど・・・」
合点が行ったように伯爵がうなづきます。
「あれは本当に『人為呪い』だったのか・・・そして、あの息吸いが吹いた日」
そこで、ふと娘を見て、ソムニの横顔に心配げのないのを確かめて言いました。
「イニスの騎乗姿を見た人々、わたしを含めて・・・アクテさんの姿と重なる部分を見て、何か心の作用が呪いを解いた・・・と、そういうことかね?イウベニスくん」
「そうです。伯爵。さすがですね。
そう、あの突風が吹いた日、リベルタに騎乗するイニスの姿は呪いを解く鍵となりました。あの姿を見た人々は思い出を取り戻したのです。
けれども、その姿を見ていない者がいました。
貯蔵庫のサイエンさまです。
彼は老齢の大蛇で目が不自由、なにより貯蔵庫から外に出ることができません。それなのに彼はイニスにアクテさんの思い出を語ったそうです。そうやろ?イニス」
イニスがうなづきます。
「ここで、アクテさんの呪いはサイエンさまにはかかってはいない・・・と、言うことがわかります。それは人間の呪いは大蛇の彼には無力だからです。それも彼が言っていた事実です。
な?イニス。
そして・・・もうひとり・・・サイエンさまと同じような境遇のひとがいました。昼も夜も閉じられた場所にひとりきり・・・当然、その人もイニスの騎乗姿を見てはいません・・・
この前、イニスとふたり、このイスに座って奥さまが語るアクテさんの物語を聞いていた後、あれ?って思ったんです。
なんで奥さまは、あんなにアクテさんのこと、くわしいんやろ?って・・・
もしかして奥さまはアクテさんから直に聞いたんちゃうかな。せやかてアクテさんは予言者の奥さまに会いに来たんやもん。聞いてておかしいない。
そんで今、呪いが解けて、おれらに話してくれた。けど、イニスの騎乗姿を見てないから呪いは解けてないはず・・・サイエンさまと違って、おれらと同じ人間や。そしたら別の方法で解けたんか?・・・いや、それよりも、こう考えたら自然と違うかなあ、て」
イウベニスは全員を見渡して言いました。
「奥さまだけ最初から呪いにかかってなかった、いや、かからんようにしてたんとちゃうかなあ、て」
「え?」
だれもが驚きの声をあげました。ただひとり、伯爵夫人をのぞいて・・・
静かに目を閉じた妻の表情に読み取れないものを見た伯爵が口を開きました。
「どうやってだね?イウベニスくん」
「それは・・・」
一瞬、目を閉じ、ふうと息を吐いて、イウベニスが言いました。
「それは『断ち』です。それも強力な」
先ほど以上の驚き。誰も何も言えません。けれど自然と視線は夫人に集まります。なぜでしょう。何か夫人の口元に安堵のような微笑が見てとれます。
イウベニスは続けました。
「アクテさんの名前を呼ぶたび、彼女の思い出を消し去る呪いを考え出し、彼女に与えたのは奥さまです。それやったら、それの防御方法も思いついててもおかしくはないはずや、と・・・強力な呪いには強力な断ちで対抗する。それはアクテさんもやってたことや。もしかして、それが原因不明の謎の呪いの正体とちゃうんかなあ、と・・・ちがいますか?奥さま」
「ええ・・・その通りですわ」
え?え?なに?どういうこと?
イニスの脳裏に理解不能の霧が立ちこめます。
お、奥さまは何かの、何かの呪いにかかっておいでで、それはどんな魔法医さまでもわからない呪いで、どんな光でも奥さまのお体に当たると、奥さまのお体が悪くなるのではないの?
そうじゃないの?
そうじゃないとしたら・・・
奥さまは・・・
奥さまは・・・
すうとまぶたを開き、イニスの霧を晴らすように夫人が息を吐きました。
「わたくしは何の呪いもかかってはおりません。自ら進んで光を断っていたのです」




